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第三十七話「崩壊のいかづち」


 ルカヤは地下室に放置されていた。

 かたい木の背もたれにがっちりいましめられ、太ももの裏が痛み出している。

 先ほどまで受けていた電気ショックに比べればかゆい苦痛だろうに、地味な不快感は地道に心を削っていく。


 もう一時間は同じ姿勢だ。

 四肢を椅子に固定したまま、老人は狼狽した様子で出て行ってしまった。

 地下室にもひいたダイヤル式の黒電話をとったあとだったので、なにがしかのニュースが入ったのだろう。

 しかし、ルカヤは老人に何が起きたのか、知る気力はなかった。


 逃げるチャンスともとれる今、ルカヤは指一本動かせない。

 痛みはまだ堪えられる。

 問題は心だ。いくら己を叱咤しようとしても、無気力の大波に気合いが浚われる。

 小耳に挟んだ話だと、アメリカ合衆国で行われる死刑制度では、体温が約二倍程度にあがるという。

 

(血が、最近出た電気ケトルみたいに暖められるようなものかな。苦しいのは当然か)


 大学の本で読んだ。

 動物は、痛みを与えられると、最初は抵抗する。

 やがて抵抗が無駄だとわかると、無気力になってなにもしなくなる。

 たとえ何もしなかったところで好転するわけでないと知っていても、心が屈してしまうのだ。


 気絶できなかった点をみるに、実際に流された電流は、死刑執行に用いられる2000ボルトより低いのは間違いない。

 髪が酷く臭う。電気で焼かれたのかもしれない。

 焼き肉の匂いもした。足がじくじく痛むから、焼けているのかもしれない。

 筋肉の動きが狂い、失禁している。

 みっともなかった。

 だというのに、あるのは不快感ばかりで、もはや敵愾心もわいてこない。


「……もう涙も出てこないな……」


 散々泣き叫んだせいで喉は枯れていた。

 呼吸をするたび、塩水を飲んだように苛まれる。

――ああ、わたしはここで死ぬんだ。

 当たり前に考え、絶望とともに受け止めようと目を閉じる。


 コンコン。ドアがノックされた。

 ルカヤは沈黙で死に神を出迎えようとした。


「全く。ほら見ろ、兄ィのいうとおりになったじゃねえか」


 聞くものの耳をとろかす低い声。

 聞き慣れた声に、ルカヤの両目が大きく見開かれる。


「幻覚?」


 うろたえるルカヤの眼前で地下室の扉が押し開かれた。

 見事な金髪と青い瞳をきらめかせる美青年が現われる。


「え、あ、あ」


 口をぱくぱく開閉し、瞳孔のひらいた目をゆらすルカヤの拘束を、エヴァンが丁寧にといていく。


「……兄さん? どうしてここに」


 恐怖と安堵がない交ぜになり、吐き気がこみ上げる。

 どくどく暴れ出す心臓にめまいがする。

 兄は慈しみの込められた完璧な笑みでひざまずき、焼けたルカヤの手の甲をさすった。


「もう大丈夫だからな」


 その後ろから、赤いシャツを着た男も出てくる。

 彼は軽く手をあげ、陽気で愛嬌のある笑みでルカヤを照らす。


「久しぶりだなぁ。ずっと準備して待ってたのに来ないから、迎えにきたんだぜ」

「ガエ、タノ先生? どうして兄さんと……そんな、なんで……嘘だッ!」


 枯れたはずの涙が流れ、頬を濡らす。

 塩辛い涙は、泣きはらした頬にしみる。

 体も脳もピリピリ痺れた。解放された手足で逃げようとして、容易くエヴァンに絡め取られる。

 ルカヤの背中をトントンとやわく叩き、「どうどう」といなされる。


「先生ッ、騙してたんですか、いつから兄の味方だったんですか!」

「嘘はついてないさ。真意をいってなかったのは認めるけど。組んだのもオマエさんのお兄ちゃんが監禁をはじめたあとだぜ。なにより、オレはルカヤちゃんの敵じゃあねえよ」


 最後の記憶にあるものと同じ、曇りない優しさに、ルカヤの目の前が真っ暗に染まる。

 ルカヤはエヴァンの腕のなかで、ずるずると崩れ落ちた。


「さ、大人しくしてくれよ。手当をしなきゃならん」


 ガエタノの痩せて骨張った手は仕事用鞄を携えている。

 かつてルカヤが手入れしていた見慣れた治療具たちで、ガエタノは無駄なく丁寧に手当する。

 時間に迫られていない、余裕のある治療だった。


 ルカヤが逃げないよう抱きしめる兄のスーツから、鼻腔に硝煙の臭いが刺さる。

 ルカヤの虚ろな瞳がエヴァンを見上げる。

 妹からかたときも目を離さないでいたエヴァンは、ニィと強気に笑い返した。


「オレ以上の男なんていなかっただろ?」


 ぴき。ぱき。ぱりん。

 大事なものが割れた。

 全ての理性を集めて守ってきた、最後の堤防が。

 ルカヤはエヴァンのシャツをわしづかむ。

 胸板を額で小突き、ルカヤはちからのはいらない全身でエヴァンにしがみついた。


「うわあああん! あああ、もうやだあああ!」


 割れた喉から、制御を失った感情の塊が吐き出される。


「やだ、やだぁっ! いたいのやだ、こわいのやあ! やなの!」

「よしよし、いいこ。いいこだルカヤ。おうちに帰ろうな」

「うわああッおにいちゃん、おにいちゃんたすけて、おうちかえるぅ、もうやだあ、……」


 精神的な負荷に耐えきれず、幼児退行したルカヤの頭部を、エヴァンは撫でる。

 鳥の羽ではらうように、優しく、優しく、丹念に。ねっとりと。

 ルカヤから見えない口元はうっすらとつりあがり、まなじりは下がって、深海の青を宿した瞳を深める。

 満ち足りた彼の貌は、獅子のように傲慢で、神々しいほど美しかった。


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