第二十八話「女の世界」
ルカヤはただただぼうっと手首を眺めていた。
握り返されない手に構わず、エヴァンは一方的な恋人繋ぎを保つ。
彼が動くたび、合わさった指の股がこすれて痛かった。
「俺、生まれて初めてこの顔でよかったと思ったぜ。不細工よりイイ男のほうがいいだろ。きっとお前のために綺麗な顔に生まれてきたんだな」
ルカヤの意思は関係なかった。足が逃げるようにのびる。
つま先の親指が曲がって、シーツをぐちゃぐちゃにかきみだす。
体が動く。勝手に反応する。
ルカヤの脳は顔筋に感情を浮かべる命令を出すのも忘れていた。
代わりにぼろぼろ泣いている。
気持ち悪くて、悲しかった。
「最高だ、俺のルカヤ。我慢していたのを後悔するぐらい幸せだぜ。見た目が全然違っても俺たちやっぱり兄妹だな、中身のほうはそっくりだ。こんなに相性のいい女はいなかった」
「……たすけて……」
聞いたこともない高い声がでた。ルカヤは更に泣く。
見慣れた天井は残酷なほどいつも通りだ。ルカヤの寝食を見守ってきた白い天井が冷たくルカヤをみくだしている。
――罪深い。
際限のない袋小路に立たされた気分だ。
バス事故で病院に運び込まれた時以上に、行く先のビジョンが描けない。
「おねがい、たすけて」
「は……、誰に助けに来てもらうんだ?」
獣じみて息を荒げているエヴァンがこめかみにキスをする。
ルカヤは数度いいよどみ、ぐしゃりと泣き崩れる。
「たすけて、にいさん、たすけて」
「わかってる。当たり前だろ」
「にいさんはこんなことしない、かえして、おにいちゃんを返して。たすけて、たすけてよぉ、おにいちゃん……」
胸板を押し返そうとするルカヤを、エヴァンはずっと愛おしげに撫でていた。
◆ ◇ ◆
ルカヤは一糸まとわぬ肌のまま、兄に背を向けた。
丸みを帯びたルカヤの肩に、ずっしりとした腕が「離さない」といわんばかりにかけられている。
ほどいた黒髪を肩にかけ遊ぶ兄に、ルカヤはどう振る舞えばいいかわからなかった。
「兄さんはわたしにどうして欲しいの」
日の陰りも月の光も差し込まない、閉じられた部屋は、人工的な明かりで照らされている。
枯れた声に、先ほどまでの行為がまざまざと蘇り、ルカヤは毛布を引き上げて頭からかぶる。
「俺がどうして欲しいかって?」
「…………」
「ルカヤ。俺の妻になれ」
狂っている、とルカヤは思った。
攻撃的な感想を伝えられず、ルカヤは事実を――事実であるべきことを――伝える。
長年積み上げられた時間が、どうしてもルカヤのなかの兄を完全な悪人に染め上げさせてくれなかった。
「無理だよ。妹だもの」
「妹で妻になればいい。家族で、恋人で、母に。女が持ちうる立場、それによって得られる喜びを全て手に入れられると思えばいいだろうが」
「お願い。やめて。わたしにそんなことは思えない。兄さんのことは世界一大好きだけれど、家族としてだよ」
「無理でも出来るようになれ、ルカヤ。俺はお前にそれしか許さない」
「……耐えられない……」
毛布のした、エヴァンの腕がルカヤの腹に回る。
芯の芯、心の底まで冷え込んだルカヤに、エヴァンの体温が無理矢理うつされる。
「気に病む必要はねえぞ。喜びも悲しみも全部俺にぶつけていい。俺にとってもいい話だ。そうすればお前の全てが俺のものになる。そうだな、俺はお前を囲い込む世界になろう。お前が味わうものは全て俺が選ぶ。ザルにかけて、不純物ひとつ混ざらせねえ。お前に不要な不幸を全て取り除く。それが一番いいんだ」
ルカヤの髪はほどくと長い。
滅多に人に見せない豊かな黒髪が、夜闇を編んだカーテンのように広がっていた。
エヴァンはルカヤの髪を一房すくって、額をうずめた。
煌々と燐光を宿す月色が黒に重なる。
「だいたいよ。当然、お前はオレの可愛いおちびちゃんさ。でもなあ、ルカヤ。『ルカヤ』は『ルカヤ』だ。その『ルカヤ』のなかにたまたま妹って関係があっただけで、オメーは最初から女なんだぜ?」
眩しい月はいとも容易く黒を食む。
最初からルカヤはこの美しい獣から逃げようがなかったのだ。
「オレは『ルカヤ』を愛してる。永遠に、変わることなく。諦めろ、ルカヤ」
◇ ◆ ◇
「今日はお土産を買って帰るからな。イイコで待ってろよ」
兄はベッドから出ようとしないルカヤをひとなでし、出かけていった。
風邪をひいた妹を慰めるような動作に、切ない懐かしさがこみ上げた。
ルカヤは衝撃を受け止めきれず、完全に放心していたのだ。
それもつかの間。
冷えだしたベッドと物音ひとつない静寂に包まれているにつれ、正気に戻った。
自分が何をされたのか。
認識してしまったルカヤは、猛烈な吐き気に襲われた。
リビングからキッチンに駆け込み、カラッポの胃液を吐き出す。
「ああ、あああ、あああああ」
髪をかきむしり、フローリングの床に膝をつく。
絹をさくような悲鳴をあげる。
祖母の家にいた頃は、心の中で叫んでも、決して大声で泣き叫ばなかった。
うるさいと怒鳴られ、無駄に傷つくだけだったから。
兄の愛は、血の繋がった家族に疎まれ、存在を否定されるより、濃密にねちっこくルカヤを犯した。
「ひぅ、ひぐ、あああ」
頭痛がするまで泣きわめく。
濡れた目元は腫上がり、全身の関節が軋んで痛くて、たまらない。
すべてが彼女の体と、彼女に起こった出来事と、兄の想いの証明だ。
全身の感覚ひとつひとつが、ナイフのように精神を切り刻む。
エヴァンの言うとおりルカヤは生まれつき女だ。
だがそれは女という性をもってうまれたことであって、特にそれを意識したことはなかったのである。
そしてエヴァンは男という性を備えた体をもつだけの人だった。――今までは。
エヴァンとルカヤは人と人で、性別なんて記号に過ぎないと思っていた。
だが違った。
妹は女で兄は男。
肉体の訴えを受け入れてしまえば、こういってしまったほうがいい。
エヴァンとルカヤは雄と雌だった。兄にとってはきっとずっと前から。
唐突に嫌というほど実感させられた己の肉体が急激にずっしりと重く感じる。
「なんで、なんでこんなことに? やだ、やだよぅ、助けて、誰か!」
壁を拳で叩く。
ガンガンと音はなっているはずなのに、応えるものはなく。暖色のはずの室内は牢獄のように冷酷だった。




