第十九話「先輩と後輩」
忙しい月日はあっという間に過ぎる。
ガエタノに出会い、一年目が近づいていた。
そして、別れの季節も。
ルカヤの学生生活二年目は、ガエタノの卒業年でもあった。
あと数回残っているかという勉強会。
ボールペンを動かす速度も速くなった。
ガエタノは相変わらず本を読んでいる。今日は娯楽小説のようだ。
ルカヤのほうは日増しに、細い糸をナイフで更に削られているような心地になっているのに、彼は昨日と同じ顔をしている。
(ガエタノ先輩は寂しくないのかな。ないだろうな)
ガエタノは社会的だ。
ルカヤと違って友人も多かろう。
時計は六時を刺している。今日も帰る時間が来てしまう。
だからメールを確認した時、ルカヤの胸が高らかに跳ねてしまった。
普段であれば不穏の知らせである、兄からの遅刻の連絡だった。
「あの、ガエタノ先輩」
話しかければ、ひょいと顔をあげてくれた。
瞳の色は揺れ一つない綺麗なモスグリーンだ。なんとも思われていないのはわかっている。
ルカヤはいつになく勇気を振り絞った。てのひらに汗がにじむ。
「今日はちょっと兄が遅いみたいで……もう少しだけ教えてもらってもいいですか。迷惑でなければ、なんですけれど」
「ああ、そうなの? でも勉強会はやめておいたほうがいいな」
「そ、そうですか?」
「ああ。最近物騒だからさ。知ってる? 人が消える都市伝説。イタリア版ハーメルンの笛吹き男なんていわれてるけど。火のないところに煙は立たぬっていうし、実際、そういう系の事件が増えてるらしいぜ」
あっさり断られ、落ち込みを隠しきれないルカヤに、ガエタノはニィと笑いかけた。
「だから今日は俺が送ってく」
「……えっ!?」
「前に送るって約束しただろ。このままだと果たせそうにねえからさ」
そういうことになった。
荷物があるというので、あらためて、学校の玄関で待ち合わせた。
やってきた先輩はリュックサックを背負ってやってきた。赤いシャツとは若干合わない。
リュックには動物のキーホルダーがついていて、可愛らしい雰囲気だったのもある。
大きな黄色い目をした黒猫のキーホルダーに特に目をひかれた。
ルカヤはまじまじと図太い表情をした猫を観察した。どこの店のだろう。
ルカヤの注目に気付くと、ガエタノは珍しく照れて、頬をかいた。
「好きなんだよ、動物」
「知りませんでした」
「そういや言ってなかったっけ。可愛いよな。簡単に抱き込めるぐらい小さくて、よく動いてさ。で、ちょっとみないうちにあっという間に虫や鳥を捕まえてきたり、警戒心を覚えたり……見てて飽きねえっつか」
知らない一面に、ルカヤのくちもとが緩む。
オトナな人だと思っていたが、子どもっぽいところもあるのだ。
「帰る途中で店があったら教えてやるよ。ほら、行こうぜ」
「えっと……あの。うち、兄がわりと過保護っていうか、なんていうか」
「大丈夫だって。俺、変なことするつもりねえもん」
ギリギリまで逡巡するルカヤを、ガエタノが引っ張る。
そうされると「あ、そっちじゃないんです」と、自然と案内が始まる。
ガエタノの、こういった心地のいい強引さが好きだ。
今日を逃したら、もう二度とこんな機会はないかもしれない。
ルカヤは震える指で、兄にメールを送信する。
「じゃ、じゃあ。兄の勤めるレストランまでお願いしていいですか」
ガエタノは二つ返事で頷いた。
兄だったら頑なにノーと言われるところだ。
帰り方も兄と違う。
兄はゆっくり雑談して帰る。そのぶん寄り道はしない。
ガエタノは面白そうなものがあれば立ち止まった。
ジェラート専門店で好きなアイスをひとつ奢ってくれた。兄は夕飯前の間食を嫌がる。
歩き食いまでしていいといってくれた。
罪悪感に包まれたが、買い食いしたピスタチオのジェラートはたまらなく美味しく感じた。
怪我をして以来、エヴァンはルカヤの一人歩きを絶対に許さない。
どこにいくにも一緒で、黙って離れると説教される。
自然と出かける頻度は下がり、すっかりインドア派になっていた。
この町に住み始めて一年を過ぎるというのに、どこにジェラテリアがあるのか、知りもしなかった。
ルカヤは浮かれていた。
だから店に着く前にガエタノに声をかけ、別れてもらうのを失念していた。
「よォ。随分な色男を連れてんな」
低い声に、ふわふわしていた脳が冷や水をぶっかけられたように冷える。
レストランの前。仕事を終えた兄が、人を殺しそうな目でガエタノを睨んでいた。
「ふうん。この人がお兄さんなんだ」
唇をニヒルにつりあげ、目が全く笑っていないエヴァンは、ぞっとするような迫力があった。だというのに、ガエタノは口笛でも吹きそうな軽い調子で応じた。
「先輩に送ってもらう、ってメールはあったけどよ。男だとは聞いてねえぞ」
「女性より安心じゃあないか。ここらへんってマフィアの管轄内だろ。盾はかたいほうがいい」
「違いねえ」
エヴァンはツカツカと歩み寄ってくる。
見ているだけで苛立ちが伝わった。怯えて一歩下がったルカヤを、エヴァンは無理矢理引き寄せる。
「送ってくれてありがとうよ。ここからは俺達だけで帰れるから、テメーも帰りな」
「…………」
兄の言い方は親切なようで刺々しい。
ルカヤはヒヤヒヤと二人の顔を見比べた。
ジーノの時と違って、急に激昂する様子はない。それは安心したが、ガエタノを怪しんでいるのは明白だった。
眉間にしわを寄せ、睨むエヴァンを、ガエタノは黙って見つめる。
ねっとりと値踏みをするような目だ。
これもまた、ルカヤは見たことのない目つきだった。
無遠慮な視線がますますエヴァンの気に障った。
「文句あるのか?」
「いや。全然」
ガンを飛ばされたガエタノは、ひょいと肩をすくめる。
「オマエさんがいるなら大丈夫そうだ。そういうことならよかったよ。ほら、お行き、お嬢さん」
ニィと笑って、ガエタノはルカヤの肩をぽんぽんと叩いた。
見上げた顔をみて、ルカヤは首を傾げた。
威圧的な兄との初遭遇。
さぞ気分を害しただろうとうかがった顔色は、逆に、いやに楽しそうにニヤついていた。
◆ ◇ ◆
翌日も催された勉強会は、謝罪の挨拶から始まった。
「ガエタノ先輩。昨日は兄がすみません」
「ん? 大袈裟だな、怪我をさせたわけじゃあるまいに」
「不快だったでしょう」
「忘れたね」
あんな美人にすごまれるとびくつく男も多いのに、ガエタノはどこふく風だった。
軽口を叩く肝の据わり方に、ルカヤのなかで、離れがたい感情が膨らむ。
「普段はあんな人じゃあないんです。わたしが事故に遭って以来、やたら心配性で」
言い訳をする。
嫌われたくなかった。大好きな兄が嫌われるのも悲しい。
「親しんだ人には、いい人なんですよ」
「だから大丈夫だって。俺ぁむしろ顔を見れてよかったと思ってるぜ。一度保護者と会っておきたかったからな。長い付き合いになるなら、身の回りの把握は重要事項だ。ま、さほど期間は残ってないか?」
ぐ、と息が詰まる。
窓の外を見れば、綺麗な青い空がどこまでも広がっていた。
こころすくような光景だ。これがあっという間に夕方に変わる。そして明日になるのだ。
「先輩。わたし……ガエタノ先輩がいなくても、卒業できるでしょうか」
「やる気があれば」
「成績はあがりました。先生も喜んでくださいましたが、でも、先輩のご教授あってこそです。わたし、自分で考えて学ぶのは、下手みたいです。まだまだ卒業まで何年もあるのに。乗り越えられるかどうか」
学力に対する不安をつらつらと吐露する。
そのうらに、どうしようもなく我欲まみれな寂寥を覆い隠しながら。
己の手で手を握りしめ、うつむく。
それを見たガエタノは、声をあげて笑った。
「や、やっぱり、おかしいですか。いいとしして、甘えてるって。自立しなきゃですよね」
「いやいや。違うよ」
アハハハ、と明るく笑い、まなじりの涙を拭う。
挙動のおかしいガエタノにルカヤは何もいえなかった。金魚のように口をぱくぱくと動かすのみだ。
「じゃあ、どうして?」
「オマエさんは本当、予想とすんぷん違わぬように反応するなってな」
「え、っと」
「素直で可愛いって言ってるのさ」
机越しにガエタノがぐっと身を乗り出してきた。
上半身がのり、教材の位置がずれる。
近くなった距離にのけぞるルカヤの両頬を、のばされたガエタノの手がはさみこむ。
「もしも無理だと思ったら、連絡しておいで」
幼子に語りかけるように、ガエタノはルカヤの瞳を見つめた。
先輩の手はルカヤより大きく、兄より薄かった。体温の低い肌はざらりとして、若干ゴム手袋の匂いがした。
(近い、近い、近い)
ルカヤの心臓が跳ね回る。
外にはまだ人が大勢いるはずなのに、ガエタノしか目に入らなくなった。
ガエタノの言葉が、耳から脳へ流し込まれるように入ってくる。
「もし俺のところへ来たくなったら、居場所と食い扶持を用意してやるから。安心しろ。俺の予想はここまで全部当たってんだ。悪いようにはしねえよ」
「いいんですか?」
早く離れたい。心臓が早鐘を打っている。
喉からしぼりだされた声はうわずっていた。
ガエタノはくつくつと喉を鳴らし、ルカヤから身を離した。
「ああ。あの兄貴だって、納得するようにできるさ。だいたいはもうわかってるんだ」
どういう意味か、ルカヤには理解しきれなかったけれど。
頭のいいガエタノがいうのだ。
ルカヤは彼の言葉を信じた。




