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島図書館で、駆け落ちを

 二人の目前には、まるでギリシャの神殿のような立派な建物がそびえ立っている。



「……はあ」

 夕日を浴びて赤に染まる柱を見上げて、武志はため息を押し殺す。 

「テレビで見たことある、ギリシャの神殿みたいやなあ」

 武志の隣の少女……三津もうっとりと呟いた。

「作られたん、明治時代やって」

「三津ちゃん、勉強したん?」

「ん。昨日な」

 三津の瞳は細く、長く、目尻が桃色に染まっている。

 夕日の色に交じると、ぞっとするくらいきれいだ。遠慮のない目線で見つめていることに気づいた武志は、慌てて目をそらした。

「柱とか、屋根の形とか、すごいな。ほんまもんの、神殿みたい」

 建物を支えるのは太い柱だ。その上には大きな屋根。石の壁には難しい装飾が施されている。

「あがろ」

 反らした首が痛くなったころ、三津が率先して階段に足をかけた。

 階段を上がれば、アーチ型の入り口が二人を出迎える。

 中からは、淡いオレンジの光が漏れている。

 階段の隣に立っている丸いランプには、白い光がぽわりと灯りゆっくりと二人の足元に夜が近づいていた。

「すごい、これが図書館なん? 中学の図書館とはぜんぜん違うな」

 三津は白い首をくいっと上げて、高い高い場所を見上げる。

 ……扉のちょうど上には、古臭い文字で『館書図阪大』と刻まれていた。

「館書図阪大?」

「大阪図書館」

 武志がたどたどしくつぶやけば、三津がおかしそうに武志の顔を覗き込む。

「逆に書いてるんやで」

 二人の目の前にそびえるのは、中之島にある大阪府立図書館である。



「この建物、明治時代にお金持ちが作ったんやって……15万円って、今の金額やったらいくらなんやろな」

 三津は勉強熱心だ。昨夜勉強したという図書館の概要を、すっかり暗記してしまっている。

「このあたりは、こういう建物が多いんやって」

 そして三津は、踊るように建物の中に入っていく。武志も覚悟を決めて彼女のあとを追った。

 中には警備員がいて、武志の体に緊張が走るが、咎められることはない。軽く会釈されただけだ。

 三津といえば平然としたもので、紺色のスカートをゆるやかに動かして、堂々と歩く。

 歩くたびに、背中までのびた髪が左右にゆらゆら揺れていた。

「三津ちゃん、髪のびたね」

「3年伸ばしたから」 

 図書館の中に一歩、足を踏み入れると三津はひたりと足を止めて目を細めた。

「タケ君。みて、すごい、階段。お城みたい」

 図書館の中に入れば、すぐ目の前に幅広の階段が見える。

 左右にどっしりとしたライトが添えられた階段だ。幅が広く、一段はそれほど高くない。そのせいで、余計優雅に見える。

 手すりは木の装飾が施され、円を描くように上に向かってゆっくり続いていた。

 三津の言う通り、お城の階段のようだ。

 顔を上げれば天井は丸いドーム。一番上にはステンドグラスが輝いている。

「うわあ……」

 まるで図書館とは思えないその場所に、二人でぽかんと立ち尽くす。と、後ろを通りすがるサラリーマンがわざとらしい咳払いをした。

「……すんません」

 武志は慌てて頭を下げて、三津の細い背中をそっと押す。

「三津ちゃん、奥いこ」

 奥に進めば、古い学校の校舎に似た風景と小さな本棚、貸し出しコーナー。

 そこを、サラリーマンらしいスーツ姿の男女が数人、行き来していた。

 別の場所に進めば、そこには郷土史らしいコーナーや、背の低い本棚も見える。

 それを見て三津は幸せそうにため息を付いた。

「本の匂いする。本の森みたい」

「……うん」

 時刻は夕刻だ。平日のこの時間、武志たちのような中学生はどこにもいない。

 何か言われないか、叱られないか。そう考えるだけで武志の掌に汗が滲み、気もそぞろになる。

(迷ってしもたから、遅なってもうて……)

 そわそわと、武志はリュックを握りしめた。

 駅から図書館まで、本来なら歩いて数分。しかし道を間違えて、時間を食ってしまったのである。

 そんな武志の心配に気づきもせず、三津は呑気に廊下を歩き、本棚を除き、吊るされた新聞を興味深そうに見つめている。

 半袖のブラウスから漏れた腕は白くて細い。腕に巻かれたビーズのブレスレットは、昨年の夏に武志が贈ったものだ。

 肩にかけたカバンに吊るされているマスコットは、5年前、二人で一緒に買ったもの。

 三津には、二人で過ごした時間が刻まれている。それを見て、武志は切なくなる。

 二人は幼稚園のときからずっと一緒だ。離れるなんて考えたこともない。ずっと一緒にいるものだと、そう思っていた。

「三津ちゃん、ほんま良かったん」

「何?」

 分厚い本を一冊手にとって、三津は首をかしげる。

「か……駆け落ち」

 口にするだけで、武志の唇が震えた。たった4文字が恐ろしかった。

 しん、と静まり返った図書館に自分の声が響いた気がして武志はきゅっと口を閉じる。

 しかし図書館員もサラリーマンも誰も気づいていない。二人に目もくれず、人々は通り過ぎていく。

「……三津ちゃん、何で俺と駆け落ちしてくれよう思ったん」

「タケ君のことが好きやから」

 三津はきれいな声でさらりと言う。そして目を細めて笑った。

「それだけやと、あかんの?」


 一ヶ月前、急に三津の引っ越しが決まった……父親の転勤である。

 生まれてずっと京都の伏見に暮らしてきた三津が、テレビでしか見たことのない東京に行ってしまう。

 それから二人はいろいろな策を練り、色々抵抗し、戦った。

 しかし中学生の二人ができることなど、数少ない。

 引っ越しの日まであと少し。三津の荷物はダンボールに詰め込まれ、彼女の部屋がどんどん広くなっていく。小さな弟は一足先に、すでに東京に行ってしまった。

 あと3度夜がくれば三津はいなくなってしまう。


 どうしようもなくなった武志は昨夜、思わず言ったのだ「駆け落ちしよう」。


 駆け落ちと言えば遠いところにいくのがセオリーだ。だから大阪にしよう、と安直に行き先は決まった。

 伏見からほとんど出たことのない二人にとって、大阪といえば京阪線の最終駅、淀屋橋までしか想像できなかった。

 その先に行けば梅田、心斎橋や難波などもあるのだろうが、それはテレビでしか見たことがない。

 実際、淀屋橋も行ったことはないが、京阪線の駅名では良く知っている。

 だから淀屋橋で駆け落ちしよう。と決まったのである。


「ほんま、素敵な図書館やね」

 三津は感情が、顔に出にくい。

 色白で瞳が黒く、線が細い。物静かで焦ることも怒ることもない。クラスメートにも「近寄りがたい」と、恐れられている。

 すぐに焦って笑われる武志とは正反対だ。

「ここの図書館、いっぺん来てみたかったんよ。ありがとな、タケ君」

 人の少なくなった図書館をゆっくり歩きながら、三津は笑う。

「でも本、借りることはできんなあ……ビジネス書ばっかりやもん」

 借りたって、返しに来ることは難しい。わかっているのに、三津はそのことを口にはしない。

 ゆっくり、ゆっくり、アンティークな図書館を歩き、階段をのぼり、手すりに触れ、古い階段を降りる。

 一階にも入り口があり、キンコン、キンコンと何かのチャイムが鳴っていた。

 そんな音に混じって、三津のスマホがぶるると震えた。

 三津は少しだけ抵抗するようにカバンを握りしめ、やがて諦めたようにスマホをタップする。

「……帰ってこい。やって」

 親からのメールだろう。親は二人がこんな場所にいるだなんて、気づいてもいないはずだ。

 いつも通り、学校で遊んでいる。そう思っているのだろう。

 やがて、武志のスマホも一回震えた。それは武志の母から。

 中を見なくても、分かる。帰りに何かを買ってきて、と、呑気なお使いメールに違いない。

「帰ろっか」

 三津は諦めたように、ゆっくりと図書館の出口に向かう。

 石の扉をくぐって外に出れば、先程より薄暗さが増していた。

 夜が近い色の中、ギリシャ神殿みたいな建物だけがぼんやりと立っている。

「……蒸し暑いな」

 三津がいうとおり、外に出るだけでむっと、蒸し暑い空気が二人を包んだ。

 梅雨の夜の温度で、肌が呼吸困難を起こしそうだった。

 それは武志の息苦しさのせいかもしれない。

 べたべたと張り付きそうな腕をなでながら、武志は呟く。

「……三津ちゃん。もしかして、駆け落ちなんてできひんって、分かってたん」

「当たり前やん。うちら中学生やで」

「じゃあなんで駆け落ちに付き合ってくれたん」

「タケ君が、好きやから」

 照れもせずに言いながら、三津はゆっくりと道を歩く。

 図書館の隣には大きな川が流れていて、それが余計に空気を蒸し暑くさせていた。

 ここは中之島という、その名の通り川に挟まれた巨大な島だ。橋を渡って川を渡れば、京阪電車の駅がある。

 三津は少し背伸びをして、川の向こうを眺めた。

 ……青い駅の看板がうっすら見えて、武志はそっと目をそらす。

 あの駅の下に、大阪と京都を繋げる京阪電車が走っているのだ。

 今日も、赤い電車に乗ってここまで来た。

 つまり、あそこにたどり着けば、二人の儚い駆け落ちは終わってしまう。

「三津ちゃん、ほんまに東京行ってしまうん」

 歩く速度をわざと緩めて、武志は言う。三津の速度も緩やかになり、二人は石の道を、ゆっくりと歩く。

「……行くよ」

 図書館の前には、巨大な建物がある。それは市役所だと、書いてある。

 市役所の前を走る太い道は、御堂筋だ。

 太い車道はたくさんの車がせわしなく、駆け抜けていく。歩道にはスーツ姿の人々が早足で行き来している。

 スーツを着るような大人であれば、彼女を引き止めることができるのに。と、武志は悔しく拳を握りしめた。

「そんでな」

 三津がふと、足を止めた。

「向こうの図書館で、待ってる。あんな図書館があるか、わからんけど」

 二人は足を止め、図書館を振り返った。相変わらず、静かで大きく、ギリシャ神殿のようにしか見えない。

「……本の神殿みたいやな」

 三津はもう、振り返らない。

 だから武志ももう振り返らない。二人で無言のまま橋を渡り、階段を降りて京阪の改札にたどり着く。

 同時に切符を買って、帰宅ラッシュの人混みを抜ける。

 タイミングよく扉の開いた赤い車体の特急に駆け込むと、そこは2階建てのダブルデッカー車両だ。

 三津は嬉しそうに武志の腕を引いた。

「私、下の椅子に座りたい」

 階段を降りれば運良く二人分、椅子に空きがあった。三津は扉側の椅子に滑り込むと、窓ガラスに額をそっと押し付ける。

「すごいな、ホームが顔の横にある」

 2階建ての車両なので、下の車両の視線は低い。ガラスの向こう、目の前にホームの地面が見える。そこを忙しそうにかけていく人々の足も見える。

 見つめているうちに電車ががくんと揺れて、進み出した。

 二人が降りる中書島まで、特急で30分……もう、30分しかない。

「蟻になったら、こんな見え方なんかな」

 武志も三津の背後からホームを眺めながら、呟く。まるで自分が小さくなったような、そんな気がする。

 急に怖くなって、武志はそっと三津の手のひらに人差し指を当てた。

「三津ちゃん、駅につくまでの間だけ……手つないでてええ?」

「ええよ」

 三津の右手は熱い。武志が贈ったビーズは傷だらけだが、ぴかぴかに輝いている。

 ビーズごと小さな手のひらを握りしめると、急に武志の胸の奥がぎゅっと詰まる。

 三津といえば、通り過ぎる駅をじっと見つめたまま。ガラスに映る彼女の顔は、静かで穏やかだ。

 次の駅を過ぎた頃、三津がようやく口を開いた。

「私な、東京行ったら髪切るんよ」

「なんで」

「タケ君、長いのが好き言うたやん、3年前」

 さらさらと音を立てて、三津の髪が横顔に垂れていく。白い顔が黒い髪の向こうに透けて見える。

「そんでな、また伸ばすから」

 彼女は左手で、器用に髪をかきあげる。武志のために伸ばされたその髪が二人の指にふれる。

「……長くなる頃、会いに来て」

「……ほんま、待っててくれるん」

 武志の言葉は声にならず、涙になった。

 一ヶ月近く溜め込んだ我慢の苦しみが、はらはらと涙になって二人が握る手の上に降る。三津は空いた左手でそっと武志の目元を拭う。

 こんな風に宥められるのは、幼稚園ぶりのことだった。

「タケ君は泣き虫やな」

 三津は大人びた顔で笑って、タケの手をきゅっと握りしめる。

「だって、三津ちゃん」

「……蟻ならよかったな、うちら」

 窓ガラスの向こう、目線の高さのホームが過ぎていく。

 きっとこれは、蟻の目線だ。

「蟻なら……」

 どこにでも、行けるのに。

 そう呟いた彼女の白い横顔に、銀色の涙が一筋落ちていく。

 その静かな音と色は、電車の揺れる激しい音と過ぎ去る大阪の風景の中にかき消えていった。

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