第十話「悲運の悪露」
ルカヤはみっともなく狼狽する。
「ど、どうして?」
「どうしてだって? あんたの父親が連絡してくれたんだよ。カウンセリングだって? 馬鹿馬鹿しい」
「わ、私達なりに考えて……」
「私達? 『たち』だって? あんたが吹き込んだんだろ、その浅いあたまで!」
ルカヤを遮って投げつけられる否定の言葉に身がすくむ。
「まだ世の中に出たこともない子どもがなにをどう考えるっていうんだい。無駄な金を使って、勝手な行動をして」
「迷惑はかけてないよ……」
「もうかけてるんだよ! 病院に通う子だって噂がエヴァンの将来を傷つけたらどう落とし前をつけてくれるつもりだったんだ。あんたって子は言い訳ばっかり! いつまでも逃げてないで、とっとと出てこい!」
子どもの頃、ルカヤは祖母のいうことを全てうのみにし、受け入れていた。
今はもうヒステリックな祖母の言動に、ルカヤは一貫性や説得力を感じていない。
だが、十四年の月日はルカヤにぬぐいようのない諦念を刻みつけた。
どう尽くそうとも、祖母には通じないと。
彼女の望むようにするまで、不機嫌を振りかざし、止まらない。
風邪をひいたような気怠い憂鬱で、のろのろとしか動かない指で内鍵を外した。
部屋を出ると悪魔のように吊り上がったヘーゼルの瞳が、ルカヤを睨む。
「自分がやられて嫌なことを人にしちゃあいけないってわからないのかね?」
祖母は粘着質に舌を打つと、ルカヤの腹を殴った。
胃酸がこみあげる。急所を攻撃された本能的な忌避感に、下唇を噛む。
感情のまま祖母が腕を振り上げたのが見えた。
慣れたもので、体が自動的に祖母に背を向け、正面を壁にぴったりとくっつける。
ふりまわされた拳が数回、肩甲骨や脇腹を叩いていった。
「あんなことがあったのにもうこんな手間をかけさせて」
だんまりになったルカヤにぶつぶつ文句を重ねる。発音に唾が絡んで語尾がにちゃにちゃと跳ねていた。
ルカヤの反応がろくにみえず、つまらなそうだ。
疲れてルカヤを叩くのをやめる。
興奮であらくなった呼吸を整え、祖母は意地悪く、ルカヤと部屋を順番に見た。
「だいたい、こんな風に逃げられるのが悪いんだよ」
祖母の口角があがる。笑い方がぬめっていて、人間大の爬虫類が笑ったようだ。
嫌な予感に打ち震えるルカヤの眼前で、祖母はハンマーを持ってきて、ドアノブに振り下ろした。
「なんてこと!」
驚愕に短く悲鳴があがる。
祖母は楽しそうに、連続してドアノブをいじめた。
ハンマーは一歩間違えば簡単に凶器になる。
持ち手が誰でも危険さはハンマーの質量は変わらない。
腰の曲がった老人であろうとだ。
うかつに近づけず、ルカヤは祖母を止められなかった。
アドレナリンがなくなると、一気に疲労が押し寄せたのか、祖母は急に静かになった。
不気味なほどに大人しくなって、ドアノブの残骸を残し、テレビの前へ戻っていった。
兄が帰ってきたのは、祖母がテレビチャンネルをつけ、ニュースキャスターのよどみない朗読が流れ出したタイミングだった。
急ぎで帰ってきたらしい。エヴァンは汗をかいていた。
血流があがって、きらきら輝いているエヴァンの青い目がドアノブの残骸を捕らえる。
熱は瞬時に冷却された。
凍てついた瞳が壁越しを、氷柱の視線を祖母へ投げかける。
「ああ、ルカヤ。オレは今日はふたつのことを学んだぜ」
電話では穏やかだった声は、ジーノを痛めつけた時と同じ声音になっていた。
「ひとつ。この世には、必ず卑しくおぞましい奴らがいるように、絶対に、誇り高く思いやりのある人間もいるっつーこと」
長年ルカヤを守ってきたドアノブを拾い上げ、大事そうに抱きしめる。
「もうひとつは、道理を持つ気がねぇやつには、そんなもん意味がねぇってことだ」
そして吐き捨てるように、抱いていた金属をゴミ箱に強引に押し込んだ。
◇◇ ◇
ルカヤは兄にカウンセリングの継続を勧めた。
エヴァンは頷かなかった。もはやカウンセリングという手段は祖母の知るところとなってしまったからである。
通うということは、ドアノブの一件のような争いを続けるということでもある。
エヴァンは病院に行くすきを作らず、ルカヤの傍に居続けることを選んだ。
1週間すれば、エヴァンの登校が再開した。
エヴァンはまだフリーだが、ロッカーにはもう新手のラブレターが入っていたという。
「スリリングなのがスパイシーで素敵なんだとよ。ユメミガチで可愛らしいよなあ」
再登校初日の報告で、机で作業がてらに教えてくれた。
なにをしているのかとてもとをみると、エヴァンはハサミで手紙を切り刻んでいた。
後日、直接あって丁重にお断りしたらしい。
一時期は女性を切らさなかったエヴァンだが、しばらく隣を埋める気はないらしかった。
代わりに、登校はルカヤとするようになった。
前々から誘っていたのを実行に移したのである。
兄の冗談だと思っていたルカヤは、最初ずいぶん遠慮した。
ルカヤの登校時のランニングに付き合ってまで同行してきたので、ルカヤの方が折れた。
翌々日のあたりから、登校時に妙に黄色い声援がついて回るようになった。
初めて兄を邪魔だと感じたのは、生涯の秘密になるだろう。
人間とは適応力に優れる生き物だというのは真実だった。
兄妹そろっての登校をはじめて六日。
いつまでも慣れないと思っていた声援も、女子の視線も気にならなくなっていた。
その日、朝に兄が数枚のプリントを持ってルカヤの前に置いた。
朝のカフェラテを嗜んでいる時だった。
パソコンからの印刷物と思わしき三枚の紙は、どれもドアノブのようだった。
「新しいやつ?」
「ああ。そろそろつけようと思ってよ」
「ふうん。そうだね、不便だものね」
「ひいては、どれが好みか教えてくれ」
「兄さんに任せるよ」
「いいから言え」
家を出るまで時間がなかった。
いつものようにだらだら、兄に選択権を譲ろうとねばる余裕はない。さっと目を通す。
シンプルな白樺模様のドアノブ。くすんだ真鍮のレトロなドアノブ。アジアンテイストな陶器のドアノブ。
こういうときは直感だ。
ルカヤは真鍮のドアノブをさした。
「よし」
さっと回収した兄を眉を下げて見上げる。
エヴァンの提示した画像には全て奇妙な共通点があった。指摘してよいか迷ったのだ。
「ねえ。それ……全部外鍵ついてるよ。探すの間違えてるかも」
「間違えてねえよ」
「え?」
「内鍵だとルカヤに開けさせればいいって、ババアが学習したかもしれん。はっきりオレが部屋にいさせてんだってわかりやすくする。そうすりゃ、無理にだしたり壊したりしたら、オレに喧嘩売っただろっていってやれるからな」
「……やっぱり兄さんはカウンセリングいったほうがいいよ」
カフェラテの最後の一口をふくむ。冷めて苦さが増していた。えぐみに近なった味わいはニガテだ。眉が寄る。エヴァンもルカヤと同じ顔をしていた。
「その話はもう終わっただろ」
「うん。わかってる。兄さんが折れるなんて滅多にないこと」
一度はカウンセリングを受け入れて、その一回目でこの惨事。
兄は二度と頷かない。
溜息を飲み下し、椅子から立つ。
「そういうことならいらないかな。ドアノブ。ふつうの買おう」
「別に用途が代わらないんだからコレでいいだろ」
「ええ……嫌だよ、なんか……」
言いつのろうする兄から逃げるように、肩にリュックをのせた。
着いてくる兄を置いて、先んじて家を出る。
久しぶりの一人登校になりそうだった。
しかしエヴァンの足はルカヤより長い。
持久力ならルカヤのほうが上だが、短距離走なら兄が優位だ。
ルカヤは初めてバスを使ってみることにした。
学校近くのバス停から乗り込むと、想像以上の混雑に白眼を向いた。
人混みにぎゅうぎゅうに詰められる感覚には息が詰まる。
今更降りるなんてできない。
乗車に手間取ったせいで、眠そうな目をした運転手からすごまれていた。
(今日いちにちだけだから)
ルカヤはバスの奥に移動し、学生の塊にのまれる。
ちらと見えた窓の角から、エヴァンが走って行くのが見えた。
「……ごめんね、兄さん」
放課後に、また一緒に帰る頃には、お互い頭が冷えているはずだ。
ルカヤの狙いでは、そうなるはずだった。
だが不幸とは折り重なるもの。
特にルカヤは幸運の女神に、存在を見失われていたようだった。
午前七時十七分。
ルカヤの乗車したバスは横転し、大事故を起こす。
原因は運転手の居眠り運転だった。




