北浜ブルース
景子が人生で100回目に恋をした相手は、北浜駅のライオンの像である。
(ほんま、いつ見てもかっこええわ)
頭上を見上げたまま、景子はほうっとため息を漏らす。
彼女のちょうど頭の上には、石像のライオンが一匹、鎮座していた。
(なんやろ。足は太いし、たてがみは立派やし……ああ、こんな人と結婚したいわ)
景子が立っているのは、大阪の北浜、難波橋と呼ばれる橋の入り口。
橋の下には京阪と堺筋線が走り、駅の真横には巨大な大阪証券取引所のビルが立つ。つまり、オフィス街のど真ん中。
この難波橋は大阪の中心部を流れる2つの川、土佐堀川と堂島川を繋げるようにかかっている。
間には中之島という川中の島を挟んで、全長は190メートルもある……景子はなにかの本で読んだ。
大阪は八百八橋と呼ばれる街で、昔から橋の数は多いのだ。
古い時代に作られた橋の入口、4箇所にライオンの巨大な石像が立っている。
東側のライオンは口を閉じ、西側のライオンは口をきゅっと閉ざしている。まさに狛犬と同じ、阿吽のライオンだ。
そのせいだろうか、この橋はライオン橋とも呼ばれている。
(確か大正時代、橋かかるときに作られたって聞いたけど……全然古うないし、男前やし)
像ははたして、全長何メートルあるのだろうか。本物のライオンと並べても見劣りしない立派な像を見上げて景子はうっとりと目を細める。
景子は数年前から、このライオンに恋をしていた。
景子は滋賀県に住む親を、トータル200回は泣かせた自信がある。
人生で最初に泣かせたのは、景子の遅い初恋の相手が薬局のケロちゃん人形だった時。
その次は不良を夢見て、髪の毛をバーナーで焼いてチリチリにした時。
最近では、歌手を夢見て大阪に単身飛び出し、とうとう30歳を超えた時である。
実際に歌ってみて分かったが、景子には歌の才能が全くなかった。
ギターはいつまで経っても下手くそで、声はすぐに裏返る。作詞については難解すぎると皆に言われた。
これまで景子は、99回恋をしたが人間相手に恋をしたことがない。だから普通の恋の歌詞など書けるわけもない。
せめて人間に恋をしてみたい。恋はすべてのパワーである。恋さえすればどうとでもなる。そう思いながら、生活費のためにバイトを繰り返す日々。
景子のバイト先は北浜駅徒歩4分の場所にある。
去年の夏、ちょうどこの付近が天神祭で賑わっていた。
バイトに疲れ、人生に疲れ、駅までの道も混み合い、ぐったりと橋の隅っこに立ち止まった時、景子はこのライオンを見つけたのである。
実際はずっと昔からそこにあった像だ。景子が気づいていなかっただけである。
しかしこの夏の夜、景子ははじめてライオンの美しさを知った。
ちょうど夜空には天神祭の花火が上がり、橋の下を走る川の上には船渡御と呼ばれる船が行き交っている。
それは提灯を大量にぶらさげ、大勢の人間を載せた巨大なかまぼこ板みたいな船だ。
そこに乗った人々が「大阪締め」と呼ばれる手拍子を繰り返していた。
「打ち~ましょ」
「もひとつせ~」
「祝うて三度」
合間に聞こえるチョチョチョンという合いの手に乗せ、酔った声が入り交じる。
船の中だけでなく橋の上を歩く人も同じセリフを叫びながら、皆が花火の色に染まる。
ライオンだけは凛とした顔でそこにあり、赤や緑や青の色に染まっていた。
まるで皆を守るように立つその像に、景子はその時初めて恋をした。
(今日で最後や)
ぼうっと、景子は夕日に染まるライオンを見上げる。
時刻はもう18時半。6月に入って日没まで時間がかかるようになっていた。
それでも、まもなく夜がくる。
景子は手にした「退職祝い」と書かれた袋と花束を抱えたまま、ライオンを見上げている。
(ずっと、あんたの前で恋の歌、歌ってたんやけどなあ。とうとう応えてもくれんかった)
去年の夏に恋に落ちておよそ1年。
景子はギターを持ち出してはこの橋の上で情熱的な恋の歌を歌ってきた。
ライオンに聞かせるためでもあるが、景子の歌声を聞いた芸能プロダクションからお声がかからないか。という打算もあった。
この1年、歌う景子に近づいてきたのは警備員と警察と野良猫だけである。
最後まで答えてくれなかった、いけずなライオンであり、いけずな世間だ。
(あたし、明日、滋賀に帰るわ)
自由気ままに生きてきた景子だが、老いた母の涙には弱い。
(最後くらい、引き止めてくれてもええんちがう?)
帰ると決めたがここに来てしまうのは、最後のわらを掴みたいがためである。
しかし気づけば1時間はとうに過ぎ、通り過ぎる人々は不思議そうな顔で景子を見るばかり。
足もしびれ、手も疲れてきた。
(……最後までいけずなライオン)
諦めて北浜駅に足を向けようとした、その時。
「すいません」
若々しい声に、景子の体がぴょんと飛び上がる。スカウトか、それとも景子の未来の恋人か。
にやけ顔を抑えて振り返って、景子はがっかりと肩を落とした。
そこにいたのは、どう見ても中学生のカップルだったからである。
「図書館、どこですか? 淀屋橋から来たんですけど」
髪の毛を短く切った男の子が、リュックの紐を握りしめ、景子を見上げる。
隣に立つのは色の白い、おちょぼ唇の女の子。イントネーションで、なんとなく京都の子だな、と景子は思った。
「淀屋橋から来たんなら、方向間違っとるよ。もう一回戻って、途中で右側見てたら、レンガ造りの古い建物見えるから、その近く」
一気に現実に引き戻されながら道を教えると、礼儀正しい二人はぺこぺこ頭を下げながら道を戻る。
男の子は始終、女の子に気遣うように周囲を見つめ、歩いている。その姿はまるで騎士とお姫様のようだった。
(あほらし)
夕日に染まる若者の背中を見つめ、景子は一瞬で現実に引き戻される。
ここにいるのは未来の歌手でも、ライオンの妻でもなく、今日でバイトを退職し、明後日には実家に帰る女の姿である。
「……かえろ」
いい加減、現実を知りなさい。母の声を思い出し、立ち去ろうとしたまさにその時。
「そこの人」
二度目の声は、低い。丁寧で、紳士的だ。今度こそ、と景子は期待に満ちて振り返る……しかし、再度がっかりすることになる。
「なんや、お兄ちゃんかあ」
「なんやとは、なんや。今日は歌わんのか」
そこに立っていたのは、若い警察官だ。
景子がこの橋の上で歌っていた頃、何度も注意してきた。いわば常連の人だ。
「もう歌わんよ。ごめんって」
パトカーから拡声器で叱られたことを思い出し、景子は苦笑いする。
「それに、もうここには来んよ。あたし、滋賀の実家に戻るから」
「そうか」
今日は自転車で巡回中なのだろう。青い制服にきっちり帽子をかぶった若い警官は、眩しそうに目を細める。
「歌うまかったやん、自分」
青い制服に赤い夕日が照り返し、ライオン像の影が彼の上に振る。
夕日を浴びて眩しそうに、彼は続ける。
「俺、結構好きな声やったけどな。滋賀なら近いし、また大阪でも歌ってや」
「え」
「でもここでは、あかんで。許可とるか、別の場所にし」
ちりん。と自転車のベルを鳴らして彼は行く。赤に染まるその背を見送り、景子はぼうっと口を開いた。
「……おおきに」
200メートル近い橋には行き交う車、行き交う人々。見下ろすライオン、北浜の町並み。
「さようなら、あたしの大事な人、大事な街」
いつか橋の上で歌った自分の姿を思い出し、景子は大きく手を振り上げる。
その影が、ライオンの影に重なり、初めて景子は彼とつながった……そんな気がした。