第七話「泥の匂い、豪雨の午後」
ジーノと付き合って二ヶ月になる。
ルカヤは実感できずにいる。
前と変わらない日々だ。放課後にコースを走り、翌日に待ち合わせる。
せめて置いていかないようペースを合わせようとした。
なのにジーノには断られた。
ルカヤが思うまま走るのが好きなのだという。
彼はいつもルカヤからつかずはなれず、後ろをついてきた。
元々走るのは好きだ。不思議と、最近は前より体力がつき、記録が縮まった気がする。
近頃は概ね20キロメートルほど走っている。平均記録は1時間28分。
ヴェニスマラソンは42.195キロメートルある。
もっと体力が必要だ。タイムも2倍以上かかるだろう。
前は走るばかりで満足したのに、最近はタイムを測るのも楽しい。
ジーノは速いというけれど、公式記録は調べなかった。自分より凄い人の記録を見てへこむのは恐い。
それ以上に楽しみが増えるのは、いい。
「明日はコース変えてみる?」
「うん」
「いいね。調べてみよう」
会話はまだ緊張する。
ジーノはルカヤが相づちしかしなくても、文句を言わない。嫌そうな顔ひとつしないので、気にしていない風に見える。
ルカヤはそのせいで、時々不安になる。家族でもない人にこんなに自分に都合良く接してもらっていいのだろうか?
「おっと」
「え?」
「いや、コースを変えるのはいいんだけれどね。明日は雨みたいだ。よく考えれば、こんなに晴れが続くほうが珍しかったんだよな」
「ああ……そうなんだ」
「小雨じゃ済まないなあ、これ。走ったら風邪ひいちゃうよ」
「じゃあ明日はマラソンしないんだね」
前に雨が降った日にはジーノの家に呼ばれた。
ジーノの両親と兄弟にも会っている。
彼は両親と弟と妹と暮らしているらしい。お母さんはジーノと同じ褐色の肌で、よく笑う人だった。
息が止まりそうなほど緊張した。
「明日はどうする? ジーノはやりたいことないの。いつも私に付き合わせてもらってばかりだし」
「好きでやっていることだからいいんだよ。でも、ううん、そうだなあ」
若干の間があく。
また彼の家に招かれるのだろうか。兄の助言を信じるなら嬉しいことだ。
緊張から空を見上げると、明日の天気を先取りしたような分厚い曇天だった。
癖のある黒髪をもったジーノには、陰りのない太陽がよく似合うのに。
「先にいう。オレからいうのは厚かましいのは重々承知なんだけれどね。もしも君が嫌じゃあなかったら……」
「うん」
「君の家に遊びにいってもいいかい?」
頭を殴られたような衝撃が走った。
(そうだ、ジーノは私を家族に紹介してくれたのに、私は兄さんさえ会わせたことがない! これじゃあ不安になって当然だ。なんて不誠実なことをしてしまったのだろう)
言われるまで全く意識にあがらなかった。
言い訳が浮かんできて、ますます情けない気持ちになった。
家に呼んだところで両親はいない。
祖母に関しては、醜いことだが、ジーノを会わせたくなかった。
祖母は兄に彼女ができると、あれこれアラを探して不釣り合いだと文句を言う。万が一、彼を侮辱する言葉をぶつけてきたら、ルカヤは祖母が嫌いになってしまうだろう。
ちょうど明日は、珍しく祖母が出かける。
何より、勇気を出して提案してくれたのに、むげに断るのはジーノに悪い。
「いいよ」
「ほんと!?」
「うん。明日、うち、誰もいないから」
ルカヤの頷きに花咲いたジーノの笑顔が固まる。
言い方を間違えたかと、じっと彼を見つめた。頬がうっすら赤い。唇の端は引きつってはいない。
筋肉の微細動は、ルカヤが祖母の前で笑いを堪える時に似ている。喜んでくれているようだ。
「い、いいのかい?」
「うん」
「その。えっと、僕で?」
「……他にいないと思う」
家にいってもいいか、というので、彼が来るのかと思い込んでいたのだが。
もしや他の人物をルカヤの家に行かせてもいいか、という意味だったのだろうか。
いや、流石にそれは文脈がおかしい。
ルカヤは自分の前後の発言を振り返ろうとした。
よくしてくれるジーノに報いようと、半ばパニックだった。
何か致命的な言い間違いがあったのかもしれない。
その前にジーノがルカヤの手をとり、両手で包み込んだ。
「いく。明日、絶対いくよ」
「え、うん」
「正直、もしかして君は、無理に僕に付き合ってくれているんじゃあないかと思ってたんだ。だから本当に嬉しい。ちょっと急に早足過ぎる気もするけれど」
「……うん」
言葉を選びながら、喜びをかみしめるジーノに、ルカヤもにっこり笑う。
嬉しそうならいいか。ルカヤはそこで考えるのをやめてしまった。
◆ ◆ ◆
屋根を貫かんばかりの豪雨だった。
ルカヤは雨の日が苦手だ。兄の嫌いな天気だからである。
兄は寝起きの悪さからわかるように低血圧で、こういう日は怒りっぽくなる。
血を流して帰ってきた夜から、兄は喧嘩をして帰ってくることが増えた。
風の噂では、一人目は兄に女性をとられた青年だったらしい。
そこから同じような男性に、兄の強さに興味をもった血の気の多い不良少年に……。
ルカヤの前では兄は変わらず優しい兄なのに、どんどん知らない面が増えていく。
だから雨の日は苦手だ。
ピリピリと、触れれば焼けるような気配の兄を垣間見ることになる。
ジーノを連れて、靴置き場を見る。
兄の気に入りの靴がなかった。兄はだんだん家に帰る時間が遅くなっていた。喧嘩のためか、女に請われて。
それでも夕食までには必ず帰るあたり律儀だ。
いつも通り夕食頃に帰ってくれば、ジーノを兄に紹介できるはずだ。
「綺麗な家だね。さっぱりしている」
「家具が多すぎても大変だから。庭はおばあちゃんの趣味なの」
手に職がない祖母は、ルカヤの物心がつく前から庭の手入れに熱心だった。
冬を除いて、庭にはいつも植物が元気に茎を揺らしていた。
エヴァンは「花の種類と見目にまとまりがない」と、気に入らない風なのだが。
廊下を進む。
シンと静まりかえった廊下は、雨音をすっと飲込んでいく。
なんの変哲もない時間が、いやにどきどきした。
「ここが私の部屋。正確には私と兄さんの部屋」
「お兄さんと共用なんだ」
「昔からそうなの。部屋のものには気をつけて。いい人だけれど、こだわりが強いから。私のならいくらでも触っていい」
ドアを開き、ジーノを招き入れる。
他の家族はいないのに、ジーノはやけにかたい表情をしていた。
初めてジーノの家に遊びに行った時のルカヤのようだ。
「せっかく来てもらったのに、面白いものはなんにもないの。ごめんね」
「そんなことないよ。君と二人っきりで嬉しい」
「あ、ありがと……えっと。飲み物いれてくる。あったかいやつ。カフェラテ、好き?」
「大好きだ、うん、バケツいっぱいでも飲める」
「おなか壊しちゃうよ」
カフェラテをいれて戻る。
ジーノはベッドを椅子代わりに座ったまま、部屋を出た時とすんぷん違わぬ姿勢でいた。
勉強机にカフェラテを置く。
その間も背中から視線を感じた。
兄もルカヤを呼び寄せる時は穴があくかと思うほどじっと見てくる。
ジーノの隣に腰を下ろした。彼が息を飲む。
「ごめん。私、こういうのあんまり詳しくないから。どうしたらいいかわからないんだ」
「いや、僕の方こそ」
「自分ではもうちょっと落ち着いてるかな、って思ってたんだけれど。意外とドキドキしてるみたい。よく考えれば、先にリビングの方がよかったよね。テーブルも椅子もあるし」
リビングだと祖母がいきなりやってくるので、みたい番組や広いソファで横たわりたい時以外は、ほぼほぼ自室にこもる。
習慣が出てしまった。とことん気が利かない女だ、とうつむく。
「いや! ここでいい。ここがいいよ」
座ったまま、ジーノが距離を詰めてきた。
支え代わりに、腰の両側に置いていた左手に、彼の右手が重なる。
熱い手だ。ルカヤより一回り大きい。ジーノの手に流れる血の温度が移ってくる。
近いな、と思った。胃の底のあたりで、また、不自然に不愉快な感情が鎌首をもたげる。
脳裏に泥のつまった爪と皺だらけの小さな掌が浮かぶ。祖母に平手打ちをされた記憶が花火のように過ぎ去った。
顔をあげる。がちゃりという金属がまわる音がした。唇に柔らかいものが重なる。ルカヤの呼吸を覆ったものには、ぷにっとした弾力があった。遅れて、熱が伝わる。血の温度だ。
頭が真っ白になった。
まばたきを忘れた目は、脳に映像を伝えはするが、理解する余裕がなかった。
外は暗くて、ジーノの顔は赤かった。電気の光がやけに眩しく感じた。
「本当に、好きだよ。君のことが」
いつのまにかルカヤはジーノと正面から向き合っていて、彼の手はルカヤの背に添えられていた。
ガラス細工を扱うように、ベッドに寝かせられる。
天井の丸い蛍光ランプが、太陽のようにルカヤの網膜を焼いた。
「あの、ごめんなさい。私、人と付き合ったのが初めてで、普通の恋愛のルールを知らないかも知れなくて、だから間違いがあるかも、待って」
白く明滅する視界に目を細め、ジーノの胸板を押し返す。
パニックのなかで思考がまとまらない。なにもかも白い。見えないせいだ。
大きな影が電気を遮った。やっと目の痛みが治まる。助かったと思った。
「なにやってんだ、テメー」
喉元に刃を這わせるような、ドスのきいた声。
激昂すら麗しい、エヴァンの声だった。
「兄さん!!」
兄の白い手がジーノの首根っこを掴み、床に引きずり倒した。
「なにやってんだってきいてんだ。耳ィ潰れてんのか?」
エヴァンはジーノが立ち上がることを許さなかった。
椅子をひっぱって床をひっかき、軽々と持ち上げる。
小学校入学時に買ってもらった木の椅子で、エヴァンはジーノを殴りつけた。
二度、三度。
ジーノは体をくの字にまげ、必死に頭を守った。
「兄さん、やめて!」
ルカヤははっとして兄の腰に抱きつく。
止めようとした。だがエヴァンの力強さといったら、嵐を相手にしているようだった。
「どきな」
一言だけいって、必死でまとわりつかせた腕を、じゃれつく子犬を引き剥がすように離される。
「違う、その人何にも悪くない。酷い人なんかじゃない。私が悪いの!」
喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
兄は椅子を投げ捨て、長い足でジーノの腹を蹴った。
怒鳴らない口ぶりからは信じられないほどの全力で。サッカー選手がボールを蹴るように思いっきり。
人から聞いたこともないような呻きがした。
エヴァンの冷徹な暴行に、ルカヤを全身から血が抜けるような虚脱感が襲う。
立とうとしてころける。腰が抜けていた。
長い足でジーノに蹴りを入れる兄のそばを匍匐で動く。
震える指で携帯をとり、シンプルな番号を入力した。
「もしもし、救急車――救急車呼んでください!」