さよならホワイト・クイーン・エリザベス
和夫に「少し散歩でもせえへん?」と切り出したのは明子からだった。
それは離婚届を出した晴れやかな午後。二人が他人になって1分後のことである。
明子が和夫と結婚したのは3ヶ月前のことだった。
3年前から付き合っていた和夫に「そんなもんやから」とプロポーズされ、「そんなもんか」と結婚式を上げて、籍を入れた。
結局、世間の「そんなもん」に急かされて結婚したものだから、3日とたたずに喧嘩ばかりとなってしまう。
一度嫌になってしまえば相手の嫌なところばかりが目につく。きっと和夫もそうだったのだろう。
3ヶ月後には口も利かなくなり、2DKの狭い家は冷戦状態。
会社の昼休憩、「しんどい」と漏らした明子に、カツ丼を食す同僚が心底呆れた顔で「アホちゃうか」と言い放つ。
その言葉を聞いた時、明子の頭にぱぁっと光が溢れ、会社を早退するなり離婚届を取りに行った。
そして夜遅くに帰宅した和夫を待ち伏せし、話しかけたのだ。
「なあ、離婚せえへん?」
いつも和夫は不機嫌な顔で夜遅く戻ってくる。その日もそうだ。
しかし明子の不意打ち先制攻撃に、彼は玄関先で固まり、不機嫌な顔も忘れてしまう。
「同僚に、アホちゃうかって言われたわ。ほんまアホやで、うちら」
石像のように固まる和夫に向かって明子が咳き込むように言えば、彼は救われたような顔で吹き出した。
くしゃっと潰れるような笑顔を見た時、この笑顔が好きだったんだな。と思い出し、明子は同時に何かから開放されるような、そんな気分を味わったのである。
「マダムカロリン、アプリコットネクター」
明子は5月の眩しい日差しを踏みながら、ゆっくり歩く。
明子と和夫。二人の歩く石畳の左側には花壇が広がり、赤や黄色、ピンクのバラが揺れている。
そこに書かれた名前を、明子は読み上げているのである。
大きなバラから小さなバラまで、目の前はすべてバラの園。
アンティークな花壇には背の低いバラが栽培され、レンガ造りの壁には蔦の長いバラが絡まるように咲いている。二人の道筋は、まるで色彩の洪水だ。
「バラはどれも、バラらしい名前やなあ」
明子の隣を歩く和夫が関心したようにつぶやく。
「大阪にこんな洒落たとこあんねんな」
しかしちょっと顔を左に向けるとそこには阪神高速が宙を行く。トラックがせわしなく走り抜けていた。
その下には、緑色に濁ってお世辞にもきれいとはいえない川が流れている。
……ここは中之島にある、公園。ちょうど5月の今の時期は、バラが満開となるバラ公園でもある。
「なんにでも名前があるんやな」
「雑草でも名前はあるしなあ」
今日は清々しいほどの青空だ。平日の14時、5月の晴天。地面に落ちる影も濃い。
離婚届を出した区役所を出たあと、赤の他人となった和夫に散歩を誘ったのは1時間も前のこと。
区役所の裏には大きな公園があったが、家族連れを見るのが気まずく、なんとなくぷらぷら南下することとなった。
日向を歩くと汗をかくほどの日和の中、時々スポーツドリンクを買いながらがむしゃらに南下した。お互いに意地っ張りなので、このへんでやめとこ。が言えないのである。
やがて、見えてきたのは中之島。
巨大な川二本に挟まれたそこは、大阪の中心地、梅田から徒歩10分ほどの場所にある。そしてここは、その名の通り川に浮かんだ巨大な島である。
島の上に大阪市役所もあれば図書館もあるし美術館だってある。
その先端部分にバラを詰め込んだ公園があるのだ。そこにたどり着いて、二人はこの辺が手打ちだな。という顔になった。
歩きながら話していたのは、学生時代のことばかり。しかし数カ月ぶりにこんなに話をした。しかし二人のどちらからも「それならやり直せたな」の言葉はない。
……離婚までの二人の決意はあの夜、5分もかからず決まった。問題は、周囲の説得だ。
お互いの親には、ちゃんと話し合いなさい。世間体が悪い。せめて別居から。と散々ごねられたが、明子と和夫のかつてないチームワークで説得にあたった。
最後、義母に「そんなに息が合うなら結婚も続けられただろうに」と泣かれたのだけはきつかった。
ともかくも、説得は成功。離婚届を記入した。明子が仕事帰りに離婚届を出しに行くと言ったが、和夫は「せめて最後くらいは一緒に」と言い出した。
彼は「そんなもん」の呪縛から逃れられないのだ。
明子もまた、その呪縛からまだ抜けきれない。
結局二人して有給を取り、平日の昼間の区役所に離婚届を提出する羽目になる。
「見て、かずちゃん。この花、結婚式の時につくったブーケと同じバラや」
明子は足を止め、地面に咲く白い鼻に顔を近づける。
「ホワイト・クイーン・エリザベス。やって」
鼻を近づけるだけでむっと、濃厚で甘い香りがした。
「結婚式、お金なかったこともあるけど、家族婚にしといてほんま良かったな」
「俺もそう思っとった」
「三ヶ月の離婚なんて友達に、申し訳ないやん?」
「……せやな、そうなったら多分、離婚はあと数年あとになったかもなあ」
「そしたら私たち、多分周囲に流されて」
「子供作ったり、あれやこれで」
「泥沼や」
「ほんまに」
掛け合うように、二人は喋って笑う。
もっとドロドロの離婚は山のようにあるのだろう。しかし、二人の離婚はあっさりだ。
川の向こうには仰々しくも大きな建物がみえる。羊羹をストンと切り落としたような真四角の建物。
たしかあれは、大阪地裁である。離婚が揉めて裁判にならなくてよかった、と明子はしみじみ思う。
きっと、そうなればこんな爽やかにバラなんて眺められなかった。
「明子すわろか。ほら、缶コーヒー」
和夫は薔薇の見えるベンチに腰を下ろして、明子を誘う。
手にしているのは温い缶コーヒーだ。途中、スポーツドリンクを買ったときについでに買ったのだろう。
明子はコーヒーが嫌いである。特に缶コーヒーはアルミ臭さが嫌いで、何度も言っていたはずなのに、和夫はそんなことも覚えていない。
(そういうところも嫌やってんなあ)
と、思いながらも口にはしない。
こういう小さな思い出を積み重ねて夫婦になっていく場合もあるのだろうが、明子と和夫は無理だった。それだけのこと。
「……歌が聞こえるな」
和夫がふと、顔を上げた。
「橋の上で誰か歌ってるんやろ。こんなとこで歌う人、珍しいけど」
ぽろん、とたどたどしいギターの音が聞こえてくる。
顔を上げれば、二人の頭上のあたりには橋が見える。それは京阪の北浜駅につながる橋だ。
二人の今いる中之島を真ん中にして、左右には土佐堀川と堂島川が流れている。そこにまたがる難波橋、そこからギターの音と女の子の歌声が聞こえるのだ。
私の愛おしい人、大好きな人……大好きよ。大好きよ。
オリジナルの歌なのか情熱的な歌声が響く。大阪駅ではあるまいし、こんなところで歌を披露する人は滅多にいない。
「ここで歌ってたら警察来るんちがうか」
「でも情熱的やなあ」
歌っている女の子も、まさか今、離婚してきたばかりの夫婦が橋の下にいるなど思いもしないだろう。
吹き出しそうになりながら、明子はリュックからコンビニの袋を取り出す。
「せや。おにぎり食べる? どうせ二人で食事とか気まずいかなと思って、でもお腹すいたらいややし、おにぎり買っておいてん」
「……明子は俺が梅干し嫌いやって、最後までわかってくれんかったなあ」
差し出したおにぎり。少しでも傷みにくいものを、と買った梅干しおにぎりを見て和夫がため息をつく。
その言葉を聞いて、明子は吹き出しそうになる息をグっとこらえた。
缶コーヒーに梅干しおにぎり。どちらも気づかない。気づいていない。
「似すぎてたんやな、私達」
「多分な」
別れたのが中之島で良かった。と明子は思う。左右は川に挟まれた大阪の小さな孤島。
それなのに明るくて賑やかで穏やかで、そして歌まで聞こえる。
「次は正反対の人と、恋しよ」
せやな。と、和夫はまた、例の笑顔で笑う。
それは5月も半ば。肌に刺す日差しも心地よい、晴天の日。
今日は二人の離婚記念日である。