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第三十話「やさしい家族愛」


 兄が出かけている時間、ルカヤは否応なしに暇だった。

 できることは限られている。

 リビングまでは行き来できるので、カフェオレをいれたり、手持ち無沙汰ゆえに掃除にふけってみたり。


 携帯電話とノートパソコンは取り上げられていた。

 他の家具は手つかずだ。本棚もある。

 試しに、読み残した書籍、とっておいた古い教科書を読もうともした。

 しかし、ページをめくろうとすると、どういても数枚めくったところで止まってしまう。


 暇を使い潰す手段を見つけ、安定してしまったら。環境に適応するまであっという間だ。

 果てには、兄の帰りを心待ちにし、兄の存在だけを望んで生きる生き物に成るのではないか?


 だから夢中になれる暇つぶしを見つけそうになると、ルカヤは目を閉じる。

 時計と窓のない部屋で、日付感覚は失われた。

 監禁から何日経って、どれほど睡眠に費やしたかわからないが。

 気が狂う前に、兄が正気に戻るのを願って、今日も彼女は眠りにつく。


 眠ったルカヤは夢を見た。


◇◇ ◇


 ルカヤは二段ベッドの下の段で、ぬいぐるみを抱いてまどろんでいた。

 寝ぼけまなこにうつるのは高い天井、大きな家具。

 目に映るもの全てに見覚えがある。今となっては懐かしい。生まれた頃から高校卒業までを過ごした生家である。


 太く短い指は子どものそれだ。

 きつく結んだおさげの毛先が首筋をくすぐる。

 夢特有のふんわりしたあたまで「幼少期の夢だ」と思う。


 

 ふかふか毛並み、ダークブラウンのテディベア。

 元は祖母からエヴァンへの贈物だ。それをエヴァンがルカヤに投げてよこした。

 祖母は激怒し、ルカヤから力尽くで取り上げてエヴァンに渡し直していたが、エヴァンもめげずに繰り返すので、今はルカヤのものになっている。

 ルカヤは、ぬいぐるみを抱え込んで足を折りたたみ、胎児のような体勢で寝ていた。


「おい、ルカヤ。起きろよ」


 愛らしいボーイソプラノ。声変わり前のエヴァンだ。

 彼がルカヤの布団をゆさゆさと揺さぶる。


「……おにいちゃん?」

「夕飯できたってよ。行こうぜ」


 兄に引っ張られ、ルカヤはベッドを抜け出した。

 リビングにつくと、祖母と父がテーブルにつき、母が食器を並べていた。

 ルカヤ以外、家族全員が揃っている。


――あれ。父さんも母さんもいる。十歳ぐらいの時かな。この頃はまだみんなで暮らしてた。


 ちんまい歩幅で、よいしょと椅子に座る。

 大人を想定した椅子で、脚が長く、ルカヤではよじ登る必要があった。

 遅れてやってきたルカヤに、祖母はこれ見よがしな溜息をついた。


「座って待ってりゃ料理が出てきて当たり前かい。偉そうに」


 はっとして座面から飛び降りようとする。

 食器は既にでてしまっていたが、母のエプロンが台所からチラチラ覗いていた。

 しかし、母に手伝えることがないか聞く前に、祖母からぴしゃりと叱咤が飛ぶ。


「言われてから動いてどうすんだい!」

「ご、ごめんなさい……」

「謝れば済むと思って。人を馬鹿にしてなめてるからだよ。子どもだからって調子にのって甘えてるせいで、普段から考えて人のために行動できないんだ。性根が腐っとる!」


 食卓の空気が一気に悪くなる。

 爆弾物が傍に置かれているように息が詰まる。

 口を出す間もなく、ルカヤがうつむいて祖母の怒りを受け止めていると、母がやってきた。


「すみません、お義母さん。この子も次からは気をつけるでしょうから、どうか」

「ふん。いつになったらまともな子になるんだか。これがいると食事がまずくなる! 今日はどっかにやっとくれ」


 母は細腕がルカヤの脇の下に差し込み、ルカヤを優しく降ろす。


「ルカヤ、ご飯をお盆にのせてあげるからちょっと待って。そうしたらお部屋でお夕飯を食べてちょうだい。ベッドにこぼさないようにだけ気をつけてね」

「じゃあオレも部屋で食べる」


 膝を曲げ、視線を合わせて言い聞かせる母の横に、兄が並ぶ。


「エヴァンはいいのよ!」

「なんで?」

「エヴァンは部屋で食べる理由がないでしょう」


 母はチラと祖母を盗みみた。

 言外に「あなたがいるのは問題ないのよ」と伝えたがっている。

 ここで素直にくちにだして、「なにがいいたいんだい」と癇癪を起こされるのを恐れていた。


「ルカヤだけひとりで食べることもねえじゃん。それでも親かよ。いいよ、自分でいくから」


 母の表情がひきつる。

 思っても言えないことを真正面からいったエヴァンは、かたまった母をおいて盆をとった。


 なお「そんなことしなくていいの」と止めようとする母、「お兄ちゃんだからって気にしなくていいのに」と猫撫で声でひきとめる祖母、傍観して飲み物を飲んでいる父を振り切り、エヴァンはルカヤを連れて部屋に入ってしまった。


 運んだ食事は勉強机の上に置いた。

 おなかはすいているはずだ。

 なのに、胃の中へ食べ物の代わりに感情がたまってしまったみたいに、食欲がうせた。なかなか食事に手をつけられない。

 やっと荒れ狂う心の波が小さくなって、スープをくちに運ぶ頃には、少し冷めてしまっていた。


 兄はルカヤが食べ始めるまで、フォーク片手に待っていた。

 一緒に食べ始めて、先にエヴァンが食べ終わった。

 エヴァンは今度はルカヤが食べ終わるまで口をつぐみ、最後の一口を嚥下したのを見ると、小声で彼女を慰めた。


「あんなの気にしなくていいんだからな」

「……わたしがわるいの。おにいちゃんが来ることなかった」

「オレが嫌だったんだよ。あんなやつらと食べると、(めし)の味しねえし」


 そこで兄は数度、咳をこぼす。

 最近喉が痛いという。天使のような美声はがらついていた。声変わりが近いのだ。


「わたしのせいだよ。みんなそういうもの」

「本気で思ってるわけじゃねえだろ」

「……それはわたしが自分に甘いから。わたしは悪くないって言い訳を、妄想しちゃうの」


 からの器を遠ざけて、ルカヤはこめかみをぽりぽりとかく。

 この頃のルカヤはそういう癖があった。

 考えたくないことを考えそうになると、まつげや前髪を抜くのだ。


「やめろ。せっかくの綺麗な髪と長いまつげがもったいない」


 兄の色男の片鱗の発揮時期は早かった。

 エヴァンは優しくルカヤの手をとり、髪をむしろうとする手を外させる。

 そのとき、二人の部屋がノックされた。


「ルカヤ。いるわね?」

「聞かなくていい」


 エヴァンのまだ薄い胸板が頭頂部に触れる。

 兄はルカヤの両耳を塞ごうとしたが、掌も大きくなりきっておらず、人の声はよく通った。

 扉越しの母に届かない囁きはルカヤのみに届く。


「エヴァンもいる?」


 エヴァンは返事しない。


「ルカヤ?」

「……いる、よ」


 耳を塞ぐ手が震える。舌打ちのかわりだ。

 そうはいっても、ルカヤに呼ばれて無視する度胸はない。


「そう。でも、いいわ。あのねルカヤ、お願いだから、お母さんをあまり困らせないで」

「…………」

「しようがないのよ。おばあちゃんはいくらいっても聞いてくれるのはわかりきってるでしょ。食事の時間なんかせいぜい三十分ていど。それだけ我慢すればいいのよ」


 母の言うとおりであった。

 世の中には子を殴る親もいる。たかが三十分、家族の空間から省かれるぐらい、なんの害があろう。

 だというのに、ルカヤはいつも胸が張り裂けるような寂しさに襲われる。

 「わかった」と頷けなかった。

 兄は「聞くな」と警告を続ける。


「聞いてるのッ!?」


 母がドアを殴った。疲れ切り、爆発した金切り声でルカヤをなじる。


「親なのかっていうけど、親だって人間よ! 疲れるし、万能じゃない。あなたをいつだって守れって? 仕事やめて、ずっと傍にいろっていうの」

「そんなこと……」

「できないでしょ! そうよ。これって虐待よね、子どもから親への虐待よ! みんなみんなあたしに押しつけてばっかり! ねえルカヤ、あなたあたしの子どもよね。子どもぐらい、あたしの味方になってくれないの?」


 ルカヤは縮こまって、兄に抱きつく。

 母が追い詰められているのはわかる。あの祖母の言動を最も正面から浴び、愛想良く機嫌とりに勤しんでいるのは母だったから。

 ならばルカヤは誰に助けを求めればいい?


 閉じこもり、無言を貫く子どもたちに、母はやがて嘆きを込めて呟いた。


「二人目なんか産むんじゃあなかった」


 涙ぐんだ台詞を、ルカヤは本音としか思えなかった。

 髪を抜きたい。あるいは高いところから飛び降りたかった。できるなら、我が身を切り裂いてバラバラになってしまいたい。

 生きている恥ずかしさと申し訳なさにいっぱいいっぱいになる。たまらなく、自分が消えた世界を願ってしまう。


「なんてやつだ。あんなの全部嘘っぱちだぜ、気にするな」


――違う! お兄ちゃんは優しいから、わたしとちがってちゃんとした子だから、そんなことを言ってくれるだけ。


 エヴァンは声を押し殺して泣き崩れるルカヤを撫でる。

 泣き疲れて眠ってしまうまでそうしていた。


「大丈夫。誰もわからなくたって、オレはお前の価値がわかってる。お前だけがオレの家族だ。ずっと一緒にいる。オレにはルカヤが必要だ……」



◆ ◆ ◆



「ただいま」


 飛び起きる。

 すっかり低くなり、男性らしくなった声と胸部が眼前にあった。


「汗まみれだぜ。悪い夢でもみたのか?」

「あ、あ……」


 眉を下げて、エヴァンはルカヤの顔色を確かめた。

 ルカヤのみが知る表情。昔と変わらぬ優しい顔。


「わたしのせい、わたしのせいなの」

「ルカヤ?」

「お母さんの言うとおり。生まれなきゃよかった! わたしが生まれなければ兄さんは家族と仲が悪くならなかった、こうはならなかった……」


 髪をつかんで振り乱す。

 そんなルカヤを食い入るように見つめ、エヴァンはみるみる眉間に深い皺を刻む。


「ちっ、やはりとっととあのクソどもから引き離しておくべきだったぜ。大学に入ってから繋がりをきるんじゃ遅かった。家出でもなんでもしときゃあ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 体を揺らしてひたすら誰ともなく謝るルカヤを、エヴァンは強く抱きしめる。

 骨が軋む。遠慮のない抱擁に、体内の空気が押し出され、ルカヤの喉がキュウと鳴く。


「そんなこというなよ。もう過去には戻れねえんだ、これからを考えようぜ」

「ごめんなさい、ごめんなさい……わたしじゃない誰かを愛して下さい、お願いします……」

「オレだって祈ったぜ。可愛い妹にイイ男が、オレにはイイ女が出来ますように、ってよ。で、結果がコレだ。テメーの男運は最悪で。オレぁ満足できなかった」


 ルカヤを抱いて、ゆりかごのようにエヴァンも揺れる。

 唇の先が耳たぶをかすめた。ルカヤの肌がぞわわと粟立つ。

 兄との体温の交換に感じるものは、おぞけ以外に増えてきている。ルカヤに対し、エヴァンはそういうふうに隅々まで丹念に愛したのだ。


「わかるか? 俺の息がこんなにも熱く、血が煮えたぎっている。少年みてえに心臓が跳ね回って息苦しいぐらいだ。なぁ、おい。もうこれでしか幸せになれない」

「うう、う、やだ、やだぁ……壊れる……こんなのが幸せだって、思っちゃいけないのにぃ……」

「いいんだって、それで。な? ぜんぶ兄ィの言うとおりだったろ、今からでも遅くないから、俺を信じろ」


 涙で衣服が濡れる。

 ぼたぼた垂れる塩辛い涙を、エヴァンは美味しそうに唇で拭った。


「ルカヤ。お前が折れて、俺を愛してくれたなら、いずれ外にも連れて行ってやる」


 傾きかけのルカヤに、エヴァンは更に甘言を重ねる。

 窓も時計もない部屋で、兄だけが動いている。彼がルカヤの世界の中心であるかのように。


「神に誓って、国の認めた夫婦になれずとも、俺の愛は永遠にお前のものだ。住みたいところがあれば引っ越そう。海が見える家もいい」


 ルカヤは黙る。黙ろうとする。

 昂ぶった感情に獣のような呼吸になった。ふー、ふー。


「わ、わたしたち、兄妹、なのに」

「そこで俺達と俺達の子どもと一緒に過ごそう。老人になったらゆっくり潮風にあたりながら、ピクニックにでも出かけて、パンをかじって風にあたるんだ。幸せな未来だろ」


 理想的な未来のビジョンだ。

 エヴァンも夢見るようにうっとりと言い聞かせてくる。

 ひとかけらの倫理観がルカヤをつなぎ止めている。

 なにもかも奪われていくこの部屋で、あと何度『幸せ』にさせられたら、最後のかけらも手放すのか。

 示された救いは度しがたい。

 けだものめいた浅い息のなか、かろうじてルカヤはエヴァンを拒絶した。

 

「そうなったら、わたし、ひとでなしになる」


 ちからなく押し返す手に、エヴァンは苦笑した。


「あとちょっとなのになあ。いいぜ。とりあえず先に済ませたいことがある」


 身構えるルカヤに兄は小さな箱を取り出した。

 シックなネイビーの箱には鮮やかなピンクのリボンがかけられている。


「約束通りお土産を持ってきたぜ。今はまだ秘密だが、それだけじゃあない。これからお前にはたくさんのプレゼントが待ってるんだ。そっちはまだ秘密だが」


 ルカヤの目の前に箱を差し出し、恭しい動作で箱を開く。

 ぱかりとあいた小箱のなかには、プラチナの指輪が収まっていた。

 ルカヤは生理的に暴れた。兄の腕のなかで必死にもがく。

 だが毎夜のことのように、エヴァンは容易くルカヤの身動きを抑える。


「いっ、いらないっ!」

「ダメだ」

「受け取れな――」


 しかし、先に半開きの口をエヴァンの唇で塞がれた。


 手足を振り乱そうとしても無駄だ。がむしゃらに体をハネさせてみても、エヴァンはろくに動じない。

 口蓋のすきまから舌が入り込む。

 ひやりと冷たい感覚が奥へ奥へとねじこまれた。傍若無人にふるまう肉は、あふれる唾液をからめとり、無理矢理飲込ませた。

 かたい金属が臓腑に滑り落ちる。違和感が通り過ぎたのを感じて、ルカヤはゆるゆると脱力した。


「ルカヤは恥ずかしがりやだからな。これでいい」


 結婚指輪をのませたエヴァンは、紅潮した頬で微笑む。


「最高のアイデアだろ? 俺達が死んで、灰になって、皆はようやく知る。俺達がいったい誰のものだったのか。どれほど愛し合っていたかを」

「兄さん……」

「死が二人をわかつまで。いや、たとえ死んでも。地獄だってお前といれば天国だ。ずっとずっと一緒だからな」


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