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第十三話「尋ね人」


 雨が続いている。

 前より雨の日は過ごしづらくなった。

 傘を持つのが苦労する。杖ももつと棒を二本かかえなければならない。


 先日は杖をもつために、玄関に傘を忘れた。

 帰りはすっかりずぶ濡れになり、兄に呆れられた。

 そして風邪を引いてしまった。


「体力、落ちたなあ」


 リハビリはしていた。

 だが入院中、特に初期は寝たきりの時間がとても多かった。

 しかし運動量は明らかにがた落ちしている。

 足を主にルカヤの全体を包んでいたしなやかな筋肉は、しぼみだしていた。


「……兄さん、まだかな……」


 頼りすぎてはならないと思う。

 わかっているのに、なかなか独り立ちできない自分が恨めしい。

 今日は風邪で寝込んでいたから、余計に寂しさが膨らむ。

 自室でひとり眠り、時計の針が進むのを眺めるうちに、だんだんぽっかり穴が空いていく気持ちになるのだ。


 普段はふたをしている悩み事も考えてしまう。


 高校生になったルカヤは思わぬ悩みに直面していた。

 成長するにあたって逃げられない課題――進路である。


 イタリアでは11歳から14歳までが中学で、14歳から19歳までが高校生として扱われる。

 高校最後にマトゥリタという試験がある。

 これによって得られる業績証明書(ディプロマ)が非常に重要なのだ。

 

 イタリアの大学には入学試験がない。

 ディプロマ次第で、医学部や理数系の一部は当てはまらないが、好きな大学に入ることができる。

 ただし卒業は非常に厳しい。

 

 もとは運動で成果をあげるつもりだったのに、足がダメになってしまった。

 走れないときけば、歩けても信用に関わる。

 肉体労働は難しいかもしれない。

 となれば、ある程度学歴を得て、就職を目指すべきか。ならばどの科へ?


「はあ」


 気分転換のため、のびをした。肩がぽきぽき鳴る。

 ベッドに潜る。

 シーツはこころなしか湿っている。そろそろお日様にあてたい。パンに似た甘いセルロースの香りが恋しい。

 そして兄とふたりでくるまれて、安心して眠りたかった。


 ルカヤはインターホンの騒がしいチャイムで起床した。

 もやのかかった目で壁時計をチェックする。

 ベッドに入ってから二時間が経過していた。午後の四時。兄が帰ってくるまであと少しある。


 家には祖母もいたはずだが、出ていないようだ。

 インターホンはまだ鳴っている。

 テレビをつけたまま、ソファで眠っているのかもしれない。


 ルカヤは重い身体を起こして、かろうじて見苦しくない服装に着替える。

 なんとか玄関に向かえば、ルカヤとそう変わらない背丈のシルエットが見えた。


「チャオ、ルカヤちゃん。あれ、風邪ひいてたの? そんなときにごめんね」


 内鍵を開ければ、見覚えのある少女が笑顔で挨拶をしてきた。

 カーラーで睫がくるんとあがっている。

 地味すぎず、けばけばしくはない。ひとめで洒落た女の子だとわかる。

 豊かな黒髪は大胆にウェーブして大人っぽい。

 

「デリツィアさん?」


 エヴァンの今の彼女だった。


「ああ、ごめんね。今日は貸していた本を返してもらいにきただけなの。妹がいるから勝手に部屋に入って持って行っていいっていわれてさ」

「そうなんですか。すみません、こんな格好で。どうぞ。ろくに片付いていませんが」

「ありがと!」


 にこっと笑った口は大きい。怖じけずに白い歯を見せてくる。

 ルカヤはあまり彼女と話していないが、明るい女性なのだろうと思う。


 かつては夫婦の寝室であり、今はエヴァンとルカヤの部屋となった一室へ通す。

 デリツィアは手早く目的の本を見つけた。

 あっという間に一冊の本を手に取る。小説のようだ。


「あったあった。これでもう心残りはないわ」


 言い方がひっかかる。


「あ、ルカヤちゃん、すぐ顔に出るって本当なんだ。ミョーな言い方だって思ったでしょ、今?」

「えっと。はい」

「ま、わざわざ言わないよね。あたしとエヴァン、別れたの」

「……そう、なんですか。ごめんなさい……」


 驚きはしない。

 兄の女癖の悪さは前からだ。とはいえ、女性側からしたら納得できないだろう。

 ルカヤの懸念と反対に、デリツィアの表情は晴れやかだった。

 

 男女の機微はわからない。

 混乱するばかりのルカヤの前で、デリツィアは本を鞄にしまう。

 至って普通の動作だった。見守っていると、唐突に話を切り出してきた。


「あたしらさ。最初から今ぐらいで別れる予定で付き合い始めたんだよね」

「はい?」

「一時の遊び。若者らしい、持て余した恋人ごっこ。告白したときに、あらかじめそうしようって言われたの。あたしは頷いた。ルカヤ、どう思う。あたしを軽蔑する?」


 言われた意味は理解できなかった。

 時間をかけて、ゆっくり一連の言葉を咀嚼する。

 その間、デリツィアは鞄に仕舞った本の背表紙をなぞって遊ぶ。

 しばし考え、ルカヤは控えめに首を横に振った。


「いえ。私は特に嫌悪はないです」

「へえ」

「人生は長く、出会う人は多く、でも最後に選ぶのは一人だと聞いています。兄の知り合いに、結婚する人を探すために一度に多くの人と付き合って、一生の一人に出会ったら他の全てと別れるといっている人もいましたし」


 ルカヤは中学生時代もほとんど友人がいなかった。

 髪を触らせた少女達も、その話ばかりで、ルカヤの方からはろくにアクションをとれなかった。

 そのせいか、ルカヤは少女達が無意識に共有している常識が欠如しているふしがある。

 特に恋愛は壊滅的だ。

 世の中には色んな愛と恋の形があるのだろう。


「むしろ兄にそういわれて嫌だったのならすみません。エヴァン兄さんは相手がウソをついているとわかっていても、相手がいったんだからって無視することがあるから」


 謝罪にはしばし無言が返ってきた。

 不安になって、時計を見上げる。いま兄が帰ってきたら気まずいというレベルではない。

 窓を雨がしとしとと打つ。

 メトロノームのようなリズムを寡黙に数える。

 長かった。デリツィアが重い口を開く。


「意外。あなたって真面目ちゃんだと思ってた」

「子どもっぽいだけですよ。上手な間違え方が選べるほど賢くないから、正直でいるんです。とにかくなんていうか……お互い納得して尊重し合ったうえなら、やり方とか時間は他人がとやかくいうことじゃあないと思います。その点、エヴァン兄さんは誠実です」


 聞き逃しそうな小さい声で「多分」とつけたす。

 デリツィアは何故か窓の外に目をやった。

 さっさっと左右を確認する。横断歩道で信号機の色を確かめる時のようだ。

 人影がないのを確認して、デリツィアはルカヤに近づいてくる。

 部屋はベッドが大部分をしめていて、出歩くには狭い。逃げ場もなく、鼻と鼻が触れあいそうな距離になった。


「気をつけなよ、ルカヤ」


 デリツィアからは笑みが消えていた。

 声は消え入りそうに小さい。家のなかだというのに、聞きとがめられるのを恐れているようだ。


「あいつさ、寝た時に君の名前を言ってたのよ。一回だけだけど。悪いことはいわないわ、できるだけ早く自立して、一人暮らしした方がいいかもしんない」


 兄が今まで付き合ってきた女性達。黒髪の女の人。

 寝るという単語の意味も遅れて飲みこむ。

 薄々予感はあったのだ。

 人間の身体と欲求について学校の授業で習ったり、鬱血痕についてネットで調べたりしていた。

 ジーノの失敗を繰り返したくなかった。ルカヤだっていつまでも無知ではない。

 ひゅっと心臓がはねる。


 デリツィアが逃げるように帰ってからも、胃が重たくなるような感覚は残留した。

 兄は――エヴァンは、ルカヤを「そういう目」で観ているのだろうか?

 数週間ごとに違う女の肩を抱いている兄の姿を思い出す。

 苦みがこみ上げる。吐き気に似た感情を自覚した瞬間、ルカヤは己の頬を打つ。


(いいえ、ルカヤ! どうしてあなたが、兄さんをそんな風に思えるの)


 エヴァンはいつだってルカヤを案じ、優しくしてくれた。

 その兄を獣のように扱うなど、あってはならない。


(兄さんの恋人は、みんなわたしと違ってキラキラした素敵な人達だったもの。きっとわたしがあんまり不出来だから、恋人といる時まで夢のなかでわたしを心配してしまうんだ)


 大好きで完璧な兄の足手まといになるのは嫌だった。


「勉強……勉強しよう」


 思わぬところで、ルカヤは新しい選択肢に踏み切った。

 大学に入り、よい職業に就く。

 そして兄を安心させる。ひとりで生きていけるようになって、エヴァンをルカヤから解放するのだ。


 ルカヤの猛勉強が始まった。


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