93.余韻に浸る間もなく
立ち尽くすライオネルは、幻影に思いを馳せていた。
柔らかな肌に触れた感覚が残る手のひら。
もう一度触れたくて、忘れたくなくて、手を伸ばす。
掴みたくても、掴めない。
消えゆく幻影に、何度も何度も手を伸ばしては、去りゆくものに追い縋る。
手のひらに微かに残る感覚は、思いとは裏腹に、虚しくも消えてゆく。
空っぽになった手のひらを見ながら、そのまま膝から崩れ落ちていた。
顔を両手で覆い、心の叫び声を上げる。
「あーーー、あああ!!!」
絶望の叫び声が謁見室内に響き渡る。
絶望に打ちひしがれて、泣き崩れていた。
うずくまり嗚咽を漏らす。
絶望するライオネルに涙を流すゴードンは、涙を拭いもせず、そのままゆっくりと歩み寄る。
ゴードンはずっと泣いていた。
二人が最後の別れを噛み締めている時から、涙が溢れて止まらなかった。
この十年、親友である三人は、愛する家族を失った悲しみを分かち合い、心に残る深い傷を慰め合いながら、ずっと寄り添い、支え合いながら生きてきた。固く心に誓った復讐を胸に、共に助け合いながら苦難を乗り越えてきた。
エミリアを失った悲しみは、ゴードンも同じであった。
ゴードンとエミリアは、切っても切れないような、腐れ縁である。幼い頃からエミリアが抱える諸事情により、ガバニエル伯爵家に入り浸っていたエミリアは、もはや家族と同然のような存在であった。だから、ずっとこれからも傍から離れない、死ぬまで一緒にいると思っていた。いつものようにふざけて笑って、時には喧嘩もして、楽しく酒を酌み交わす予定だったのにーーー親友であり、家族でもあるエミリアが消えて、心にぽっかりと穴が空いていた。
ゴードンもライオネルのように叫び声を上げたかった。
誰よりもエミリアの苦悩を理解して、運命に翻弄された人生を間近で見守り支えてきたゴードンは、非情で不条理な現実に怒りが込み上げる。けれど理不尽にも程がある現実に、溜息も出ないくらい呆れ返っていた。ライオネルに歩み寄りながら、心の中で不満を呟くゴードンは、泣き顔から、青筋が立つ怒り顔へと一変する。
湧き上がる怒りの感情に決意を固めていた。
(馬鹿馬鹿しい‼︎ 何が青い瞳だ‼︎ リアは何も悪くない‼︎ もう過去の話だろう。こんな馬鹿げた争いも終わったんだから、リアの呪いは、もう解けても良いだろう!リアはずっと、ずっと今日という日を待ち望んでいたんだ。やっと想いを伝えられる日を。それなのに、どうしてだ。なんでこんなことになったんだ。…………だめだ、絶対にリアを連れ戻す。お前は俺達の傍にいなきゃいけないんだ‼︎ だから、俺は何とかするぞ!リアが戻って来られるように何とかしてみせるからな!こんな腐りきった国なんてぶっ壊して新しくするからな!)
床に突っ伏して泣くライオネルの丸まった背中を平手でバシバシ叩くゴードンは、怒りをぶつけるように叱咤激励する。
「ライル!ライル!おい!しっかりしろ!ライル!泣いてる場合じゃないぞ!いいかよく聞けライル、これから二人で絶対にリアを連れ戻すぞ!これから毎日忙しくなる。あの頑固女はちょっとやそっとでは戻って来ないだろうからさ。だから早く泣き止め、この大馬鹿者!」
丸まった背中が小刻みに震え出す。膝を立ててゆっくりと起き上がるライオネルは腹を抱えて笑っていた。
背中を叩かれた衝撃とゴードンの言葉に、ライオネルはハッと我に返り、絶望から立ち上がる。
「くっ、くくく。あははは。お前に大馬鹿者と言われる筋合いはないぞ!頑固女って、酷い言いようだな。殴られるぞ。ふっ、はははは。お前なぁ、ここがどこだかわかって言っているのか?不敬罪にあたるぞ。まぁ、俺が許すけどな。
ありがとう、ゴードン。やる気が湧いてきた。」
「ああ、正気に戻って良かったよ。それより、やる気を出すのは良いけれどさ、不眠不休だけは勘弁してくれよな。」
「は⁈ 言ったそばからこれだ。そんな悠長に構えていたら何年かかると思っているんだ。もたもたしてられないぞ。相手は手強いからなぁ。暫く休みはないと思え。頼んだぞ。」
「はぁ⁈ ………はぁー。あー、はいはい、承知致しました。
くっくくく、あははは。それはそうと、ライルでもあんなでかい声出るんだな。びっくりしたよ。まぁ、お前もまだまだってことだな。」
「はぁ⁈ お前に言われたくない。お前の方が青二才だろう。」
「うるさいなぁー。良いだろう、文句の一つくらい言わせてくれよ。」
「だめだ。俺は王太子で、お前は側近だろう。分をわきまえろ。」
「はいはい。権力を振りかざす王子様は嫌われますよ。」
「うるさい!」
ライオネルの顔に笑みが戻り、ゴードンは安堵の表情を浮かべていた。
エミリアが残した言葉を思い出して反芻するゴードンは、真剣な表情へと変わる。心の中で決意を強めていた。ライオネルも同じく、エミリアの言葉を思い出して、改めて決意が固まる。
『別れも未来への新たな一歩です』
(リア、新たな一歩を踏むから、絶対待ってろよ。素晴らしい未来を見せてやるからさ)
(リア、俺が絶対に変えてみせる。だからそれまで待っていてほしい)
目と目を合わせて頷き合う二人は、拳と拳を突き合わせて不敵に笑っていた。
◇◇◇
エミリアはライオネルと初めて出会ったあの場所に、呆然と立ち尽くしていた。
泣き腫らした瞳で、眼下に広がるネモフィラをただゆっくりと眺めていたが、視界はぼやけていた。
ネモフィラは咲き終わりを迎える頃となり、風に吹かれて揺れる花が、それぞれ互いに寄り添い合いながら強く逞しく咲いていた。けれど下を見ると、根元には咲き終わった花が落ちて、後は朽ち果てる時を待つのみであった。
エミリアの青い瞳から涙の雫が頬を伝い落ちていく。
“青い瞳の呪い”
ロズウェル国の民を守るために、ミレーナが考案した創作話。
当初は民話として民に広まった物語は、今や子供たちの教本となっていた。
そして実は、神話を根底にした話であるが故に、信仰心の強い民は、青い花と同じ色の瞳を持つ女性が王子と結ばれた暁には王子はこの世を去ると、とてつもなく信憑性に欠ける言葉を、まったく疑いもせず真のことのように信じきっていた。
その上、“初恋の人”であると、より一層強く非難を浴びる始末に、通説を覆すのは容易ではないと、身をもって痛感する。
真実を民に広めようと日夜奮闘していたグランド一族は、民が伝承する言葉の重みに圧倒されて太刀打ちできなかった。
神という壮大な壁にぶち当たり、諦めるより他なかった。
エミリアは、宗教や思想、神信仰などの類を一切信じていない。
時には願いを唱えて、祈ることもあるが、断じて神ではなく、あの世にいる母親へ祈りを捧げていた。けれど、ラナには『それもれっきとした宗教の教えです』と言われてはいたが、聞かなかったことにしていた。
(さすがの私でも神には勝てないわよ。ごめんね。あなた達にはなんの罪もないのに。もっと日当たりの良い、空気が綺麗な場所にお引っ越ししましょうね)
そんなこんなで、眼下に広がるこの可憐なネモフィラは撤去することが正式に決まっていた。そして、今日がその撤去日である。
「さようなら、ありがとう」
別れと感謝を伝えるエミリアは、外套のフードを深く被り、後方に控える諜報員に合図すると、一斉に作業を開始する。
あっという間に、ダリアが咲き誇る花壇へと様変わりしていた。
「随分とまぁ、一気に変わったわね。一言でいうとゴージャスって感じかしら。キアラが好きなのも頷けるわね。まぁ、精々頑張るのよ。」
ダリアは、ライオネルの婚約者となるバルツバーク公爵家御令嬢キアラが一番好きな花であった。
エミリアは、変わり果てた思い出の地に、一瞬物悲しげな表情を見せていたが、まるで自嘲するかのように鼻で笑うと、足早に立ち去っていった。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。