第二話 「黒き書」 第六幕
リーユン=ルルディヴァイサー、タキ=ヤンフゥ、ケイの三人が勢いよく娯楽室の扉を開け放ち、ドール教室を抜け出したのは、タキの黒い本がマリアンヌちゃん二号に飲まれて直ぐの事だった。タキとケイを先に外へ送り出し、続いて屋外へ逃れたリーユンは急ぎ校舎の扉を閉めて右手に意識を集中させる。体内を廻る魔力を練る数瞬の間に、リーユンは先日タキから受けたスライムに関する説明を思い出していた。風の精霊、風蠱を核に、雷の魔力で定着させている。簡単に言えばその様な事だったと思う。リーユンの魔力は土の属性を帯びて淡い橙と茶のグラデーションへ変化して行き、緻密な式を描き出す。
「ロック!」
術式が形を成し、淡い光が強くなると同時にリーユンが施錠の魔術を発動させた。キンとした甲高い音が響き、木製の扉中央から茶色を帯びた式が放射状に広がって、扉は完全に固定される。急いで発動させた魔術ではあるがそれなりの衝撃にも耐え得る強度である事を確認すると、三人は漸くホッと胸を撫で下ろした。
「それにしても、何がどうなったら、ああなるのかしら」
つい先ほど目の当たりにした出来事を反芻している様子で、タキが唸りながら言葉を紡ぐ。リーユンはまるで他人事の様なタキの台詞に思わず彼女を振り返った。
「そんなの、作ったタキが分からない物を僕が理解出来るわけないだろう?」
扉に鍵を掛けて多少の時間稼ぎなら出来るが、当然ながら根本的な解決にはならない。どうにかしてアレを元に戻す方法を考えなければならないのに、魔法生物の事に疎いリーユンが幾ら思考を巡らそうとも良い案が浮かぶ筈も無く、結果、苛立ちと焦燥のままにタキに対しての言葉は少々きつい語調となってしまう。
そうこうしている間にも、硬く閉ざされた扉の向こう側から何かが体当たりをしているらしい音が響き始める。幾分粘着質な音を纏いながらドーンドーンと扉が叩かれる度に古い木造の扉は軋んだ悲鳴を上げ、壁ごとごっそりと破られるのではないかと思う程に大きく撓む。
「ど、どうしようっ」
タキとリーユンは今にも蝶番が弾け飛びそうな扉を見ながら、何か打開策は無いものかと必死に知識を総動員して見るものの、やはりこれと言った案は思い浮かばない。ケイはと言うと、ふと空を見上げて太陽の位置が中天に差し掛かろうとしている事を確認し、大きく息を吸い込んだ。昼食の時間までは後一時間と言った所だろう。となると、彼は多分あそこに居る。ケイは腹に力を込め、ありったけの声を張り上げて現状を解決してくれそうな人物の名を呼ぶ。
「先生! カイリ先生!!」
体当たりによる扉の軋みは益々大きくなっている。切羽詰ったケイの呼び掛けとは対象的に、のんびりとした仕草と声とでカイリ=ドールがダイニングの窓を開けた。
「何だぁ? この、さっきからドンドンと煩いのはケイか?」
騒々しい事を嫌うエルフ族が珍しい、とでも言わんばかりの様子で開け放たれた窓からボサボサの黒髪が、続いてカイリの顔が現れる。窓枠に腕を掛ける姿勢で扉前に居る三人を眺めるカイリの手にメモとペンが握られている事から、昼のメニューを貼り出す所だったのだろうと予想出来る。ケイの読みは正しかった。
「先生、大変なの!」
タキがカイリへ身を乗り出し、勢い込んで説明しようとした矢先、蝶番が拉げて弾け飛び、物凄まじい地響きを立てて校舎の扉が倒された。重量のある木製の扉がズシンと鈍い音を立てて地面に叩きつけられ、乾いた砂煙がもうもうと舞い上がる。薄茶色に染まる視界の向こうには、半透明で半液状で薄緑色をした物体、マリアンヌちゃん二号がぷるぷると身体を震わせながら姿を現した。但しそれはタキが両腕で抱き上げていた時の姿とは程遠く、長身のカイリですら見上げる程の大きさに成長している。
「いやあああああああ! 更に大きくなってるううう!!?」
タキは悲鳴を上げると共に踵を返し、一目散に逃げ出した。校舎内と外界を隔てる扉が無くなった入り口から、スライムがドロリと抜け出そうとする動きを見せるのに気付き、ケイとリーユンもタキを追って小道を駆け出す。マリアンヌちゃん二号は巨大な身体を震わせ、重力に負けて多少型崩れを起こしながらも三人の後に続いて移動していく。
流石に事の成り行きに付いて行けず、呆然と三人と一匹を見送ってしまったカイリではあったが、入り口前や小道に残されたスライムの破片と、盛大に壊されてしまった扉とを交互に見やって溜息を吐いた。この分ではエントランスや室内も酷い物だろう。
「クリーニング業者には、直せんわなぁ」
扉を支えていた蝶番は歪んで壊れてしまっているし、扉の枠や壁も撓んで罅が入っている。窓枠に乗せた腕に体重を掛け、ぐったりと凭れ掛かるカイリの横からひょこりと水色の髪が現れ、クゥ=ラ=ルゥが興味深そうに外を眺める。
「何が直せないって?」
何やらとっても楽しそうに金色の双眸をキラキラさせている教え子を見やり、カイリはまた小さな吐息を零す。説明を伝えるのも億劫になってしまったのか、手にしたペン先を校舎の入り口へ差し向ける事で何があったのかを教え、嬉々として「すげぇ」と騒ぎ始めるルゥにうんざりした半眼を送る。あからさまに楽しんでいる姿はカイリの既知である人物の姿と重なり、尚更カイリの気鬱を煽るのだった。
「あ~、そう言えば、もうすぐあいつも来るんだったな」
クリーニング業者と共に手配したその人物に辟易としながらも、カイリはルゥに向かって一つの頼み事を伝える。ルゥが二つ返事で了承したのは何が起こったのか見に行きたいからであるのは明白だったが、敢えて其処は突っ込まずにカイリはルゥを見送った。
「何だかんだで仲は良いよな」
担当教師がちょっぴり寂しい思いをしているなんて想像する余裕はこれっぽっちも無い全力疾走中の三名は、現在ひたすら道なりに逃走していた。二メートル程の幅の小道は綺麗にレンガで舗装されており、両サイドには春らしい青々とした木々が植えられている。街路樹として植えられたそれらの木々の向こうは、多少手を加えられてはいるもののほぼ自然のままの姿を残す森林である。木漏れ日が穏やかに降り注ぎ、腐葉土が積み重なった柔らかな地面に枝葉が作り出す複雑な影を落としている。鳥の囀りと吹き渡る爽やかな風、時折姿を見せる小動物が見る者の心を和ませてくれる事だろう。しかし、自然を愛でる余裕すらも、今の三人には無いのである。
「ねぇ、タキ。このまま行くと、カフェテリアに出ちゃうよ?」
スライムの足は予想以上に速い。少しでも足を緩めると追い付かれてしまいそうだ。リーユンは荒い呼吸の合間に先頭を行くタキに声を掛ける。昼時のカフェには多くの生徒が集まっているだろう事は容易く想像出来て、皆を巻き込んでしまわないかとリーユンは気が気ではない。しかしながら狭い小道で三人同時に魔術を扱うのは難しい。その上、火系の魔術を得意とするタキは森林が傍にあっては思うように戦えない
「わ、分かってる……わよ。でも、広い所に、出ない……事には、何も、出来ない、じゃない」
タキも苦しげに、途切れがちな言葉を怒鳴って返す。
「そりゃ、そうかも知れないけど」
「っと、お喋りは、お終い。出るわよ」
T字の突き当たり、街路樹や森林の向こうには白い彫刻の施された噴水が微かに見える。其処を右に曲がれば途端に視界が開け、学生で賑わうカフェテラスが確認出来る。白を基調とした二階建てのカフェテリアは一階二階合わせて店内300席、カフェテラス80席とかなりの生徒を収容出来ることからも人気の店舗となっている。昼前の時間は特に顕著で、カフェテリアは楽しげに語らう生徒の姿でごった返していた。
「そこ、どきなさあーーーーい!!」
生徒たちの喧騒に負けない程の怒鳴り声を上げながら、タキが全力疾走の勢いのままひた走る。生徒たちは何事かとタキを振り返り、ケイ、リーユンと順に姿を確認して後、一斉にピタリと動きを止めた。そしてその一瞬後、カフェテリアが恐慌状態に陥ったのは言うまでもない。
「きゃああああああーーーーー!!」
「うわあぁぁぁぁぁああぁぁ!」
「また隔離教室かよおぉーー!!!」
口々に悲鳴や怒声、罵声を上げながら逃げ惑う人々の中で、一人落ち着いてこちらを観察する視線を感じてリーユンは一瞬足を止める。
「ちょっと、リーユン、何してるのよ」
立ち止まるリーユンに気付き、タキは咄嗟に彼の腕を掴んで走り出す。リーユンは引っ張られて多少バランスを崩しそうになりつつも再度駆け出したが、その視線はある人物の姿に注がれ続けていた。
「ジュン……」
短く整えられた黒髪に、きつめの黒い瞳。リーユンよりも多少背の高い、典型的なウィズムント人である元クラスメイト、ジュン=エンシェン。少年から青年に差し掛かる途中のしなやかな腕が持ち上がり、鮮やかな緑を帯びた術式が彼の足元から風が巻き起こるように渦を描いて伸び上がる。無駄の無い式が整然と宙に編み上げられ、ジュンの高らかな宣言と共に発動する。
「ウィンドカッター!」
勢い良く振り下ろされた腕の動きに合わせ、真空の刃が空を切って走る。タキ、ケイ、リーユンの三人はこちらに向けて放たれた魔術に驚いて、反射的に左右に飛び退いた。ジュンが作り出した鎌鼬は三人の頭上を越え、マリアンヌちゃん二号の身体を大きく抉り取って切り裂いた。スライムの核となる部分を吹き飛ばされ、マリアンヌちゃん二号がズルズルと崩れ落ちていく。その様子を唖然として見ていたタキであったが、無言のままジュンに向かって歩き出したかと思うと、右手を振り上げて力一杯その頬を引っ叩いた。手の平が丁度良い角度で頬に当たったらしく、パァン! と小気味の良い音が周囲に響く。
「何すんだよ!」
「なんて事するのよ!!」
二人の声が重なった、と言うよりは、ジュンの抗議の声がタキの怒声に遮られた形となった。ジュンは礼を言われるならまだしも何故叩かれなければならないのかと、タキの理解不能な言動に理不尽さを感じるより先に「はぁ?」と間の抜けた声を上げてしまった。当のタキは怒りの形相で唇を震わせ、眸に涙まで滲ませていたのだ。
「よくもマリアンヌちゃん二号を壊してくれたわね!」
「何わけのわかんねぇ事言ってんだ。俺はお前らが追われてたから助けてやったんだろ!?」
「誰もそんな事頼んでないわよ!」
いきなり喧々囂々と言い争いを始めた二人に周囲は呆気に取られた。リーユンはクラスメイトと元クラスメイトのやり取りをおろおろ見守るしか出来なかったが、ケイは何事かを小さく呟きながら、喧嘩する二人の元へ駆け寄っていく。
「汝、自由なる旅人よ。今ひと時駆ける足を止め、我に力を与え給え」
突然間に割って入るケイに、ジュンのみならずタキも驚いて言葉を飲み込む。長い金の髪がふわりと風を孕んで揺れ、怜悧な横顔が二人の視界に映る。喧嘩を仲裁に入った訳ではない事は、彼女の翠の双眸がタキとジュンの二人ではなく真っ直ぐ一点に注がれている事からも明らかだった。緊張した空気にタキもジュンもリーユンも改めて身構え、ケイの視線の先で横たわるマリアンヌちゃん二号の残骸を見やる。
「古より受け継がれし盟約に従いて、我が召喚に応えよ。風蠱!」
ケイの言葉が終わると同時に一陣の風が巻き起こる。続けてケイは召喚した精霊に命令を下す。
「捕獲してください」
ケイの表情には僅かに焦りが表れている。三人にはケイが何に対して警戒しているのかが分からず、変わり果てた姿で横たわるマリアンヌちゃん二号を注視するものの、特に変わった所は見付けられないで居た。
「ちょっとケイ、いったいどうしたって言うのよ」
タキが焦れて声を掛けると、ケイは鋭い語調で極短く答える。
「精霊が暴走しています」
その言葉に思い当たることがあったのはタキだ。ジュンとリーユンが訳が分からず視線を交わすのに対し、タキはハッとして先ほどジュンの魔術で吹き飛ばされたマリアンヌちゃん二号の核を探す。楕円形の緑色をしたカプセルは鎌鼬によって切り裂かれ、破れたゴム鞠の様に空洞の内側を覗かせていた。
「苦労して閉じ込めた風蠱が~……」
ケイはタキの嘆きなど聞こえていない様子で、真剣な眼差しで前方を睨んでいる。リーユンもケイの視線の動きを頼りに注意深く空間を観察すると、確かに、空気の流れが不自然な動きを見せている気がした。ジュンも不穏な風の動きを察知したのか、静かに様子を伺っている。精霊の姿を視認出来ない三人は、事の成り行きを見守るしかない。
「風蠱!」
ケイが悲鳴に近い悲痛な叫び声を上げると共に、カフェテラスの道に面した場所に置いてあった白い机と椅子とが、ザックリと鋭い爪で引き裂かれたように破損した。眼に見えぬ狂爪はそのまま周辺の机や椅子をバラバラに切り裂き、薙ぎ倒しながら暴れ回る。強風が吹き荒れ、再び人々の悲鳴が上がった。遠巻きに様子を見ていた生徒は皆散り散りに逃げ去って行き、カフェテラスにはリーユン達四人の姿だけが残される。
「皆さんも逃げてください」
ケイは視線を前方へ据えたまま、静かに、しかし有無を言わさぬ口調で三人に告げた。だがジュンはきっぱりとそれを拒絶する。
「ふざけんな。女一人を残して逃げられるか」
言いざま魔力を練り上げ、素早く術式を編み上げていく。淡いベージュとブラウンのグラデーションを纏う術式がジュンを包み込み、茶系の光が一際強く輝いた時、ジュンの魔術が完成する。
「スネークバインド!」
キーワードである言葉を発し、ジュンは魔術を発動させた。カフェテラス一帯の地面から幾本もの蔦が早送り映像の如く勢い良く成長して伸び上がり、破壊されるテーブルの動きで凡その検討を付け、風蠱が居るであろうその場所を取り囲む様にして絡み合う。リーユンは元同級生が以前よりも眼に見えて魔術の扱いが巧くなっている事に驚いた。中級教室を出てまだ然程経っていないと言うのに、彼は確実に、それも飛躍的に成長している。蔦はその物が意思を持っているかの様に整然と動き、確実に風蠱を追い込んで囲い込む。リーユンは友人の手練に舌を巻いた。元より発動後の魔術のコントロールには長けていた彼だが、此処まで自分の思うとおりに操作するにはかなりの集中力と必要に応じて式を書き換えるセンスとを必要とする。彼の成長を素直に嬉しく思う傍らで、リーユン自身は上級教室に入ってから成長出来ていないのではないかと、胸が痛んだ。
「見えないなら、全部覆っちまえば良いんだよ」
リーユンの気持ちに気付いているのかいないのか、ジュンは好戦的な眼差しで魔術を扱うが、捕らえたと思った瞬間、魔術によって作り出された蔦は内側から切り刻まれてフッと宙に掻き消えた。
「全然だめだめじゃないの!」
「うるせぇ」
ジュンはタキの怒声に言い返し、すぐさま新たな魔術を発動させようと魔力を練り始める。しかしジュンの術式が完成するよりも先に、暴走した風蠱が四人に向かって突っ込んでくる。際どい所でケイが三人を突き飛ばし、風蠱の突進を避けた。四人が立っていた場所には鋭い爪痕が深々と刻まれ、素早く立ち上がって体勢を立て直した四人は、見えない攻撃に冷たい汗が背を伝うのを感じていた。
「来ます!」
ケイが鋭く叫び、風蠱が向かってくる方角を示す。リーユン、タキ、ジュンの三人は注意深く周囲の空気を見ながら、ケイの指示に従って逃げ回るしか出来なかった。比較的直線の動きが多い事がせめてもの救いだ。数度目の突進を避けながら、ケイは酷く焦っていた。自分一人ならば何とか出来たかも知れないが、周囲の人間に気を使いながら暴走した精霊を消滅させるのは不可能に近い。このまま不毛な鬼ごっこで体力と集中力とを消耗するのは得策ではない。その時、焦りを募らせる四人の耳に、のんびりとした声が届いた。
「おー、やってるやってる~」
妙に間延びした聞きなれないその声は、小柄な青年から発されたらしい。長い黒髪を後ろで縛り、黒いローブに身を包んで少し離れた場所から四人の様子を眺めている。深い知性を湛える黒い瞳が悪戯好きな幼子の様にキラリと光った。
「楽しそうだね~」
何処を如何見ればそんな感想が抱けるのか、風蠱の攻撃を避けることで精一杯の四人には突っ込みを入れる余裕すらない。青年の言葉に続いて、今度は聞きなれた子供の声が聞こえた。
「うわ、派手にやらかしてるなぁ!」
クゥ=ラ=ルゥの声も何故かと言うか案の定と言うか酷く愉しげで、キラキラと輝く瞳でズタボロになったカフェテラスを眺めている。