95.思わぬ再会
「え?ここって、もしかして………」
暗雲を漂わせながら闇夜を彷徨う、一頭の馬と見目麗しい女性。
しなやかに靡くたてがみと、女性の美しく長い髪。
月の光が木々の間から細い線となり、無数に差し込む森を駆け抜けて辿り着いた先には、幻想的な光景が広がっていた。
静寂の闇夜に光る月。
湖面に映る月が、暗闇の中でひっそりと、優しく光り輝いていた。
神秘的な湖の美しさに心を奪われて、思わず息を呑む。
ここは、まだ記憶に新しい場所であった。
理屈では到底説明できない摩訶不思議な現象に、驚きを隠しきれず思わず声が出ていた。
ライオネルが失踪したあの日、焦燥に駆られ、祈る思いで、この神聖な地に足を踏み入れる。
再び、また、迷う心がこの地へと導いていた。
神は気まぐれで、時には味方であり、時には脅威となり襲いかかる。我々に度々試練を与えては、正しき真実の道へと誘うのであった。
ここに辿り着いた理由を、自分自身に問いかけていた。
忘れたくても忘れられない人を偲び、心が痛む。
辛さや悲しみを堪えて、気丈に振る舞い続けた心は悲鳴を上げて壊れていくのであった。
生まれて初めて、報われない人生に心底から絶望して打ちひしがれていた。
生きる希望の光を失い、生きることをやめようとしていた。
ほんのわずか、思いとどまる心は、迷っていた。
馬から降り立ち、月の光に導かれるように、ぼんやりと暗闇の中をおぼつかない足取りで、ゆっくりと歩みを進めていた。湖の中へと足が自然に動いていく。次第に感覚は奪われていくが、感情は奪い去ってはくれない。虚ろな目で、ただ呆然と月を見ては、涙が流れ落ちる。だがもう、エミリアの視界には、月は見えていない。
真っ暗闇の世界へと、底なしに深く沈んでいくのであった。
エミリアは、心ここにあらずの状態であった。
静かにひっそりと、湖の中へ姿を消していく。
すると突然、どこからともなく現れた男性が救いの手を差し伸べる。
「エミリア!!エミリア!!死ぬな!!生きろ!!生きるんだ!!しっかりしろ!!」
強く叩かれる肩と男性の叫び声に、ハッと我に返る。
咳き込むエミリアの背中を優しく摩る男性が、朦朧とする意識の中で、ぼんやりと視界に入る。
焦燥感を滲ませた不安げな表情は、目と目が合った瞬間、安堵の表情へと変わり笑みがこぼれる。見覚えのある顔に、思わず声にならない声が口から漏れる。
「え?なんで?」
エミリアを救ったのは、ゾーゼフの息子レンであった。
彼もまた、エミリアと同じく思い悩み、意思とは関係なく身体が勝手にこの地に赴いていた。
「嗚呼、良かった。はぁー、本当に良かった。焦りました。びっくりさせないで下さい。心臓が、まだドキドキしてますよ。はぁー、いや偶然にも、ここに来て良かったです。貴方を助けることができたから、良かった。本当に良かった。あっ、濡れたままでいると風邪を引きますから、急いで暖を取りましょう。すぐ近くに小屋がありますので、行きますよ。」
未だ焦りと不安を滲ませた声で話すレンは、冷静を装うように表情が引き締まる。
レンは湖のほとりに横たわるエミリアを抱きかかえると、そのまま歩き出した。連れて行かれた先に見えたのは、森の中にある小さな狩猟小屋であった。
エミリアを暖炉の前に横たえさせると、慣れた手つきで暖炉に火をつけて、毛布を数枚準備した後、お湯を沸かすレンはエミリアの側にコップを置くと、「では、俺は湖に戻ります。後はここでゆっくり休んでからお帰り下さい。そして、エミリア様、自ら命を絶とうなんてことは、もう絶対になさらないで下さいね。お願いします。では。」と言い放ち、足早に小屋から去って行った。
憔悴しきっていたエミリアは、礼を伝えたいのに言葉が出てこない。声を出す力さえもなくなっていた。濡れた衣服と身体を乾かす為に、震える手を必死に動かして、どうにか服を脱ぎ、毛布に包まるエミリアの身体は暖炉の前でカタカタと小刻みに震えていた。置かれたコップにお湯を注ぎ入れて口にした途端、冷えた身体に染み渡る暖かさに、レンの優しさが心に沁みる。堰を切ったように涙がとめどなくあふれ出ていた。
毛布に包まり、身体を小さく縮こませてうずくまるエミリアは、声を上げて泣いていた。
一方でレンは、小屋の傍らに立ったまま微動だにしない。辛そうに泣くエミリアの声に、胸が締め付けられて動けなくなっていた。強かな女性の弱く脆い心が垣間見えて、切なさが込み上げる。
レンは、庇護欲に掻き立てられていた。エミリアを守りたい気持ちが溢れて止まらない。
湖に消えていくエミリアの姿を目にした瞬間、恐怖に手が震えて、失いたくないと心が叫び声を上げていた。一心不乱に駆け寄るレンは、助けたい一心で湖に飛び込む。抱きかかえたエミリアの軽さに驚き、細くて折れそうな身体にやるせない気持ちが湧き起こる。
エミリアが抱える複雑な事情を知っているが故に、何もできないもどかしさに、苛立ちが募り不満を抱かずにはいられなかった。
(どうしてこんなになるまで、我慢しているんだ。こんなに苦しくなるまで自分を追い込んで)
気持ちに正直に生きるレンは、清らかな心を持つ好青年であった。
それ故に、彼の心は繊細であり、誰にも言えない悩みを抱えていた。
泣いてスッキリしたエミリアは、気持ちが楽になっていた。
乾いた衣服を手に取ると、急いで服を着て身なりを整える。
ふと、小窓から外を眺める。
すると、呆然と立ち尽くすレンの姿が視界に入り、慌てて駆けつけて声をかける。
「レン!ずっとここにいたの?さっきは助けてくれて本当にありがとう。お礼もすぐに言わないでごめんなさい。………ねぇ?レン?聞こえてる?」
エミリアが声をかけても、レンは変わらず呆然と立ち尽くしていた。まったく反応がない状態に、急に不安が押し寄せて、焦燥に駆られるエミリアは腕を軽く叩いていた。だが、触れた先から伝わる冷たい感触に一瞬で血の気が引く。よくよく見るとレンの纏う衣服がひどく濡れていることに気づく。
「え⁈ レン!貴方も服が濡れているわ!どうしよう、ごめんなさい。全然気づかなかった。そうよね、私を助けてくれたんだから濡れて当然よね。本当、自分のことしか頭になかった。嗚呼、もう、私ってなんて馬鹿なの。ねぇ、まずこんな所に突っ立ってないで、寒いから早く中に入って乾かしましょう。私はもう十分温まったから、もう平気よ。さあ、行きましょう!
ねぇ?レン?聞いてる?どうしたのレン?お願い、何か応えてよ!レン!!」
エミリアがどんなに声を上げても、レンは無言のまま、その場から動かない。
辺りは暗く、月あかりだけが頼りであった。
エミリアは、レンの様子を窺おうと覗き込むように顔を見た。
静かに泣くレンがエミリアの瞳に映る。
驚きと困惑でエミリアの顔が青褪めていく。狼狽えながらも、先ずは冷え切った身体を温めようと手首を握り、小屋に引き摺り込もうとしたが、逆にそのまま腕をグッと引かれて抱きしめられた。
予想外の展開に、エミリアは冷静であった。
レンの心からの優しさに触れたような感覚がしていた。
「レン、ありがとう。貴方がいなかったら、私、私ね、」
声を詰まらせて、それでも想いを語ろうとするエミリアに、レンは抱きしめる腕に力がこもる。包まれた腕の中から言葉では言い表せないレンの優しさが伝わり、エミリアは自然と話すのをやめていた。
「もういいよ。無理に話さなくてもいいんだ。…………よかった。本当によかった。俺はもう、大切な人を失いたくないんだ。」
心にしこりがあるレンは、ずっと過去に囚われていた。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
あともう少しです。頑張って最後まで書きますので、よろしくお願いいたします。