VTuberについていけない
自分ももう「オジサン」と呼ばれても仕方ない年である。更に自分は一般の人からすれば「オタク」に属すると言っていい人間だ(中学生の時、エヴァンゲリオンのサントラを聴いていて、キモがられた経験がある)。しかし、最近流行りのVTuberにはついていけない。それで、何故ついていけないかについて考察をしてみようと思う。
まずVTuberとはどういうものか。wikiの説明を下記に引用してみよう。
「2DCGや3DCGで描画されたキャラクター(アバター)、もしくはそれらを用いて主にインターネットなどのメディアで活動する動画投稿・生放送を行う配信者」
こうして引用してみても、知らない人にはわかりにくいかと思うので、説明を付け足す。
まず、CGで動くキャラクターがある。これはリアルタイムで、配信者が話す音声に合わせて、モーションを作る事ができる。これを活かして、リアルタイムでキャラクターに扮する配信者、といったものができあがる。
ただ、このあたりが微妙なところであって、私も詳しくないが、VTuberに対して、後ろの「配信者(リアルなその人)」を指摘するのはご法度らしい。もちろん、OKの人もいるだろうが、私が見たコラボ配信では、VTuberの裏の人(配信者)を指摘するのはやんわり禁止されていた。
それと、私が見た人では、大抵がいわゆる「萌え声」の女性だった。幼女の設定をしている人もいた。とはいえ、男のVTuberも普通にいるようだ。
さて、ここまで雑な説明をしたが、どうしてVTuberがこんなに人気になったのか。簡単に考えてみたい。
そもそもで言えば、それ以前には「声優人気」があった。アニメのキャラクターの声を担当する声優が、アイドル的な人気となる。声優人気は今でも盛り上がっている。
どうして声優が人気になったかと言えば、かっこいいあのキャラ、かわいいあのキャラの「裏」の人に、表としてのアニメキャラクターを重ね合わせるからだろう。だから、アイドルほどの見た目ではない女性声優でも、ファンは声優を好きなキャラクターと重ね合わせる事によって、より可愛いものとして見る。そういう、意図的に混同というか、理想化がなされている。その事が声優人気の一つの原因だろう(もちろん、その根底にはアニメ人気、サブカル社会があるわけだが)。
声優人気の延長でVTuberというものを考えると、私の観点では、VTuberとは、「演じるもの」と「演じられたもの」とが一つになった存在という風に定義できる。声優とキャラクターという形で分割されていたものが、一つになったのだ。
だから、幼女の見た目(CG)のVTuberがいたら、その声を出している、裏側の成人女性に対して「本当は二十歳越えているんでしょ」と言うのはNGなわけである。
これはかなり特異な事であると自分は思う。声優を応援している時点では、一応、演じるものと演じられたものは区別されていた。その区別をできるだけ消去しようというのが、声優のアイドル化であり、声優に自分が演じているキャラクターのコスプレをさせてみたり、だったりしたわけだが、その差異は如何とも越えがたい。
しかし、今はCGの技術のおかげで、差異を消去する事が可能になった。それがVTuberというわけだ。もはや、VTuberは、生身の人間が演じているキャラクターではなく、「実際に実在するアニメキャラクター」であり、背後で演じている人間は自らがそれを「演じている」と言う事すらもできない。要するに、VTuberとはオタクの夢、「実在するアニメキャラクター」なのだ。
※
私がVTuberにもはやついていけない、と感じたのは、完全に生身の人間を消去してしまった、その事実に対してだ。
ただ、これはそもそもで言えば、アニメ作品の本質、あるいは八十年代あたりからのサブカルの興隆と深く関わっている。そうした流れの、ある意味で最先端というか、極北という事になるだろう。
アニメ作品は一般的には、現実を描く、芸術作品のような形態を取らない。多くは人々の持っている願望を、フィクションという形で実現させる、という形を取る。
その願望は「萌え(女性が対象)」や「イケボ(男性が対象)」というような性的なものが主流となっている。VTuberも、そういう願望の具現化であると考えていいだろう。
おそらく、現代の日本に全く属していない、どこか他の時代からやってきた人に、「異世界に行ったら急にモテる男の話」とか「主人公は普通の女の子なのに、ドSで金持ちのイケメンがしつこく言い寄ってくる」というような、コンテンツを見せたら、その都合の良さにびっくりしてしまうだろう。
こうした、観客にとって心地よい存在こそが、オタク的なものであるという事になったのだが、オタクが気持ち悪がられてた時代は過去に流れ去り、今はオタクが主流になりつつある。それは、誰しもが、心の中では自分だけが認められたいからであるし、自分だけが甘やかされたいからであり、自分だけが他よりもより性的に満足したいからである。そうした欲望に応えるものとしてオタク的コンテンツは一般化した。
VTuberも、その流れだろう。そしてこれが「オタクの夢」であるのは、「具現化したアニメキャラクター」であるからだと思う。つまり、アニメ作品の上では「声優」と「キャラクター」という形で分割されていたものが、統一された形となって現れた。紙に描いた理想の女の子(男の子)が、とうとう現実に現れた。
もちろんここには問題がある。いくら、VTuberが架空のキャラクターは現実のものであると、技術の力を借りて必死に演じても、この人物はやはり"現実"に存在するのだから、その現実性と、VTuberの虚構性との間で葛藤が起こるという事だ。
オタクの夢は、この葛藤を完全に消去する事にあり、自分の願望が現実であり、フィクションではないと証明する事にあるわけだが、とはいえ、この世界は何といっても"現実"なので、やはり葛藤はあるわけだ。
その葛藤が、例えば、VTuberが裏で男と付き合っていた、その暴露であるとか、あるいはVTuberが自分が課せられた仕事に嫌気がさして、やめてしまうといった事である。しかし、今は視聴者が絶対的な権力を持っているので、そういう"背後"は絶えず抹殺される。
多くの視聴者がぼんやりと抱える願望を具現化したVTuberが最も人気になる。今さっき見た、人気ナンバーワンVTuberは典型的な「幼女」「萌え声」だった。この声やキャラクターに、視聴者は心地よさを感じる。ただ、そこで演じている存在はやはり現実のものであるから、ここに何がしかの問題は発生する。にもかかわらずこの問題を表にする事は許されない。
私が嫌悪感を感じるのは、この「絶対的な葛藤の消去」だ。視聴者・観客はその圧力を演者に押し付ける。しかしそれは、「人気・金が欲しければ我々の要求に応えよ、そうでなければ我々は君達を無視する」という形の圧力だ。抑圧的な圧力ではなく、誘惑するような圧力の掛け方だ。
問題はこの理想化というのが、その存在が一人の「人間」である事を許さない、という事にある。声優とキャラクターが別れていると、まだ声優は結婚したり、子供を産んだり、あるいは自分の「生活」を営む事ができた。しかしVTuberまで来ると、その背後の配信者が「人間として生きている事」すら許されない。
いや、問題はVTuberではないのかもしれない。人気声優で神谷浩史という人がいて、私は昔、ウェブラジオなんかをちょこちょこ聞いていた。それで、神谷浩史という声優は結婚したが、公言できなかった。彼はアイドル的な人気があり、彼を中心に人も金も動いていたので、「結婚しました」と言えなかった。彼はラジオでは「童貞キャラ」のような感じで話していたが、実際には結婚して、子供もいた。
なので、実際には問題はおそらく、VTuberにあるのではない。問題はそもそもで言えば、「自らの願望を具現化するものを良しとする」という大衆の価値観に全く歯止めがかかっていない事にあるのだろう。
しかし考えてみればこれは今に始まった問題でもないのだろう。戦時中の日本は連戦連勝の、負けるはずがない国という理想を具現化した存在とされていたので、実際の敗北を公言できなかった。しかし実際の敗北は突然やってきた。
※
話をまとめよう。要するに、VTuberに私が嫌悪感を感じるのは、生身の人間を完全に排除してしまった事にある。
ただ、裏を返せば、これはオタクのワンダーランド、夢の世界が具現化したという事だから、VTuberが人気が出るのは理解はできる。
しかしVTuberの裏の人はやはり生身の人間であるから、そこに様々な問題は起こってくるだろう。もっとも基本的な話をすれば、人は「死ぬ」わけであるから、いつかはオタクも死ぬし、私も死ぬし、VTuberの裏の人も死ぬわけだ。
VTuberのキャラクターがいくら幼女設定で、CGの外見が年を取らなくても、後ろのリアルな人間は年を取り、少しずつ死に近づいていく。死の問題を疎外して、オタクの夢は一つの永遠として定着可能だろうか。今、形作られているオタクの夢、その具現化としての世界は、それ自体の死を見る事はできない。その死を見るのは、別の人々である。内部の人々には自らの死を見る事ができない。
この「夢の国」はいつかは一つの死を迎えるだろうが、その死を見るのは彼らーーあるいは我々、ではない。それは違う国、違う世界の誰か、別の人である。
VTuberは「演じるもの」と「演じられたもの」を理想的に一つにしたものであり、生身の人間性を完全に疎外したわけだが、それによって現実そのものを完全に締め出したわけではない。排除した現実は、必ず、我々の手元に返ってくるだろう。
我々オタクはその時が来ないように、自らの庭園に鍵をかけて、その内部を永遠化しようとしてくるが、いつかは排除した現実が戻ってくる。そうしてこの永遠はいつか破壊されてしまうだろう。その時、我々が見ていたのは"フィクション"だったとようやく理解される。しかしこのフィクションは、テクノロジーや経済といった形を取って、入念に現実としての体裁を整わされていたのだった。
だから、我々は本当は、"現実"の意味がわからない。私がここで言う"現実"とは"未知のもの"と同義である。我々が理想化された形象と、理想化する観客との間で形作った「完全なる世界」も、いずれは死(そして死の後は常に未知だ)によって壊されるだろう。
私はその時を、ある種の甘い期待で、待っている。だが、その"時"に至るまで、私の身体が持ちこたえられるかはわからない。しかしこの事実はVTuberの「裏の人」や、それを見ている視聴者達が、作られたCGの外見とは異なり、いつまでも生きられるわけではない、という事実と全く同種の事実であるはずだ。