80.決戦の時③
長文です。
「母上、お迎えにあがりました。父上も待っております。帝国に、故郷リューシュに戻りましょう。」
ジルアンの言葉に、謁見室は衝撃が走る。傍に立っていたクライシスは、一瞬、事態が飲み込めず、固まっていた。理解の範疇を超える言動に、誰もが唖然として、言葉が出てこない。
しかし、息子と瓜二つのジルアンから『母上』と呼ばれたミレーナだけが、とても穏やかな表情をしていた。優しい眼差しでジルアンを見つめる瞳からは、涙がポロポロと流れ落ちる。涙ながらに言葉を発するミレーナの声は、今まで見てきた悪女ミレーナからは、もはや想像ができないほど、優しく穏やかな声であった。
「どうして、どうして迎えになんて来たの。だって貴方は、私を恨んでいるのでしょう。そうでなければならないのに。
…………ごめんなさい。貴方を捨てて、母親のいない子にしてしまって、辛い思いをさせて、悲しい思いをさせて。
…………謝ったところで許してもらおうなんて思っていない。そんなの重々承知しているわ。だからもう、私のことは忘れていいの。もう忘れて。………うっううう。」
ミレーナは、額を床につけて咽び泣く。
ジルアンはミレーナの真ん前にしゃがみ、両肩を持ってそっと優しく身体を起こした。ミレーナの瞳を真剣に見つめるジルアンは、亡き父の想いを伝えるかのように言葉を紡ぐ。
「何か事情があり、私達の前から突然いなくなったのではないですか?そうですよね?
私の母上は貴方しかおりません。今度こそ母上のお力になりたいのです。」
「……………」
ミレーナは言葉が詰まり出てこない。けれど、神妙な面持ちで俯いている姿から、誰にも言えない事情を抱えているのは間違いなかった。ジルアンは核心に迫ろうと、言葉を継ぐ。
「母上は私が護ります。だからもう我慢しないで下さい。一人で全部抱え込もうとしなくて良いんです。もう一人ではないのですから。今度こそ、私と父上が傍にいます。何があろうとも必ず母上を護ります。」
ミレーナの両肩に手を添えて、真剣な表情で想いを伝えようとするジルアンに、ミレーナの目から大粒の涙が流れる。今まで心につかえていた澱を吐き出すかのように、涙は止まることなく溢れていた。
「立派になったわね。…………貴方と貴方のお父様が、幸せでいられますようにと、毎日、ずっと、ずっと祈っていたわ。…………私は、貴方達に合わせる顔がないの。だからこんな悪魔のような女のことはもう忘れて、お願いだから、今まで通り二人で新しい人生を歩んで。
害悪でしかない私はもう…………ここで死ぬから。」
影を落とすミレーナは、顔を背けてジルアンと目を合わせようともしない。それでもジルアンは、諦めず必死に説得を試みる。けれど、ミレーナはジルアンの想いとは裏腹に、頑なに拒んでいた。
「何を仰っているのですか。これからは、三人で共に暮らしましょう。やっと、やっとその日が来たんです。今日の日の為に、どれだけ苦労したことか。どれだけ待ち望んできたことか。私は彼奴らを倒したのです。もう、母上は自由に生きていけるのです。」
言葉に感情を込めて話すジルアンは、今にも泣きそうな声であった。
ミレーナは、『彼奴を倒した』の言葉に動揺していた。俯いたまま、ただポカンと口を開けて、呆然としている。俄に信じ難い言葉に驚きを隠せなかった。頭の中で何度も何度も繰り返しジルアンの言葉を反芻する。しかし突然、不気味に笑う祖父と父親の姿が、安堵の言葉を遮るように脳裏に浮かび上がる。一瞬で現実に戻されるミレーナは、嘆息を漏らして、どんよりと表情が曇っていく。
ミレーナの心は、幼い頃からずっと父親に支配されていた。生かさず殺さず、いたぶるような状態で、巧妙かつ悪質に支配されていたのである。
クロウネ・サディアブル、“悪魔の鳥”という異名を持つ一人の女性が、これまで誰にも一度も明かすことなく、隠し通してきたサディアブル一族への怨恨を、今、この場で初めて口にしようとしていた。無表情で淡々と話す様子は、クロウネが嫌でも悪を貫いて生きなければいけない、深い理由が隠されていた。
「そんなはずはないわ。貴方のお祖父様は、そんな簡単には殺せない。我が一族は、“稀代の極悪人”が作り上げた卑劣で醜悪な人間しかいない一族なのよ。そんな易々と簡単には殺せない。」
「それでは、お祖父様以外にも、母上を狙う者がいるのですか?ネビル・サディアブルの血を受け継ぐ者が大勢いるのですか?」
ジルアンは亡き皇帝ザシランの手記を頼りに、自国に潜むサディアブル一族は、一人残らず始末していた。そして、今一番権力を有するサディアブルの血縁者、ユニタスカ王国の国王は、拷問で洗いざらい吐かせた後、斬首して殺していた。ジルアンが命令した通り順調に事が進んでいれば、帝国軍が敵を全て捕縛して始末し終えているに違いない。また、もしも敵が他国に潜んでいたとしても、今回の計画により、あらかた有力者達を始末した為、残された者達だけでは、すぐにはどうすることも出来ない。あとは時間をかけてゆっくり始末すれば良いと考えていた。
元凶、一族の頭であるミレーナの父親は、ザシランが生きているうちに暗殺していた。
敵を一掃した今、何もかも全てが払拭されたと思っていた。だから、ジルアンは敵を倒したと断言していたのだ。
「ええ、そうよ。我々は、あちこちで悪行を繰り返して、己の欲望のままに生きているの。
所詮、人間なんて生き物は、私欲の塊で、彼らは自分さえ良ければ、あとはどうでもいいのよ。他人が、どうなろうが知った事ではない、誰が死のうが、自分さえ生き延びれば良い、そんな考えしか持っていない。
ただ、一つだけ、一族の誇り高き悪人の血を絶やさないようにするだけ。偉大なるネビル様の血を、後世に残し続ける。それが、サディアブルの人間として生まれた者に、必然的に与えられる抗えない運命。自由に、思うままに、生きさせてはくれない。一生、生きるか死ぬかの戦いを続ける。頂点に君臨しようとする者達が繰り広げる醜い権力争いの所為で、次から次へと命を狙われ続ける人生なのよ。
生き残る為に、大切なものを守る為に、どんな手段を使ってでも高貴な身分の血と交配させる必要があった。手当たり次第、なりふり構わず漁るような、そんな穢らわしい人間どもばかりなの。
………だから逃げた。悪魔の手の中から、死に物狂いで逃げた。逃げた先で、貴方の御父様に出会った。初めて、人の温もりを知ったわ。本当にあの時間が一番幸せだったわ。」
「ではもう一度、幸せになればいいじゃないですか。母上と父上と私で、三人でと共に生きていきましょうよ。どうしてそんなに頑なに拒否するのですか!母上は、私達が嫌いなのですか?愛してはいないのですか?」
一瞬動きが止まるミレーナは、背けた顔を上げて、ジルアンと目を合わせる。抑えていた感情が堰を切ったように溢れて、嘘や偽りのない、ありのままの言葉が自然と口から漏れる。
もうミレーナではなく、ザシランの母親、クロウネに戻っていた。
「……………愛しているわ。愛しているに決まっているじゃない。貴方の御父様も、ザシラン、貴方のことも。愛する我が子を一日たりとも忘れたことなんてない。まだ赤ん坊だったザシランが心配で心配で、貴方の姿を一目見たくて、隠れて見に行っていたわ。もう、何回も何回も。泣いている貴方を見る度に、名前を呼んで抱きしめてあげたい気持ちを何度も何度も抑えたていたのよ。だから嫌いになんて、そんなこと一度も思ったことがないわ。だって貴方は私の全てだから。愛してやまない、可愛い息子だから。
……………でもね、だからこそ一緒にはいられない。私がいれば絶対に不幸になるから、だから、だから…………私を恨んでちょうだい、貴方を苦しめることしかできないのだから。」
ミレーナは、泣きながら想いを言葉にする。
しかし、ジルアンは時が止まったかのように呆然としていた。ジルアンの瞳からは涙がとめどなく流れて、涙は頬を伝い流れ落ちているが、全く気づいていなかった。
ジルアンを見守り続けていたカイアスは、無性に不安に駆られて、ずっと目が離せなかった。カイアスの目には、ジルアンがミレーナを誰か別の人物と重ねているようにしか見えてならなかった。
変わり果てた姿が、高貴な身分が、悪女である存在が、同一人物と錯覚させる。ただ一つ、目の前にいる女性は、ジルアンが渇望してやまない言葉を与えていた。その言葉が、冷えきった心に温もりを与えてくれる。
様子がおかしいジルアンに、いち早く気づいたカイアスは足が勝手に動いていた。
ジルアンに駆け寄り、「もう良いんだ。もうやめろ。」と背後から抱きついて囁いた。
カイアスの腕をぎゅっと強く掴むジルアンは、声を出して泣き始める。咄嗟にジルアンの頭を自分の胸の中に抱き寄せて、「良いから、泣きたい時は泣け。我慢するな。」と頭を優しく撫でながら、カイアスはジルアンを守ろうとしていた。
カイアスは、胸で泣くジルアンを抱きしめながら、ミレーナに視線を向ける。祖父を想像しながら、柔和な表情で「クロウネ、やっと君に会えた。」と、絶妙な言葉を口にした。
カイアスは、渾身の演技を見せた。
「ヒルマン」
愛する人の名を声にしたミレーナは、涙を流しながらも自然と顔から笑みがこぼれていた。
いつもいつも読んで頂き、本当にありがとうございます。
投稿後から度々修正をして、すみません。
次話は、表題でもあります『青い花と悪魔の鳥』について、エミリアとクロウネを中心に書いていけたらと思っていました。
そして、しばらくの間、暗い内容が続きます。
これからも読んで頂けたら嬉しいです。