猫と妄言
これは、猫を飼う妄想に取りつかれた男の物語。
その猫はとにかく弱っていた。まだ仔猫だと言うのに。
小さな体は寒くもない部屋でぶるぶると激しく震えてはいるものの、小さく鳴く力もないようだった。
その場に居た自分も含めた三人は、自分は勿論、他の二人の友人も、猫なんて飼ったこともなく、ただその小さな命がこのままでは消えゆくのであろうことだけは、生意気にも解っていたのである。
友人一人を残し、俺ともう一人は、仔猫を救う手立てを探しに、外へと飛び出した。外にいる誰か、大人が、何とかしてはくれまいかと期待し、希望を探しに行った。
猫と友人を残していった部屋は俺の家だったから、この近くに獣を見てくれる医師がいないことは解っている。
それでも、外にいる誰かならば、大人ならば、そう期待して繰り出す。
俺は家々の間を駆け回った。何か助けになるものを探す。
そして一軒の家に辿り着いた。そこは獣の類を飼っている家であった。
俺は門を叩いた。
中の者が不審げに応じる声が聞こえる。
俺はできるだけ失礼にならないよう心掛けながらも、助けが必要であることを必死に語った。
扉は開かれた。
中から人が姿を現す前にそっと吐息を吐いた俺は、その際につい俯いてしまった顔を上げて、対面をはかる。
中から姿を見せた人はしかし困惑していたが、家族で俺についてきてくれた。
俺が人を連れて戻った頃には、一緒に飛び出した友人も戻っていた。
猫を任せた友人は、光を放つ液晶の画面を何やら操作し、こまごまと猫の世話を焼いていた。
先に戻っていた友人も助けていたその世話は、既に粗方終えられているようであった。
みすぼらしかった仔猫の黒い毛は多少艶が戻り、どこから取り出したのか浅いアルミの器には水が入り、その隣には白い皿に薄桃色の食事が盛りつけられていた。
相変わらず茶色い紙箱に横たわる姿は力なかったが、くるまっていた毛布は新しいタオルに取り換えられており、どことなく汚らしかったのが改善されている。
遅かったね。取り敢えずコレが応急処置らしいよ。
画面から目を離さず友人が継げる。
起きた様子はなかったけれど、水を吸わせたガーゼを口に持って行ったら、それが本能なのか、いくらか吸っていたみたいだよ。
先に戻っていた友人が続けて報告する。その傍らで観察しているのは、いないと思っていた獣医であるようだった。
俺は愕然とするほか、やることがなかった。
いのいちばんで自分の家を飛び出し、外へと助けを求めて駆けずり回っても、一般の家人をぞろぞろ連れてきただけで、何の成果も上げられなかった。
先にやるべきことを済ませ、汚い家で向こう見ずな家主を待たせてしまった友人たちに、申し訳なく思った。
手分けして協力していたと思って行動していた俺が、一番余計なことをして足を引っ張っていた。いや、こんな勝手な俺のことなど、最初から勘定に入れていないであろう。
連れてきた家族が、最初から困惑していたのも解る。必死になって俺でも自分を過信して勝手な主張をしていた俺に、さぞお困りであっただろう。見かねてそれでも黙ってついてきてくれたことに感謝しかない。
その家族は代わる代わるに仔猫を見やり、優しい手で撫でつけたり、タオルをその小さな体にかけ直してやったりして特にやることがないと素早く判断し、挨拶をして帰っていった。いつの間にか獣医の姿も、もうない。
友人たちはてきぱきと適当に見送ったり後片付けをして場を整え、俺に猫用の食事について描かれた紙束を渡しながら、簡単に説明した後、自分たちも帰っていった。
勘違いで行動していた俺へのお咎めは、何も、誰からも、なしであった。
ただその場には、役立たずの俺と、か弱い仔猫が残され、薄汚れた部屋に巻き上がる埃を照らしていた日差しは、だんだんと消えて行った。
それが何十年も前のことだと言うのに、私は今も、黒猫の妄想に取りつかれている。
もうこの年月では、あの猫が生きているはずがないというのに、それだけでなく、目の前の茶色い紙箱に収まった猫は、あの頃と変わらない、か弱い小さい背中を晒している。
触ると温かい。
この姿のまま、生き永らえているというのは、どう考えてもおかしい。
だからこれは、私の妄想であり、妄執なのだろう。
このか弱さは猫のものではない、私の無力さだ。
貧弱な命が、それでも必死に生きようとするさまを、誰も無力だと罵りはしないだろう。けれど私だけは、貧弱な私を無力だと罵るのだ。
罵り足りないくらいだ。
そもそも私は、この仔猫を見つけた経緯も、あの後生かすことができたのか、敢え無く死なせたのか、それすらも覚えていない。
薄情な男だよ、私という奴は。
記憶力さえも、私は無力だ。
ただ、友人に説明されたことを、酷く面倒だ、と持ったことは、嫌に覚えている。
命を助けたかったのは本当だが、自分が嫌なことはしたくはない。
というか、私には欠陥だらけの自分が、この黒猫の、それも貧弱な仔猫の世話などできるとはちっとも思わなかった。
誰かもっと、私より良くできた完成された人間が、命を生かすべきだ。
あの後私の部屋を去って行く友人どちらかでもいい、仔猫をそのまま持ち帰ってくれればよかったのだ。あの獣医でもいい、家族でもいい。どうして私に残していったのだ。
支離滅裂な言動しかできない妄想に取りつかれた男の元になど、なぜ小さな生き物を放置して行ったのだ。
それでも私は仔猫を助けたかった。
残された仔猫は、私がどうにかする他なかった。
日々朦朧とする、自分が起きているのか眠っているのかもわからない中、ふと仔猫のことを思い出しては、茶色い紙箱を覗き込む。
何日眠っていたのかわからないから、何日食事を用意していないのかもわからない。
食事が空になっていることはなかったが、少量でも食べているのであろうか、自分が皿にどれほど盛ったのかさえ、覚えていない。
それでも、体に触れば温かく、この仔猫がまだ生きているのだと、私に知らしめる。
くるまった体はぴくりとも動かず、弱々しいまま、一声も上げず、顔も上げず、その瞼の向こう側の瞳が何色なのかさえも、終ぞ知ることはなかった。
しかしか弱い温かさが、私にこの仔猫は生きているのだと、生かさねばならないのだと、耳に突きつける。
そうやって、自分の意識と、仔猫の温かさを保っていた。
保っている、つもりだった。
私はいったい、いつからこんな妄想を見るようになったのだろう。
今際も、出会いも、覚えていない仔猫との記憶。
私は仔猫の死体を見ただろうか?本当には、友人か、誰か大人が、仔猫を引き取ったのではなかっただろうか?そもそも私は仔猫を拾っただろうか?真実は、黒猫などどこにもいなくて…………
「みゃぁおう。」
……。猫が鳴いている。
今まで一声もなかなかったあのか弱い猫が。
行かなくては。見に行かなくては。
あの黒い毛の温かさが確かにあることを、仔猫を生かさなければならない役目を未だ自分が失えていないことを、確かめに行かなければ。
いや、どうせそこに黒い仔猫は居るのだ。
茶色い紙箱にその小さな体を横たえ、ぴくりとも動かない肢体を投げ出し、寝息さえもこちらに聞かせず、鳴くこともせず、水も食事も空にせず、その、瞼に隠した瞳の色も見せることのない、黒い仔猫は、居るのだ。
私が朦朧とした意識の私の体を無理矢理動かし続ける以上、あの仔猫は私の意識の中を彷徨い続けるのだ。
けれど鳴かれてしまった。
仔猫の存在が妄想であると私が自身に示唆したところで、仔猫はその存在を私に無視させることはない。
妄想かどうかなど、仔猫にとっては関係がないのだ。妄想だろうと、その存在を私が意識から消し去ることができないなら、それでいいのだ。
私は自分が起きているのか眠っているのかもわからないまま、仔猫の元まで這いずり、黒い背を撫で、それが生きていることを確かめる。それを生き永らえさせねばならぬと、また、朦朧とした意識に沈む。
妄想は終わらない。それが生きることを終えない限り。