第三十二話「赤の人」
一秒でも早く家を離れねばならなかった。
放置されていた肩がけ鞄に、持てる荷物を突っ込む。
携帯電話は目の前で踏みつけられた。
財布は使わないうちにどこかへ消えた。変にプライドの高い兄なので、盗まれてはいまい。されど探す時間が惜しい。
ルカヤはリビングに戻り、テレビの下敷きになっているローボードを開く。
ローボードのなかの天井に手を這わす。人差し指の腹にチクッとカドが触れた。
引き剥がす。それなりの厚さのある封筒が手に入った。
ヘソクリだ。カウンセリングの経験から学び、こっそり、いざというときのために蓄えておいたのである。
「身分を証明できるものは――」
引き出しをあさろうとして首を横に振る。
もう二度とないかもしれないチャンスだ。
保険証の類いは後で役所かなにかで申請しなおそう。
真っ赤に染まった空のしたを歩き出す。
走れないのにこれほど困った時はなかった。
(なにはともあれ、遠くへ。警察にはいかない。カトリックの国で近親相姦なんで、兄さんがどんな目に遭うか。兄さんの手が届かない場所にいければいい。そうすれば時間をかけて、兄さんももとの兄さんに戻ってくれるはず)
あの兄だ。
一時は傷心しても、周りが放っておかないはずだ。
なによりしたたかな人である。いずれ本当につれそうべき人が兄を救う。
ルカヤがいなくなれば、自然と他の人間との繋がりに集中する。時間をかけて、ルカヤもエヴァンも、正しい関係性のなかにかえっていくと願う。
(でもどうやって、どこへ? わからない……)
ルカヤはあてもなく歩いていた。
行き先に思考をはせた時、無意識に駅に向かっているのに気がついた。
引っ越してからずっと同じ道ばかり歩いていたから、習慣づいていたのだ。
駅は兄も利用する。
ルカヤの職場がカピリジナにある影響で、兄も近辺のレストランに勤務している。
カピリジナのなかでルカヤと合流した後、家に帰る。
ルカヤは思った。
いま駅に乗ったら、兄と鉢合わせするのではないか?
沈みかけの太陽は夕方の証だ。
地面から立ち上るほのかな熱気。季節は冬を越えた頃だろうか。春、あるいは盛りに至る前か後の夏?
ならば日没は遅い。もう兄の帰宅時間でもおかしくなかった。
うつむいてきびすを返す。
(貯金はそれなりにある。タクシーを拾えれば、いくらか先の町までは……。そうだ、ガエタノ先生を頼ろう。あの人なら助けてくれるかも)
封筒の厚みを心のよりどころに、あたりを探し回る。
だがうまくいかない。
なかには正規ではない、モグリのタクシーもある。そういう場合、ぼったくられる危険がある。女ひとりとなれば尚更危険だ。
暴力で身ぐるみ剥がれて、捨てられるかもしれない。
兄に散々警告された。
ルカヤの不運のせいか、まともなタクシーが見つからない。
なんとか捕まえた車にも、女という理由で断られさえした。
(いっそ徒歩で行こうか? 走れないけれど、体力はあるし)
困り果てていた時、後ろから声をかけられた。
「ルカヤちゃん」
びくっと肩が跳ねた。
咄嗟に飛び出さなかったのは、声の主が女性だったからだ。
「ルカヤちゃん、大丈夫?」
女性はもう一度問いかけてきた。
振り返れば美しい赤毛が目に入る。ふんわりした髪が夕日のなかで踊っていた。
「アリーゼ、さん?」
「覚えていてくれたのね、嬉しい」
大学生以来のエヴァンの彼女。アリーゼだ。
数年は経ってはいないだろうに、懐かしいと感じた。
兄以外の顔見知りに会えた。
じんわりとこみ上げるものがある。
感情が高ぶり、胸がつまって言葉が出ない。
アリーゼはフリーズしているルカヤに近づき、遠慮がちに肩に手を乗せた。
「困ってるみたいね。どうしたの?」
ルカヤは黙りこくる。
兄に何をされたのか。絶対に言えない。
アリーゼだって兄の真実を知ってもよくないはずだ。
ルカヤにしては頑張って頭をひねった。嘘でも本当でもない内容をひねりだす。
「助けて欲しい、です。あの。兄と喧嘩して。ガエタノ先生のところに行きたいんです。駅は使いたくなくて。兄と会ってしまうかも知れないから」
「そうなの? まあ、仲睦まじくても喧嘩ぐらいするよね。いいわ。あたし、車もってるの。一緒に行きましょう」
アリーゼはにっこりほほえみ、ルカヤの手をひく。
やんわりとした手つきは逆らう気力を持たせない。ちょっぴり子どもの頃の気持ちが蘇った。
これが母性というものか。
とげのない丸い表情は包容力で溢れている。ルカヤに似ている以外にも、兄と付き合い続けられた理由がわかる気がする。
「ここのすぐそばに買い物に来ていたの。足が悪いから、野菜とか手でもって運ぶのがつらくて」
アリーゼの車はすぐそばに止まっていた。
フィアットの小型車だ。彼女の容貌と同じ、愛らしい丸みとシャープさを兼ね備えた車両である。
アリーゼはルカヤを車の後部座席に座らせる。
「すぐ着いちゃうからね」
運転席から振り返り、安心させる言葉をかけてくれるアリーゼに、ルカヤも愛想笑いを返した。
エンジンが控えめなうなりをあげ、出発する。
(兄さんも、町なかを通る普通の車に手は出せないよね。これでひとあんしん……)
胸を撫で下ろしかけた時。
気を緩めたルカヤの頭脳がひらめいた。
ちからを抜きかけた体がりきむ。ルカヤはびくついて、思ったことを問うてみた。
「…………あの、」
「なあに?」
「ど、どうして、あのとき、あそこにいたんですか?」
兄への違和感から目を背け続けた結果が、ルカヤをいつになく疑り深くさせていた。
「言ったでしょう? 買い物にきたのよ」
「だってわたし、多分もう何日も出ていなくて。あなたとであったのもカピリジナだし。どうして今日たまたま、あなたと出会うんですか。それもわたしの家の近くで。こんなことってありますか」
偶然の再会。そんな幸運、あるだろうか。特にルカヤに?
「お兄さんのせいで疑り深くなった? 大変だったのね」
アリーゼは運転のため、前を見ている。
からかうような口調はころころと跳ねていたが、バックミラーにうつった目元は素面だった。
「違うっていってほしいでしょう。でも、ごめんなさいね」
ルカヤはドアに手をかけた。
――開かない。
鍵がかかっている。
なにかの間違いかと、何度かいじってみた。びくともしない。
「あたし昔は黒髪だったの。綺麗な黒髪の女の子」
アリーゼは世間話をするみたいに話し始めた。
冷静さがかえってルカヤを追い詰める。
「交通事故で義足になったのはいったわね。悲しい事故でね。家族旅行にいくとちゅう、信号無視で突っ込んできた車のせいであたし以外の家族は死んじゃった。そのあと数年は施設にいたんだけれど、ある日、あたしを気に入った人がやってきて引き取られたの。あたしみたいな子を探してたって言ってた」
ドアを開けるのをやめ、両手を膝の上に乗せた。
窓の外の景色は次々移り変わる。光景は、ルカヤの知らない光景になっていっていた。
ルカヤの知らないカピリジナだ。ガエタノの職場ではない。
「ねえ。いつ頃引き取られたと思う?」
「わ、わかりません……」
「そうよね。あれはそう、今から4年か5年くらい前だったかな。ぴんときた?」
「…………」
「あなたがバス事故に巻き込まれて、数年後もしないうちよ」
わけがわからない。
ただ、異常は伝わった。
何故、わざわざルカヤのバス事故の話を持ち出す?
否。そもそもどうしてアリーゼがバス事故を知っている?
あの兄が、妹の悲劇を言いふらすわけがないというのに。
「ルカヤちゃん。ひとつだけ安心していいのよ。あたしがあなたに似ているんじゃあない。あなたがあの子に似ているの。かつてあたしが似ていたように」
「あなたはいったい」
「安心して。すぐ教えてあげる。できたらもっと早く連れてきたかったのに、今までエヴァンくんが邪魔してて、連れてこれなかったの。ほら、あと数分で着く」
「どこへ?」
アリーゼは幽かな含み笑いとともに、車を止めた。
「あなたの新しい『家』よ。あたしたち家族の住むところ」




