女と男の立つ波頭
※1 後書き欄に補足があります。
※2 ちょっと毒々しい色の背景画像を使っています。目にきつい場合は、端末の輝度を下げるか、画面右上(かな?)の「表示設定」で背景色を通常のものに戻すかしてご覧いただければと思います^^;
—— この人と一緒なら、死んでもいいと思いました。
— 女と男の立つ波頭 —
* 女 *
イリオス陥落のおり、私はひとりの荒くれ者の兵士に捕まりました。背丈は低かったけれど、身軽で脚力のある男でした。
私は、はじめからわかっていたのです、イリオスの城は、もはや持ちこたえられないと。かつて私を愛してくださったポイボスのみ神より授かった預言の能力をもって、知っていたのです。……しかし、私はみ神の愛をしりぞけてしまいましたから、罰として、私の預言をだれも信じることのないように、み神はなさいました。……ポイボスは私を愛してくださったし、私もみ神をとてもお慕いしていた! それは、事実でした。けれど、私はみ神を裏切った。なぜって、み神から授かった叡智によって、み神ご自身が、将来私をお捨てになるのを知ってしまったから。だから、我が身のほうからその愛をしりぞけて、永遠のものにしてしまった……愛は、憎悪へ、怨みへとその見た目を変えて、永遠の真実になりました……。
そういうわけで、ひとり、真実の殻のなかへ閉じ込められた私は、だめだと理解しつつも人々へ呼びかけました。イリオスはもう、おしまいだと。……ポイボスがそんな私を哀れにお思いになったか、神官のラオコーンという男の叡知が目覚め、その男はイリオスの危機を訴えました。でも、どう思ったか、私はこの者と声をひとつにして人々へ訴えかけるのが、とても馬鹿らしいことに思えてしまった。私は口をつぐんでしまって、ラオコーンが大声を張り上げるのを聞くだけ聞いて、じっとそのようすを観察していたのです。
とつぜん、二匹の海蛇が出てきて、この男のふたりの子らをくわえて持ち上げました。するとラオコーンは、息子らを助けようとしましたが、そこへ巨大な影が顕れて、男に苦痛を与えました。彼は息子らとともに、苦痛にあえいで死んでいきました。ラオコーンに死をたまわった女神は、藍の瞳をかがやかす、パルラス・アテネでした。
そういうわけで、イリオス陥落のおり、私は自分の預言した物事が真実になっていくようすを、ただただ眺めていたのです。そこへやってきて私を襲ったのが、あの荒くれの兵士、脚力自慢のアイアスだったのです……。
〔赤く染まった波の上、—— 静かながら、とめどなく流れ出すカサンドレの笛の音に、彼女とおなじ甲板の上に立つ男は、耳を傾けていた。〕
* 男 *
俺がはじめに、カサンドレ、プリアモスの姫と見えたのは、アカイアの大将のうちでも特に軍略に長けた武将オデュッセウスが、戦利品として、総大将である俺アガメムノンのもとへその身柄を引き立ててきた、そのときであった。
丈高いこの女は、俺の面前へひざまずかされ、痩せた白い身体をぶるぶると震わせていたが、顔を上げさせると、美しい黒色の双眼がしかとこちらを見据えた。白眼は充血して赤みを帯びていたが、その二点のあいだにそびえる高い鼻筋、その下へわずかに上がった上唇は、どこか悠然と構えているふうでもあって、一目見た刹那、俺の心の臓はその衝撃に凍りついた。……そのとき俺は、今の今まで思い出さぬよう記憶の谷底へ押し込めていた、思い出してはならぬものを、すべて一息に引き上げてしまった! 戦争は終わった。俺には、帰る場所などない……!
祖国、ミュケナイへ残してきた妻、クリュタイメストラ……今まで顔さえ忘れていた、思い出さぬようにしていた、愛する妻。そして、我が子、エレクトラとオレステス、イピゲネイア……長女イピゲネイアはもうこの世にはない……そう、わが子イピゲネイアの死がすべての始まりで、この十年間、俺の心をして目下のイリオス攻め以外のなにものをも思い出さぬよう記憶の谷底へと封印せしめた出来事だったのだ! イピゲネイア……わが戦争の勝利のため、わが人民の生命のための牲とされたイピゲネイア、銀の弓を持つ女神へと、その血を捧げたてまつった……父親である俺が、われとわが手で……!
……我慢がならなかった。プリアモスの姫は、美しい黒の瞳をもって、しばらくじっと俺の鼻筋を見つめていたが、やがてその双眼は哀れむような色を帯び、女は静かに、「オゥッ、トトトッ」と嘆きの声を漏らした。……この女、一目見たところで俺のすべてを見透かして、おのれ自身の不幸をもどこかへやって、嘆きの声を上げているのだ……そう思うと、ふつふつと怒りが湧いてきた。しかし、言いようもない怒りと同時に、どこか神秘的な恐れ、恐怖をも俺は感じた。そしてどういうわけか、この女から目を離せなかった。俺は半ばものに憑かれたような声で宣言していた、「この姫は俺がいただく」と。
* 女 *
私は必死に抵抗しました。幸い私は、女にしては上背があるほうでしたから、小柄な兵士相手に精一杯の抵抗をし、隙をついてパルラスの女神の神殿へと駆け込みました。
パルラスの女神アテネは、私をお守りくださいませんでした。……いえ、私が女神のみ像におすがりするやいなや、脚力自慢のアイアスはこの肩へ手をかけて私を後ろへ引き倒したのですから、いかなパルラスといえども、お手を差し伸べてくださる間を持たれなかったのでしょう。その後、オデュッセウスという兵士がやってきて、荒くれのアイアスを私から引き離してくれましたが、この男もまたアカイアの兵士です。私を捕虜としてとらえ、この人アガメムノンの前へと引き立てたのでした。
〔フォイ、フォイ、ドゥア……! —— カサンドレは、おなじ甲板の上に立つ男の鼻筋を黒色の瞳でぼんやり眺めると、より高い音で、哀しみを帯びた音を奏でつづけた。〕
一目見て、私はこの男の最期を知りました。ポイボスの預言の能力です。そして、そばにいて狼狽る私の姿も見えた……おそらく、すこし遅れて、私も同じ運命をたどるのでしょうね。……目の前にいるこの男は、見かけは偉そうに見えるけれど、中身は私と変わらないのだと知りました。奇妙なものです、相手は父プリアモスの敵、アカイア軍総大将の男なのですから……!
それでも……、私は、この人と一緒なら、死んでもいいと思いました。なぜか……わかりません。わからないけれど、これまで感じたことのない、清々しい気持ちが込み上げてきたのです。ポイボスの愛を退けてしまったあの日から……罰の始まった、あの日から……私は、ずっと探していた……終着点、とでもいいましょうか。私の苦しみが終わる日は、この人と一緒なのだわ……と思うと、涙が込み上げるほどに、私は、心の底から安心してしまったのです。
……ふしぎなものです。私はこの男のすべてを知らない。でも、最期を知っている。だからこそ、なににも邪魔されずに、ただただ、この人のすべてを感じるままにできるのだから。
〔ミュケナイへ向かう船は、静かに、波の上を進んでいく。女と男の宿運を乗せて……。〕
F
I
N .
※ 補足
ギリシャ神話を題材にしたもので、ご存じない方にはいろいろと不親切な作りになっていると思います。ちょっと説明を、箇条書きで。
イリオス …… 都市国家の名。トロイアともいう。現在のトルコにあたる地域にあったという。王プリアモスが治めていたが、アガメムノン率いるアカイア軍(ギリシャ軍)に破られ、滅亡する。
アカイア …… ギリシャの地よりイリオスへ攻め寄せたギリシャの民族を総称していう。当時のギリシャは都市国家の集まりであり、アガメムノンがミュケナイの国を、オデュッセウスがイタケの国を、というようにそれぞれ治めていた。
ポイボス …… ポイボス・アポロン。ギリシャ神話の神々のうちの一柱。芸術や預言を司る。神々のうちではアカイアよりもトロイア側に心を寄せる。
カサンドレ …… イリオス王プリアモスの娘。つまり王女。ポイボス・アポロンに愛され、預言の能力を授かるが、その能力によって自分が捨てられる未来を知ってしまい、アポロンを退けてしまう。よって、神の愛を拒んだ罰として、彼女の預言をだれも信じないように呪われてしまった。
パルラス・アテネ …… ギリシャ神話の神々のうちの一柱。知恵や戦争を司る。神々のうちではアカイア(ギリシャ)側に心を寄せる。
アイアス …… 小アイアス。アイアスという主要人物がアカイア軍にふたりいるため、大アイアス・小アイアスと区別するが、そのうち小アイアスのほう。トロイア戦争を通して活躍を見せるが、パルラス・アテネの神殿内でカサンドレに乱暴をはたらいたため、アテネの怒りを買い、祖国へ帰ること叶わず波間に散る。
銀の弓を持つ女神 …… アルテミス。ギリシャ神話の神々のうちの一柱。狩猟を司る女神。ポイボス・アポロンの双子の妹(姉ともいわれる)。
アガメムノン …… イリオスを攻めるアカイア軍総大将。しかし、出征前の失言により女神アルテミスの怒りを買い、信託にしたがって我が子イピゲネイアを生贄として差し出す(前述のとおりアカイア軍は連合軍のため、彼ひとりの問題ではないのである)。イリオス陥落の後、無事に祖国へ帰還するが、イピゲネイアのことを根に持っていた妻クリュタイメストラによって殺害される。このとき、妾として連れ帰ったカサンドレも巻き添えを食い、共に殺害される。
とまあ、こんなもんでしょうか。