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第十六話「兄と元彼を割った感じ」


 兄が手配してくれた新居は、なんと一軒家だった。

 ルカヤはてっきりアパートあたりかと思っていた。仰天してしまうのも無理からん。


 昔の住居が多いイタリアでも特に古い部類の家だ。

 ろくに手入れがされていなかったのか、だいぶ傷んでいた。住民が自力で直すのが大前提の家ではある。

 だが一軒家だ。

 二十歳の若い青年が買える家なのだろうか?


 兄は相変わらずだ。「ローンもあるから」だとか「気にしなくっていいからよ」とか。はぐらかされた。

 高校を卒業したエヴァンはレストランに就職している。

 最初はウェイターをさせられていたらしい。ものすごく不満そうだった。


 はじめのうちは女性客が怒濤の如く押し寄せ、店主に喜ばれた。

 そのうち、エヴァンを呼び出すのを目当てに、ろくに料理に手をつけない馬鹿者が出てきた。

 流石に料理を無為に捨てるのは許せなかったようだ。エヴァン自身の希望もあって厨房入りした。

 こちらに引っ越してきてからも新しいレストランに勤め、同じような流れを経て厨房でイキイキ働いているという。

 

(もしかしてなにか危ない仕事をしているのかな)


 映画の影響で、イタリアといえば陽気で明るい国というイメージが強い。

 光のぶんだけ闇も深いとも――


(兄さんが苦労しているのは私のせいでもある。悪いことならやめさせたいけれど、一方的にやめろなんて説教する資格なんてない)


 完全に世話をされているルカヤでは偉そうに理想論を語っても虚しい。

 ましてや彼女には重大な課題があった。


 イタリアの大学は入学こそ比較的容易である。

 難しいのは卒業だ。

 入学者は全体の五割のいっぽう、卒業者となると二割を切る。


 特にルカヤが入学してしまったのは、なかでも特別な学び舎。医学部であった。

 選択自体は完全な間違いではなかったと思う。

 おかげで両親も、祖母の世話を放棄して引っ越してよいと許可してくれた。


 そうして迎えた大学生活、一年目。

 ルカヤは早速勉強につまづきかけていた。 

 机にかじりついて暗記をたたき込んだところで、地頭のほうはどうにもならなかった。


 得意なのは解剖ぐらいだ。

 運動をやっていたおかげか、なんとなく肉体の作りが理解(わか)るのである。


 ルカヤに人に頼るという発想はない。

 友人のつくりかたを知らないし、兄もこの分野ではてんであてにならぬ。

 毎日、帰って家事をこなしたら、復習にてんてこまいになる日々を送っていた。

 はっきりいって最初の二ヶ月で疲れ果てていた。


 状況が変わったのは、そんなおりだ。

 ヘトヘトになっていたルカヤは、うっかり学校の敷地内で迷子になってしまった。

 巨大な長方形の建造物である学校は、作りは非常にシンプルだ。

 それだけに目印が少なく、通い立てだと現在地を容易く見失う。


 移動がめっきり少なくなってしまったルカヤは土地勘もなかった。

 何より足が悪いので、一度彷徨うと体力も使い切って大変なことになる。

 

 その時のルカヤは完全に廊下の見分けがつかなくなっていた。

 うっかりのぼる階段を間違えたのだ。

 戻ろうとしたところでまた余計なルートをとったらしく、いつまでたっても目的の教室に着かない。


 授業もまるまるひとつすっぽかしてしまった。

 涙目に彷徨うルカヤのもとに、その人は現われた。


「お嬢さん。迷子?」


 かけられた声はフランクで、しかし軽薄と言うには落ち着いていた。

 ルカヤは、階段の真ん中で、パンフレットの地図を片手に立ち往生していたところから振り返る。

 男性だ。彼はズボンのポケットに手を突っ込んで、階段の下からルカヤを見上げていた。


「そこのオマエさんだよ。迷子?」


 再度問われる。

 ルカヤは、質問の相手が自分だと気づくと、必死で首を振った。

 このチャンスを逃したら、もう一生授業を受けられない気がした。


「ああ、やっぱり。新入生の子でしょ? いるんだよなあ、たまにさぁ」


 よっこらしょと年寄り臭く呟き、男性は階段をあがってくる。


「ほら。パンフ、よこしてみなよ。案内してやっから。俺、暇だしな」


 ルカヤより15センチは背の高い彼は、あっという間にルカヤの手からパンフを取り上げてしまった。

 ルカヤはたじろぐ。

 距離感が近いというのもあったが。何より男の容貌だ。


 彼は癖のある黒髪に、気怠い緑の目をした青年だった。

 髪質はジーノに似ていて、色気のある目元にエヴァンを思い出してしまった。

 動作も、近しさは知り合ったばかりのジーノのようだし、身に纏う空気感はエヴァンに近い。

 ルカヤにとってこの世で最も印象的な二人の男性を、足して割ったような人に、どきりとしてしまった。

 

 鞄を胸元によせ、緊張に唾を飲む。

 その間にも、くせ毛の男性は「どこいきたいの?」ときいてくる。


「こ、この教室です」

「おっと。棟が違うじゃん」

「えっ!?」

「ま、よくあるよくある。次から気をつければいいんじゃねえの」


 慌てて地図を見直せば、男性はカラカラと笑った。

 歯を見せて笑う姿は兄ともジーノとも違う。

 それにルカヤの心臓が跳ねる。今まで感じたことのない感情だった。

 理想と親愛に、未知のときめきをトッピングしたかのような。


「じゃ。俺はこれで。機会があったらまた会おうな、迷い猫ちゃん(ガッティーナ)


 冗談混じりに立ち去る彼を、何故かルカヤはじいっと見送った。

 これが、のちの大学生活における教師役――ガエタノ・ゲッツィとの出会いであった。


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