剱凛
どっちがお姉ちゃんか分からない、と言われても動じなくなったのはいつからだろう。
「お姉ちゃん」
「蓮」
椅子に座っていた私は、縋ってくるような妹を膝の間で受け止め、背中を抱くように撫でる。お腹に頭を当ててくる妹は、もう高校生だけれど物心つく前から何も変わらない様子だ。
この子はこんな調子で大丈夫なのかと将来が心配になる。
けれど将来が心配されているのは私の方だった。
大人は学校の成績でしかものを見ない。同級生は顔と能力でしかものを見ない。
器量がよくて優秀な蓮は誰の目から見ても『安心な子』であるらしかった。
少し考えれば、安心なのは今だけで将来のことなんて何もわからないと思うけど、周りの人はだいたいそんな風に考えているみたいで、気味が悪いとさえ思う。
妹に嫉妬している、とも言えるかもしれないけど。
蓮は私から見ても、凄く優秀な子だった。人から聞くと、くりっとした可愛い目と低い身長で、物静かでどこか冷たい雰囲気のラーテル系女子らしい。ラーテルはなんか強い小動物だとかって話だけど、それは動物オタクの友達の変なたとえだった。
か弱そうに見えてキリリと強い。そんな人物評価を受けているけれど、私にとって蓮は昔から何も変わっていない愛玩小動物そのもの。
というか、私と他の人相手で態度が変わる。
気安く話しかけることもできない孤高の存在、なんて良いように言われていても、ただ私以外の人間に興味がないだけのようだった。
「相変わらず甘えん坊だね」
「うん」
特に悪びれるでもなく蓮は私のお腹に頭をすりすりと甘えるように擦っている。
何を考えているのかはよくわからないけれど、私がたくさん愛されているということはわかっていた。
この調子で大丈夫なのだろうか。ということは常々考えるけれど、私自身はそれほど蓮のことを心配していなかった。
薄情なことだが、私はそれほど蓮のことを心配に思わない、どうでもいい、とさえ思っている。
「私のこと好きだね」
「うん」
のそのそと動きながら、お腹に頭を埋めるように抱き着いてくる。
昔からの習慣のようなもので、煩わしいと思ったことも一度や二度ではないが、それさえも慣れて何かを思うこともなくなった。
何かを言うのもはばかられる、というのも蓮は私の言うことならなんでも聞きそうだから、暖簾に腕押しなのだ。命令することも疎ましく思うこともない。
ただ、ちょっと試したいとは思った。
「蓮は、私が死ねって言ったら死ぬ?」
「……ん、お姉ちゃんが一緒なら」
「ん、私は嫌だなぁ」
顔を上げた蓮は、少し恨めしそうな顔を見せた気がした。不満な表情は、まるで私と一緒ならもう死んでしまいたいと言わんばかりで、少し驚く。
蓮がどれくらいの気持ちで私と一緒にいるのかはわからないし、私が高校を卒業して家を出るようなことになったらどうなるのだろう、とか考えたりもする。どうでもいいことだから心配はしないけれど、単なる興味として。
少しムキになっている自分がいる、っていう自覚はある。
みんなから、私よりしっかりしているという蓮を困らせてやりたい、という気持ちが、いつかこの子に嫌な気持ちをさせられないか、という風に考えさせる。
「蓮はもっとしたいこととかないの? 私の漫画みたいに」
「……ない」
「なんかあった方が良いと思うよ」
心配しているわけじゃないと思うけど、私はそんな風にアドバイスをしていた。
私がちょっとお人好しだから、だと思うことにした。
――――――――――――――――――――――――――
初めて蓮を見た時は、何を思っただろう。
忘れられるはずもなかった。まだ物心もついていない時のはずなのに、母に抱かれた自分と同じような存在が、私にとって大事な存在になるということを強く言われたような気がした。
その存在を疎ましく思ったことも、一度や二度ではない。妹の方が甘やかされる、どこにでもあることだけど、それが少しは嫌だった気がする。
ただ、それでも私はうまく立ち回っていたような気がする。
蓮に何度も冷たく当たったけれど、母や蓮のことを嫌いにならないでいることができた。
会話は捗らないけれど、家族の中ではちゃんとやってるし、蓮に好かれているし、姉としてきちんとやれているつもりだ。
蓮のことを思うと、そんな昔のことを思い出してしまう。今も昔もあまり変わっていないから。
昔から手のかからない子だった。私にくっついてくることはあったけれど、ワガママは言わないし、私が嫌がれば遠慮するようなところがあった。
今、蓮を見て思ったことは、驚きだった。
「剱はコーラで良かった?」
「うん。ごめんね、春田」
コンビニの前にたむろする四人の女子高生のうち、一人が蓮だった。
友達から受け取ったコーラのペットボトルを開けるとらっぱでいくらか飲んで、それを鞄に入れる。
さっと髪をかき上げて、首を鳴らしているところを他の友達に肩を組まれる。
「剱さん、写真撮ってくれる。レイちゃんが一緒に写真撮りたいって」
「いいけど」
あんな風に友達ができたということを喜べばいいのだろう。
中学の義務教育と違って高校生だ、あんな買い食いもおかしなことではない。私だってする。
急に肩を叩かれて、私は思わず振り返った。それは、一緒に隠れて見ている友達の四阿だった。
「なー? 蓮ちゃん普通にやってるでしょ」
「…………うん、まあ、普通の妹だから普通にやってるだけ、って話、だ」
「その割にはめちゃくちゃ動揺してるじゃん。いや凛が話す蓮ちゃんはいっつもそんな感じだから、ちょっと予想してたけどなー」
たった一人の兄弟と言っても、私は蓮の生活のことを考えたこともなかった。
蓮と一緒に遊ぶこともなければ、蓮がどんなことをしているかなんて想像もしなかった。
今はノリよく横ピースなんてして一緒に写真を撮っているし――笑っている。
――私の前で、蓮が笑ったことはあっただろうか。
「……四阿、ごめん、帰るわ」
「……おー。ま、あんま思い詰めんなよー」
言われても、思い詰めていた。
これ以上は見てられないと思って逃げているのに、思っているのは蓮のことばかりだった。
何もかもがモヤモヤしている。
ただそれでも、気持ちをまとめていくと、私の疑問は一つになった。
私は、蓮に好かれているのだろうか?
―――――――――――――――――――――
蓮が生まれた時のことを考えて、蓮と一緒にいた時のことを考えていた。
不変、なんてあるはずがない。それなのに私にとって蓮は不変だった。生まれた時からほとんど変わらない私の妹だと思っていた。
そんなわけがない、私の前でだけ変わらないようにして、ずっと蓮は変わっていたんだ。
もうあの子も高校生で、友達を作って自由に遊んでいる。そもそも、中学の時から友達と遊んだり、なんてことは何度もあった。それなのに、どこかで蓮は私の前で見せる姿と変わらない何かを持ち続けていると思っていた。
ただ、今日コンビニの前にいた蓮は、その私の知っている全ての蓮と合致しない、私の知らない、予想だにしなかった姿をしていた。
私は、不安を感じていた。私が思う蓮は、本当は全く違うんじゃないか。
蓮が私の前で変わらない振りをしていて、実は蓮が私に付き合っているだけなのかもしれない。
蓮は私のことなんて全然好きじゃないし、どうでもいいと思っているのかもしれない。
私が思っているように、蓮も私と一緒にいる習慣を惰性と慣れで続けているのかもしれない。
「お姉ちゃん」
「っ、蓮」
いつものように、蓮が椅子に座っている私の膝の間に潜り込んで、お腹を頭に当ててくる。
全くいつも通りの仕草だけれど、私はその背中を同じように撫でることはできなかった。
「蓮は、……私の事、どう思ってる?」
「……え? お姉ちゃんのこと……大好きだよ?」
「私は、……、蓮が、信用できない。今日、コンビニで友達と楽しそうにしてる蓮は私の知ってる蓮と全然違った。蓮は私に嘘を吐いているんじゃないかって」
そう言い切ると、蓮は不思議そうな顔をした。
――冷静に考えれば、その反応が普通だと思う。
私が知らなかっただけで、蓮にとっての日常はそうだったから、それを今更言われたところで蓮は訳が分からないだろう。私が、蓮のことを知らなかっただけなのだから。
でも、蓮はばつが悪そうに、恥じて顔を背けて言った。
「……見たんだ」
「見た」
「……それは、その、お姉ちゃんの前では、可愛い妹をしてたから……」
「……演じてたってこと?」
「……うん」
言うと、蓮はにへらと照れ笑いを浮かべた。
――そういう風に笑うって、知らなかった。
「……そう、なんだ」
「…………、幻滅した?」
「いや、なんで、って思った。私の前でそんな演じなくても」
「……だって、好きだから。好かれたくて」
「……あ」
好きな人の前では良い恰好をしたい、という感情は誰だってあるだろう。それは私にもわかる。
「え、じゃあそんなに?」
「うん」
「……あー、そういうことなんだ」
それを信じられるかどうか、私にはまだ判断に困る。
まだ蓮が私に嘘を吐いている可能性だってある。姉妹の仲を円滑にするために、惰性と慣れで、飄々と私を黙くらかしている可能性。
「……そんなに私のことが好きとは思えない」
「なっ、なんで」
「だって……蓮のお姉ちゃんだから」
「私は……、私は本当に」
それは、それとして、私は蓮の体をようやく撫でることができた。
「私はこの時間、蓮を励ます優しいお姉ちゃんだと思っていたから、演技されてたっていうのはあんまり嬉しくない」
「……ごめんなさい」
「でも、この習慣がなくなるのは……」
「それはイヤ! 私も、この時間しかお姉ちゃんと一緒じゃないから、これはずっと……!」
急だなぁ。蓮はこんな風に表情がころころ変わってしまう子だったのかと発見に、胸が少し高鳴った。
会話が足りなかった、というだけの話かもしれない。
「このまま、ずっと……」
蓮の言葉に、頷きそうになるけれど、それは思いとどまった。
私が大学に入ったら、一人暮らしすることだってありうる。第一志望の大学ならそうなる。
このまま、ずっと、というわけにはいかない。
「同じ家にいる限りはね」
「……うん。ワガママは言わない」
「良い子だね」
「同じ大学に行くから、一人暮らししたら一緒に暮らしたい」
「……う、うん、わかった」
蓮はこんなにやる気のある子だったろうか。まっすぐ言い放った言葉は、その結論がずっと前から出ていたことを匂わせる。
でもまあ、それでいいかもしれない。
きっと、これからの蓮のことを思うと、今までよりも面白いから。