第十五話「高校卒業」
何度目かの秋がやってきた。
窓から差し込む光は以前より黄みがかり、暖色なのにうら寂しい。
暖房の換気のため、窓を開け放っているせいか。
ドレッサーの前で髪をくくる。
いつも通り後頭部、うなじのあたりで髪をひとつにまとめた。
高校最後の朝。生まれた頃から成長をともにしてきた家を出る一日を、ルカヤは至っていつも通りに迎えた。
(やっぱり私の勘違いだったんだ)
安堵とともに髪紐から手を離す。
鏡のなかには瑠璃の瞳と黒髪をもつ女性が映り込んでいた。
肉体的には成長したはずの自分は、瞳に幼さを残したままだ。
飴色のドレッサーには青いリボンの杖がたてかけられていて、今朝も美味しいカフェラテを煎れた。
兄の女癖も相変わらずだ。
下劣な想像をしてしまうこともあったが、エヴァンはルカヤの優しい兄であり続けた。
本当にたまに、ルカヤの顔を不自然にじっと見つめている瞬間もあったが。何も起こらなかったのだ。
明日からは流石に変わるだろうと思う。
卒業式は先日終えた。今日は引っ越しだ。
ナポリではないが近い場所だ。
「ほら、ルカヤ。もういくぜ」
兄が椅子をひく。
ルカヤは頷いて、荷物を持った。
廊下の電気は既に消されていた。
自然の光だけが全てを満たしている。
もうここには帰らないのだと思うと、急に寂しくなった。
兄は次の家が本当の家になるという。
確かに家そのものにはいい思い出がなかったかもしれない。
外では兄が買った車が待っている。
荷物を運び込むのに、足がすくんだ。
動かぬ足首をからめとるように、廊下の奥からかすれた声がした。
「エヴァン、エヴァン……」
兄を求める、しわくちゃの言葉。
祖母だ。
祖母は前の冬から春の変わり目で風邪を引いて以来、体調を崩している。
趣味だった庭いじりもやめてしまった。
毎日テレビをみるか、眠っている。
兄が出かけると宣言した日の朝は、決まってゴホゴホ咳き込む。
引っ越したら、もう祖母とはお別れだ。
兄に祖母を連れて行く気はないようだったから。
両親がヘルパーを雇って、面倒を見てくれるらしい。
祖母自身は「他人より可愛い孫達がいい」と言い張った。
家族全員、もういいといったが、こうも弱々しく呼ばれると後ろ髪をひかれる。
つま先が祖母の部屋に繋がる廊下をさす。
ルカヤの肩に大きな手が乗った。
「耳を傾けるな」
「もしも本当に大変だったら? 病院に連れて行かなくちゃ」
自分より随分高い位置になった兄の顔をみあげる。
エヴァンは眉に深い皺を刻み、廊下の奥を忌々しげににらみつけていた。
「どうせ仮病だ」
エヴァンの態度は揺らがない。
理由はわかる。
祖母は掃除もしなくなったので、代わりにルカヤとエヴァンでやっていた。
掃除をするたび、兄は怒った。
食欲がないといって食事には手をつけない一方で、ゴミ箱からはカラの菓子袋や缶詰が出てきたからだ。
「できないのならオレがやってやる。こっちへ寄りな。しっかり荷物を持て」
エヴァンの腕がルカヤの腰にまわる。
ちからづよくはない。
兄の腕は、たくましくしなやかだ。
祖母のいるほうに身体をひねろうとするのをおさえられる。
ひきよせられて、ルカヤの額はエヴァンの胸にぴったりとくっついた。
「いい子だ」
エヴァンの手がルカヤの頭を抱えこむ。
乾いた手が耳を塞ぐ。
祖母の声が聞こえない。エヴァンのトクトクという心臓から血が流れ出るリズムだけが伝わってくる。
「さあ。行くぞ。これですべて解決するからな」
エヴァンに導かれ、一歩一歩進んでいく。
玄関をあけて、解放される。
目の前には兄の車と、先に出されていた荷物たち。
ばっとふりむく。
当然、祖母はそこにいなかった。声も出てこない。祖母はもう追ってこれないのだと実感して、奇妙にちからが抜けた。
空には白い雲一つない。吹き抜けるような青。
ルカヤは夢見心地の感覚で、車の助手席に乗せられる。
ぶるる、とエンジンがかかるのをぼうっと聞き流す。
風景が流れ出した。
見慣れた町から離れていく。
ルカヤはこの日以来、二度と祖母と会うことはなかった。