第六話「走る未来」
湿った夕方を走るのは好きだ。
夏なら晴れ渡った昼空の下で風を切るのも好きだが、秋は夕方が抜群だ。
しかし今日は心が沈んでいた。
天気予報では今日の最高気温は18度。夜になれば11度まで冷え込む予定だ。
降水確率は70%で、つまるところ天気はいつも通り。
いつもと違うルカヤの意識を占めるのは、昨夜の兄、エヴァンのことだった。
兄の気性は激しい。
今までは軽い喧嘩をしても、口喧嘩ぐらいだった。
これをきっかけにまたあんなケガをしてきたら。それがとんでもない大怪我や後遺症に繋がったら。あるいは人にそうしてしまったら。
「ま、待って、ドゥランテ……ルカヤちゃんったら!」
集中して走っていたら背中を叩かれた。
はっと振り向く。
「あ、ごめんなさい! えっと、ジーノ」
いつの間にか、相当なハイペースになっていた。
ゆっくり速度を落として、初めて呼吸の乱れに気づく。
この心臓がばくばくと脈打つ感覚を感じないとは、自分で思う以上に兄が気がかりらしい。
汗で額を濡らしたジーノはルカヤに追いつくと、膝を曲げた。
中腰の体勢で荒く息を整えている。
今日も出くわして、同じコースで走っていたのに完全に忘れてしまっていた。
ひどく申し訳なくなり、ルカヤは自分のタオルをもってオロオロ周りを見渡した。
汗を拭おうにもルカヤのタオルでは気持ち悪いだろう。
自動販売機でもあればスポーツドリンクのひとつでも買えるのに。
泣きそうになるルカヤをジーノが中腰のまま見上げてくる。
赤く染まった邪気のない笑顔だった。真っ直ぐな視線に、つい目をそらす。
「ル、ルカヤちゃん、凄く早いね……今、何分かかった?」
「待って。タイマーをみると……5キロ走って15分40秒前後。だいたい1000メートルで3分10秒くらいかな」
「すごいな。息切れもすぐおさまってる。短距離はさぞ早いんだろうね」
「ううん。一気に走るのは苦手。慌てるし」
「そうなの? いやでも、本当早いよ。足に羽が生えてるみたいだ」
「大袈裟だなあ」
兄もときたまそういう言い回しをする。
男の子はみんなそうなのだろうか?
「大袈裟じゃないって。そうだ、もし君がよかったら、いつかヴェネチア行こうよ」
「ヴェネチア?」
「都市だ。でっかいマラソン大会がある。18世紀の貴族の別荘を走り抜けて、リベルタ橋を渡るんだ」
「遠いよ。お金も時間もかかる。凄い人もいっぱいくるし。何よりわたしが枠に入れたら、走りたい人の枠が1人分減っちゃう」
「どっちもいくらでもあるさ。金は貯めればいい。時間はたっぷり。なにせ10歳以上なら死ぬまである。枠は9000人と4500人。同じ州にあるんだからナポリやパレルモと比べれば目と鼻の先だ! みんな君の走りっぷりにびっくりするよ」
ジーノの提案は唐突で、あまりにも大きかった。
ルカヤが速いように見えたなら、この街の規模が小さいからだ。
母数が少ないからルカヤが速いと錯覚しただけ。
「そうね。もし走れたら、気持ちよさそうだね」
ルカヤにとって彼の錯覚は心地よかった。
初めて抱く感想に、我ながら戸惑う。
ヴェネチア。大きな大会。まだ見ぬ麗しき景色の夢。
遠い土地の話は、ルカヤが生きる世界がいきなり広くなったような怖さと期待を与えてくれる。
ルカヤの口角は無意識にあがっていた。
「あなた、いい人だね」
「君は素敵な人だ」
「なっ」
何故ジーノがこんなにルカヤを褒めるのか、理解できない。
何十キロも走るよりずっと頬が、いや、頭全体が沸騰したように熱くなる。
ルカヤはタオルを首にかけ、ぬぐうふりをして顔を隠す。
なんだろう、ジーノはルカヤをからかって、何を企んでいる?
「わ、私なんかと一緒にいていいの? 素敵な人ならいっぱいいるんだよ」
いつまでも顔を拭いているルカヤを、ジーノが覗き込んでいるのを感じる。
体温でわかる。すぐ隣に立っている。
こんなに近くにいないで欲しい。それだけは不自然なほど嫌な気分になる。
ジーノは控えめに切り出した。
「あのさ。何か悩みがあるのかい?」
「えっ」
「いつもより目線が下を向いて走ってた。あれじゃあぶつかる。後ろでヒヤヒヤしてたよ」
「えっと、あの。ちょっと、家族のことで。仲が悪いとかじゃないんだけれどね? こう、色々あるの。例えばどう話したらいいのかなとか。そう、色々」
何を言いたいのかうまくまとまらない。これだから話すのは苦手なのだ。
ジーノから距離をとろうとすると、タオルを握りしめていた手を取られた。
「無理にとはいわないよ。でも、困っているなら何でも相談して。話をきくぐらいならできるしさ」
「ジーノ……」
「僕ら、恋人だろ?」
「………………え?」
沈黙が降りた。
思わずタオルから手が離れる。
まん丸に見開かれたジーノのブラウンの目と目があった。
「え?」
「ちょ、ちょっと待って。え?」
「ルカヤ?」
「待って……ごめん! ちょっと、ちょっと兄さんにきいてくる!」
ジーノはいい人だ。
だが彼はなんといった? 恋人?
誰と誰が?
兄の喧嘩も頭から吹っ飛んでいた。
とにかく、どういうことなのか知りたい。
真っ先に浮かんだのは兄の美しいかんばせ。異常なほどモテる兄だった。
ルカヤは真っ白になった頭のまま、その場を走り去った。
◇◇ ◇
「っていうことがあって。どういう意味だと思う? 私、いつのまに彼氏ができたの?」
「なんだァ、いきなりどたばた飛び込んできたと思ったらよ。そういうことかよ」
一足先に帰宅していた兄に、一連の出来事を説明する。
ソファに両腕をかけて尊大にくつろいでいた兄は、ぴくりと眉をはねさせると、やれやれとこめかみを押さえた。
「あー……そもそもお前、彼氏ってどういう風にできるか知ってるか?」
「告白するんでしょ? 漫画で読んだ」
「日本の漫画だろ、それ。いいか、ルカヤ。この国じゃあな、フツーは2~3回一緒に出かけたら、もう付き合ってるって思われんだよ」
「!?」
自分の出身国の文化だというのに、まるで知らなかった。
断る理由もないと走っていたが、あちらからすればデートのつもりだったのだ。
思えば、女子とは髪の話をするばかりで、同じ学校の男子とは行事以外で話した覚えがない。
次々入れ替わる兄の恋愛事情を眺めているうちに麻痺していた。
恋人関係がどう成立するのか。ルカヤは恋愛についてちっとも知らなかった。
「お前はあんまり人と喋らないからなあ。そういやオレも自分からはあんまりそういう話しねえし」
「え、え、どうしたらいい……?」
「そうだなあ。数回デートして、家族や友達に紹介してきたら真面目に好き。そうじゃなきゃ遊びだ、とっとと別れろ。あとお前からは絶対に家に呼んでやるな」
「全然アドバイスになってないよ!」
「恋愛はフィーリングだ、フィーリング。『感じ』が全てなんだ。あう気がしたらあってるし、違うなら違う。確かめるためには経験を積むしかねぇ。経験を積むには行動するのみだ」
エヴァンはよどみなく言い切る。
言葉では理解できる。だがいくら想像しようとしてみても、他人の話されているようにフワフワとしか飲み込めない。
混乱しきっているルカヤを眺めて、エヴァンは目を細めた。
白い口元は真一文字にひき結ばれ、難しい顔になっていた。
目を細めたまま手招きをする。
近づくと、エヴァンの股の間に座らされた。
腹に腕が回って、ルカヤの首筋にエヴァンの顎が乗せられる。
「そうか、お前にも遂に彼氏ができるか」
ゆるゆると息を吐くのがくすぐったい。
エヴァンの不機嫌な表情には様々な意味がある。
実際は眠かったりリラックスしていたりする時もあるし、本当に怒っている場合もある。
今の兄がいかなる感情に囚われているのか、ルカヤからはイマイチわからない。
「遅いかな。それとも早い?よくわからない。ねえ、私が恋人ってダメなことかな?」
「いや。いいことだ。いいヤツができるのはな。いいことだぜ」
ルカヤをぬいぐるみのように抱きしめるのは、子どもの頃の習慣だった。
仕事で両親がいなくて寂しい時は、よりそいあって同じベッドにくるまったものだ。
「もしかして寂しいの?」
「なあルカヤ。オレの宝物。その不届きな盗人が、お前を酷く扱うヤツならすぐに言え。兄貴がなんとかしてやるぜ」
「物騒だなあ」
「物騒にも大袈裟にもなる。第一、あっさりやられてそれきりですます腰抜けなら、ますます気にくわねえな。こんなに真面目で可愛いオレの妹を、ぽっと出の野郎がよォ」
「兄さん、顎グリグリしないで。痛い」
可愛いだとか、雑誌のモデル顔負けの美青年に言われても説得力がない。
「ルカヤ。お前はオレと違ってまともなヤツだ。よく出来た子だ。それに見合う男は信用できる男じゃなくちゃあいけねえ。世の中信頼できるヤツっていうのは案外少ねぇんだ」
決断的な兄には珍しく、うんうん唸る。猫が鳴いているみたいだ。
ようやくルカヤは、エヴァンが真剣に心配しているのだと察した。
いくらルカヤが鈍いからといったって、心配性に過ぎる。
だがそれは他の家族からは感じられない類いのぬくもりだった。
腹に回された手に、兄より少し濃い色の手を重ねる。
「兄さん。あのね、その人曰く、私って素敵な人なんだって」
「知らなかったのか?」
「兄さんも素敵な人だよ」
「知ってる」
「だから大丈夫なのかも、って今思った。兄さんと同じ感想を私に持ってくれる人だもの。そんなに気にしなくっていいのよ、兄さん」
饒舌なエヴァンがぴたりと止まった。
(恥ずかしいことを言ってしまった)
立ち上がろうとしたが、腰はしっかりホールドされている。
二、三回のまばたきを経て、兄の大きな手が乱暴にルカヤの髪をかき混ぜた。