私と王子の甘い攻防
「王子殿下。わたくし、今後もお茶はご一緒しますけれど、お菓子はご用意頂かなくて結構ですわ」
真昼の薔薇庭園。
名前の通り多種多様の薔薇が美しく咲き誇る庭園の一角にある東屋で、私はにこりと微笑んでそう宣言した。
目の前には今日も絵画のようにお美しい王子殿下。
その王子殿下は珍しく薄いブルーの瞳を見開いて私を見つめている。
「……今、何と言ったのかな?」
「わたくしもうお菓子は頂きませんと申しました」
「何故そんなことを言うの?」
「それは……」
動揺に震える王子殿下の声を聞くのは初めてだ。
けれどこちらもここは譲れない。
私はちらとテーブルの上に並べられた上等なお菓子の数々を見下ろし、小さく溜め息を吐いた。
***
とりあえず、ここに至るまでの説明をしよう。
私は生まれてこの方、周りからどろどろに甘やかされて育ってきた。
長年子供に恵まれなかったという両親は、ふくふくとした愛らしい容姿をもって生まれてきた私を目に入れても痛くないほど溺愛し、私はまるで王女殿下のように蝶よ花よと大切に育てられたのである。
歴史のある伯爵家という環境もあってか、教育もドレスも、口に入れるお菓子ひとつであっても最高級のものがふんだんに用意され、いつしかそれは私にとっての当たり前になっていた。
王室主催の夜会で王子殿下に見初められ、光栄にも婚約者に選ばれた時、私は人生において幸せの最高到達点を毎秒更新するような感覚すら覚えた。
そして興奮し過ぎた私は熱を出し、高熱にうなされながら変な夢を見たのだ。
こことはまったく違う世界の夢である。
そして熱が下がって目が覚めた時、私の中には知らなかったはずの知識が当たり前のように根付いていることに気が付いた。
──それすなわち『ダイエット』の知識である。
何故かその知識だけが私の中に湧いてきて、他の、例えばどうしてそんなことを知っているのかだとか、元は誰の知識なのかだとか、そういうことはぼんやりとしていてよくわからない。
ただ一つ解ったのは、今の私にはダイエットが必要であるということだった。
私は甘やかされ、長年にわたって存分に裕福な生活を享受し、そして元々の体質も手伝ってか今では立派なマシュマロボディ、を超えた存在になっていたのだ。
ふくよかと称するのもそろそろ厳しい具合である。
これまではお父様とお母様と婚約者である王子殿下の『女性は少しふっくらしていた方が可愛い』という言葉を信じ、鵜呑みにして何の罪悪感もなく甘いものを好きなだけ口にしていた。運動だってはしたないからといってしなかった。
流行りのコルセットは着けていたけれど、形ばかりの紛い物をウエスト回りに巻いているだけである。
ダイエット知識を手に入れた私は鏡を見て非常に焦った。
別に少しくらいふくよかなだけなら貴族の嗜みよと笑えたかもしれない。
でも既にそんな次元は突破している。何なら三回くらい突破してまったくの別次元に到達している。健康を害するレベルである。
鏡を見て『これ、他のご令嬢方からぶくぶくと豚のように肥えてみっともないとか思われていない?』と思った後、夜会で実際にそういう陰口を叩かれていたことを知ってショックで三日寝込んだ。
そして私は遂にダイエットを決意したのである。
ここで話は冒頭へ戻る。
***
「マリフローラ。もしやどこか体調が悪いのかい? 君が大好きなお菓子ばかり揃えたのに一つも口にしないなんて……。よし、宮廷医を呼ぼう。すぐに良くなるから安心してお食べ」
「いいえ、殿下。頂けませんわ」
「どうして。一口だけでも。ね?」
「いいえ。必要ありませんわ」
「だってそんな、食べなかったら痩せて倒れてしまうよ」
「わたくし痩せたいのです」
痩せたい、と口にした瞬間、王子殿下の顔からすとんと表情が抜け落ちた。
どうしてと呟く王子殿下は真剣な顔で言った。
「痩せる? そんな必要ないだろう」
「あるのです。わたくしは肥え過ぎているのです」
「そんなことはない! ふくふくとしてとても可愛らしいよ! それをそんな……痩せるだなんて……」
「王子殿下はわたくしが痩せることに反対なのでしょうか」
「当たり前だよ。だって君が痩せるってことは世界に対する君の割合が減るってことだろう。私の世界から君を奪わないでくれ……」
「何を仰せなのかわかりかねますわ」
最後には訳のわからないことを言い出してシクシク泣き出した王子殿下である。
世界に対する私の割合って何?
私は王子殿下の仰った言葉の意味を何度も反芻して考えたけれど、まるでわからなかったので理解するのは諦めてただにっこりと微笑んで見せた。
「えぇと、とりあえずそういう訳ですので、今後はお茶のみご一緒させて下さいましね」
「ウゥウ……嫌だ……減らないで……」
その日はお茶の時間の後も王子殿下が私にベッタリで、涙目で考え直してくれと何度も言って来たけれど『善処します』とだけ答えて屋敷に戻った。
ちなみに善処しますというのが実質拒否のニュアンスを含んだ言葉であるというのは、ダイエット知識と共に私の中にあった知識である。
閑話休題。
さて、屋敷に戻った私はとりあえずドレスを脱ぎ、下着姿で姿見の前に立った。
ダイエットにおいて一番最初にやるべきことは現状の把握である。
崩れに崩れたボディラインに衝撃を受けつつも、肌のハリツヤはとても良く、吹き出物等の類がなかったのは不幸中の幸いだった。
贅肉のつき方から、自分の肉のつき易い部位に検討をつける。そうすることでどのような筋トレが必要そうか確認するのだ。
そして次にやったことは体重測定。
この世界に体重計はない。少なくとも私の屋敷にはなかった。
なので私は屈辱に耐えながら小麦などの重さを計量するための台はかりに乗って自分の体重を測定し、おおよそで割り出した身長を元にBMI値を計算した。
計算式はダイエット知識の中にあった。
そして算出したBMI値に白目を剥いた。
このままでは死んでしまうと思った。生活習慣病的な意味で。
ダイエットするにあたって、一番最初の難関は両親の説得だった。
「マリフローラ。最近あまり食べていないようだが、体調が悪いのか?」
「お医者様に診て頂きましょう? このままでは王子殿下にもご心配をお掛けしてしまうわ」
「いいえ、わたくしは一日に必要なカロリーを計算して必要なだけ食べているの。何も心配要らないわ」
今まで食べていた量を突然食べなくなったら心配になるのもわかる。
しかも王子殿下はふくよかな私をいたくお気に入りだ。
両親は私に何度も食べるように言ってきて、更には希少なお菓子まで出して来た。
そうそうお目に掛かれないお菓子に数回負けたところで、私は『このままでは死ぬ』という事を思い出してハッと我に返った。
「お父様、お母様。とても大切なお話があります」
両親をとっ捕まえ、私は持てる知識を総動員して健康的な食事のあれこれについて熱弁を奮った。
そして今の体型を維持し続ければ私の命は縮まるばかりだと両親を脅した。
肥満は心筋梗塞や脳卒中、その他色々な疾患に繋がる可能性が高い。
何事もやり過ぎてはいけない。程々が一番。命を大事に。
両親を脅すにあたって口にしたことは全くもって事実なので心は痛まなかったが、食事量をいつもより減らしていたので腹は鳴った。気合いで堪えた。
最終的に両親は『痩せ過ぎないこと』を条件に私の減量を許した。
料理長と一緒に食事内容を見直し、貴族の品格を保つ内容の健康的な料理を考案した。
その結果、両親もここ最近悩んでいた胃もたれから解放されたらしい。貴族の食事は特に晩餐のカロリーが高すぎるのである。
食事総量は減ったが代わりに新鮮な野菜や果物を頻繁に食べるため、食費がそこまで変わらなかったのは盲点だった。
果物は高価なのだ。
なので私は甘やかされた令嬢らしくお父様にねだって、果物を作るための荘園を幾つか入手してもらった。
収穫したもののうち、熟して出荷に耐えられない果実を使って作ったジャムはある程度保存が利いたので、副産物として新たな財源の一つとなった。
果物に含まれるビタミンの効果なのか、食後のデザートにと一緒に果物を食べていたお母様は肌の具合が良くなったと喜んでいたので私は静かにドヤ顔を披露した。
また、私が屋敷でストレッチをするためにと仕立て屋に作らせたゆったりした部屋着も、いつの間にか王都で大流行していた。
お母様がお茶会で他のご婦人方に話をしたら、それを聞いたコルセットに疲れ果てていた彼女たちが『屋敷でくらいリラックスしたい』といってこぞって同じものを作るようになったからだ。
簡単なストレッチも一緒に教えたので、手足の冷えや肩こりの改善にも繋がったらしい。
考案した部屋着の専売権を取っておけば良かったかしらとちらと思ったが、貴婦人たちの健康に貢献出来たのならこれに勝ることはないだろう。利益とは金銭のみを指すものではない。私はそう自分を納得させた。
そうして私は食事内容の改善に加えストレッチと軽い筋トレを習慣にし、社交界での影響力を増やしつつ、体重は少しずつだが確実に減らしていった。
だがまだまだマシュマロボディから脱却は出来ていない。
私は目標に向かって頑張ろうと己を奮い立たせた。
──そんな私の前に立ちはだかったのが王子殿下である。
「マリー。今日は母上がお茶をご一緒したいと仰せなんだ」
「まぁ、光栄ですわ」
王子殿下からお茶の席に招待されて登城すれば、待っていたのは王妃様。
にこにこと微笑む王妃様は私をテーブルにつくようにすすめ、手ずからお茶を注いでくれた。
「今日はお茶によく合うケーキをいくつか用意してみたの。このクリームは本当に絶品なのよ。あなたにも是非召し上がってほしいわ」
「ワ、ワァ……」
たっぷりと飾られたクリームの誘惑。鼻先をくすぐる芳醇なバターの香り。
あぁ、カロリーの暴力が放つ禁断の匂い……!
純白のクロスを敷いたテーブルの上に所狭しと並ぶ宝石のような多種多様なケーキには飴細工まで飾られている。
その眩しさにここしばらく甘いものを断っていた私はくらりと目眩がした。
「──ハッ! わたくしったら……!」
そして気が付いた時、私の目の前にあったのはいくつもの空の皿。
向かいで王妃様と王子殿下がニッコニコの輝く笑顔を浮かべている。
「本当に幸せそうに食べるのねぇ。用意した甲斐があったというものよ」
「えぇ、母上。私も彼女が幸せそうに食べる姿に人生の喜びを感じるのです」
王妃様と話しながら私に視線を向けてにっこり微笑んだ王子殿下に彼の策略を知る。
しかしこれはまだ序章に過ぎなかった。
体重が減った頃に王子殿下を通じて王妃様にお茶に呼ばれ、そうでなければ高価なお菓子を贈られて感想を求められ、登城すれば王子殿下が手ずから『あーん』と私の口元にクッキーなんかを持ってくる。
私は雛鳥のように口元に食べ物を差し出されるとつい口を開けてしまう習性があり、私が餌付けされるその光景を王妃様はひどく気に入ったようだった。
「や、痩せられない……!」
私は家での食事でバランスを取りながら、何とかこの状況を脱するための策を練った。
しかし一介の貴族娘風情が王妃様から出されたものに口を付けないなど、不敬すぎて許されない。
王子殿下相手なら婚約者同士の他愛のない我儘で済ませられたが、流石に王妃様相手にそれは通用しない。
このままだと体重は減るどころか増えるばかりだ。
(こうなったら最後の手段よ)
王子殿下がそのつもりなら、私も強硬手段に出るしかない。
「お父様。わたくし今日から三ヶ月ほど体調不良で寝込むことにするわ」
「斬新な予定の立て方だな、マリフローラ」
「仕方ないのよ。こうでもしないと登城を断れないのだもの」
そう、強硬手段とはなんのことはない仮病である。
療養中につきしばらく屋敷から出られないと言えば、お菓子摂取イベントは回避出来る。
そして私は意気揚々と屋敷に篭り、ヘルシーな食事のレシピ考案と筋トレとストレッチに励んだのだった。
消費カロリーが摂取カロリーを上回れば少しずつ体重が減っていく。
更に運動して筋肉がつけば基礎代謝も上がり、息をしているだけでカロリーを消費していくのだ。
重要なのは極端に食事を減らしたり毎日キツい運動を続けることではなく、無理のない範囲で中長期的な計画を立てて地道に取り組むことだ。
私は最初に自分のBMI値を算出していたので、まず目標を健康値に設定し、なんとかギガサイズマシュマロからマシュマロ(小)くらいになれるよう計画を立てた。
痩せ過ぎないというのが両親との約束であったし、ある程度の脂肪がないとドレスを着た時に貧相になってしまう。
食事を抜かず、睡眠を欠かさず、日中は身体に負担をかけ過ぎない範囲でしっかり運動する。
そして一ヶ月が経過し、二ヶ月が経過し、三ヶ月目に入れば見た目にわかる程に体型が変わった。
もちろん元がギガサイズマシュマロだったので、痩せたといってもまだまだ肉付きは良いのだが、それでも健康的と言って良い範疇だ。
何と言ってもフェイスラインが目に見えてすっきりしたので私は毎日鏡を見るのが楽しくなった。
二重顎は消滅し、首の辺りも肉が落ちたのか、以前に比べて首の可動域が広がった気がする。
久しぶりにダンスの練習をしたら身体の軽さに戸惑ったくらいだ。
「でも、私が元々丸顔だったのは盲点だったわよね」
部屋の鏡を見て私はふふっと小さく微笑んだ。
そう、痩せはしたが私は元々丸顔だったらしく、お母様のようなシュッとした美しい顎にはならなかった。
けれどこれはこれできっと良いものだ。
ありきたりな栗色の髪だって丸みを帯びた顔立ちと合わせれば客観的に見てもきっと愛らしい部類のはずだ。
痩せた自分の体型に合わせて仕立て直したドレスが仕上がってきたら、体調が回復したと言って社交活動を再開しよう。
そんな事を考えていた私は、バルコニーの辺りで物音がしたのに気が付いてふと振り返った。
鳥かしら。それともまた栗鼠でもいるのかしら。
軽い気持ちでバルコニーに出ようとした私はそこに王子殿下がいるのを見て思わず悲鳴を上げそうになった。
驚き過ぎて声が出なかったのだが、人が来ては私も王子殿下も困るし、私は慌てて王子殿下を部屋に入れ自室のドアに内鍵を掛けた。
「殿下、どうしてこんな場所に……」
問い掛ける私を見て、屋敷に忍び込んできた王子殿下は青褪めた顔で呟いた。
「マリフローラ、そんなにやつれて……。あぁ、あの時宮廷医に見せていればこんなことには……」
「やつれたのではなく健康的に痩せただけですわ、殿下」
「こんなに減ってしまって……!」
「せめて痩せたと仰って下さいまし」
ふらふらと覚束ない足取りで近寄り、震える手で私の頬や肩を撫でる王子の狼狽具合に、私は必死に元気ですとアピールすることしか出来ない。
そして私ははたと気が付いた。
(王子殿下は太っている私がお好きだったのよね? それで婚約者として私をお召しになった訳だし。もしかして痩せてしまったら婚約は破棄されてしまうのかしら)
盲点だった。全く盲点だった。
そうだ、王子殿下はふくよか過ぎる方の私を愛して下さっていたのだ。
我が身可愛さに減量を敢行した私にはもう王子殿下に愛される理由がない。
(伯爵家の人間として、せめて引き際は潔くあらねば)
私は一度大きく深呼吸をして涙目になっている王子殿下の顔を見上げた。
お別れを思うとつきんと喉の奥が痛んだ。
「王子殿下。一時だけでもご寵愛を賜れましたこと、わたくしの一生の誉ですわ。今後は婚約者としてではなく、一臣下として誠心誠意お仕えしてまいります」
「──ハァ?」
精一杯の強がりを含んだ台詞を告げた瞬間、いつもキラキラと輝いていたはずの王子殿下のアイスブルーの瞳から全ての光が消えた。
地の底から響くような声に思わず身体が強張る。
そういえば王子殿下が私の肩を掴む手の力がちょっと増したような?
もしかして、私、何か言い方を間違えた?
「あの、」
とにかく弁明しなければと焦る私の目の前で、王子殿下はジャケットの内ポケットから取り出した小さな包みを口に含み、包み紙を指先で取り去ると次の瞬間がしりと私の後頭部を掴んだ。
「んンッ!?」
噛み付くような荒々しい口付けに目を白黒させている内に、苦しくなってきて酸素を求めて口を開く。
その途端、それを待っていたかのように王子の舌先が私の口内に何かを押し込んだ。
(な!? 何これ、甘い?)
口に含まされたものがキャンディであることに気が付くも、どうしてそんなものをという気持ちが勝る。
「王子、殿下……」
ようやく解放された頃には私は息も絶え絶えといった有り様で、へなへなとその場に座り込んでしまった。
そんな私を見下ろす王子殿下の視線は鋭く、そして冷たい。
「……許さんぞ、マリフローラ・アウロラ伯爵令嬢。余の許しなく他の男に嫁ごうとでもいうのか」
「なっ、違います。そのような事実はありません」
「では何故突然余の寵愛を拒んだ! 何故登城しない! 痩せたのは他の男に媚びる為ではないのか!」
「殿下は何か思い違いをなさっておいでです……! わたくしが愛しているのは殿下ただお一人だけです!」
「では何故……、えっ? 本当?」
「ひどい……。殿下という愛しい方がいるわたくしに、他の男に媚びる為かだなんて……」
確かに仮病を使って婚約者の義務を怠り、登城を拒んでダイエットに励んだのは私だが、なにもそこまで言われることではない。
婚約者がいながら他の男性に媚びるようなはしたない女に見えていたというのか。
悔しくて悲しくて、堰を切ったように涙が零れてくる。
「生まれながらにお美しく、食べても余計な肉がつかない体質のアルテュール様にはわからないかもしれませんが! 肉のつき過ぎは! 健康を阻害します! 私は長生きをして末永くあなた様にお仕えしたいの! それに太り過ぎているとドレスだって選べるものが少なくなるし、他の令嬢方には陰口だって叩かれるし、だからちょっと痩せただけなのに! 痩せたらもっと自信を持って殿下の隣に立てると思ったのに! よりにもよって他の男ですって!? ひどい! ひどいわ!」
ついにわぁんと声を上げて泣き出したら自分でももう止められなくなってしまった。
泣きながら肥満が招く健康への悪影響について語り、自分が健康のためどれだけ真剣に減量に取り組んだかを叩きつけるように叫ぶ。
まだ溶けきらないキャンディが口の中に残っていて、その甘さがなんだか今はなんだか切なかった。
「ごめん、ごめんよ、マリー。久しく見た君の様子があまりに変わっていたから、動揺してありもしない想像をしてしまったんだ。ちょっとでも糖分を取って増えたらいいと思って暴挙に出てしまった」
「ウゥウウウ!」
「あぁ、そんなに威嚇しないでくれ……。もしや私は捨てられてしまうのかとついカッとなってしまって……怖がらせて本当にすまない」
途端にオロオロとし出した王子殿下、アルテュール様はまるで叱られた犬のようで、私は何度かその場でダシダシと右足を踏み鳴らして最後の威嚇をすると、気を鎮めるために大きく深呼吸をした。吐息はキャンディの名残でまだ少し甘かった。
「殿下。わたくしが痩せたのは他の殿方に媚びるためではございません」
「あぁ、もちろんそうだとも。君はそのような女性ではない」
「そもそも太り過ぎは健康に良くありません」
「そうだね。君の説明でよく理解した」
「わたくしがお慕い申し上げているのは、これまでもこれからもアルテュール様だけです」
「……嬉しい」
殿下自身も落ち着いて、一人称が『余』でなくなった事に内心安堵する。
初めて見た王子殿下の王族ムーブは私には圧が強過ぎた。でもかっこよかったから慣れた頃にまたお願いしたい。
泣いてべしょべしょになった頬を手の甲で拭い、私はスンと鼻を鳴らす。
「殿下こそ、ふくよかな頃のわたくしをお目に留めたのでしょう。今のわたくしでは殿下のお好みにはそえません……」
「いや、私は体型で君を選んだ訳ではないのだけど」
「え?」
「え?」
違うの?と視線で問えば、同じく視線で違うよと返される。
そこで王子殿下は何かに気が付いたようにハッとした顔になった。
「マリー、君、そんな事を考えてあんな事を言ったのか?」
「だって、だって、わたくしてっきり……」
「そんな……! 私は美味しそうに軽食を頬張る君の幸せそうな顔に一目惚れして婚約者にと請うたのに」
「た、食べる、顔……?」
「初めて見た時、天使の微笑みかと思った」
「じゃあ今までたくさん甘いものをわたくしに食べさせようとしたのは、体型を維持させるためではなく……食べている時の顔を、見たかった、から……?」
お互いに言葉を失い、私たちは部屋の中でしばらく見つめ合った。
耳が痛くなるほどの沈黙を経て、最初に動いたのは王子殿下だ。
「確かに君の総量が減るのは悲しい。正直なところ、抱き締めた時のふわふわの君の感触も好ましかった! 先ほど激昂してしまったのは君の痩せたいというのは食べるのが嫌なのかと思ってだな……だが、それも健康のためであるのなら致し方ないと理解する程度の理性はあるんだ」
「殿下……」
「もう君に乱暴なことは一切しないと誓う。誓約書を認めてもいい。こんな私でも今後も共に居てくれるだろうか……」
「そんなものなくったって、それはもう、喜んで。わたくし、王子殿下をお支えするために健康を目指したのですもの」
そこで私はアッと小さな声を上げた。
ものすごく重要な事を思い出したからである。
「しかしながら殿下、先ほどのわたくしへの行為は頂けませんわ」
「心の底から反省しているよ」
「でしたら償いを求めても構いませんね」
「何なりと」
私は腰に両手をそえてムン!と唇を尖らせて怒りを表すとびしりと言った。
「あんな初めての接吻、乙女として到底許せませんわ! やり直しを要求します!」
すると王子殿下は鳩が豆鉄砲でも喰らったかのようにぽかんとして、すぐにくしゃりと子供のように笑った。
「どのような接吻がお望みなのかな」
「あんな乱暴なのではなくて、もっと優しくなさって下さいな。一生の思い出になるくらい」
「仰せのままに、プリンセス」
王子殿下はまず私の手の甲に恭しく唇を落とし、額に、瞼に、頬にと触れるだけの軽い口付けをした後、そっと唇を重ねた。
さっきとは全く違う温度と感触。
やり直した接吻は、キャンディはないのに何故だかとっても甘い気がした。
「殿下……」
「うん? もう一度するかい?」
「それは後でお願いしますわね。その、お手を……」
「手?」
口付けの後、とりあえず落ち着こうと部屋の長椅子に隣り合って座った私は、差し出された王子殿下の手を取ってそれを自らの膝の上に、正しくは太ももの上に乗せた。
淑女の脚は伴侶にしか許されない部位である。
王子は慌てたように私を見た。
「ま、マリー!?」
「あの、王子殿下。わたくし、確かに痩せて体積が減りはしましたけれど、どうにもここは残りがちだったようで……」
ボーンもバッスルも入っていない部屋着のドレスは、生地も薄くて容易に布の下の感触を伝える。
痩せてもなお肉感の残る柔らかな太もものことを伝えれば、王子殿下は顔を真っ赤にしてこくこくと頷いた。
その様子を見て私はうっそりと微笑んだ。
「これは殿下のものですのよ」
「……き、君は一体どこでそんな事を覚えて……」
「まぁ。わたくし、王子殿下の伴侶になる女ですもの。殿下のためにこのくらいは、ね? うふふ、今度膝枕でもして差し上げましょうか。寝心地は保証致しますわ」
「それなら是非とも週二で頼むよ。これがあればどんな激務もこなせる気がする」
「えぇ、えぇ、よろしゅうございますよ」
今度は晴れた日のお庭でゆっくり過ごしましょうね、と膝に置かれた殿下の手に己の手を重ねて笑う。
この後、未婚の男女がドアを閉めた部屋にいた事を鋭いお母様に気付かれて、私は両親に、王子殿下も王室の教育係にそれぞれみっちり叱られたのだった。
それからというもの、私は王子殿下と少量のお菓子を共に頂くようになった。
食事内容の改善や適度な運動による代謝アップにより、週に何度か少量のお菓子を頂くだけでは体重に影響しなくなったのである。
……なんて、結局は大好きな甘いものをやめられなかった言い訳かしら。
「マリー。はい、あーん」
食べてしまうのが惜しいほどに美しい造形のクッキーを口元に差し出され、おずおずと口を開く。
サクサクとした食感と共に鼻に抜けるバターの香り。
口の中で崩れるクッキーを咀嚼してその美味しさに目を細めると、それを見ていた王子殿下も柔らかく目を細めた。
「殿下。殿下もどうぞ」
指先で摘んだクッキーを殿下の口元の寄せれば、殿下は思いの外大きなお口で一口にクッキーを食べてしまうと、ついでとでも言うように私の指先を軽く食んだ。
「もう、殿下ったら。わたくしクッキーではありませんのよ」
「ごめんごめん。だってマリーが可愛いからつい齧ってみたくなって。ねぇ、クッキーをもう一枚どうかな?」
「うふふ。いいえ、もう充分頂きました」
「では食後の軽い運動に散歩はいかがかな」
「それでしたら喜んで」
お菓子を食べたら少し運動する。
今ではそれが私と殿下の約束事のようになった。
「そうだ、散歩しながらで良いんだけど、幾つか考えている政策について君の意見を聞かせてほしいんだ」
「散歩しながらでよろしいの?」
「まだ草案の草案だからね。もう少し固めたくて。君に聞いてもらうことで問題点が見えてくることもある」
「まぁ、わたくしお役に立てるかしら」
並んで歩きながら、私たちは他愛もない世間話から執務に関することまで幅広く話をする。
あの日、不思議な夢で得た『ダイエット』の知識で私は痩せたいと思ったのだけれど、今思えばただ痩せたいというだけではなくて、不健康が祟って殿下を置いて先に死んでしまうことに恐怖したからこそ痩せようと思えた気がする。
「今日は日差しが心地良いですから、お散歩の後で少し休憩しましょうか。お昼寝には最適の気候ですわ」
「それは嬉しいな。執務に励んだ甲斐がある」
昼の日差しを受け、キラキラと金の髪を輝かせて王子殿下が微笑む。
その隣で微笑みを返せることが何よりも嬉しい。
健康的な食事と適度な運動、そして時には一緒に甘いものなど頂いて、いつか死が二人を別つまで、私たちはずっとこうして共にあるのだろう。
そんな未来を確信出来る今、私の胸をお砂糖よりも蜂蜜よりも、うんと甘い幸せが満たしていた。