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第五話「兄の愛」


 妹の作ってくれた弁当の蓋を閉める。

 学校終わりに女生徒に外出に誘われ、食べ始めが遅くなってしまった。

 いつもなら適当に頷くところだが、今日は予定がある。


「そろそろ行くか」


 膝を払う。立ち上がると自然と溜息が漏れた。

 憂鬱で眉間に皺が寄る。

 携帯を開いてメモを確認すれば、まだ見慣れない住所が出てくる。

 送り主は両親になっている。

 唐突だった。

 数日前、エヴァンと直に話し合いたいと、呼び出されたのだ。


 書かれた場所に向かう。

 路地に一つに繋がっているような石造りの壁がずらりと並んでいる。

 白い石壁に手をあて、メールを確かめなおし、それらしきアパートを選ぶ。

  

 通りに面した門から中に入ると、白と黒のタイル床がエヴァンを出迎えた。

 昼間でまだ電気がついていない廊下は薄暗い。

 エヴァンの背面になった、ガラスの面積が多い扉から、ほの暗い光がさしこむ。


 アンティークな雰囲気の静閑な住居だ。

 地下鉄が遠いのを除けば、なかなか住み心地もよさそうだ。

 階段をのぼり、部屋のひとつへ。

 インターホンを押せば、すかさずエヴァンの名が呼ばれる。待ち構えていたかのようだ。

 エヴァンを先に出迎えたのは母だった。


「来てくれたのね」


 母はほっとしたようにまなじりを下げる。

 その後ろから父も出てくる。

 母の肩に手をのせている。仲睦まじい様子だ。


「学校帰りで疲れただろう。あがっていきなさい」

「長い話か? 夕飯つくるから早めに帰りてえんだけど」


 入るのを渋る。

 両親は目を合わせ、エヴァンに哀れむような目を向けた。


「ごめんなさいね、エヴァン。そんな大変な思いをさせて」

「…………」

「あなたたちが家事も勉強も頑張っているのは知ってるわ。ルカヤがメールで知らせてくれたから」


 両親の謝罪を話半分に聞き流す。

 謝るぐらいならさっさと帰ってくればいい。

 だが幼子が一方的になじられていても、見守るだけだった両親だ。


 エヴァンが彼らを親だとまだ思っているのは『金』、その一点である。

 子どもが生きていくに十分な金額を稼ぐのは難しい。

 好きな能力を育てるだけの教養を育もうとすれば、ほぼ不可能だ。

 遊ぶ金に回してもいいのに、潤沢な資金を与えてくれる点のみで、かろうじてエヴァンは両親に感謝することができた。


 だから親と話すのがたまらなく億劫だった。

 何気ない会話のなかで、いつか幻滅させられる台詞を放たれるのではと恐ろしいのだ。


「ほら。椅子にでも座って休め」


 露骨に口数が少ないエヴァンを、父は半ば強引に室内に招き入れた。

 室内に入ると、キッチンでケトルが湯気をあげているのが目に入った。


「今コーヒー煎れるから」


 狭い部屋だ。

 小綺麗に掃除が行き届いた部屋の調度品は何もかもこじんまりとしている。

 適当に窓際にたち、枠を指ですくう。

 この国の物件にもれず、かなり古い建築物のようだが、指先には埃一つつかなかった。


「ここに住んでるのか?」


 指先を見つめたまま問う。

 両親がまた顔を見合わせたのがわかった。


「本当、仲良いよなあ。あんたら」

「エヴァン。私達がいいたかったのもね、その話なの」

「へえ。それってあとでルカヤに言える類いの話?」

「私達、半年前からここに住んでいるの。買ったのは二年ぐらい前。最初は家に帰りづらい時だけここに避難するために」


 ありもしないヨゴレを爪で弾く。

 ゆったりとした動作で歩いた。窓際からまた玄関に近づく。椅子に座る気はなかった。


「エヴァン、あなたもここで暮らさない?」


――せっかく我慢しようと思っていたのに。

 エヴァンは椅子を強く蹴っていた。


「本気でいってるのかよ」

「え、ええ……色々先生から話をきいたの。いい話も、悪い話も。あの家にいるのがつらいんでしょう? 一軒家に比べたら狭いけれど、ここもいい家よ。あと一人くらいなら」

「ルカヤは?」


 感情的に物に当たる態度に、母がうわずった声で説明を始めた。

 どれにも意味がない。

 父が母子をいさめるように中間に立った。


「オレと暮らすならルカヤも呼ぶんだろ」


 両親どちらとも、ぴくりとも首を動かさない。

 しびれをきらして三度問う。自分の想像以上に低く這うような声が出た。


「違うのか」

「だって。誰もいなくなったら、誰がおばあちゃんの面倒を見るの」

「わかった。オレは帰る。今のところ、まだオレの家はあそこだ」

「エヴァン!」

「別にいいだろ。あんたたちだって人間なんだから、俺達に全て捧げろとは言わねえさ。このままあんたたちはここで暮らせばいい。だがルカヤとババアを二人きりにはしない」


 引き留めようと遂に父がエヴァンの腕を掴む。

 記憶にあるより弱々しい。

 違う。それは子どもの頃の記憶だ。自分の方が成長したのだ。

 かつて慕った父は頼れる男などではなかった。エヴァンの心臓がどんどん冷え込んでいく。


「覚えてるか? 昔、ルカヤが木から落ちた時のこと。あのときはオレのこともルカヤのことも平等に叱って、心配してた」

「大丈夫。ルカヤは強い子よ。おばあちゃんだっていつまでも生きてるわけじゃあないわ」

「父さんと母さんまで、いつのまにかルカヤよりオレの方が『宝物』って思うようになったのか? その、ろくに生きてて欲しくもないババアみたいな考え方をするように?」


 両親と自分の望みは平行線だ。決して交わらない。妥協点の探しようもない。

 エヴァンは父の指を一本一本、優しく引き剥がした。


「オレにとっての生活はルカヤと一緒に作ってきたものだ。とっくの昔に、そこからあんたたちはいなくなっていた。親に呼ばれたら喜んでついてくるとでも。あんたたちがどうしてババアを捨てて夫婦で暮らそうとしたのか、考えろよ」


 我が子をないがしろにしてきた自覚があるのか、ないのか。

 母は祈るように口元で指を組み、父は鼻の頭をかいている。

 特に父の動作がノンキに見えて腹が立つ。エヴァンは真剣だというのに、子どもの癇癪と馬鹿にされているようだ。


「ルカヤにメールをもらってたのに、知らなかったのか?」

「でも……先生の話だと、あなたの方が荒れてるって」

「あいつは頑張ってるんだよ。ギリギリで踏ん張ってる。オレより余裕があるからじゃあねえ」


 ルカヤはエヴァンより弱い部分も多い。

 しかしきっと、エヴァンよりずっと心の器が深く出来ている。本当はいつだって、器にはエヴァン以上の不安と恐怖がなみなみ注がれているはずなのだ。


「もしもルカヤがいなかったら、オレは料理なんてしない。面倒くさくて全て外食で済ませてる。あの鬱陶しいババアのツラなんか拝みたかねえ。家にも帰らないだろうぜ」


 持ち物は定期入れ、カード一枚、小銭紙幣を数枚だけ。

 荷物をかかえ直す手間もなく、エヴァンは部屋を出た。

 行き場のないイライラに、玄関先で一度だけ振り向く。


「それともなんだ。子どもだからわからないだけだとでもいうか。だったら、もしもオレが家でバットもって暴れたり、あんたたちを罵ったりした時、きちんと注意できんのか。もういっぺんあの家に帰そうと思わないって胸はっていえるか?」


 何も言ってくれない。

 黙っていればいずれこちらが折れるとでも思っているかのように。

 母が震えた手で淹れたてのコーヒーをカップに注ぐ。

 机に置こうとしたカップを父が奪った。シンクに中身を捨てる。

 恐らく、エヴァンのぶんのコーヒーだったのだろう。


「オレはルカヤと暮らす。余計な気は回さなくていい。この半年、気持ちよく過ごせたのならこのままにしてくれ。オレも同じだったから」


 階段を駆け足で降りる。

 追いかけてくる気配はない。父親の足音ひとつ聞こえてこなかった。


「はあ」


 大人と話していると、どうしても溜息が増える。


「かっこ悪ぃなぁ」


 顔を覆って天を仰いだ。雲一つない快晴が目に入る。

 せめてルカヤの前ではこんな顔は見せたくない。

 こんな話をされたなんてルカヤには悟られることすら嫌だ。


 いくらチヤホヤされても、一番柔らかいところを補ってくれるのはルカヤだけだった。

 エヴァンもまた兄として、あの可愛らしいお姫様が傷つかずに生きていけるよう、守ってやらねばならない。

 気分を切り替えるために、しばらく適当に歩き回ることにした。


 元住んでいる駅に帰れば、見慣れた景色に多少は呼吸が楽になった。

 妹と食べるためにドルチェでも買って帰ろうかと裏路地に入る。

 表通りを歩くと人目がうるさい。

 いつもなら気にならないが、今日はダメだ。


 エヴァンは判断を誤った。

 昼を過ぎて夕方に近い時刻に、日の入りにくい路地に入るのは自殺行為だ。

 狭い道で、エヴァンと同じくらいの年格好の男と肩がぶつかった。


「悪いね」

「待てよ」


 気にせず過ぎ去ろうとする男の肩を掴んで引き寄せる。

 後ろに倒れかかった男に自分の足をひっかけると、わざと転ばせた。


「悪いね。足が長くってよ。でもテメーがオレの財布をスったのが先だぜ」


 ズボンのポッケに手を入れ、財布を引きだそうとする。

 身をかがめたエヴァンの胸ぐらを男が掴む。


「なんだよ」

「本当に性格の悪い奴だな。自分が寝取った女の男も知らないのか」


 ああ、と納得する。

 エヴァンに近寄ってきた女が、付き合っていた男を振って乗り換えようとしていたというのはたまにあることだ。


「オレがとったんじゃなくて、テメーの女が勝手にオレに惚れただけだろ。オレから好き合ったわけでもねえのに、迷惑な話だ」


 き、と男の目が燃える。

 名も知らぬどうでもいい男だが、その目はちょっぴり気に入った。


「ふうん。テメーは本気で好きだったのか」


 羨ましいことだ。

 純粋できらきらした目だ。妹を思い出す。


「だからオレに仕返しにきたのか? いいぜ。ちょうどイライラしてたんだ。付き合うぜ、顔も狙っていいぞ」


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