第十八話「真新しいシャツ」
大学は使われていない教室が多い。
正確には「その時使われていない教室」が常に発生している。
大学にあるのは、高校生の時分に想像したような、生徒が何百人も並ぶ大教室ばかりではない。
カラオケボックス程度の小さな教室もある。そういった教室は受講者の少ない授業で使われる。
そして使われている時以外は、静かな空き部屋になる。
椅子と机、ホワイトボードしかない小教室は、鍵もかけられなかった。
実質、生徒が自由に使えるスペースだ。
ルカヤは、念入りに時間割を調べたうえで、小教室で先輩と待ち合わせた。
夕方になるにつれ、空き教室は増える。
先輩との勉強会は週に二度。今日はその一日だ。
他に誰もいない一室で、ルカヤは先輩と向き合って座っていた。
ルカヤは先輩に提示された問題をノートに書き取り、解きほぐそうと試みていた。
(あたま痛くなりそう。甘いものが欲しい)
左手で目頭を押さえ、右手でノートにボールペンを走らす。
ボールペンを使うのは先輩の提案だった。
消しゴムで消せると、どこをどう間違えたかわからなくなるという理由だ。
問題とにらみあうすきまに、わずかに視線のみをあげて先輩を見上げる。
モスグリーンの瞳の先輩。彼は名をガエタノ・ゲッツィと名乗った。
ガエタノは椅子に背を預け、本を読んでいる。
母語だが、表紙は分厚い。絵のないざらりとした表紙には、タイトルが輝かしい金色で箔押しされている。
めくられてチラとみえたページは、アリの行列のような字でびっしりだった。
「問題、とけたのか?」
唐突にガエタノが顔をあげる。
気づかれていたのだ。ルカヤの手からボールペンが滑り落ちた。
ガエタノはなんでもないふうにボールペンを拾い上げた。
かたまっているルカヤに、ニィと笑って黒インクのペンを手渡す。
彼は笑うと目がきゅっと三日月の形になる。
「あっ、すみません! まだです」
「ヒントが欲しいか。チャンスは三回までだぜ、もう一回使うか?」
「だ、大丈夫です。頑張ります」
「ならばよし。時間は……五時か。結構遅くなってきたかね。ほら、俺じゃなくてノートをごらん。脳細胞が働きたいって言ってんぞ」
再びガエタノは本を開く。
ルカヤもまたノートに目を落とす。
エヴァンの仕事が終わるまであと一時間。いつも通りなら、迎えまで一時間三十分ある。兄から大学到着のメールが届くまでが勉強会のタイムリミットだ。
ガエタノと出会って約一ヶ月。
これがルカヤの新しい生活リズムである。
一ヶ月ですっかりガエタノはルカヤの生活に組み込まれた。
その間にあちらはルカヤの扱い方を心得たらしい。
からかわれ、掌でうまく転がされている心地になる。
ルカヤのほうはガエタノについてまだあまり知らない。人にたずねるのはニガテだ。だが、幾つかわかったこともある。
まず、赤いシャツが好きなこと。
鮮烈な紅色からシックな葡萄酒色、フェミニンな珊瑚色まで、多種多様ながら、とにかくシャツは赤系統だ。
現に今日は陽気な朱色だ。
赤は本来、自己主張の強いカラーだ。だが、ガエタノの場合は奇妙にまとまって見える。
ガエタノの髪が冷えた炭のような色合いだからだろうか。
次に、コーヒーにミルクは煎れない。
エスプレッソにたっぷり砂糖をいれて飲む。ナポリ定番の飲み方だ。
三つ目に、やはりガエタノは頭がよかった。
乾いた土に水が吸い込むように、内容が頭に入ってくる。
へたな教授よりずっとわかりやすい。ワンツーマンとなれば、尚更教え方も丁寧だ。
時に厳しく、時に甘く。
例えば、
「手ェとまってんぞ。このままじゃあ人を扱うなんて夢のまた夢だぜ」
と真面目な顔で脅しつけてくる。
時間ギリギリにときおえられれば、
「よくやったなあ。たいしたもんだぜ、こいつができれば上々だな」
等いって、褒めてくれる。
ルカヤは一生懸命学んだ。気分は目の前にニンジンをぶらさげられた馬だ。
次の試験を受けたら、解剖の先生も喜んでくれるかもしれない。
死ぬほど疲れる勉強会が、ルカヤは楽しかった。
今日も今日とて、脳みそをぞうきんしぼりしてるんじゃないかというほど使い倒して、買える時間がやってくる。
ガエタノがパン、と本を閉じた。
すっかり暗くなり、教室の電気をつける。時計は六時五分を指していた。
「もうこんな時間か。まだ帰んなくっていいのか」
いわれてメールをチェックする。
兄からのメールが数分前の日付で入っていた。開いて文面を確認する。
「あ、今日は長引くから少し待っていろ、だそうです」
「お迎えすんのは変わらないのか。いつも熱心だねぇ。兄妹仲がよくて羨ましいな。俺ぁひとりっこだもんよ」
「ここまでしてもらうのも申し訳ないんですけれどね。兄には兄の人生がありますから」
「いやいや。治安悪いとこもあるからさ。甘えておけよ。女の子ひとりは危ねえって」
ルカヤは曖昧にはにかむ。
兄の自由時間がルカヤに割かれすぎるのは、本当に心苦しいのだ。
兄だって若い盛りで、友人と思い出を作る権利も未来を広げる可能性もたっぷりあるのだから。
こういう時ばかりは、足がよければ、と思う。
「お兄さんが来れなかったら、いつでも俺を呼びなよ。用がなきゃ送るからさ」
「えと。はい、ありがとうございます」
またしてもぎこちなく笑う。
ガエタノの申し出は有り難いが、できればしばらく先の話であってほしい。
ルカヤはまだ、兄にガエタノについて言えていなかった。
◆ ◇ ◆
ルカヤは大学近くのカフェで時間を潰した。
ノートや本を見比べているうち、店内にいたらしき女性の黄色い声が耳に届いた。
メールはなかったが、すぐにわかった。兄の到着だ。
喫茶店の出入り口をみる。
エヴァンは腕に上着をかけ、上から見下ろすような視線で店内を一瞥した。
しゅっとした立ち姿は映画のワンシーンのようだ。
エヴァンは店員とふたことみこと言葉を交わすと、真っ直ぐにルカヤのほうへ歩いてくる。
「よぉ。窓越しにうんと可愛いお姫様がいたから、飛び込んできたぜ」
「ああ、うん。兄さんもお仕事お疲れ様」
甘い台詞に店内の視線が一気に突き刺さる。
兄は立ったまま、机に置かれた伝票を手にとった。
ルカヤももうカフェラテを飲み終えていたので、未練なく席を立つ。
伝票を取り返そうとしたが、ひょいと手を高くあげられ、かなわなかった。
「悪かったな。急な予定が入ってよ」
「たったの一時間だよ。ゆっくり休めたし、気にしなくっていいのよ」
会計は兄が支払った。
店を出て、二人で並んで歩く。
杖をもったルカヤの歩く速さは遅いほうなのに、歩数はぴったり合っていた。
「今日は大学、疲れたのか?」
道すがらエヴァンが話題をふってくる。
「うん。勉強会してるんだ。先輩ができたの。勉強教えてくれるって」
「ほぉ、よかったな。いつから。どんな奴だ?」
「一ヶ月くらい前。いい人だよ。ちょっと意地悪……かな。よくからかってくるんだ。でも教え方がわかりやすいの。成績、あがるかも」
「そうか。実技以外じゃ悩んでたからな。お前が嬉しいんなら、悪かねえ」
含みのある言い方に、ルカヤは口をつぐむ。
今まで何度かガエタノについて言おうとした日はあった。
そのたび、脳裏に血を流すジーノが浮かぶ。
男性であるという事実がどうしても言えない。
(実際、お付き合いしているわけではないのだもの。ただの先輩と後輩。わざわざ性別をいう必要なんてないよね)
言い訳をして、今度はルカヤから話しかける。
「兄さんは?」
「いつも通り仕事だぜ。パスタ茹でて飯つくって、シフト終わって店を出て」
「今日はちょっと遅かったね。デートしてきたの?」
エヴァンの目が右上のほうを泳ぐ。考えごとをしている時の癖だ。
「そんなところだ」
「今はどんな人なの?」
「前に教えた女と変わってねえよ」
ぶっきらぼうな言い方に記憶を掘り返す。
前に現在の女性について話したのは、大学に入って一ヶ月前後の時だった。
ん? と思い、当時から現在までの月数を指折り数えてみた。
何度やっても三本より多い。
「えっ、兄さん、まだあの人と続いてるの!?」
兄の片眉がくいっとつりあがった。
「なんだ、嫉妬か?」
「そんなわけないよ。嬉しいの。遂に兄さんにも本気の恋人が……!」
がらにもなく声がうわずる。
エヴァンは両手をあわせて興奮するルカヤに、はあと溜息をついた。
ルカヤがとりおとした杖をひょいと持ち上げる。
「名前なんだっけ。将来お義姉さんになるかもしれないし、しっかり覚えておかなきゃ」
「気が早いぜ、ったく。名前はアリーゼだ」
「アリーゼさんね、ふふ。忘れないようにする」
「……別に覚える必要なんざねえよ」
「え?」
かたまるルカヤに、エヴァンは短く舌を打つ。
かつてしょっちゅうあった鋭い舌打ちは、祖母と別れてから、滅多にしなくなった。
何故兄が苛立っているのか理解できず、ルカヤはおろつく。
「あー、クソ」
兄はガシガシと前髪をかき、大きく呼吸する。
次に放たれた言葉は、だいぶ険がとれていた。
「いいか? 覚える必要はないって言ってるんだぜ。気にしなくっていいのによ、ってやつだ」
口癖を混ぜて言い聞かせられる。
当然、ルカヤには疑問が残った。全く解答になっていないではないか。
だが兄の強情さは知っていたので、渋々諦めた。
「とにかくだ。必要があれば、そんときゃ教えてやる」
「うん……」
「今日は飯のことでも考えてろ。冷蔵庫にトマト缶とツナと生クリームあったから、それでパスタにすんぞ。好きだろ?」
「……うん。好き」
夕食の献立を話す兄は、いつもの豪快で優しい兄だった。
あとは不和を起こさず帰宅した。
兄は風呂に入ってからキッチンへ、ルカヤは洗濯物を洗濯機に投げ込む。
毛糸の製品をまわさないため、洗濯物はひとつひとつ確かめた。
兄は帰ってくるなり、手早く入浴した。汗が気持ち悪い、といって。
今夜、兄が着ていたはずのシャツも既に入っている。
白い一枚をつまみあげ、皺を伸ばす。
しみひとつない綺麗なシャツをみて、ルカヤはぽつりとこぼした。
「これ、おろしたての新品みたい」
かつては兄に考えるなといわれれば、ルカヤはその通りにしていた。
最初はそれきりで、透明に兄を信じ切っていた思考も、いまや疑惑の濁りが落ちつつある。
シャツに鼻をうずめ、深く息を吸い込んでみる。
完全なる無臭。
ルカヤも物心ついてからずっと家事をしてきた身だ。
【なんだか変な洗濯物】はわかる。
南に引っ越してから何度か遭遇した、真新しいシャツ。それは決まって、待ち合わせが遅くなる日に紛れ込むのだ。
(考えたくないけれど。これ、帰ってくる前に買ってきて、わたしに会う直前に着替えたの?)
なんのために。
レストラン勤務だというのに、ダークスーツを何着か揃えているのにも、理由があるのだろうか。
(今度迎えが遅くなる時、匂いをかいでみようかな。それともやめておこうかな。変な匂いが……そう、たとえば、鉄や煙の匂いがしないか、とか)
知っておきたい。しかし知りたくない。
兄を好きなままでいたかった。
エヴァンに問うてみるべきか。ルカヤは決断できずにいる。