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雨降り商店街に広がれブルー・ハワイ入道雲

 明美からドタキャンのラインが届いたのは、美保の乗る京阪電車がちょうど淀屋橋駅を出発した、その瞬間のことだった。

 


(え。なんで!? ど、どうしよう)

 スマホの画面を見つめたまま、美保は思わず腰を浮かす。

 隣の老婦人に横目で見られ、慌てて着座するが顔にかっと熱が集まった。

 自分でも分かるくらい、顔が赤くなっている。

 ごまかすようにリュックに顔を押し付けて寝たフリをするものの、心音が体を突き破って外に溢れてしまいそうだった。



 明美から「次の休み、うちの地元に遊びにこん?」と、誘われたのは先週末のことだ。

 美保はこの春、進学のために関東から大阪に出た。

 友人はおらず、そもそもが人見知り。大学にも親しい友人は少ない。

 明美は美保にとって貴重な友人の一人だ。

 明美は大阪生まれの大阪育ち。美保にとって、大阪の大先輩。

 そんな明美に誘われたのだから、美保は一にも二にもなくOKを出した。

 明美が家族と暮らす町には大きな商店街があり、野菜でも服でも何でも安いのだ……と、常々聞いていた。

 商店街という言葉には、魅力的な響きがある。

 スーパーではなく、八百屋、肉屋、魚屋、という響きもいい。

 大きなカバンを持って遊びに行くね。と意気込んで約束した。

 約束通り一番大きなリュックを背負って、ちょっと早めに家を出た。

 乗り換えに戸惑いつつも私鉄に乗り込み、あとは目的の駅に降りるだけ……となったその瞬間。

『ごめんな、遠距離の彼氏が急に帰ってきたから、今日は一緒にいかれへんわ』

 と、歌うように明るい文面が美保のスマホに届いたのである。


『次は千林、千林です』


 寝たフリを続けてる間に、電車は目的地の駅名を告げる。

(ど、どうしよう……)

 伏せていた顔を上げ、美保は眉を寄せる。

 窓ガラスの向こうには、住宅街らしい風景が見えた。

 今年の梅雨は長いようで、7月半ばを過ぎてもまだじとじと降っている。

 ずっと遠くの空には青い色も見えるので、そのうち晴れるのかもしれない。

 しかし今は重い雲がかかり、立ち並ぶ屋根をしっとりと濡らしていた。


(帰ろうかな……でも)


 がたん。と大きく揺れて電車が停まり『千林、千林』と駅名を告げる。

 ここでは降りる人が多いのだろう。隣の人もその前の人もせわしなく立ち上がっていく。だから美保も思わず流れについて、ホームに降り立っていた。


『駅の改札一個しかないし。出たらすぐ商店街やから、迷わへん思うわ。一人で歩いててもおもろいし、なんか買い物とかして、ゆっくりしてってな』


 ラインを見れば、罪滅ぼしのように明美からのラインが続々と入ってくる。


『暑かったら、商店街抜けたところにかき氷屋さんあるから、そこいってみて。あと八百屋、安いから。ひとり暮らしやろ。色々買ってみて。絶対明日埋め合わせするから、ほんま、ごめんな』


 ごめんね。のスタンプと明るい絵文字。

 美保はそれを見つめたまま、改札を前に固まることとなった。

 明美のいうとおり、改札を抜けた先にはアーケードがある。

 駅を抜ければ、すぐに商店街になるようだ。

(どうしよう……このまま……駅員さんに説明して……逆向きの電車に乗って帰ろうかな……)

 美保が怯えている間にも、後ろからどんどんと改札に向かって人が押しかけてくる。

 逆に改札に入ってくる人もいる。改札の真ん前に立っていた美保は、サラリーマンに押され、子供に弾かれ、右へ左へ。

(か、帰えれ……ない……)

 美保はその波に押されるように、改札に切符を吸い込ませていた。



(商店街……)

 覚悟を決めて改札を出れば、そこは賑やかな商店街だ。

 目の前には薬局。丼屋さん、居酒屋。

 美保はまるで誰かと待ち合わせているようなふりをして、わざとらしく腕時計を見る。時刻はまだ11時になったばかり。 

 昼前だというのに、商店街には多くの人が行き来していた。

(やっぱり、明美ちゃん、いないなら、帰ろうかな……)

 このままもう一度改札を抜けて電車に乗れば、12時前には帰宅できるだろう。

 しかし帰ったところで買い置きのインスタントラーメンを食べて昼寝するくらいしか、やることがない。

(そ、それなら……)

 美保は自分の足をじっと見つめ、勇気を振り絞って一歩、商店街に足を踏み出した。

(10分だけ、見てみようかな……嫌になったら、すぐ帰れば、いいし)

 商店街の人波に紛れて歩き始めれば、両脇には色々な店が立ち並んでいた。

 食器屋さん、薬局、お惣菜屋さん、無造作に服がぶら下がる洋服屋。

(あ。八百屋さんだ)

 しばらくすすめば、昔ながらの八百屋が目にとまる。

 地面に置かれた段ボールの上に色鮮やかな網カゴが重ねられ、その中には野菜や果物が山のように盛られていた。

 八百屋には大勢の女性が群がっている。中には美保と年齢の変わらない人もいるようだ。

 道向いのうどん屋さんに、堂々と入っていく男の子もいる。

 よくよく見れば高校生の女の子も、たった一人で胸を張り堂々と歩いている。周囲のことなど、何も気にもしない顔をして。


(みんな……すごいな)


 一歩、歩くごとに足が重くなった。

 一歩、進むごとに心臓が掴まれるように痛くなる。


(大丈夫、大丈夫……)


 誰も見ていないはずなのに、妙に気恥ずかしい。

 あの子、一人で歩いてるよ。なんて幻聴が聞こえてきそうだ。

 一人きり、ぽつりと歩く自分の姿が商店のガラスに写って顔が一気に熱くなる。

 とん。と肩に誰かの肩が触れ、美保は思わず路地裏に逃げ込んでいた。

 細道には屋根はなく、美保は細い雨に顔を濡らす羽目となる。

(傘、傘、傘)

 慌てて傘を広げ、上半身を隠すように低い位置に下げる。顔が隠れたことで少しだけ、安堵した。

 真っ黒い傘は美保の顔も視界も隠してしまい、世界は雨の音だけになる。

 ぱたた、ぱたた。と、傘の上で大粒の雨が弾け、靴をじっとりと濡らしても、美保はその場を動けなかった。

(この癖……治そうと思って、大阪に来たのに)

 情けなさに、美保の鼻の奥が痛くなる。涙を飲みこむように必死に堪える。ぐっと傘を握る指に爪が食い込み、ぴりりと痛む。


(……人見知り、ちっとも治らない)


 美保の人見知りは、筋金入りだ。

 小学生の時は、一人で通学もできなかった。

 高校生まで、本屋さんに一人で入ることすらできなかった。

 先生にも親にも「何が理由なんだ」と聞かれたが、そんなこと、美保の方こそ知りたかった。

 ただ、一人で知らないところへ行くのが怖い。

 一人で見知らぬ店に入るのが恐ろしい。

 人の目が気になって、仕方がない。

 こうなれば、荒治療でも外に出すしかしょうが無い。可愛い子には旅をさせよだ……と、母が言いだしたのは美保が高校3年生の頃。

 東京じゃだめだ。近すぎる。どうせなら遠くへ行きなさい。いっそ、大阪へ……。

 それを聞いて美保は顔面蒼白となったものだ。大阪なんて、テレビや漫画でしか見たことがない。

 実家から追い出されるように、大阪の大学に通いはじめて早数ヶ月。

 いまだに一人で外食ができない。学食だけは、なんとかクリアできた。その程度の成長ぶり。

 買い物はできるが、相変わらず一人で出かけるのは苦手である。

 明美には強がって、あの店にいった。その店にもいった。などと嘘をついてきた。

 母にも、一人でレストランに入った。などと嘘をついた。

 この数ヶ月、泡みたいな嘘で身を固めてきたのだ。実際一人になってみれば、嘘はほろほろと解けて消えて、いつもどおりの美保が顔を出す。

(やっぱり、無理……)

 情けなくも足が震えかけた、その時。


「なあ、ごめんごめん。ちょっとええかな」


 明るい声が美保の前から響く。

「地下鉄の駅って、どっちやろか。細道に出たらわからんようになってしもて」 

 恐る恐る傘を持ち上げると、年配の夫婦が美保の前に立っていた。

 声をかけてきたのは人の良さそうな女性。

 二人共買い物にきたのか、梅の実がみっちり詰まったビニール袋を腕にかけていた。

「これ? そこの八百屋で安かってん。梅シロップ漬けようおもて。よおさん買ってしもうて」

「うちらな、お酒ダメやねん。シロップならジュースになるしなあ」

 にこにこと女性が言えば、男性も続ける。その明るい声は美保の心を少しだけ軽くする。

 爽やかな梅の香りは、梅雨の香りでもある。

 雨の日に嗅ぐ梅の香りは特別な匂いがする……と教えてくれたのは、ふるさとに住む祖母だった。

 その懐かしさに、美保の体からゆっくり緊張がほぐれていく。

「で、駅やけど……」

「わ、私も」

 人の良さそうな女性につられて、美保の口から声がするりと抜け出した。

「……わ、私も、あの……遊びに来ただけで、わからなくて……すみません」

「あら。ほんま、ごめんな。地元の子かなー思ってたわ」

 からからと、夫婦は笑って美保に手を振り去っていく。それを見て、美保の腹の奥の方がきゅっと引き締まる感じがした。

 顔を上げれば、そこは細い細い道だ。

 まるで迷路のようにうねうねと、道は続いている。

 シャッターの降りた飲み屋さん。レトロな喫茶店。そんな細道を雨に打たれつつ急いで歩く、サラリーマンに、サンダル履きの中年女性。

 気がつけば周囲には買い物客が溢れている。

 手にはビニール袋や、段ボール。わいわいと喋りながら歩く人、一人で黙々と荷物を運ぶ人。

 しかし誰一人、美保を見る人はいない。

 

(……私、地元の子みたいって)


 わけもわからず顔が熱くなり、美保は唇を噛み締めた。

 美保は自分の手をじっと見つめる。その手は、多くのお店の扉を掴みそこねてきた。

 行きたかったお店。食べてみたかった料理。全てを諦めてきた手のひらだ。

 扉一つ押せない自分の手が、これまで大嫌いだった。

 

(地元の子、かあ)


 手と足、同時に動かすような不自然な歩き方で、美保は一歩、進む。

 明美はこの町を「裏路地の多い町」と称した。

 賑やかな商店街を一歩ずれるだけで迷路のような道が続く。古い家の軒下で猫が鳴き、くねる道にはスズメが跳ねる。

(ちょっと、探検……しよう……かな)

 雨は小雨に変わりつつあった。

 もう一歩、美保は進む。美保の一歩は他人から見ればただの一歩だ。しかし美保にとっては、大きな一歩だ。

 そのことを、美保だけが知っている。

 

「あの、ナス……と、スイカとトマトと」


 美保は商店街に戻り、目についた八百屋に、思い切って近づく。

 地面に置かれたダンボールの上に並ぶのは、季節の野菜と果物……そして梅の実。

「それと、梅も、ひとふくろ、ください」

 買い物客におしくまんじゅうのように押されて弾かれて、ようやく手に入れたのは袋に詰まったたっぷりの野菜。

「はい。じゃあ……600円ね。梅は完熟やから、袋、別にしとくね」

 安い、と驚く美保に店員は何事もない顔で袋を手渡す。もう、後ろには次の客が待っている。

「あ、ありがとうございます」 

 店員から渡されたずっしりと重い袋を手に、美保はスマホをちらりと横目にみた。

 明美から届いたラインには、美味しいかき氷。と書かれた店の地図が載っている。

(入ったり、できないけど……見るだけ。見るだけ)

 気持ちは軽くなったが、これまで飲食店に一人で入ったことなどない美保である。

 熱でも出たようなふわふわとした気持ちを引きずったまま、歩く。

 まるで夢の中を歩いているようだった。手にした野菜の重さも、やっぱり夢の中のよう。

 

(……ここ、かき氷屋さん)


 横道に逸れ、再び雨の裏路地に迷い、人波におされ、やがて辿り着いたのは昔ながらの甘味処だ。

 アイスクリーム、ソフトクリーム、冷やしコーヒー、冷やし飴。

 そんなメニューが表に並び、奥には店内飲食のスペースが設けられている。

 渋い藍色の暖簾が、雨に湿気って揺れている。

(……ここかな?)

「お一人?」

 気付かれないように傘で顔を隠して覗こうとしたのに、目ざとい店員にすぐさま捕まった。

 あわあわと慌てふためく美保に気づかない店員は、

「そこ、奥。開けてあげてな。一番奥の席ね、はい。どうぞー」

 などと言って言葉で美保の背を押すのだ。

 慌てて傘を畳んで中に入ると、あっという間に椅子の上。すとんと腰掛け、美保は恐る恐る顔を上げた。

 壁にはべたべたと、メニューが貼り付けられてる。

 プリン、氷、コーヒーゼリーにソフトクリーム。ぜんざい、みつまめ。ここには全ての甘味が揃っているようだった。


「雨、降ってるから、珍しくすいてるわ」


 どすん。と衝撃を感じて美保が顔を上げると、すぐ隣の席に女性と中学生くらいの男の子が座る。扇風機を自分の方に向けると、二人は歓声を上げた。

「いっつも行列できるのに、ラッキーやな」

「おかん、俺、イチゴ練乳に白玉」

「ええな。なら、おかんも同じでええわ。あ、あんこ、いれてもらお」

「イチゴにあんこって変やん」

「ええやん。好きなんやもん」

 二人は一人で座る美保など目にも入っていない。

 手を振り上げて店員を呼ぶ。二人の注文を受けた店員が美保を気にするようにちらりと、見た。

「お姉さん、何にする?」

「あ……ぶ……ブルーハワイ……」

「ソフトクリームとか載せられるけど」

「そ、それで」

 ブルーハワイを注文したのは、それが偶然、目に入ったからだ。

 氷はイチゴもメロンもなんだってある。トッピングにはプリンもあんこも、白玉もある。

 しかし頭が真っ白になってしまい、最初に見えたブルーハワイの文字しか目に入らない。

(なんで……入っちゃったんだろ)

 まだ一人で店に入るなんて、早すぎる。変だと思われていないか。

 頭の中でくるくる渦巻く恥じらいを止めたのは、涼しい風だった。

「はい、おまたせ」

 5分もたたず、店員が再び美保の前に。

 ビニール張りの赤机に載せられたのは、透明でレトロなかき氷皿。

 上にはこんもりと氷が盛られていて、わざとらしいほど真っ青なシロップがかかっている。 

 さらにその上には、入道雲のようなソフトクリームがぼってりと。

 それを見て、美保の緊張がふんわりと溶けた。

 ……なんて、綺麗なかき氷だろう。

「ブルーハワイもええな」

「おいしそ」

 隣の声が聞こえて振り返ると、二人がにこりと頭を下げる。美保も慌てて、小さく頷いて見せた。

 恐る恐る氷にスプーンを差し込むと、さくりと心地よい感触が伝わってくる。

 荒い氷には、甘くて少し酸っぱいシロップの味と、柔らかく固まったソフトクリームの甘い味。濃い青の色はスプーンですくうと、まるで透き通るような青になった。

 美味しいなあ。と隣の親子は言い合いながら、赤いかき氷を食べている。

 しゃくしゃくと、3人の机からは涼しい音が響く。

(溶けないように、全方向から、ゆっくりと……)

 溶けていく氷を細長いスプーンで掘りながら、くるくると皿を回して食べていく。ぼてりと皿の上に溢れた氷をすくい上げて、溶けないうちに口に運ぶ。

 ソフトクリームは柔らか甘く、氷はしゃきっと鋭い冷たさだ。ちょうど2つの中間点は、不思議な触感と甘酸っぱさでなんとも言えない味だった。

(美味しい、冷たい……美味しい)

 夢中に食べること、10分ほど。

 やがて空っぽになったガラスの皿には、夏が溶けたようなブルーハワイの名残だけ。

 それは蛍光灯の光を受けて、きらきらと輝いていた。 



 外に出ると、雨はすっかりあがっていた。

 地面はべちゃべちゃなのに、空は真っ青。セミが一斉に鳴きだして日差しがカッと肌に張り付く。

 時刻は13時近く。もしあのまま帰っていれば、カップラーメンでも食べて自己嫌悪に陥ってたはずである。

(今日の私は違う私……)

 美保は偶然見つけたコロッケやでコロッケを買う。

 通りすがりのパン屋でパンを買う。

 まるで地元の子のような顔をして、さんざん重くなった荷物を眺めてにやりと笑う。

 そして、スマホを二度ほどタップした。


『……美保。どうした?』


 数コールのあと、聞こえてきたのは懐かしい母の声だ。

 嘘を重ねる自分に嫌気が差して、最近は母に電話もしていなかった。

 懐かしい声を聞いて、美保は唇を噛む。すると、ブルーハワイの甘い味が蘇り、それだけで不思議と心強くなるのである。

「お……おかん、久しぶり」

 思い切って口に出したのは、人生で初めて使う言葉だった。

 隣の席の母子の顔を思い浮かべ、まるで大阪の子になりきったように。

 口から出た3文字に、美保は思わずにやけ顔をしてしまう。

「……って言ってみたかっただけ」

『まあ美保、すっかり大阪の子になって』

 電話の向こうの母親の声は明るい。

 それは夏の日差しのような声だった。

「今度、大阪遊びに来てよ。かき氷食べに行こ」

『美味しいお店あったの?』

「うん。さっき、ついさっき入った」

 多くの人が行き交う商店街も、もう怖くはない。

 荷物を持って、堂々と、美保は胸を張って歩く。

 商店街の向こう、アーケードを抜けた先。切り抜いたような空はびっくりするくらい真っ青な夏空で、もこもこと入道雲が広がっている。

 ……先程食べたブルーハワイとソフトクリームのようだった。

「大阪、案内するから……あ、それと。梅シロップの作り方を教えて。梅の実買っちゃった」

 美保の声は、空を走る蝉の声に負けず明るく響く。

 それは、梅雨明けにそっくりな明るさだった。

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