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第二話「不器用な手」


 母はルカヤが五歳になるまで専業主婦だった。

 一緒にクッキーを焼いたり、公園でランチをしたり。

 祖母もついてきた。他人の目があるおかげか、祖母はルカヤをいじめるよりも、エヴァンの口を拭いてやるなど世話を焼くのに熱心で。

 まだ平和な時間があった。優しい時間が確保されていた。


 六歳になろうという頃。母は就職した。

 九月になれば小学校が始まる。

 母がそれを打ち明けた時、ルカヤは自分用の真新しい勉強道具を家に買って帰ってからも抱きしめて、顔を輝かせていた。


 母は控えめに、小さな声でルカヤに語りかける。

 眉を下げた苦笑いはルカヤに似ている。まるで怯えているようだ。


「あなたも小学生になるし、将来のためにもパパとママの二人でお金を稼いだ方がいいだろうって話になったの」

「ママ、家にいなくなっちゃうの?」

「大丈夫。昼間は学校にいるでしょう? お兄ちゃんと同じ学校だし。いい、お兄ちゃんは二つ上の学年だからね。先生にきけばきっとお兄ちゃんの居場所を教えてくれるから。夜はママもちゃんと家に帰ってくるわ」


 優しく言い聞かせられ、ルカヤは頷いた。

 意味がわかったわけではない。

 後から思えば、母の言ったことは本当ではあるが、ごまかしがあった。


 祖母に否定される我が子を目の前にして怒らず、波風立てないようにした両親である。

 エヴァンも時計の一件で祖母へ不信がわいていた。


 彼は偽りが下手で、好悪をすぐ態度に示す。具体的には、一方的な溺愛を突っぱね、祖母からの干渉をなんでも嫌がるようになったのだ。

 実のところ、血の繋がった家族同士がいがみ合う我が家が居づらくてならなかったのだろう。


 両親はだんだん、「お金をためるため」といって、出張を引き受け、休みの日にも仕事をいれるようになっていった。

 大人のいない家で、兄妹の面倒を見るのは祖母であった。

 勿論、祖母はエヴァンを可愛がった。

 菓子を与え、遊び道具を与え、近所を散歩したがった。

 二人きりで。


 ルカヤはいつも通り、黙って耐え抜こうとして。

 これにエヴァンが猛反発した。


「ばーちゃん、近所の人とくっちゃべってばっかでつまんないんだよ。黙って行こうぜ」


 祖母がぼうっとテレビを見ている間に、エヴァンはルカヤの手を引いて外に連れ出した。

 祖母は子どもが勝手に出かけたと気づけば、怒りに瞼をぴくぴく動かす。

 だが誘いかけたのがエヴァンだとわかると、ぶすっと唇をとがらせるだけだった。


 エヴァンが遊びにいく場所はいつも決まっている。

 一応、自分達が居る場所が家族にわからねばならないというぐらいの気遣いはできたらしい。

 休みの日は一番家に近い公園で、朝から晩まで遊ぶ。

 母が連れて行ってくれた公園だ。


「いいか、ルカヤ。おまえはどんくさいんだから、絶対オレから離れるなよ」

「離れたらどうなるの?」

「オレが知るかよ。とにかくなんにもあっちゃあいけないんだ。何かあったらオレもお前もまた怒られる」


 よほど心配だったのか、公園に着くたびに言い聞かされた。

 先に通い始めた小学校でできたたくさんの友達とも、ルカヤを会わせたがらなかった。


「オレもばーちゃんにいわれるまんま、おまえをバカにしてたからな。あいつらもおまえをからかって泣かせるかも」

「お兄ちゃんのお友達って悪い人なの?」

「いいやつらだよ。でもガキだから」


 友達ということはエヴァンと同い年だろうに。

 心のなかで思うも口には出さなかった。


 このように、兄は時計の件で助けた時からルカヤに優しくなった。

 だからルカヤが、いいことをしていれば周りの人も優しくなってくれると考えたのも、無理からぬことだろう。


 公園で遊ぶ子どもはエヴァンとルカヤだけではない。

 なかにははしゃぎすぎる子どももいる。


 ある日、玩具のボールを高く投げすぎて、木の間にひっかけてしまった子がいた。

 ルカヤはそれを見て、すぐさま彼らに駆け寄った。

 彼女が一番得意な遊びは木登りだった。


「ルカヤ、やめろ! 落ちたらケガすんぞ、ほっとけよ!」

「枝の間にひっかかってるの。落とすだけだから!」


 木の下からハラハラ見上げてくる兄と子どもに、ルカヤは珍しく弾んだ声を返した。

 幹に足をひっかけ、思った以上に簡単にのぼれてしまって、調子に乗っていたのだ。

 頭の中には喜ぶ少年と、いいことをしたと褒めてくれる両親の姿しかなかった。

 時計を見つけた時の兄のように。


 慢心だった。

 ラメの入った青いゴムボールを落としたと同時に、ルカヤは足を滑らせた。


 不幸中の幸い、ルカヤは肘と腕、膝を盛大にすりむくのみで済んだ。

 ケガをするまでの一連を目撃したエヴァンはその場でルカヤを叱った。

 同時に、すぐ水飲み場の蛇口へ連れて行って傷口を洗う。

 不注意を罵りながらも、最後には「よく頑張ったな」と付け足した。


 両親と祖母はそうはいかなかった。

 帰宅後の家族からの激怒は苛烈といえる領域に達した。

 帰ってきたから夕食の時間を過ぎるまで、隣家まで響く大声を頭上から降らせ続けた。


 母と父は丁寧に我が子に説明した。安易な行動がルカヤの命を奪う可能性があること。

 生きていても、大怪我をすれば一生苦しむかもしれないこと。

 どんなに家族がキモを冷やしたか。大怪我をされたエヴァンや子どもの心がどんなに傷ついたか。


 そこまではルカヤもエヴァンもぐすぐす説教を受けていた。

 全くもって両親の言うとおりである。

 まるで胸に大量の矢を打ち込まれたような自責が二人を襲った。


 だが、納得したのは、鬼のように顔を歪めた祖母が、ルカヤの頬を打つまでのこと。


「こいつだって反省してる! ケガしてるのに殴ることはないだろ!」

「お黙り、エヴァン! 今日のでわかっただろ、この子は頭までできが悪いんだ。猫に言葉で説明してやって理解できるかい? しつけてやらなきゃまた同じ事をやるでしょうが!」

「……わたし、動物じゃない!」


 祖母の言い様は、ただでさえ血を流していたルカヤの切り傷を更に深めた。

 込められた悪意はあまりに露骨だ。

 幼子であっても、自分に向けられたどろりと粘着いた感情は理解できた。

 

 祖母の嫌悪は前々から知っていた。 

 加えて、動物並みという屈辱的な評価は嫌悪の棘と同じくらいにルカヤを傷つけた。


 家族を困らせたくてやっているのではない。

 ルカヤなりに考えてやったのだ。

 ルカヤの精一杯の優しさを――人間性をまるっと否定されたようだ。

 生まれて初めて、いっそ死んでしまいたい気持ちになった。


 わんわん泣き出すルカヤに、祖母は舌打つ。

 苛立ちのまま手を振り上げる。

 ふくれあがる緊張感を感じ取り、エヴァンは咄嗟にルカヤの手をとった。


「来い!」

「あっ、待ちなさい!」


 急なことで、祖母も反応が遅れた。

 両親も、祖母のヒステリーに、うってかわってオロオロするばかり。

 エヴァンは兄妹共用の自室にルカヤを突き飛ばす。


「内鍵かけろ!」


 美形が怒る迫力は凄まじい。

 ルカヤは勢いに流され、言われるまま内鍵を閉めた。

 扉の前から祖母と兄が言い合う声が聞こえる。


「エヴァン、どきなさい! 逃げることを覚えたら、ろくなことにならないよ!」

「自分を危険な目に遭わせるやつから逃げて、何が悪いんだ? ふざけんなババア!」

「ババアッ……!?」


 目に入れても痛くない孫の口汚さに、祖母が泡をふくのが伝わってくる。


「オレは絶対どかないぞ。もうお前のいうことなんかきくもんか。絶対にあんたのいってることはおかしい」

「エヴァン、あなたはまだ子どもなんだから。何もわからないでしょ!?」

「うるさい! たとえ百人中百人があんたのいうことをきけっていっても、オレはオレが正しいって思ったことをするぞ!」


 その日から、エヴァンは祖母がルカヤを叱ると、部屋に避難させるようになった。

 ルカヤは兄の対応が極端だとは思いつつも、祖母より兄に従った。

 頬を打たれた感覚がいつまで経っても忘れられなかったからだ。

 体よりも、貫かれるような心の痛みが。


 この不器用な保護は、更に数年後――ルカヤが十三歳の中学生になっても続いた。


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