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第二十九話「コギト・アモル」


 家を出るのが名残惜しい。 

 エヴァンはわざとゆっくり玄関を出た。

 つけたてのドアチェーンをかけるのを忘れず。玄関のドアノブは取り替えて、鍵を変えてある。ルカヤの持っていない鍵で、両方きっちりしめていく。


「ふー……」


 これでルカヤは完全に閉じ込められた。

 これまでにない安心感がエヴァンを包む。

 ずっと欲しくて、ショーウィンドウ越しに眺め続けた宝物を手に入れたような、途方もない充足に眉間が緩む。

 こんなに安らかな朝を迎えるのはいつぶりだろうか?


 エヴァンはさりげなく下腹に手をあてた。

 まだ彼女の体温が残っている。

 ルカヤは部屋を出た時点では呆けていた。

 初めての経験、しかも相手が兄とあって、現実を受け止めきれていなかった。

 だが彼女のなかにもまだエヴァンの熱が尾をひいているだろう。

 数時間経てば、事実を消化して現実を直視し、再び苦悶に泣き叫ぶはずだ。


 晴れやかだった気持ちが陰る。

 エヴァンはかぶりをふって、玄関に背を向けた。今日は行くところがあるのだ。


(悪いな、ルカヤ。世界一大切な可愛い妹を追い詰めてるっつうのに、俺はそれにすら興奮している。これからお前は理不尽に傷つかなくていい。俺も偽らずに済む。幸せになれるんだ)


 世の中には妻に暴力を振るい、道具としてしか扱わないゲスもいる。

 あの不幸なルカヤであれば、とことん最悪な人間を引き連れてきそうなものだ。

 であるなら、エヴァンのほうがいい。

 エヴァンは疑いようもなくルカヤを愛していて、間違いなく大切にする。

 『妹』という一点を無視してしまえば、エヴァンこそがルカヤにとって最高の男だ。

 今日はそれを強固にするべく、行動するつもりだった。


 鉄道を乗り継ぎ、カピリジナへ辿り着く。

 軽く足をのばして歩き、赤茶けたテラコッタタイルを踏む。

 見上げたアーチ状の入口は、教えられていなければ一般家屋だと思って通り過ぎるだろう。

 ルカヤの仕事先である剥製店だった。


 立てつけの悪いドアを押す。

 探し人はすぐそこにいた。(カルミン)のシャツが目に飛び込んでくる。

 彼はソファに腰をかけ、紙の本をパラパラとめくっていた。


 日の光が入っておらず、どこか息苦しい。

 四方を剥製に囲まれているのが嫌だ。居心地が悪い。ところ狭しと詰められた剥製たちのぬるり(、、、)とした視線が最悪である。

 幽霊にまとわりつかれそうな、そこはかとない不快感を高める。


 訪問者の気配を察して、赤い男が振り返った。

 陰鬱な店内に反し、陽気な笑顔だった。

 へにゃりと笑う男で、絶妙に気の抜けた印象を与えるのだ。


「やあ、お兄さん。いらっしゃい」

「すみません、突然。妹についてお話があって」


 店主ガエタノの顔立ちはエヴァンとジーノを足して割ったようだ。

 これが妹の信用を高めたのだろうと思うと、はらわたがグツグツ煮え立つ。

 エヴァンは彼がニガテだった。

 表面上のにこやかさを保ち、話を切り出す。

 ガエタノは居住まいを正し、真剣な様子でエヴァンに向き合う。


「三日連続、無断欠勤。真面目なルカヤちゃんにしては珍しいと思ってた。なにかありました?」

「ええ。実は数日前、妹が事故に巻き込まれかけまして……」

「おやまあ」


 ガエタノが大きく目を開いた。

 上手な嘘をつくには、真実を織り込む。

 エヴァンは用意しておいた嘘をするする並べた。


「妹は昔、大きな事故に遭ったんです。事故をきっかけに記憶がぶりかえしたのかパニックを起こしています。狼狽していて、とても来させられる状態じゃない。なので、仕事のほうは」


 そこでガエタノが片手をあげた。

 話の途中で切り上げられ、エヴァンの腹の虫が鎌首をもたげる。


「そんな急ぎなさんな。お茶でも出しますよ、どうぞあがっていって。患者も入ってないし、つもる話もあるだろう」

「いえ、お気遣いなく」

「いいからいいから」


――面倒くせえな。

 場が場でなければ、舌打ちしていた。

 人の家族が大変な時になにをのんきな、とも思う。

 エヴァンが案外落ち着いているから、軽い混乱程度に受け止めているのかもしれない。


「ああそうそう」


 ガエタノが、猫背で階段を登っていたとちゅうで足を止める。

 エヴァンのほうは、どう言えば「ルカヤは仕事をやめる」と伝わるか、物語を作ろうと思案していた。

 ガエタノは階段の手すりから身を乗り出し、玄関前から動かないエヴァンに質問を投げかけてきた。


「オマエさん、ルカヤちゃんとヤったのか?」


 エヴァンの呼吸が止まる。らしくもない。

 赤い男は天窓から降り注ぐ弱々しい逆光を浴びて、にこにこしている。

 肌は暗くて、細められた緑の瞳がぼんやり輝いて見えた。


「いつオマエさんが妹を愛しているか知ったかって? 初めて会った時から知ってたよ。目ぇ見りゃわかるって」

「テメー……」

「睨むなって。これでもオレは最初からオマエさんの味方のつもりだったんだぜ。くれぐれも、胸元にしまった物騒なブツを取り出すのはやめてくれ。話せばわかるさ。話せば、色々とな」


 ガエタノは階段をあがっていった。

 青い目はしわのついたシャツをにらみつけ、やがて彼を追って二階へのぼった。


 二階はほとんど屋根裏部屋だった。

 天井が低い。思い切り背をのばしたら、はりがむき出しになった天井に頭突きしそうだ。


「秘密基地みたいでイイだろう」


 警戒し、くちを「へ」の字に曲げるエヴァンに無防備な姿をさらしたまま、ガエタノはヤカンをカセットコンロにかけた。


「わざわざコンロを置いてんのかよ。火事になるぞ」

「一階に湯を沸かしにいくのも面倒じゃあないか」


 危なっかしくて忠告する。

 ガエタノの返事はズレていて、微妙な生活力のなさを感じさせた。

 ルカヤの話で聞いていたよりずっと深刻だ。


 しかし、エヴァンに平気で背を向けるのは、浅慮ゆえではなかろう。

 彼は、エヴァンがガエタノを殺せないのをわかっている。

 エヴァンの異常性に気付いていながら、ルカヤに中途半端にかまっていた謎がわからないうちには、ガエタノの口を動かせる状態にしておくのを理解していた。


 沸騰し、ヤカンから煙がたつ。

 ガエタノは珈琲をいれ、カップを二つ並べた。

 エヴァンがポケットに手を入れたまま椅子にかける。ガエタノも正面に座った。


「初めて会った時から知ってたって?」

「ああ。単なる妹に向ける目や態度とは思えんかったね」

「ならなんのためにルカヤに近づいた?」

「ま、そこだよな。さて、どう話したものか」


 ガエタノはカップにちびちび口をつけ、言葉を発した。

 

「お兄さんは動物って好きかい?」

「別に」

「俺は大好きだ」


 要領が掴めず、珈琲を喉に押し流す。

 ミルクのない黒い液体は舌に残る苦さだった。


「特に子犬、子猫、稚魚……幼体が好きでね。簡単に抱き込めるぐらい小さいのが、必死に動き回るのよ。ちょっと躾けて、餌をやるだけであっという間に大きくなって。狩りがうまくなったり、一丁前に威嚇してきたりするわけさ。生き物ってのは予想がつかねえ。そういう変化と成長が面白くて仕方ない」

「話が見えねえな」

「いや、すまないね。要は生き物を見るのが好きなんだ。ところで、お兄さんはこの世で最も成長による変化が生まれる生物って、なんだと思う?」

「…………」


 嫌な予感がした。

 初めて会った時から感じ続けていた印象だ。

 ガエタノはコーヒーを一気に飲み干す。


「人間さ」


 ガエタノが今日一番の朗らかな顔になった。


「人間こそ幼態成熟(ネオテニィ)の代表だよ。あ、ネオテニィっていうのは、極端にいうと、とてもゆっくり成長する生き物のことだ。人間は赤子で生まれて、子どもを経て、大人になる。未熟に生まれて、時間をかけて完成に向かう。つまり、脳と体の発達が遅くなるかわり、自分の育った環境に適応した進化をしていくわけだ」

「……テメー、まさか、飼いたい(・・・・)のか? 人間を」


 熱心に人間の成長過程について語る男の説明をかみ砕く。

 ガエタノは「うん」と頷いた。

 衝動的にコーヒーカップをガエタノに投げつけそうになる。


「落ち着けよ。言っただろ、オレはオマエさんの味方になれるぜ」

「ああ? ふざけてんのか? 人の妹をペット扱いしやがってッ」

「だが恋人扱いするつもりは毛頭ない」


 ふりかぶっていた手が止まる。


「オマエさんさ、妹を手籠めにしたまではいいぜ。いずれあの子の心が折れるのを待つとする。時間はかかるが、いずれ成立するかもな。しかし、それ以外はどうするつもりだ? 一生隠し続けるつもりかい。人生、あと何十年あると思ってる」

「そのうち、適当な男の戸籍でも買う。別人になれば、書類上は問題ない。結婚してどこで暮らそうが自由だ」

「今すぐにはどうにもなるまい。オマエさん、マフィアだろ? 戸籍を買うにも、妹をかこうにも都合がつくんだろうが、まだまだ地位が足りねえ。そうだろ」

「…………」

「間に合う前に病気になったら? オレなら安心して任せられるぜ。これでも成績は優秀だったんでね」

「どうしてそこまでルカヤに執着する」

「さっき当てたじゃあねえか。人間を飼いたいんだよ。懇切丁寧に教え込んで、成長させて、そのうえで生殺与奪を握って、可愛がってやりたい」


 ガエタノは二杯目のコーヒーを注ぐ。

 天窓の光量が弱まった。ガラス越しに雲が重なっていた。

 光を遮った雲の影は、風においたてられ、過ぎ去っていく。


「初めてルカヤちゃんと会った時、虐待児なのは察しがついた。動きかたの癖がわかりやすかったから」


 ガエタノが何故エヴァンに親しげだったのか。

 ルカヤに親切だったのか。

 明かされる理由に、エヴァンのなかに二つの感情が去来する。

 嫌悪と納得だ。

 やはり彼はろくでもない男だった。

 あっけらかんとした告白は、呆れを一周回って、好ましかった。エヴァンも似たようなものだったからだ。

 妹の目は鋭かった。確かにガエタノはエヴァンに似ている。


「付き合ううちにオマエさんと会った。将来的にかこいこめる条件まで綺麗に整っているとわかった時は、笑いをこらえるのが大変だったぜ。

 そも、どうしてあの子が大学を中退するハメになったか、わかるか? そういう『癖』がついてるのさ。『考えない』癖だ。

 散々苦痛を味わう環境にあって、その理不尽を、嫌な気持ちを考えないようにする癖が。考えたら逆らわずにいられない、逆らっても苦しみが増す。だから考えられない。誰かに考えてイイという許しを貰えない限り。

 でなきゃ、努力したからって大学に入って、人に教えられたぐらいであそこまで急激に成績があがるもんか。

 都合がよかった。よすぎた。コントロールが簡単で、そのうえ教え込めば、スポンジが水を吸い込むように技量を積む。絶対に叶わないと思っていた願望があっさり目の前に転がり込んできやがった」


 ルカヤについて語るガエタノは、ある種、エヴァン以上に彼女を理解していた。

 それは完全に支配者の目線であり、エヴァンとは完全に異なる愛情であった。

 つまびらかにされたガエタノの本心はどしがたい。

 恋慕はかけらもまじっていなかった。


「だから俺の共犯になれると」

「オレにとっても、こんな好条件に二度恵まれるとは限らねえからな。オマエさんは女を手に入れる。オレはあの子に手を出さない。ただ、あの子の人生を管理して、変化を見たい」


 エヴァンは指を組み、数度考える。

 思えば、最初に「人生の伴侶はルカヤ以外にいない」と思ったのは学生時代だった。

 友人のひとりとの何気ない痴話の時点で、エヴァンの心は既に決まっていた。


 ガエタノはルカヤの伴侶か?

 いや、違う。

 この男を取り入れたところで、ルカヤの愛はエヴァンのものだ。

 ガエタノが欲しいのはルカヤの才で、エヴァンが欲しいものではない。


 闇医者の協力は魅力的だ。公的機関の世話になって、記録に残るのはのちのち厄介だ。

 ルカヤの心が壊れきりそうになったら、息抜きさせる場にもなる。トドメをさす武器にも。

 エヴァンはあくまで、自分が幸せになったうえで、ルカヤにも幸福になって欲しいのだ。


「いいぜ。ただし、気が変わってルカヤを愛したら、速攻で殺してやる」

「約束するぜ。――一緒に、あの子をめちゃくちゃにしてやろう」


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