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第八話「家の条件」


 エヴァンの暴行から1週間。

 怒濤の1週間だった。

 

 両親の顔を久しぶりに見た。

 彼らはルカヤには普段通り登校するようすすめた。実行者であるエヴァンは学校を休んだ。

 

 勉強する間も兄とジーノが気になって手に着かなかった。

 走る気にもならなかったが、連日話し合いで、ルカヤはすぐ家に帰ることを許されなかった。


 どことなく周りの目が痛い。

 誰にも話していないはずなのに、噂が回るのは早いものだ。

 放課後、髪を結んでくれる少女も、隣を走る少年も、いなくなってしまった。


 話し合いの結果はルカヤの心配したようにはならなかった。

 原因が原因だ。

 あちらの親御さんとしても、詳しい経緯を周囲に説明してまでエヴァンの罪を裁きたくはなかったらしい。

 エヴァンとルカヤの両親は稼ぎが多い。

 取り返しのつかない結果はそのままに、示談で決着した。


「これでいいのかな」


 ベッドに寝転がって呟く。

 兄はリビングで夕飯を作っている。

 親は話がまとまるとまたすぐに仕事に戻った。休みすぎては会社に迷惑がかかる。大人の事情だ、仕方がない。

 理解は出来るが、ほんの少しだけ心細くなる。


 両親は兄にどのような話をしたのだろう。

 エヴァンがあのような行動に出たのには驚いた。震えるような恐怖も味わった。

 だがルカヤは優しい兄も山ほど知っている。

 少年院に入るようなことがなくてよかったという気持ちと、それが兄のためなのかわからに気持ちとで板挟みになっていた。


 やる気が出てこない。

 携帯を開くと、メールボックスには何通かメールが入っていた。

 通信販売サイトからの販促メールが大部分を占めている。残りは母からだ。


 適当にスクロールしていると、そのなかに一通だけ、全く違うアドレスが混ざっているのに気がついた。

 ジーノからだ。


 仰向けから飛び起きて、ジーノのメールを開く。

 タイトルは「ごめん」。


『僕の浅慮で君を傷つけてしまった。いくら謝っても足りない』


 メールはそんな一文目から始まった。

 毎日泣きはらし、やっと枯れてきたと思っていた涙腺が緩む。


「私がバカだったせいなのに。貴方は何にも悪くないの」


 口に出しても届くことはない。

 メールには、続けてジーノの両親がルカヤたち兄妹に会うことを禁止した旨が綴られていた。

 大切な息子を傷つけられた両親の気持ちを考えれば当然だ。


 命に別状こそなかったものの、あのときはジーノの額に切り傷ができて、血がどくどく流れでていた。

 そのときルカヤはジーノのために兄を責めることさえ出来なかった。

 ジーノ本人に嫌悪される覚悟もしていたのだ。罵倒されれば甘んじて受け入れるつもりだった。


(こんなに優しい人が私を好きになってくれたことじたい、なかったことにしてしまいたい)


 胸を握りしめ、メールの続きを読む。

 どこをみてもルカヤを悪し様にいう文面は見つからなかった。

 最後は意外な助言で締めくくられていた。


『僕は君が思うまま走っている姿が好きだった。けれど、今思えば、家にいる時の君はいつも同じ場所にいなければいけないようにしていたね。

 君はもっとわがままな勇気をもっていいんだと思う。つらいことをいうけれど、もしも追い詰められたなら、近しい人を切り捨てる日も必要だ』


 ハトが豆鉄砲で撃たれたような顔になって、ルカヤはメールを何度も見直した。

 そういえば、ルカヤは呼ばれなかったが、話し合いにはジーノもいたのかもしれない。だって彼は被害者本人だ。

 その時にルカヤの家族を見て、思うところがあったのかもしれない。


 すぐに思い浮かんだのは祖母だ。

 祖母がいなければ、と思ってしまう自分がいる。

 今までは家族を疎ましく思う自分が悪いのだと堪えてきた。

 だが兄もまた祖母に苦しめられているのなら話は違う。

 祖母を露骨に嫌う兄が、ああいった行動に出た理由が、この家庭にあるのなら。どうにかしなければ、とルカヤは思った。


◆ ◆ ◆


 コンコン。ノックの後、自室にエヴァンが入ってくる。


「夕飯できたぞ。今日はエビとアスパラの塩パスタだ」


 エプロンをかけたまま話しかけたエヴァンの顔は、相も変わらず美しいようで、笑いかたがぎこちない。


「兄さん。話があるの」


 ルカヤが短く切り出すと、エヴァンはいずまいを正した。

 兄の目の前で、ルカヤは勉強机の引き出しを開き、なかから封筒を取り出す。

 分厚い封筒だ。長方形に膨らんだ封筒はうっすら日に焼けて、年季を感じさせる。


「兄さん。ひとつ、兄さんにお願いがあるの」

「なんだ」

「うん。言うんだけれど、その前にひとつききたいこともあるんだ。どうしてあんなことしたの? 私を心配したのはわかってる。でもいきなりあそこまですることあった?」


 極力穏やかに話す。

 エヴァンを追い詰める事が目的ではないのだとわかって欲しかった。

 エヴァンはしばし考え込むと、ぽつぽつ口を開く。


「……ルカヤ、お前は家なんだ。オレにとって」

「家?」

 

 全く予想外の例えに、ルカヤは自分を指さす。

 エヴァンは小さく首を動かした。金糸の髪がさらりと揺れる。


「アパートでも家でも。小綺麗に掃除されていようが広かろうが。どこに建てられてることは家の条件じゃあねえ。オレにとっちゃただの空間、便所とおんなじだ」

「それが理由?」

「ルカヤ、お前はいつも世界を穏やかに美しく見ようとする。オレには無理だった。お前がくれる景色だけがあたたかい。お前のいる場所がオレの家だ」


 エヴァンの青い瞳は真っ直ぐにルカヤを貫き、白い唇は震えなく動いていた。

 嘘はない。偽りのない真実だ。

 エヴァンの弱さの告白だ。

 見栄っ張りな兄の、妹への精一杯の誠実さ。


 ルカヤは膝の上にのせた封筒を握りしめる。


(兄さんは病んでいる)


 そう思った。

 ルカヤの想像以上に兄は苦しんでいた。心の支えがなかったのだ。

 兄は美しい。顔の美しさに見合う心の誇り高さを持つ人だ。

 そんな人がここまでボロボロになっていた。

 きっとルカヤのあずかりしらぬところで、耐えがたい痛みに苛まれ続けていたのだろう。


 ルカヤは思い切って兄に封筒を差し出す。

 兄はルカヤより10センチ以上背が高い。

 捧げ物をするかのような目線の交わし方になる。


「これは?」

「私、お弁当を作ったりして、節約してたでしょ」

「ん、ああ……」

「これはヘソクリ。毎月、余ったお金の半分を引き出して、貯めておいたんだ。災害だとか、おばあちゃんが許してくれないようなものが必要になったときとかに使えるように」


 約八ヶ月分のみとはいえ、ルカヤは物欲がないほうだ。合計は結構な額になっている。

 封筒を持った手が震えた。


「こ、これで……カウンセリング、行こう」

「え?」

「だって兄さんは本当は素晴らしい人だもの。いいところをたくさん、本当にたくさんしってるの。兄さんは今、凄く疲れてるんだと思う。でも私、子どもだから。わからないこと、間違ってること、いっぱいある。でも、お母さんとお父さんは仕事だし。おばあちゃんは頼れない。だったらプロに頼るしかない」


 兄の白い歯が見えた。反論する気だ。

 ルカヤは意を決し、たたみかけるように喋る。ぎゅっと目をつむり、祈るようにこうべを垂れる。


「病気扱いしたいわけじゃないの。信じて。いっておしゃべりするだけでもいい。なにもなければそれでもいい。安心しておしゃべりする時間を買って、楽しんだんだって思えないかな。ほら、仕事でしょ。だから情報を漏らさない義務があるんだよね? じゃあなんでも喋れるでしょ? 何かあったらそれで兄さんが楽になれることもあるかもしれない」


 今まで生きてきたなかで、一番はやく喋っていた。

 失礼なことをいっているのはわかっている。

 だがこれ以外に、ルカヤが兄にしてやれることが思いつかなかったのだ。

 頭を下げたまま、兄の答えを待つ。


「……お前はよぉ、オレを憎んだりはしねえのか? 初めて出来た彼氏を殴ったんだぞ」

「ジーノを殴ったことは許さない。でも兄さんを憎みたいわけじゃあない」


 エヴァンは眉をひそめる。納得いかない顔だ。

 ルカヤはもう一歩ふみこんで考えた。自分がどうしたいのか。

 それがジーノがいった「近しい人を切り捨てる」――自分の幸せを考えるということだと思ったから。


 祖母は身内が精神病院じみた場所に通うことを許さないはずだ。

イタリアでは精神科病院の開設は禁止されている。くわえて、比較的カウンセリングは気軽な国だという。それでも祖母は完璧な孫が欲しいのだ。玉傷さえ許せまい。

 ルカヤは家族に嘘をついてでも、兄をとる道を選んだ。


「どういえばいいか、わかんないんだけど……私には兄さんを見捨てる義務はないし、兄さんに幸せになって欲しいと思ったら、そう願う権利がある……と思う」

「……随分かてぇ言い方だな」

「だって人にどう説明したらいいか、わからないんだもの」


 泣きそうになるルカヤの涙を、エヴァンの指が拭う。


「わかったよ。お前が一生懸命なのは。まあどうせ学校終わりにやることもねえしな」


 その手で、エヴァンは封筒を受け取った。


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