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花散る中央公会堂

 鹿児島から出てきた賢治が最初に目にした大阪名物といえば、通天閣でも大阪城でもなく、中之島にある中央公会堂であった。

 

 

 賢治は鹿児島の奥、海と山の見える田舎で育った。

 大阪に出てきたのは大学を卒業した40年前のこと。

 勤め先の先輩や同期に郷里の言葉を弄られたため、無言になる癖がついた。しかし何の因果か、嫁に来たのは大阪生まれの女である。

 驚くほどよく喋る明るい妻だった。賢治の分も妻が喋るため寡黙さが癖になり、喋ることが億劫になってしまった。

 そんな妻が亡くなってもう5年。

 久しぶりに声を出してみれば、すっかり大阪弁が染み込んでいて賢治は驚いた。

 郷里を離れて40年以上経ち、すでに郷里のお国言葉は大阪弁に上書きされてしまったものらしい。



(立派やな。俺よりずっと年上や)

 すっかり大阪弁が板についた賢治は、目の前に立ちふさがる中央公会堂を見上げる。

 それはモダンな赤レンガ作りの巨大な洋館だ。

 見上げれば上はアーチ状。広い玄関を囲む巨大な柱には彫刻が施され、神殿のような豪華さである。

 屋根はくすんだ緑色。赤と白と緑、それぞれのレンガの色彩が5月の日差しの中で輝いていた。

 作られたのは明治44年……と、賢治の手元にある資料には書かれている。

 株の仲買人だった男が剛毅にも多額の私財を投入し、作ったのがこの建物である。

 西洋やアメリカにある公共施設を地元の大阪にも作ろうと思い立った彼は、このプロジェクトに賛同する名士を集めた。そして意匠を凝らし、何年もかけて本当に作り出した……。


(戦火に負けず、地震にも負けず……)


 じっと、賢治は目の前の建物を見つめる。地上3階、地下1階。ルネッサンス様式という賢治にはよく分からない技法で作られた建物は豪奢だ。

 しかし発起人の男は完成を見る前に自殺してしまったという。

 これが城であるとするなら、一国一城の主となる前に死んだこととなる。さぞ悔しかったろう、と思えば胸の奥が苦しくなった。


 もちろん賢治が40年も前、はじめて中央公会堂を見た時はそんな事情も知らなかった。

 はじめて、この建物を目にした時は驚いたものだ。

 こんな都会に、90年以上前の建物が残されていることが驚きだった。

 高度経済成長期は終わりかけていたものの、まだ賑やかで華やかな時代だった。古いものを切り捨てて邁進した時代である。

 それなのに、この建物は威風堂々と、一等地に存在している……。

 亡き妻と、はじめてデートらしきものに出かけたのも、この場所だった。

 上司の紹介で付き合いはじめて1ヶ月。彼女は賢治が大阪で最初に見たものを見たい。と無邪気にいった。

 賢治は何も考えずにここに連れてきて、あとで上司に面白みのない男だと散々叱られた。

(……ここで結婚式なんか、けったいなもんや)

 亡き妻が何度も何度も繰り返し言っていた恨み言といえば、ここ中央公会堂で結婚式を挙げたい、ということだ。

 ここをウエディングドレスで歩いてみたいわぁ。と、彼女は目を輝かせて賢治にねだった。

 もちろん、賢治はそれを一蹴し、当時としてはごく一般的なホテル挙式をこなしたわけだが、おかげで亡くなる寸前まで何度もそのことを陽気に責められた。

(今の時代ならそういうもんも、あるかもしれんけどな……)

 賢治の目線の先、若い夫婦が物静かに歩んでいくのがみえる。

 まだ20代だろうか。穏やかな二人は、中央公会堂の北側にある中之島バラ園に向かうようだ。

 思えば、花畑などにいくのも恥ずかしく、妻と出かけても仏頂面だった。そういうものだと、思い込んでいた。

 しかし今の夫婦を見れば、優しい顔をしている。あんな顔をするだけで良かったのだな、と今更苦い後悔が口の中に広がるのがわかった。


「お父ちゃん」


 今年30になる娘が無邪気に手をあげるのをみて、賢治は渋い顔のままうなずいてみせる。

 娘の隣には、幼い頃の娘にそっくりな孫娘が同じように手をあげている。

 娘は額に浮かんだ汗を拭いながら、手に持ったケミカルな緑色のドリンクを賢治に見せる。

 しゅわしゅわと泡を吹き出す緑色のドリンクの上には、真っ白いアイスが乗せられていた。

「クリームソーダ売ってたわ、そこで」

「歯、悪くなるで」

「大丈夫。歯は磨くもんな。なー。ほら、花ちゃん。はよ食べな、アイスのうなってしまうで」

 母の影響を多分に受けたと思われる娘は幼少期から大阪弁を使いこなし、京都の男と結婚をした今では京都弁と大阪弁を器用に操る。

「お父ちゃん、大阪久しぶりやろ。どうする? うちらよそで遊んどこうか。お父ちゃん、ぶらぶらしたいやろうし」

「いーやー! 花ちゃん、じぃじと遊ぶ」

「花ちゃん、家でも遊んどるやろ。我儘言いな」

 娘は賢治を見上げて、眩しそうに目を細める。

 季節はちょうど新緑の色が美しい時期。

 大阪は都会だが中之島界隈はひときわ緑が多く、地面に濃い影を落としていた。

「お父ちゃん、お母ちゃんとの思い出の場所、行ってみたいやろうしなあ」

 5年前、妻が亡くなった時、賢治は自分でも驚くほどに憔悴した。

 彼女が亡くなったのは連れ添って40年、妻が病に伏せて10年目のことだ。

 妻の病気は長く、覚悟はできていた。だというのに賢治はげっそり憔悴し、見かねた娘夫婦が同居を名乗り出てくれたのである。 

 40年を過ごした大阪から京都に居を移したのは4年前のこと。

 今では、宇治という静かな土地で余生を過ごしている。

「……いや、ええわ」

 仕事もすでに引退し、友人も少ない。

 買い物に行くとしても、JRで京都に出る方がずっと早い。そのせいで、大阪に足を踏み入れたのは久々のことだ。

 京都と大阪を繋げる京阪電車の遅さに驚きながら、終着駅である淀屋橋に降り立ったのは30分前のこと。

 まずは迷わず、この中央公会堂へやってきた。

「お母ちゃんと、ここで結婚式挙げてあげたらよかったのに」

「できるかいな。それに結婚式ができると分かったんは、爺さん婆さんになってからや」

 娘は口をとがらせ賢治を見る。彼女も散々、母からここでの結婚式の夢を語られてきた。

 散々ぐちを聞かされたせいだろう。娘はある時、無断で結婚式の予約を取ろうとした。

 父の日母の日のプレゼントや。と言いはったが、妻が恥ずかしがって、それは無しとなった。

「年取ったってもう一回ウエディングとか素敵やないの。なあ花ちゃん。お母ちゃんやって、もう一回ドレス着たいわ」

「バカ言いな」

「あ。そうや、建物バックに写真撮ろう」

「俺一人でか」

 賢治は苦笑する。娘は妻と同じで頭の回転が早すぎて、時々ついていけないのだ。

 しかし娘は気にせず賢治を押し出す。

 そして中央公会堂の玄関前、階段の上に立たせた。

「ええんか勝手に、こんなところに立って」

「人おらんもん。ささっと撮れば」

 立派な玄関の前にたち、賢治は固まる。娘の構えるタブレットは、ただの黒い板のように見えるが、写真も撮れるしインターネットも見られる。

 娘夫婦のためにと譲ったカメラは埃をかぶり、娘はタブレットで写真ばかり撮っている。

「ええわ、やめや。恥ずかしいし」

「お父ちゃん、そう言うて写真撮らしてくれんもの」

 写真など、もう何年も撮っていない。

 娘に諭され、賢治は気まずく階段の途中にじっと立った。それだけで、汗のにじむような天気である。

「……じゃあこれは、遺影やな」

「またお父ちゃんは嫌なことばっかり……なあ、右側ちょっと開けてな」

 娘の言うがまま、二歩、左による。

 孫の花が賢治に駆け寄ろうとするのを止めて、彼女は大きなタブレットを賢治に向けた。

「はい。ちぃずう」

 かしゃ。という音も聞こえない。昔、賢治が買った巨大な一眼レフは派手な音がしたものだが、最近のカメラは薄くて音もしないので、やや張り合いがない。

「これをな、ちょいちょいってして、ぱっとして」

 娘は画面に向かって、何かを黙々とこなしている。そして近づいた賢治に緑のドリンクを押し付けた。

 その押し付けた手の甲が妻にそっくりで、賢治は少し驚いてしまう。

 こんなところにまで、母子というものは似るのである。

「ちょい作業あるから、クリームソーダ飲んでて。水分とらんとあかんよ」

 口にすれば、どろりと甘いアイスクリームと甘すぎる炭酸のジュースが喉に流れ込んできて、賢治は思わずストローから口を離した。

「なんやこれ、甘いわ」

「メロンシロップとアイスやもん……あ、でけた」

 やがて娘はぱっと顔を上げる。

 孫をあやす賢治の前に、大きな画面を差し向ける……それはタブレットの画面だ。

 そこに、中央公会堂が写っていた……その玄関には、賢治と……。

「ほら、お母ちゃんの写真」

 賢治の横に、懐かし妻の姿がある。

「……」

 なんやこれ、けったいやな。という言葉は、口からは出てこなかった。

「写真を合成するアプリがあるねん。6年前に皆で宇治の三室戸寺行ったやろ。その時の写真をここに入れてみてん」

 渋い顔をする賢治の隣、杖を突きながらも妻が気丈に立っている。

 着ているのは彼女がお気に入りだった毛糸みたいなスカートだ。梅雨のあじさいが咲く頃に着る服ではない。と言った記憶がある。

 娘の指示通り、開けた右側に笑顔の妻が立っていた。

「……器用なもんやな」

 ようやく絞りだせたのは、その一言。娘はタブレットの上に……妻の上にそっと白いハンカチを折りたたんで乗せる。

「これにな、白いハンカチかけて」

 妻の服は白いハンカチに包まれる。

「クリームソーダのきらきら」

 そして娘はクリームソーダを上に掲げた。5月の光を吸い込んで、その緑の光は白いハンカチに、賢治の仏頂面に、妻の笑顔に降り注ぐ。

「……な。結婚式の、ウエディングドレスに花のシャワーみたいやろ」

「うち?」

 孫の花が名前を呼ばれたと思ったのか、前歯の抜けた顔で満面の笑みを浮かべる。

 不思議なことに、その顔にも亡き妻の面影があるのだ。

 ……賢治はまだ、亡き妻の面影に包まれて生きている。

「せやな。花ちゃんの結婚式は、お花いっぱい使おうな。花の結婚式なんて、おじいちゃん泣いてまうかもわからんな」

「そないに生きたらバケモンやわ」 

 すっかり馴染んだ大阪弁で、賢治は立ち上がる。もう40年も前、妻と歩いたこの場所に、妻とそっくりな娘と孫と歩いているのが不思議で仕方なかった。


「じゃあ、お父ちゃん、次どこいく?」


 娘の笑顔に引かれ、孫に手を引かれ、賢治は中央公会堂に背を向ける。

 100年前から変わらずそこにある建物は、今日もまた何も言わず何も変わらず、賢治たちの前に静かに立っていた。

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