第二十五話「積み重ねの終わり」
カピリジナは南イタリアにしては治安のいい町として知られていた。
過去形なのは、無論、巷を騒がす誘拐事件のせいだ。
ボローニャには及ばずも、交通の便にも優れる。
夏のカピリジナの太陽は強い。あまねく角という角まで照らしださんが如く輝く。
からっとした乾いた風が汗ばんだ肌を拭うので、晴れの日は絶好の散歩日和だ。
ルカヤもガエタノに勧められた。
曰く、「太陽光はビタミンDを生成するから、骨や歯をボロボロにしないために重要なんだぜ」。疲れやすくなったら雇い主としても困るという言い分だ。
そんなチャンスは滅多にないとこぼしたら、ルカヤの仕事がひとつ増えた。
ガエタノは手術の助手と片付け、解剖以外に、日中の玄関掃除をルカヤの担当とした。
昼間のカピリジナは人通りが多い。
気候が絶好なので、先月の倍はいる気がする。
治安がよいとはいえ、南イタリアは南イタリアである。人が増えればポイ捨ても比例するのが悲しいさだめだ。
職場の玄関前は、一部テラコッタタイルが使用されている。
みっちり敷き詰められた正方形の素焼きタイルは、町の景観にも歯車のようにかみ合っている。
ルカヤは客も使う傘立てを一度どかす。
(箒で埃と砂をはいたら、如雨露で水をまいてモップがけ。今日はヨゴレが強そうだから、中性洗剤も使いたいな。終わったら室内もモップがけしたい)
今後の掃除スケジュールを組み立てる。手は動いていた。
さっさっさっと小さなヨゴレがはねられ、タイルとタイルの間の溝が真っ白な顔をだす。
頭上から太陽を浴び、つむじがぽかぽか温かい。セロトニンの分泌を感じる。
ルカヤはひとりで黙々と作業するのが好きだ。
完全に作業に没入していたルカヤは、自分に近づいてくる人間がいるのを見落とした。
「あなた、ルカヤ・ドゥランテ?」
いきなり本名で呼びかけられ、ルカヤは文字通り飛び上がった。
フルネームである。声質は温厚なメゾソプラノ。聞き覚えのない人であった。
「ど、どなたですか?」
箒を胸にひきよせ、振り向く。
いたのはルカヤより少し年上と思わしき女性だった。
キャラメル色の赤毛をふんわりとしたミディアムに整えた、綺麗なひとだ。
瞳はぼんやり夢見るようなスモーキィアクアで、倦怠感のある色気がある。長くのびた黒いまつげが瞳に影を落としていた。エキゾチックな優雅さをそなえた美貌は砂漠のラクダを思わせる。
美しい女性には違いないのだが、顔を見ても誰かわからない。
「ごめんなさい。顔を合わせるのは初めてだったね。あたしはアリーゼ。アリーゼ・ペンタ」
「……兄さんの彼女さん?」
名前を聞いて、ルカヤはほうと胸を撫で下ろした。
兄は女性について多くを語らなかったが、名前ぐらいは教えてくれた。
アリーゼとは間違いなく、兄がルカヤの大学生時代から付き合い続けている女性の名だ。
「あたしについてはお兄さんから聞いてるかしら」
「あ、はい。えっと、照れてるのか、なんでもってわけじゃあないですけど」
「よかった。もし知らなかったら、あたし、不審者扱いされちゃうところだった」
アリーゼは冗談混じりに苦笑した。
「アリーゼさんはどうしてここに。兄が教えたんですか」
「まさか。あの人は自分のことは何も話さないわ。でも歩いていたらあなたをみかけてピンと来たの。目が彼と一緒。星の輝く夜空の色」
見目で兄とルカヤを結びつける人は初めてだった。
あの美しい兄との血の繋がりを見つけてもらえて、ルカヤはドギマギとたじろいだ。
「それで、せっかくの出会いついでに提案があるの」
「え?」
「よかったらあなたをナンパしたいわ。これからカフェでデートしない? 奢るから」
女性からの口説き文句。
ルカヤは虚をつかれ、「兄の彼女さんを横取りするわけには」などと的外れな断わりをくちにした。
職場の内側から響いてきた笑い声で、これもまたアリーゼの冗談だと理解した。
玄関に近い窓が開かれる。なかから癖の強い黒髪がひょっこり飛び出た。
ガエタノだ。
ニコニコと人のよさそうで、悪戯っぽい笑みでルカヤとアリーゼを見下ろす。
「行ってくればいいじゃあないか。客もいねえしさ」
「勤務時間中ですし」
「終わったらあとで会うのか? できないだろ。お客は明日も来年もいつだって決まってやってくるが、プライベートな出会いはそうもいかなねえぜ。雇い主のオレがいうんだから安心しな」
雇い主のお許しと仕事への義務感のはざまで揺れ動くルカヤの指先を、アリーゼの手がやんわりと掴んだ。
「ああいってくれたことだし。いきましょ?」
「あ、はい……」
箒をしまい、鞄を持つ。
職場を出る前、ガエタノが手を振ってくれた。
服は兄が見繕ってくれた組み合わせなので、見苦しくないはずだ。
アリーゼは文句ひとつ言わず、ルカヤを待っていた。
ルカヤが来ると「こっちよ」と歩き出す。白いハイヒールで際だった足首は折れそうなほど細い。
(『女の人』だ……)
アリーゼはルカヤとすぐに歩幅を合わせてくれた。
横に並ぶと、ヒールを除けば身長が同じなのがわかった。
美しい女性の隣にたつのに迷惑にならないだろうかと、何度も数歩あとを歩きそうになる。
そのたびアリーゼはペースを落とすので、結局、ルカヤは自分のペースで歩けてしまった。
カフェにつくなり、ルカヤは謝った。
「どうして謝るの?」
「気遣いをさせてしまいました。それに、わたし、話すのが下手で。きっと何も楽しくないです。ごめんなさい……兄はおしゃべり上手なのに」
「気にしないで。だったらあたしがおしゃべりするわ。あなたは聞いて、気になることがあったらきいてくれたら嬉しいな。あたし、あなたと仲良くなりたいのよ。いずれは家族みたいになれるぐらい」
緊張はとれなかった。
それでも話さなくていいというのは、がちごちにはった心と肩をほんのちょっぴりほぐした。
アリーゼは自分でいった通り、ルカヤに自発的なおしゃべりを強要しなかった。
カプチーノとカフェラテを頼んだあと、アリーゼはドルチェをつまみつつ、色んな思い出話をしてくれた。
概ねエヴァンの話だ。
エヴァンとはルカヤの大学で出会ったのだという。学科は文系で、今は秘書として働いているそうだ。
一番思い出に残っているのは、ジェノヴァの水族館。とてつもなく長い時間、ありえない長さの待ち列に並んだ、とうんざりした様子で実況した。
そしてそれら全てを並べてもおつりがくるほど素晴らしい体験だったと、臨場感たっぷりに、イタリア最高の規模を誇る数々の展示について語ってくれた。
どれもルカヤの知らない話ばかりだ。
耳を傾けていると、あっという間に日が傾いた。
携帯で時間を確かめる。定時まであと一時間ある。
同伴者がいるとはいえ、勝手な外出だ。
待ち合わせのため、もう職場に戻って、兄を待ったほうがいいかもしれない。
「アリーゼさん。お話、ありがとうございました。知らない兄を知れて、とっても楽しかったです。もっと聞きたいんですが、そろそろ職場に戻らないと」
「あら、そう? わかった。送っていくよ」
「ありがとうございます」
椅子に立てかけておいた杖を手に取る。
それをみてアリーゼが「ああ、そういえば」と声をあげた。
「ルカヤちゃんって足が悪いの?」
「あ、はい。歩くぶんには問題ないので、だいじょうぶです。杖はお守りみたいなもので」
「そうなの。よかった、もしかして無理させてたのかと思って。我ながら思った以上に興奮してたみたい。気が利かなかった。ごめんなさい」
「いえ。むしろお気を悪くしたらすみません……」
「まさか! 気にするわけないわ。本当に。悪感情なんてないのよ。それに、あたしとおそろいだしね」
「……え?」
杖を取り落とした。
すぐに拾おうとしたのに、すぐに手が滑ってしまった。はたからみれば滑稽な光景だったろう。
三度目でしかと杖を握ってから、アリーゼの「おそろい」の意味を問う。
「えっと。どういう意味ですか?」
「お、驚かせちゃった? まさかそんなびっくりするとは思わなかった。まあ、見た目じゃあわからないものね。あたしも足が悪いの。子どもの頃に交通事故にあって。左の膝から下が義足なのよ」
アリーゼは伝票を片手に、照れたように頬をかいた。
ルカヤの背筋は冷たい汗が伝い、鳥肌をたてていた。
「だからあなたの大変さがよくわかる。親近感を感じたわ。話を聞いてるうちに、勝手に妹みたいに思えてきちゃって。色々大変よね。もし困ったことがあったらいってちょうだい。いつでも助けにいくわ」
親切なはずの言葉がまるでしみこんでこなかった。
いたわりへの感謝以上に重大な情報が、ルカヤの緩みきっていた感情を地震のように襲っている。
瞬間的に乾いて、はりつきそうな喉で、ルカヤは質問を重ねた。
「あの。ぶしつけな質問をしてもいいですか」
「うん? なあに」
「あなたは赤毛ですよね」
会話から外れた質問にアリーゼは目を白黒させた。
「ええ。そうね。今は赤毛よ」
「今は?」
「よくある話」
――黒髪はやめてくれ。
叫びだしたくなるような祈りは無残に打ち破られた。
「あたし、昔は黒髪だったの。雨に濡れた鴉みたいな、我ながらうっとりする髪だったわ。あなたみたいなのよ。でも、歳をとるにつれて、色が抜けていっちゃってね……せっかくだから染めたの」
ルカヤの呼吸が浅くなる。
ここにはいられない、と思った。
衝動的な妄想がルカヤの冷静な部分を根こそぎ蹴飛ばしていた。
正体不明の暗闇がルカヤを飲込もうと背後から迫ってくる気がした。
逃げ出したい。
何からどこへ逃げればいいのかわからないが、じっとしていられなかった。
「か、か、帰ります。すみません」
「えっ、もっとゆっくりしていけば」
バッグを抱え、お金を置いて、何度も謝る。うまく回らないろれつでまくし立てた。挙動不審な自覚はあった。
「すみません、帰らせてください。嬉しいんですけど、集中できないと思うので……ごめんなさい。帰ります。ひとりで。ごめんなさい!」
走りだそうとして、まるで動けなかった。
今更じぶんが走れないのを思い出す。走ろうとしたのは数年ぶりだった。
歩いて出て行くことにした。
アリーゼはしようと思えばルカヤに追いつけるはずだ。彼女はルカヤを止めなかった。
(違う。違う。黒髪で、足の悪い女の人。そんなわけない。兄さんはいまもアリーゼさんと付き合っている。二つの条件があるから、あの人を選んだわけじゃないはず)
ルカヤはひとりで職場に帰ろうとした。
久しぶりにひとりで歩く道は、兄と歩いている時とまるで違う場所に思えた。
事実違う場所だとわかったのは、四回ほどどの曲がり角をいけばいいのか迷った時だった。
町というのは人の住む場所であるからして、案外構造は似ているものだ。
しかし、数年間、自力で町を探索していなかったルカヤからは土地勘というものが消え失せていた。
混乱したルカヤは空が暗い意味も、イタリアで女だけでうろつく危険さも忘れていた。
歩いていれば覚えのある道にでるかもしれないと足を進めていたルカヤのそばに、黒いワゴン車が停まった。
不自然な位置だ。路上駐車は日常茶飯事だ。だがその車はたっぷり徐行して、音もなく停車した。さながらエンジンの息を殺すかのように。
「……?」
視線を感じ、後ろを向く。
ワゴン車は特殊な窓ガラスをはめているのか、真っ黒に塗りつぶされているようだった。
嫌な予感がした。そそくさと足をはやめようとする。
ワゴンのなかから人が出てきた。
複数人だ。その顔を認め、ルカヤの喉から、ひ、と悲鳴があがった。
男性と思わしきがっしりとした肩幅をもった彼らは、一様に目出し帽で顔を覆っていた。
叫ぼうとした。
出てきたのは「カヒュ」という空気がかすれたもの。彼女は幼い頃から大声で助けを求めるという行為をしたことのない人間だった。
常から声の小さい彼女の声帯は、大きな声を出し慣れていなかった。
再び挑戦する前に、覆面の男がルカヤの口を覆った。
男女の一方的な力量差で、ルカヤは抱き上げられ、身の自由を奪われた。
仲間の男が慣れた動作でワゴンのドアを開ける。
あわやワゴン車に連れ込まれようとした時、銃声が響いた。
「タイヤがやられた!」
冷静だった男たちの一員が舌打ちする。
間を置かず二発目、三発目の銃声がルカヤの鼓膜をつんざく。
発砲者と思わしき誰かが言った。
「そいつを置いていけ」
男たちはしばし相談するそぶりをすると、ルカヤを地面に転がした。
車を放置して、統率のとれた動きで去っていく。
「あーあ。オメーはよ。マジでどうしようもねえほど人の努力をダメにする女だよな。最悪なのはオメー自身はさほど悪くねえってところだぜ。可哀想に」
彼は質のいい靴を高らかにならし、ルカヤを見下ろす。
薄青に染まり始めた空のした、冷たい宝石のような美貌が彼女を射貫いた。
重たいまぶたに負けずはっきりしたまなじりは涼やかで、気の強さをうかがわせる。
すっと通った鼻筋は洗練された貴公子のように麗しい。並んだ対の瞳はまばたきのたび、鈴の音が鳴らんばかりに玲瓏にきらめく。
髪は女でさえ嫉妬する純金の糸。引き締まった腰に手をあてて、形のいい顎を傲慢に反らしている。
ミケランジェロの彫刻の如く気高い面立ちだ。
ルカヤは「兄さん」と呼ぼうとして、出来なかった。
ルカヤを見つめるエヴァンの目が、ルカヤの心を縛り付けた。
今まで見たことのない落胆と高揚が入り交じり、冷たく熱い瞳だった。
どろりと煮えたぎり。ぎらぎらと鋭さに澄んでいる。
ルカヤの本能が、これで終わりだ、と囁いた。




