ひとりぼっちの魔法使い
―小さな村のこと―
とある時代の東の島国、名もなき山の小さな村に、璃月という名の小さな娘がいた。澄んだ夜空のように真っ黒な髪をしており、それは、月光が射すが如くの艶を呈していた。その肌は白く、雪のようであった。大人しく、礼儀正しく、気立ての良い娘であった。
両親はごく普通の農民で、璃月に兄弟姉妹はいなかった。貧しい生活であったが、ある時まではそれなりに幸せであった。
そんな彼女は、生まれつき不思議な力を持っていた。彼女が祈りを込めると、天気はたちまち機嫌を変え、雨を降らせた。また怪我をした村民を直すこともできた。さらに、彼女自身怪我をしても、念じるだけでその怪我はたちまちに治った。彼女の不思議な力は形を成し、物に直接干渉することもできた。しかし、璃月はめったなことでは最後の力を使わなかった。
時々、近くの街から、璃月と同じ年頃の子供たちがこの村を訪れた。訪れた、というより荒らしにきた、と言う方が正しいかもしれない。この子どもたちは貴族の子供のようであった。たちは璃月の住む村は貧しく、ほとんどの者が身分の低い者であったため、あまり良いようには思われていなかった。やっとの思いで実らせた作物を勝手に取って、飽きれば投げ捨てる。木を育てる山に勝手に入り、まだ小さい苗を盗み、大きいものに傷をつけたりして遊んでいた。璃月は迷惑な子供たちをあしらうべく、こっそりと最後の力を使っていた。村にふらっと訪れて悪さをしようとする子供たちに、ほんの軽く、その力を当てた。子供たちは罠に驚いた動物のように跳び上がって、逃げ出した。
璃月がこの力を使いたがらないのは、危険を感じたからである。針の穴に糸を通すかのように、そっと加減を行わなかったら、あの子供たちはどうなってしまっていたのだろう。きっと、この力は、人が触れてはならないものだ。璃月は心のどこかでそう感じていた。
しかし、そういう訳にもいかない。この不思議な力をありがたらないものがいるはずもない。現に、璃月の両親も含めた村人たちは璃月にすがりきっている。それに、璃月自身も、この不思議な力を自分の拠り所としていたのは事実である。自分にはこの力で皆を支える義務がある、そう感じていた。一方で、自分の力を当てにしてばかりで、自分自身と、両親や他の村人を繋ぐ何かが欠けていることを、少し、寂しく感じることもあった。
そんな璃月のそばに寄り添ったのは、久暁という少年であった。なぜなら、彼もかつては璃月同様の不思議な力を使うことができたからである。久暁は璃月より一回り年上であったため、二人は兄妹のような関係であった。とても仲が良く、どことなく容姿も似ていたため、血が繋がっているかのようでもあった。大きく違っていたのは、その瞳の色であった。璃月の瞳は、宝石のような、透き通り輝く可憐な紫色であった。久暁の瞳は、まるで朝焼けに浮かぶ太陽が放つ光のような、紅色であった。また、璃月の髪はさらりとしていたのに対して、久暁の髪は少しくせっ毛だった。どこに行くにも二人は一緒であった。もちろん璃月も、この上なく久暁を慕っていたが、久暁はそれどころではなかった。璃月が不思議な力によって朝早くから儀式を行う際には、璃月よりも早く起きて、彼女を起こし、彼女の髪と服を整え、朝食を食べさせ、儀式の場へ手を取って連れて行った。
子供ながらに、久暁は璃月にそれ以上の思いがあったようだ。それは、単に近所の知り合いで、昔から仲が良かったというだけでは無かった。久暁は、かつて璃月と似たような力を使うことができた。しかし、今は使うことができない。そうなってしまったのは、璃月が生まれてからのことである。璃月が生まれる前に、璃月の役目を果たしていたのは久暁であった。突然その仕事ができなくなった久暁は、ずいぶんと非難されたらしい。
貧しく、生活の苦しい村であるから、祈祷が上手くいかず一度作物が不作になるだけで大問題であった。税の徴収に間に合わず仕方なく身を差し出すものも、それは嫌だと言って命を投げ出すものもいた。久暁は罪の意識にさいなまれた。責任を感じた彼の両親は、都へ働きに行ったきり、帰ってこなかった。そんな久暁に、璃月は手を差し伸べた。この村の子供は彼ら二人だけであった。
璃月は、自分の不思議な力を両親や村人のために使いたかっただけでなく、久暁の失敗を打ち消し、立ち直らせてあげたいという思いも持っていた。璃月が差し伸べた手を、久暁はその嫉妬心から一度は跳ね除けた。でも、璃月は彼を救うことを諦めなかった。貧しいこの村だからこそ、助け合って生きていかなければならないことを、両親の姿を見てよく知っていたからだ。それに、久暁の哀しそうな顔を見ているのは、璃月にとって、どことなく、心が痛んだ。璃月が心優しい性格であったのも確かだが、その感情は、あまりに心の深層にある意識のようで、よく分からなかった。
そのうち、久暁は、自分の代わりに懸命に力を使い、拒んでも近づいてくる彼女の姿に、絆されてしまった。それからというものの、立場がすっかり逆転してしまった。仕事の失敗を非難され、両親も失って荒んでいた彼の姿はもうなかった。彼は元来お人好しで、誰かのためになることがしたいがために、村のみんなを支える、祈祷の仕事をしていたのであった。その気持ちが、全て璃月に向いてしまった、ただそれだけのことである。
璃月は不思議な力で村を守り、その璃月を久暁が支える。そのような生活が何年か続いた。ある時から、璃月の両親は村の神職たちと会合を行ったり、都へ出かけたりすることが多くなった。璃月が不思議な力によってあげた成果は、彼女が思っている以上のものであった。貧しい村の財産は、ほとんど璃月の両親のもとへ集まった。璃月が、そこまでしなくてもいいのにと思ってしまうほど、過剰であった。また仕事を終えて家に帰っても、両親がいることはあまりなかった。寂しく感じた璃月は、久暁の家で寝泊まりをすることもあった。
ある日、璃月はいつも通り祈りを行い、雨を降らせ、久暁と一緒に帰った。珍しく、早い時間なのに両親の姿があった。
「ただい…ま?」
両親だけでなく、見知らぬ男性の姿もあった。その煌びやかな服装から、この村の者では無い。むくむくと肥えた大きな体をした、壮年の男性だ。
「あら、お帰り璃月」
「良い話があるんだ」
良い話と言うのは、厚い待遇で都に働きに行けるということであった。もちろん行くのは璃月である。両親がしていた神職との会合や、都への出向は、その手続きであったのだろうか。どこから、璃月の力のことが漏れたのであろうか。璃月はこの力のことを、村以外には知られたくなかった。どうやら両親から神職に、神職が都へ出張した際にその話をしたことで広まったようだ。璃月にとって、都へ行くことは、あまり気が進まなかった。久暁の両親を初めとして、都に行ったきり帰ってきた者はいなかった。あちらでの生活が楽しくて戻ってこなかったのか、向こうで酷い扱いを受けて帰って来られなくなったのかは分からない。しかし、こんな貧しい村から来たものが良い扱いを受けるとは考えにくい。間違いなく後者だろう。しかし、今回に限ってそうではないようである。
「璃月、この方があなたの力の話を聞いて、あなたを雇いたいと申し出たのよ」
「向こうでの仕事の手配はもちろん、養父として住居や生活費を全て保証してくれるみたいでね、それに、この力についての手がかりも探してくれるそうだよ」
都で仕事をして、お金を多く稼ぐことができたならば、貧しい村の生活を立て直すことができ、村のみんなを救うことができるかもしれないところも、大きな魅力に感じた。しかし璃月は、父が話した最後の条件に、特に強く惹かれた。自分の力のことが分かれば、久暁ももう一度、力を取り戻すことができるかもしれない。そうすれば、一緒に仕事ができる。
璃月は、都へ向かうことを決意した。早速明日には出発するとのことで、荷造りを始めた。一つだけ心残りなのは、久暁のことである。彼は、きっと寂しがるだろう。でも、彼はしっかりしているから、一人で生活していくことはできる。それに関して、私がいなくてもだいじょうぶだろうと璃月は思った。必ず、都でこの力について勉強をし、久暁への最高のお土産にしよう、そう考えていた。
久暁は、いつもと違う様子の璃月の家が気になり、聞き耳を立てていた。璃月が、都へ働きに出ることを知った。久暁はとてつもなく寂しく思った。ここまでは璃月の想像通りであった。ただ、久暁はそう感じただけでは無かった。
「僕も、都へ行けばいいだけの話だ」
またしても、璃月が思った以上のことを考えていた。璃月の身の回りの世話に関してもそうなのだが、一度何かを決意した際の、彼の行動力は、並の人間には到底及ぶことのないものであった。
朝が来た。空は爽やかに澄み切っている。昨日と違い、今日は仰々しい迎えがやってきていた。箱のようなものの中に入り、手伝いの男性たちが担ぎ、都へと連れていってくれるらしい。
両親たちは笑顔で送り出してくれた。久暁ももちろん来ていた。本当に行くのか、と驚いたような顔をして言ったが、璃月が久暁のためを思ってのことだと説明をすると、力の抜けた笑みを浮かべた。久暁も、優しく彼女を送りだした。
「行ってきます!いっぱいお土産送ってあげるからねー!」
―大きな都のこと―
都は、区画が整理され秩序だった場所であった。毎日たくさんの人が行きかい、賑わっていた。建物は大きいものから小さいものまで、数多くあった。特に、大きな建物は貴族たちの住居であり、とても豪華であった。都の中ではさほど身分の高くない町人たちが、通るたびに目を奪われていた。
数年が経過した。璃月は成長していた。背丈について、以前よりは高くなり、黒い髪を腰くらいの長さまで伸ばしていた。今日も仕事の場所へ向かうべく、街中を颯爽と歩いているところである。彼女は白を基調とした清廉な着物に身を包んでいた。光に当たるとその花柄がきらきらと輝いた。その黒髪は、白い桜の花びらと共に、そよ風に靡いていた。すれ違えば皆、彼女の方に目をやった。彼女はそのあまたの視線の意味に気付いていないようであった。久暁といたときから、彼女のそんな部分は変わっていなかった。
村にいた時の璃月は、まだまだ幼く、言葉や行動がおぼつかない部分が多かった。それに、世話焼きな久暁がいたからか、自立するための意思が幾分抑えられてしまっていたのかもしれない。貴族の男性の手助けがあったとはいえ、都へ独り立ちしたことは、彼女が成長する上でいい方向に働いたようだ。彼女は自分の意志をしっかりと持つようになっていた。もちろん、昔の心優しさは忘れないままであった、常に正しく、真っ直ぐにあろうとした。
ただ、そうだからといって、何もかもが思い通りに行くわけでは無かった。仕事というのは、村にいた時と変わらない仕事、天候の祈祷、傷の手当てや迷惑者の追い払いなどもあった。また、人のいた気配を辿ることも出来たので、人探しなども行っていた。そのような仕事は気が楽であるし、自分の力が人の役に立っていることを嬉しく感じていた。
しかし、都に来てしばらく経ってから多くなった仕事が、犯罪人の取り締まりであった。そのような恐ろしい者たちと対峙するのはいつまで経っても慣れなかった。璃月には不思議な力があるといえど、身体能力は人よりすぐれなかった。走ればすぐに息を切らし、腕っぷしも、女であることをかんがみてもたいそうひ弱だった。昔、迷惑な子供たちにけしかけたような力では、やりきれなくなることもしばしば起こった。殺人を犯した者を捉える際に押さえつけられ、危機一髪のところで普段発揮したことのない様な力を放ったこともあった。殺人犯を壁に叩きつけ、大けがを負わせた。一歩間違えれば璃月が殺人を行ってしまうところであった。
重大な犯罪を行った、ろくでもない輩であるから、そんな者がどんな仕打ちを受けようと、気にすることはない。養父もそう言ってくれた。璃月自身も、そのような者たちにかける慈悲は無いと思っている。たびたび凶悪な犯罪人に重傷を負わせてしまうことを、いちいち気には留めなかった。ただ、自分がそのような者たちと同じような罪を犯してしまうかもしれない力を持っていることが、恐ろしく思えた。村にいた頃からの恐れが、より具体的なものとなって表れたのである。
また、思い通りにならなかったことの一つとして、この力に関する手がかりは一向に見当たらないことだ。養父が璃月のために持ち込んだ教養の書をある限り全て当たっていった。怪異の力や神通力といった類のものに近いとようではあった。しかし、どれも正確には当てはまらず、どれも伝承に過ぎないものであった。結局、この力の正体は明確にならなかった。養父をつてに、仕事で入った金や物品を村に送ってもらっていた。それに合わせて、両親や久暁に手紙を書いたが、何故か一度も返事が来たことは無かった。村では紙は高級品だったから、あまりそういうことに使っていられないのだろうか、と璃月は少し諦めていた。
養父は璃月のことを気に入り、とても親切にしてくれていた。璃月も、村に初めて彼が来た時は萎縮したが、今となってはもう一人の父親のように信頼していた。璃月が行った仕事の代金は、養父が受け取っていた。仕事の計らいをしているのだから、璃月は何の意義も唱えなかった。養父は仕事で得た人脈を辿り、みるみるうちに地位を上げていった。璃月は、養父が自分の仕事の手配以外に何をしているのかは、詳しく知らされていなかった。
最近聞いたことで言えば、海外に使節団を派遣したことであろうか。「海外」というのは、璃月には考え及ばないものであった。自分の住む都は、この国の中心地であるということも、都に来て初めて知ったことであった。それを知って驚くそばから、この国は海という大量の塩水で囲まれた島であることを学び、さらに驚いた。そして、海の向こうにまた別に陸地があり、そこにこの国同様に、人が作り上げた国というものがあると知った。そこに送られる人々は、どんな気持ちなのだろう、と璃月は一人で想像を巡らせた。
また、もしかすると他の国であればこの力に関する情報が見つかるかもしれないという希望も見いだせた。使節団が帰って来たら、彼らが持ち帰った、他の国からの書物や物品を見せてくれると養父は言っていた。養父はもともと璃月の力に興味があって璃月を都へ呼んだのだから、そのことに関して積極的であった。地位が高くなり、邸宅を開けることが多くなっても、それだけは欠かさず協力してくれた。
養父の邸宅はこの都でも上位三つには数えられるほどの広さを持った、豪華なものであった。仕事がないときは、璃月は家にいるように命じられていた。せっかくの都だから、外に出てみたい気持ちもあった。しかし養父は、頻繁に外に出て、何かがあると心配だからとの理由で、そう璃月に伝えていた。仕事柄、あまり素性を晒すことができないのは仕方のない事だと、璃月も理解していた。邸宅にいるときは、書物を読むことで過ごしていた。食事はしっかりと出されたため、村のみんなの分も味わって食べていた。村では食べることのできなかった魚などは大層美味であった。ただ、やはり一番おいしいのはお米であった。お椀に入って出されていたが、璃月は使用人がいないのを見計らって、米を手の上に出して、握って食べていた。母や久暁がよくやってくれていたものだった。
璃月の部屋は、庭に面していた。綺麗に植えられた見事な木々と花々が、四季ごとに違う表情を見せてくれた。そこにひょっこりと愛らしい野生の草花が顔を覗かせるのも、璃月は嬉しく思っていた。池に金魚や鯉がいて、そのゆらゆらと動く姿を見つめているのも好きだったし、木に訪れる小鳥のさえずりや、草花に集まる虫の姿も彼女にとっての大切な楽しみの一つだった。
近頃ますます多くなってきた、犯罪人の取り締まりの仕事に疲弊しながらも、そのような楽しみによって、何とか心を保っているのであった。
ある日、使節団が帰国したという話を養父から聞いた。璃月は喜んだ。持ち帰ったものの調査が終わってから、見せてくれるとのことであった。璃月は、来るその日を楽しみに待った。
それなりの日が経った。いつも通りに依頼をこなしていく璃月であったが、未だに海外からの書物などを目にすることは出来なかった。せがむのも申し訳ないが、どうしても気になったので、仕事のやり取りをする合間に、それとなく養父に尋ねてみようと、璃月は考えていた。
璃月は、養父の書斎へ行き、いつものように、依頼の詳細を訊きに行く。
「失礼します。旦那様」
「おお、璃月」
「あの、仕事の件もございますが、その、少しだけ伺いたいことがありまして…」
「ふむ、そうか。お前がそのようなことを考えるのは珍しいね。ただ、後でその件には答えてあげるから、先に私の話を聞いてほしい。今日は重要な依頼があるんだ」
「…はい、どんなご用件でしょうか」
「ある者を殺せ」
「…え」
寒くもないのに、璃月は鳥肌が立った。
「何も疑問を抱くことは無い、ただ命じられたことを果たせばいいだけだ。璃月、今までどんな依頼でもこなしてきたお前には、簡単なことだろう」
「で、でも、そんなこと」
「今まで、お前のその力を以て、罪人をひどく痛めつけたことなんて数えきれないほどあったろう。それを少し進めただけのことだ」
養父の顔が険しい。あまり刺激してはいけないと思いながら、その依頼を安直に聞き入れるのも、自分が自分でなくなってしまいそうで、できなかった。自分を押し殺しつつ、平静を装って問う。
「…どのような罪人ですか」
「人を蹴落とし図々しく居座っている輩だが。目の上のこぶというやつだ」
「それは…迷惑…かもしれませんが…。町の方々に危害を加えている方なのでしょうか」
「余計な詮索はしないでもらおう」
「…できません。気は進みませんが、人を殺める際に人違いをすれば、もう二度と取り戻すことは出来ません。そもそも、私はそのようなことがしたくてここへ来たわけではありません。私は、この力について知りたくて…もっと、この力を多くの人のために役立てたくて、私の村の皆の生活を豊かにしたくて、ここへ出向いただけです!」
璃月は、思っていたことをすべて吐き出した。自分でも驚くくらいだった。都での生活は、決して嫌いでは無かった。この不思議な力を使った仕事をするうちに、その意義をますます強く、自身に問いかけるようになっていた。しかし今ここで、胸の内にあったぼんやりとしたわだかまりが、解き放たれたのである。
「旦那様、今まで私を庇護してくれたことには大変感謝しています。ですが、あなたただ一人だけために、この力を振るってきたのではありません」
空気が重くなった。養父は口を開いた。
「そうか、それならもういい」
「無礼な事とお詫びします。早急に出て行きます」
「私の可愛い璃月よ、その必要はない」
彼は今まで口にしたことのない言葉を発し、自分の懐から何かを取りだそうとした。璃月は予感した。このままでは、危険だということを思い立った。しかし、遅かった。不思議な力を発揮していない状態の彼女の体力は、常人のそれではなかった。限りなく弱かった。男は刃物を取り出し、それを突き立てて彼女にのしかかった。村で初めて出会ったあの時から、身体の大きい男であったが、地位が高くなってから食生活がより豪勢になったのか、ますます肥えていたのを、璃月は身をもって知った。璃月は、その重さ、男の剣幕、刃物に怯えて身動き一つ取れなかった。あの力を使えばどうということは無いはずなのに、なぜだかできなかった。なぜ養父がこのように変貌してしまったのか、それだからといって、いきなり傷つけることもできなかった。身体の危機を覚えても、彼女の意思がそれを拒んだのである。こうなってしまっても、やはり自分がここで生活をしていられたのは彼のお陰であった。その事実はゆるぎない。
恐怖に打ちのめされる璃月の目には、涙が浮かんでいた。誰か、助けて、と言葉を発することもできない。そんな璃月を見下しながら、養父は静かに、それでいて強かに言った。
「璃月、先ほどお前が私に用件があるといったな。それを今、ここで答えてあげようではないか。使節団の持ち帰った物品のことだろう?お前の力についての書物、確かにあったぞ」
「……!」
喜べる状況ではないが、はっとさせられた。そうか、やはり、この国の外には、あったのか。しかし、そんな事を知らされたところでもう、どうしようもなかった。
「私がお前をここへ呼んだのは、私自身、この不思議な力に興味を持ったからだ。異国との交流でそのことを知ったのだが、奇妙なことに、この国にはその概念がないらしい。怪異や神通力とも、似てはいるが本質は異なるものらしい」
「そう…だから、何もわからなかったの…ですね…」
「お前が持つこの力は、究極的には『何でもできる』力となりうるらしい」
「…そんな…力…」
その事実は、璃月が小さなころから、心の奥で感じていたことであった。璃月にとっては恐怖にすり替わったが、男にとってはそうでは無いようだ。まさに今、『何でもできる』力をもつ少女を押さえつけているのだから。そろそろ璃月の体力は限界に達する。自分を押さえつける男の重みと掴んでくる手の圧が感じられなくなってきた。
「そうだ。だから私は、今からこうする」
刃物を璃月の胸に突き立て、璃月が着ていたものを切り裂いた。声は出せないが、拒絶する彼女は泣き叫びそうになった。
「お前の力を、私のものにしてやる!これで、お前と同じ力をもってあの目障りな男を殺してやる!」
人を殺せ、という依頼の主は、養父自身であったようだ。地位が上がった、とは聞いていたが、まさかそのために、自分が邪魔だと思う者を私に殺させようとしていたのか。この力を奪うなど、そんなことができるのだろうか。使節団の持ち帰った物品を私に見せてくれなかったのは、このことを悟られることを恐れたのだろうか。私は、きっとそんなこと思い及ばないだろうに。この力は、人に渡してはならないものであると思っていた。だから、この力を他の誰かに分け与える…もしくは、全てを与えるなんてこと、私は絶対にしないのに。
旦那様は、最初から、私を使ってこうするつもりだったのだろうか。いや、この力を受け渡すという情報は、異国とのやり取りがなければわからなかったはずだ。だから、私が来る前からそう考えていたというのは…でも、使節団の派遣について、私に嘘を教えていたのであれば合点はいく。それを抜きにしても、私は結局、彼の道具であったという事実は変わらなかった。こんな風に、人生が終わることもあるのね。そう思った瞬間のことであった。
何かが床をついて倒れる音がした。力の抜けたようでありながら、重いものが発する音だった。顕わになった璃月の肌の上に、水のようなものがこぼれ落ちた。水ではない。血だ。恐る恐る男の顔を見たとき、口から赤黒い塊を吐き出した。死んでいる。璃月が危機を感じていた刹那、何が起こったのか。璃月はゆっくりと自分の身体を養父の下から引きずり出した。そして、自分に向かって伸ばしてきたその腕が切り落とされている。手にしていた刃物は、別の物にすり替わっていた。倒れている彼の血が付いているようだ。
男から逃れた璃月であったが、これではまるで、璃月が養父を殺害したようではないか。部屋の廊下を何者かが駆けていく音が聞こえた。養父を殺害した犯人か、見回りの者か、どちらかは分からなかった。しかし、彼女のすべきことは一つだ。ここから離れなければならない。この事件が起こらずとも、あのような依頼を聞いた時点で、もう村に帰ってもよいと思っていたからだ。力の使い方自体は上達したと思っていた。気配を隠し移動するすべも、やってみればできないことはないだろう。そう思い、璃月は邸宅を抜け出した。
璃月はあまり外に出ることが無かったから、町の者たちが、どのように過ごしているのかは、あまり知らなかった。今は、夜だというのに人々が大騒ぎし、何かを探すように、何かから逃げるように走る姿が見られた。
あの男が殺されたことが、この都に取って重大な事件になっていたのである。都を仕切る重要な地位についていたらしく、その中心人物が暗殺されたということで、大混乱を招いているようだ。あの男を信仰していたらしい者たちは、犯人を血眼になって探した。あの男を憎んでいたらしき者たちは、あまりの嬉しさに狂乱していた。男の殺され方が奇妙であったことに怯えた者たちは、一刻も早くこの都を出ようと駆け回っていた。
犯人には莫大な懸賞金が掛けられた。もちろんその犯人とは、長い黒髪で、白い肌、紫色の瞳をした、年若い娘とされていた。まぎれもなく璃月のことであった。ということは、あのとき、養父の部屋から駆け出した者が、璃月のことを犯人だと知らしめたのだろうか。さらに悪い事を想定すれば、そのものが真犯人なのではないだろうか。ひょっとしたら、養父のことを恨んでいた者が、彼を殺害し、璃月を犯人に仕立て上げて逃走した可能性もある。養父は、璃月の前では悪い者では無かったが、今になって、多くの者から恐れられ、妬まれて恨いたことも知った。彼が璃月に素性を明かさなかったのも、璃月からの信用を失うことを恐れてのことだったのかもしれない。
養父を妄信していた者たちは、恐ろしい武器を携え、憎い小娘をこの上なく無惨な方法で殺してやろうと集っていた。まさか、あんな娘が大きな男の腕を切り落として殺害するなど、鬼か畜生ではないかと思いこみ逃げ惑う町人たちのかわいそうな姿も数多く見られた。璃月は複雑な思いを巡らせながら、都を何とか抜け出した。『何でもできる』力と彼は言っていたが…本当にそのようだ。気配を隠すというのは、今まで試みたことがなかった。でも、成功したのである。こんな形での帰郷になるのは残念であった。だが、都を出れば自分があの男を殺したという噂はさほど広まっていないだろう。もし広まっていたら、姿を隠して別の場所で暮らそう。その時は、両親と、久暁も一緒に連れていこう。そう考えていた。顔を見せないように、旅の者たちに道を尋ねながら、故郷へ帰ってきた。
そこは変わり果てていた。
もともと少なかった人影はなくなっていた。畑は荒廃し、雑草が不規則に並び実を結んでいた。おかしい、村に仕送りをするように頼んでいたのに。私がいなくなって、祈祷ができなくても食べ物に困ることはないようにしてもらったはずなのに。そうか、お父さんとお母さん、久暁に手紙を出しても帰って来なかったのは、届けてもらっていなかったからなのか。初めて、璃月は養父のことを憎く思った。同時に、あっさりと都へ行き、何の疑いもなく養父を信じ切って、裕福な生活を過ごしていた自分の愚かさも憎んだ。私がああしている間にも、この村の人たちは、以前より苦しい生活を送っていたのかと思うと、自分を痛めつけたくて仕方ない気持ちになった。あまりに寂びれた村を一人で歩くことに耐えられなくなった璃月は涙目になり、ひどく焦りながら、自分の家がある方へ駆けて行った。自分の家だけは、残っていた。しかも、自分が都で暮らしていたあの邸宅とそっくりだ。外壁、柱、屋根の色、建物の外観と構造、全く同じというわけでは無いが、あの邸宅を思慕して造ったかのように似ていた。しかしなぜ、私の家だけ豪勢なのだろうかと、璃月は不思議に思った。ああそうか、もしかして、村の住民も皆ここでくらしているのだろうか。仕送りは、私の家に向けて頼んでおいたから、それを頼る皆が結局ここに住むようになっただけであろうか。だから人影がなかったのかと思い至った。外から中に人がいるような様子がうかがえた。璃月は先ほど養父を疑ってしまったことを、少しばかり申し訳なく思った。璃月は安心して、自分の家の戸を叩き、中へ入った。ただいま、と昔のように笑顔で言った。
「あら、璃月」
「おお、帰ってきたんだね」
都へ行くことが決まった日のように、良い話があると言わんばかりの表情で、両親は迎えてくれた。璃月はほっとした。
「聞いたわよ、あの方、亡くなられてしまったのね。とても残念だわ」
「それに、璃月、お前がやったんじゃないかという噂までされているそうだな…大変だったなぁ」
「そう…なの、だから、逃げてきたんだけど、でもここにも居られないようだったら、私、別の所に暮らそうと思ってるの…いい?」
「いやいや、そんなことをする必要はないよ」
「お願いしますね」
「…なあに?」
突然、今に多くの男たちが入ってきた。装備を見るに、どうやら兵士のようだ。一体、何をしようというのか。璃月は困惑した。両親は口を開いた。
「ごめんね、璃月。私たち、あなたがお金にしか見えなくなっちゃったの」
「私たちには、あの方さえいれば生活は安泰だ、むしろこんな素晴らしいものになる、そう信じるようになっていた。だから、璃月よりもあの方を失う方が怖かったんだ」
「だから璃月、あなたが私たちのことを大切に思っていてくれるなら、ここで捕まってちょうだい」
「璃月には懸賞金がかかっているんだってね、それを最後の仕送りにしてくれればいいよ」
璃月は立ちすくんだ。嘘だ、こんな馬鹿なこと、起きるわけがない。親が子供を売るなんて、都ではそういう事例も見てきた。でも、自分の両親に限ってそんなこと、信じられない、信じたくない。養父に力任せに押さえつけられたのとは違う。見えない、重い何かが、璃月を動けなくした。そして、ぱんっ!と発砲する音が聞こえた。
「痛っ…ッ」
銃弾は、少女の脚に埋め込まれた。白い肌に開けられたその穴から、赤い血がどくどくと流れ出る。璃月はその痛みに耐えられず、傷口を押さえながらもがき苦しんだ。力を使ってすぐに直そうとしたが、痛みで集中できず、焦点がちらつく。右肩、左膝にまた銃弾が撃ち込まれた。普通の人間であれば多量の出血によるショック死を起こしている程度になっても、彼女は意識を保っていた。
「不思議な力ってすごいんだな」
新しく部屋に入ってきた、兵士の一人がぽつりと言った。何とか傷を治そうとしていた璃月に近づいて行った。彼は璃月に手を延ばした。最後のとどめでも刺すつもりなのだろうか。懸賞金が掛けられているのだから、まず都へ連れていかなければならないはずだ。璃月は不審に思い兵士の顔を覗き込んだ。
「…璃月」
それは、懐かしい声の主だった。ただ、全く同じではなかった。以前より低くなっている気がする。彼は傷だらけの璃月をとっさに抱きかかえ、家を飛び出した。
「追って、必ず彼女を捕えなさい」
両親であったはずの者たちはそう言い放った。兵士たちは璃月とそれを抱える兵士を追いかけた。璃月たちは山奥へ逃げ入った。まだ追ってはやってくる。この兵士のお陰で、璃月は痛みを抑えられるほどには治癒した。そして、兵士たちを撒くように、大きな木に向かって力を放った。
「来ないで!」
木を倒し、兵士たちを足止めした。それを何度も繰り返した。そのうちに、追っての兵士の気配は感じなくなった。璃月を連れだした兵士は、近くの木の根元に優しく璃月を下ろしてあげた。璃月は、彼に礼を言った。
「ありがとう…久暁、それと、久しぶり」
「ああ、こちらこそ、久しぶりだね、璃月」
璃月は何となく、久暁の顔を見るのが恥ずかしかった。決して嫌だからではない。むしろその逆だ。昔の彼は、どちらかと言うと男子にしては可愛らしい感じであったと、璃月はこっそり思っていた。
けれど今はそうではない。彼の綺麗な紅い瞳を見つめてみようと思うと、なんだか顔が火照った。都にいたとき、女性たちに大変人気のあった貴族の男性を見たことが何度かある。璃月は外出をしないことにまして、そういうことがよく分からなかったので、特にそのような男性たちを見に行くことは無かった。ただ、璃月の依頼の合間に、偶然通りすがったような彼らの何人かから、声を掛けられたことがあったので、見たことがあっただけである。久暁であれば、彼らに比肩するのではないか、と璃月は邪推した。
「おーい、璃月?ぼーっとしてるね」
「…ぁ、ご、ごめん」
「疲れてたのかな、無理もないよね。この近くに小屋があったはずだから、使われていなさそうだったらそこで休もうか」
「うん、色々と、ありがとう」
「気にしないで、僕の好きでやっているだけだから。…ちょっと失礼」
「わっ!」
久暁は、璃月の膝と背中を丁寧に支えながら持ちあげた。足や肩の怪我を治癒させたとはいえ、まだ痛みの残る璃月の身体を気遣ってくれていた。そのまま、小屋へ向かって歩き始めた。璃月は、怪我の痛みではない部分なのに、じんじんとしていた。彼が、うっかり怪我の部分に触れてしまっているわけでもないのに、璃月はなぜだろうと考えていた。
小屋に着いた。人が使った痕跡はなかったので、久暁と璃月はお邪魔させていただくことにした。璃月の力で木くずに小さな炎を灯し、暗く何もない部屋の中に灯りを作り出した。幸い、夜でも寒い時期では無かったので、この着物だけで十分そうだ。久暁は兵士の装備を脱ぎ捨て、着物の姿に戻った。
「ふう、これでやっと落ち着けるね」
「うん」
「食べ物は…明日になってから木の実でも拾ってやりすごそうか」
「そうする。お腹はすいたけど、探しに行くのはちょっと大変」
「別に探しに行ってもいいのだけどね。でも、それより、僕は今…君と一緒にいたい」
「そうだね…。村にいたとき、お父さんとお母さんがいなくて、私が夜一人で眠れない時、久暁はいつもこうしてくれたよね」
久暁は璃月の手を包み込むように、そっと握った。その手は温かかった。璃月は、瞼の裏が熱くなった。じわりと滲み出た涙が白い頬を伝って落ちた。
「…璃月、大丈夫?まだどこか痛むのかい」
「ご、ごめんね。痛いと悲しいとかで泣いてるわけじゃないの。その、長い間、誰かにこういうふうにしてもらったこと、なかったなぁ…って」
「そっか、じゃあもっとしてあげよっかな」
久暁は璃月の手を、もう離さないとばかりにぎゅっと強く握った。
「あの、私が都へ行っている間、久暁は何をしていたの?」
「実はね、璃月が出発した後、僕も都へ向かったんだ」
「ええっ…そんな、一緒に行くことは出来なかったの?」
「だって、あの男性は君を雇いに来たんだから」
「ああ…そっか…えっと、じゃあ久暁は都のどこに住んでたの?都で暮らすには結構なお金が必要じゃなかった?」
「貴族の給仕として働いていたから、君ほどいい暮らしは出来なかったけど、ちゃんと食べては行けたよ」
「そうなんだ、よかった!…ところで、久暁は何のために都へ行ったの?あ、不思議な力に関する書物を探しに行ったの?」
「うん。あ、僕、異国へ行く使節団になって、ちょうどその力についての調査に当たったんだよ。すごいでしょ」
「ほ、ほんとに?でも、それってもしかして、私を雇った人のところじゃないの?」
「少し違うんだよな、璃月を雇った人と同じ一族であっただけでね。でも、都の中では近いところにいたと思うよ」
「もしかして、ちょっとだけすれ違ったこともあるのかな?」
「ふふ、あるかもね」
二人は微笑み合った。こんなに暖かい空気に包まれたのは、お互いに久しぶりだった。
「不思議な力についてなんだけどね、他の者がその力を使えるようになる方法があるみたいだよ」
「…そ、そうなんだ」
璃月は少し、嫌なことを思いだした。
「どうしたの?」
「あの、そのことなんだけど…久暁も、私があの人を殺したって噂があるのは知ってるよね?」
「ああ、全く酷い濡れ衣だと思っている」
「あの人に刃物を突き立てられて、押さえつけられて、怖くて、助けも求められなかったけど…。その時、彼は私の力を自分の物にするって言ってたの」
璃月は思い出しただけでも震えあがっていた。心配した久暁は彼女の背中をさすった。
「あのまま、どうやって私の力を奪おうとしたんだろう…と思って」
「力を他の者に分け与える、全て与える方法は、異国で聞いてきた。力を形にして譲り渡すことが簡単らしいけど、でもそれはこの力についての認知がないこの国では、おそらくできない」
「うーん、私も、物を作ることは今のところできないなぁ。『何でもできる』力だって聞いてたのに」
「それ以外の方法だと、力を持つ者の身体組織を取り入れることが多いだろう、できるだけ本人に負担の大きい部分からのほうが効用が強いようだから、あまりおすすめはできないのだけどね。最も簡単なのは血液らしいけど、心臓とかの方が効果は大きいみたいだよ」
「そ、そんな事したら、死んじゃう…」
「そう、だから、この国でそれらの方法を取るのは、難しい」
「そっか…残念、せっかく、久暁に私の力を分けてあげたかったのに」
「何も、今あげた二つがよく行われているだけで、他にも方法はあるよ」
璃月は再び安心した。その顔を見て、久暁も安心した。彼は言葉を続ける。
「その不思議な力について知りたかったのもあるし、それについては多くの知識を得られて、とても満足している」
「そうだね、私も異国に行ってみたかったなぁ」
「…もうすぐ、連れて行ってあげるよ」
「ほ、ほんとに?」
「簡単ではないかもしれないけど…そういう町に行けば、できると思うよ」
「そうなんだ…もし本当にできたら、嬉しいな」
少しばかりの願いを語り合い、少し間が空いたところで久暁が再び口を開いた。
「その…僕も都へ向かったこと、一番の理由は…できるだけ、璃月のそばにいたかった…からだと思う」
「…!」
久暁は、不意に璃月の肩を持ち、顔をこちらに向けさせた。そういえば、璃月から見た久暁は、昔の兄のような存在とは違う、一人の男性に見えたのかもしれない。久暁から見た璃月はどのようであったのだろうか。
「こんな状況で言うことではないのは重々承知している。けど、今を逃せばもう言えなくなってしまいそうだから、言わせてもらう」
璃月は唾を呑んで、何となく見つめられなかった彼の顔に目を向けた。
「僕は、君のことが好きだ」
「私も、久暁のこと、好きだよ。ずっと昔から」
久暁は戸惑わなかった。
「今、僕は昔と変わらない気持ちで君を好きなわけではないよ」
久暁は真剣な面持ちだった。
「璃月、君のことを…一人の女性として、好きなんだ」
璃月は戸惑った。
「…そ、それは…っ」
『一人の女性として好き』という意味が、すぐには理解できなかった。でも、嫌な気持ちはしない。
「…僕が言いたかっただけだよ。さ、そろそろ寝るか」
久暁は顔を背けて寝ころんだ。璃月は考え込んだ。久暁のことは、確かに好きだ。どうして、好きなのだろう。璃月が喜んでいる時は、まるで自分のことであるかのように喜び、璃月が悲しんでいるときはそれを分かち合うかのようにたくさん涙を流してくれた。彼の言葉、仕草を、幼いころからの記憶を丁寧になぞって思い返してみた。
「久暁」
「何?」
璃月は、彼がしてくれたのとは少し違うけれど、彼の方へぎゅっと身を寄せた。伝えたいことを、直に伝えられるように。
「私も…久暁のこと、好き」
璃月は、再会した久暁に対し抱いていた仄かな想いの正体に、気付いたのだ。
二人のいる小屋は小さく、脆く、風や雨にあおられればすぐにも崩れてしまいそうなものであった。けれども、彼らはそうは思わなかった。隙間から漏れ入る夜の冷たい空気は、互いの体温を引き立ててくれた。誰もが寝静まる時間であり、何も見えないほどに辺りは真っ暗であった。しかし、澄み切った夜空に浮かぶ星々と、白い月は、彼らのいる場所を、今だけは優しく照らしているようであった。
明日は港町へ向かう。この国にはもう、璃月の居場所は無かったのだ。約束は、思いのほかすぐに叶うのであった。
―港のある町でのこと、小さな世界の終わり―
二人は朝を迎えた。差しこんでくる朝日は暖かで眩しかった。久暁は、自分の隣ですやすやと眠る璃月の頬をそっと撫でた。おはよう、と優しく声をかけた。璃月は重たい瞼をゆっくりと開け、うーんと言いながら伸びをしつつ、体を起こした。
久暁がこっそりと持っていた乾燥した野菜や飯を食べ、彼らは小屋を発った。ここは小さな山の上だった。少し歩いたところに、ちょうど山の下の様子が一望できる高い場所があった。久暁が言っていた港町が見えた。都ほどではないが、多くの人が行きかうのが見えた。また、海が見えた。璃月は海というものを初めて見た。深い青が空の境まで続いている。彼女は、わくわくした。
見えた湊町に向かうということで、彼らは山を下った。二人は手をしっかりとつないでいた。互いが離れてしまうことのないように、ぎゅっと強く握られていた。でこぼこした道や雑木林を潜り抜け、なんとか山を下りた。久暁はそれなりに体力のある方だったが、璃月はそうでは無かった。久暁は、彼女に気を使って度々休みを取った。おんぶをしてあげることもあった。
山を下りてからしばらく歩き続け、港町へ到着した。町の建物は都と同じくらいしっかりしているものがほとんどであった。魚や異国の品を売る者が多いようで、璃月が見たことのないものがたくさんあった。久暁に手を引かれて歩いていたような璃月であったが、今は違った。久暁の手をぐいと引き、あちらこちらを見て歩き回った。二人ともが、綺麗な宝石で彩られた装飾品に目を奪われた。細長い布を蝶のように結ったものや、薄く、端が波打つような形で切り取られている布であしらわれた、愛らしい女性用の衣装に、璃月は興味を持った。久暁も、璃月が気に入ったものをじっと見つめていた。ただ、到底彼らの手の届くものでは無かったため、実際にそれに触れることは出来なかった。でも、短いながらこの上なく楽しい時間であると、二人が同じ考えを持っていた。
市場を見学していくうちに、港へ近づいて行った。この辺りでは、久暁の知り合いがちらほらといるようだった。中には異国の人もいた。璃月は今まで、両親、養父、久暁以外に深く関わりを持った人がいなかった。しかも両親と養父からは見放されている。唯一当てできて、信頼していて、大好きな彼が、自分の他の誰かと親しくしているところを見るのは、何となく、寂しかった。久暁が璃月の知らない誰かと話すたび、彼女は握った手をじっと見て、より強く握り直した。久暁はその様子に気付くと、申し訳なさそうに微笑んで、璃月の頭にぽんと手を置いた。
港に到着した。潮の匂いがするといったところだが、璃月にとっては塩の匂いだった。海から吹く風は冷たかった。
「璃月」
「なあに?」
「急かもしれないけど…異国へ行けるよ」
「ほ、ほんと?」
「うん、これなら、君はもう、あのような目に遭わなくて済む」
市場で楽しい時間を過ごしたが、それが損なわれることが一切なかったとは言えなかった。都のあの事件の噂は、こんな場所にも広まっていたのだ。有力な貴族の不可解な死をもたらした化け物は、都を脱走し、近隣の小さな村を襲撃し、山に逃げたとの噂を時々聞いた。幸い、疑いをかけられた彼女の容姿は伝わっていないようであった。しかし、あの村を襲撃したなどというありえない尾ひれを付けて泳がされていた。璃月はその話を聞くたびむっとしていた。
養父は、国政の要人であったようで、それを殺害したとなればその罪は重かった。見つかれば、まず間違いなく死罪だろう。一思いに殺されてしまうのであればまだいい方だ。捕縛されてから処刑に至るまでどのような恐ろしい目に遭うのかは、想像に難くなかった。璃月は想像するだけでも震えと涙が止まらなかったし、久暁は怒りで頭がどうにかなりそうだった。そうなることのない異国へ逃げることは、彼らに取って最善の選択肢であったのだ。さらに、久暁は異国へ行ったつてがあり、そのあたりの取り計らいには長けているようだった。
港にある一つの建物に入り、知り合いだという異国の男性と久暁は話を始めた。何やらそのための準備の話が込み入っているようで、璃月は長い間待たされた。じっと我慢していた。握った手を何度も見返した。話が止まり、久暁は璃月の方を見て言った。
「璃月、長くなってしまうみたいだから、待っていてほしい」
久暁は璃月の手を放した。
「外に出て、近くにある店などを見ていてほしい。ただ、何かあった時のために、あまり遠くへ行ってはいけないよ。この周辺は僕の知人たちが経営しているから、すぐに教えてくれると思う」
「…うん、わかった」
離れた手を名残惜しく見つめながら、璃月は建物の外へ出た。彼女は、とぼとぼと歩きながら近くの出店の商品を見た。色とりどりで、いい匂いがして、活気のある声が飛び交い、たいそういい場所なのだろう。でも、今の彼女にはそう感じられなかった。すすめられた食べ物を全て口にしたし、たいそう美味であるはずなのに、素直にそう思えなくなっていた。まだかなと、彼を待つばかりであった。
そうやって過ごしているとき、ふと、海を見つめてみた。何もなくただ横に真っ直ぐであっただけの海と空の境から、何かがこちらの町に向かってくるのが見えた。遠くにあったので、はっきりとは見えなくて、初めは点にしか見えなかった。だんだんこちらに近づいてくると、その形が分かるようになった。船だ。それも、いくつもある。港に泊まっている船とは少し形が違うようだった。璃月は気になって、それらを観察し始めた。その船は離れていても大きいのがよく分かった。作りは非常に丈夫そうで、嵐に遭遇しても容易に壊れてしまうものではなさそうだ。人も大勢乗っているが、どんな容貌、服装をしているのかはまだ見えなくてわからない。ただ、手に何かを持っているような人が大勢いた。船の上には積み荷らしくはないようだった。ただ、黒くて大きなものが規則正しく並んでいて、全てがこちらを向いていた。璃月は見たことが無いものだった。
そのとき、どん、と海の方から大きな音がした。船から煙が出ているのが見えた。火事だろうか、あの上にいる人たちは大丈夫なのだろうかと璃月は思った。それを向ける対象は、背後にあった。町から人々が騒ぎ立てる音がした。これはまるで、あの日の都のようであった。璃月は振り返って辺りを見回すと、町の一部が大きな炎に包まれていた。再び、さきほどの大きな音がした。今度は数回も同じ音がした。船に積まれた黒いものから何かが出て、それが町を火の海に変えているようだ。その黒いものは、故郷に帰った際に自分に向けられた銃を、そのまま大きくしたようなものだった。あの小さな弾が体に打ち込まれただけでも引き裂かれるような痛みを感じたのに、それがあんなにも大きくなったら、どんなに恐ろしいだろう。璃月はその場を急いで離れた。久暁のいる建物へ駆け込んだ。
そこには誰もいなかった。
璃月は瞼の裏が熱くなるのを感じたが、今はそんな事をしている場合ではないとぐっとこらえて、町のどこかにいるはずの久暁を探しに走り出した。けれど、炎で崩れゆくこの町の中を駆けていくと、そうはいかなかった。怪我をして苦しむ人々が数多くいたのだ。璃月は、そんな人々を見過ごすことができなかった。一人ずつ、力を使って傷を治していった。久暁がいてくれたおかげでこの力を使うことはあまりなかった。久しぶりに力を使う機会であった。璃月は、この力が誰かのためになること自体は嬉しかったのだ。その目的が、何かを傷つけることに向かうことがなければよかったのである。彼女に手当てを受けた者たちは、不思議な目で彼女を見つめていた。
忘れたころに、あの大きな音がした。璃月は瞬時に頭上に目をやった。黒い球だった。これに火薬が詰められ、着弾と共に爆発し、周囲を燃やし尽くしているのだろう。彼女は反射的に手をかざし、力を込めた。白い光が放たれた。それは彼女の近くにいる者たちを守る囲いとなった。黒い球はその守りにより害を与えることなく、爆発するだけであった。璃月も、周囲の人々も、何が起こったのか分からなかった。けれど、璃月はここにいる人たちを無事に逃がすことを決意した。自分の力が誰かのためになるのなら、それは、自分にとってもいいことだ。久暁がいない今、自分の価値をそうやって見出すしかなかった。
「みんな!逃げて!」
こんな小さな娘の言うことなど、普通は誰も信じないはずだ。けれど、砲撃を防いだのをこの目にしたのだ。何者かは分からずとも、信じるしかなかった。人々は、怪訝な顔をしつつも、彼女の声に従ってその場から逃げ出した。璃月も、この火の海に誰もいないことを確認してその場を立ち去った。あの船たちが来てから、安堵する余地などなかった。最悪の事態が起こっていた。
人々が逃げた方向に進むと、先ほど助けた者たちの亡骸があった。まだ身体の温かさが逃げだしていないようだった。胸を一突きにされたもの、全身を強打し体があらぬ方向に曲がっているもの、四肢、もしくは頭部を切断されているものもいた。幼い子供と共に貫かれた親の姿もあった。それらの姿を見て、璃月の体の中にあったものが、全て口から外に押し戻されてしまった。
ついさっき見た、船上にいた者たちがこの町に降りてきていたのだ。手に持っているものは、武器だった。刀とは違う、長い刃物を手にする者もいれば、棒の先に鋭い刃が付属するものを持つ者もいた。もちろん、璃月に向けられた銃のようなものを持つ者も数多くいた。しかし、あの時とは何かが違う。ただ、人の身を傷つけるものであるだけの気配を感じない。これは、そう、まさに璃月同様の気配を感じたのだ。不思議な力を使える者同士は互いにそれを感じ取ることができるとでもいうのかと、朦朧とする意識の中で、璃月は思った。死んだ者は、いくらこの力があってもどうにもならない。璃月は泣く泣く走り出そうとした。
異国の船から降りてきた者たちが、彼女を逃がしてくれるはずはなかった。彼女を取り囲み、武器を構えて襲い掛かる。彼らが何を持ってこのようなことをするのか、詳しいことは分からない。でも、どこかで聞いたことがある。人間は自分の住む国を強くしたいがために、他の国を滅ぼすのだと。そんな愚かな争いの中で命を落とすことだけはご免だと、璃月は思った。そして、罪のない人の命を無差別に奪うことが許せなかった。璃月は、この状況を潜り抜けるべく、決意した。
「どきなさい!」
不思議な力を最大限に発した。こんなに強い力を人に向けたのは、初めてだ。凄まじい風圧により兵士たちは近くの地面に投げ出され、動けなくなっていた。それでも、彼らの数は尽きることは無かった。次々と向かい来る彼らを押しのけ、璃月は走り続けた。履物がいつの間にかなくなり、白く小さな足はいつの間にか汚れて赤く染まっていた。璃月はその痛みに耐え続けた。久暁さえ見つかれば、そう思って走り続けた。
町の端の方へたどり着いた。船が数多くある。遠くからやってきて、兵士たちを送りだした船とは違っていたことには安心した。それも、久暁が話をしていた場所の近くにあった船にどことなく似ていた。周りを見渡すと、兵士はいないようだった。この場は、逃げ切ったのであった。璃月は人がいないか、辺りを探し回った。倒壊した建物の破片によって、怪我をして動けなくなった町の人が少しばかりいた。見つければ手当てをし、町を出るように伝えた。建物は全てあたった。けれど、久暁は見つからなかった。久暁の知り合いらしき人も見当たらなかった。あとは船だ。璃月は船というものには乗ったことが無かったが、この状況でそんなことは言っていられない。海の上に浮かんでいるというのが、少し怖いと思ったが、桟橋にかけられた船の乗降口から恐る恐る船の上へ進んだ。
やはり、誰もいない。普通に考えれば、このような状況では、表へ出るのは危険である。璃月は当てが外れたかと残念に思ったが、一つのことに気付いた。乗る場所は船上だけではないということだった。船を見渡せば、下へと続く階段のようなものがあった。もしかしたら、誰かがこの中に隠れているかもしれないと思った。璃月は、そこへ足を踏み入れた。
暗い階段を下りると、扉があった。自分の住んでいた場所とは違う戸のようで、ずらそうと思っても開かなかった。そこで、取手のようなものをつかみ、思い切って手前に引いてみたら、扉は開いた。そこには懐かしい姿があった。
「…久暁!」
「璃月」
彼の姿があった。あのとき街で見かけた異国の者たちに囲まれていた。久暁を含め、彼らはこの戦火に巻き込まれていないようだった。彼は異国の衣装を身に纏っていた。璃月は急いで彼の元へ駆け寄った。そして、彼の身体に思い切り抱き付いた。そして涙を流した。
「久暁…久暁…無事で…よかった…」
「うん、こっちこそ、心配かけてごめんね」
久暁も優しく彼女を抱きしめた。違う衣装を纏っても、彼の様子は変わっていなかった。そして、久暁は言葉を続けた。
「璃月、喜んでくれた?」
突然、彼は意味の分からないことを言い出した。ここに移動するまでの様子を見て気が動転していたのだろうか、と璃月は思った。きっと、この船の中という安全な場所にいることに対して言ったではないかと想像したが、念のため、璃月は彼にその意味を問う。
「え、ええと…この場所が安全だから…ってこと?」
「まあ、それもあるけど」
「違うの?」
少しの沈黙の後、久暁は軽く口を開いた。
「この町が、この国がなくなるところ、良かったでしょ」
璃月は顔をしかめた。来て数日しか経っていないこの町に強い思い入れがあるわけでは無い。けれど、こんな風になるのは見当が違う。久暁は、こんな人間であったのか。
「…何を言っているの」
「遠くからやってくる船がたくさん見えたろう。あれは、他の町にもやってきて、同じようなことをするように指示されている」
「…っ、どういう…こと?」
久暁はめいっぱい心を込めて璃月に微笑みかける。
「僕はね、君を酷い目に合わせたあの男が自分のものとしたこの国は、もういらないと思ったんだ。だから、異国へ行ったときに向こうの者と手を組んで、こうするように計らってもらった」
「そんな…」
「璃月、君にとってはいいことだろう?君を自分の都合の良い道具としか思わなかった馬鹿な男と、それに付き従った者たちが無惨に死んでいく様子を見られたんだから」
璃月は久暁の発言に息を呑んだ。自分の信じた彼は、こんな者であったのか。
「もう気付いているよね。あの夜、あいつを殺したのは、僕だ」
彼は自分のためとは言うけれど、そんなこと、受け入れられるわけがなかった。璃月の為になるどころか、彼女は濡れ衣を被せられている。そして、一つ気になったことがある。いくら男性である彼とはいえ、あのような殺害の仕方が可能なのであろうか。
「璃月、僕はね、力を取り戻したんだよ。それも、君とは少し違う力だ。気に入らないものは、全て壊す。そんなところだ」
不思議な力を取り戻したというが、そうではなさそうだ。これは自分と似て非なるものだ。彼の紅い瞳がそれを物語っている。久暁は、その名の如く、苛烈だった。
「璃月、この腐った国はじきに人の住めるところではなくなる。僕と一緒に行こう。そして、そこでずっと、ずっと一緒に暮らしていこう」
久暁の周りにいる者たちもそれに同調するように話を聞いて頷いていた。璃月はそうは思えなかった。
「…久暁、私、そんなことあなたに頼んでない!」
久暁は悪びれる様子もなかった。あくまで、『璃月』のために行ったことであるのだから。他の者なぞ、どうでも良かったのだ。
「璃月、僕が手を放した時にひどく寂しがらせてしまったみたいだね。ほら」
久暁は手を差し伸べた。
「今度はもう、いや、二度と放さない」
久暁は下がっていた璃月の手を取った。璃月の答えは一つだった。
「久暁とは一緒に行かない!」
月は彼の手を勢いよく振りほどいた。紫色の瞳は強く彼を睨み付けた。そして、入ってきた扉の方へ走って向かい、船の外へ出ていった。
「…残念だな」
久暁は寂しそうな顔をして言った。けれど、焦りは見せなかった。
「追いかけるよ」
璃月の逃げた方へ仲間を連れて歩いて行った。
璃月が暗い船の室内から外へ出ると、信じられない光景が広がっていた。火の海、瓦礫の山、人々の悲鳴、兵士の怒号、あちらこちらに散らばる死体、灰によって暗くなった空、それにとどまるものでは無かった。そんな様子は先ほどさんざん見せつけられたというのに、まだそれを上回ることがあろうとは思わなかった。
空を飛びかう大きな生物が何匹もいた。都にいた時に、絵巻物で見たことがある。竜だろうか。ただ、絵とは形が少し違うようだ。絵で見たものはどちらかというと蛇のようで、長い体をくねらせて空を飛んでいた。けれど、今目にしているものは大きな翼を持っていた。絵で見た時には到底わかるはずもなかった、とてつもない雄たけびを上げていた。そして、口から炎を発した。それは凄まじい速度でこちらへ襲い掛かってきた。これは、人が扱う炎の類ではない。自分と同類の、それ以上の力だった。
直撃はしなかった。しかし、白い衣はもう元の形を保っていなかった。彼女の身体を掠っただけの炎が、柔らかな皮膚を引き裂くような痛みで襲ったのだ。璃月は悲鳴を上げ、地面を転がり回った。普通の人間ならばとっくに死んでいるところであろう。璃月は、自分の持つ不思議な力が、全身に行き渡っていることを初めて知った。痛みで頭がおかしくなりそうであっても、そのようなことを考えられるほどの意識が保たれていたことを恨めしく思った。いっそ、瞬時に殺してくれればよかったものを、とさえ思った。
久暁たちが船の外へ出てきた。彼らの耳に、あの巨大な竜の鳴き声が響いた。思わず彼らは耳をふさいだ。それに、その竜を見て驚いた。久暁も例外では無かったが、璃月の悲鳴を聞いてそちらに急いだ。久暁が初めて、焦りを見せた。しばらくして、痛みで泣き叫ぶことにも疲れ、ぐったりとうなだれる璃月の元にやっとたどり着いた。彼女の無惨な傷跡をじっと見つめる暇もなく、炎は久暁にも襲い掛かる。
久暁は、璃月を庇った。そして、彼女同様の傷を受けた。彼は泣き叫ぶことはしなかった。けれど、口を思い切り噛みしめ、こらえていた。そして、震える声で発した。
「…話と違う!あいつら…ッ」
遠のきそうになる意識をなんとか手繰り寄せ、璃月は久暁の言葉と姿を感じ取っていた。また、彼は自分の分からないことを言った。
突然、先ほどの兵士たちがやってきた。そして、傷ついた久暁を取り押さえた。さらに、不穏な光が彼を包んだ。彼はそれに苦しんだ。炎で焼かれた傷に追い打ちをかけられたようだ。そして、璃月は背後からいきなり体を押さえつけられた。僅かな力で抵抗しようとした。
「離して!嫌っ!久暁!久暁っ!助けて!」
船の中で、久暁はもう、あの頃の彼ではないと分かった。でも、再び自分を守ってくれた。あんなに近くにいたのに、あの小さな小屋で、互いの想いを打ち明けたはずなのに、彼のことが分からない。でも、身体はそうはさせてくれなかった。彼の名が、助けを求めて自分の意思とは関係なく何度も発せられる。もう当てに出来ないことは分かっていても、そうするしかなかった。目からは涙がだらだらと流れ出て、声は枯れそうになった。男数人がかりの力と不思議な力で押さえつけられ、身体の節々はもう限界だ。
久暁の仲間たちも、兵士たちに敵意を向けられていた。殺し合いが始まっていた。もしくは、竜たちの炎に焼かれる者もいた。久暁と、彼の仲間達はどちら側なのかわからない。
けれど間違いなく、自分と久暁たちを害そうとするものがいることが分かった。
「璃月!璃月を離せっ!…璃月だけはと言っただろう!」
傷だらけの久暁は苦し紛れにそう言った。そして、それは、璃月が耳にした、彼の彼女に対する、最後の言葉になり得なかった。彼女を取り押さえようとするうちに放たれた、頭部への打撲が、彼女の意識を完全に絶ってしまっていたのだ。
青い海が揺らめいて見える、明るい港町はもうなかった。赤い炎が渦巻き、怪物と残骸の溢れかえる焦土であった。少女は闇の中へと置き去りにされた。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、全てを閉ざされ、繋ぎとめていた筈の、残り少ない、かけがえのなかったものさえも奪われた。
―海を越えて、冷たい床の上、暗澹に包まれる―
時間はどれほど過ぎたのだろう。何かが起こって、それが終わるまで、という事実があるからこそ時間が定義づけられるのであって、始めから何もなかったのなら、そこに時間というものは存在しなかったということになるのだろうか。
少女は目を覚ました。何か重いもので繋ぎ止められているのが分かった。自分の体があったのが見えた。目を閉じている間、自分はどうなったのか全く分からない。しかし、この身が大切に扱われていないことだけは、確証がある。いろんなもので汚れてはいるが、傷はあまりなかった。相変わらず蒼白だった。けれど、生きているようなものではなかった。自身に対してそう思うのは変であるのかもしれないが、今ばかりはそう述べなければ表せないというような状態であった。長く黒い髪が体にまとわりついている。衣服はほとんどないようなものだった。
広い空間があった。鎖に絡めとられた少女を中心に、たくさんの人影が空間の上部に、円を作るようにずらりと並んでいる。少女は、その空間の中心の、床がだんだんと低くなった部分に置かれていた。人影たちは彼女のことを話しているようだった。低い声ばかり聞こえてきた。そして、人影の一人が少女の方を向いた。それと同時に人影のいたところに灯りがともされ、彼らの顔が少女の目に入った。全て、少女のいた場所の人間とは異なる容貌をした者たちだった。
「異国の娘よ」
黒い衣装を纏った壮年の男だった。
「生きたいか?」
少女は応えなかった。
「そうだな、我々の言うことさえ聞いていればよい。なに、難儀なことは要求しない」
男は話を始めた。それは、遠い昔の先例であるそうだ。
幾代も隔てた同じこの地に、『黒の魔法使い』というものがあったという。この国に伝わる伝承だ。この世が生み出す混沌から、それを望む者たちの手によって、それは産み落とされた。それは、一切の光から隔絶され、不自由な檻の中で成長した。それが持つ力は、あらゆる存在に由来する禍を担うものであった。それは、自らに関わる事象を害されることにより高められるものでもあった。故に、『黒の魔法使い』であるそれは、その地を讃える神体として崇め奉られたその影で、それとは相反する境遇の元にあった。
しかしある時、誰も彼もが、一瞥もくれないような微かな隙間から、光がそれの元へ迷い込んだのである。それは、蝶の形をしていたという。とある地の伝承によれば、蝶は魂に比喩されるものである。小さなその光を手にしたそれは、決して抱いてはならないものを抱くようになった。「希望」というものを見出した。「夢」を見るようになった。檻を壊し、それを叶えようとした。けれどその時、その小さな光は潰えた。粉々に、二度と元に戻ることのないように砕け散ったのだ。それが初めて抱いた心を抹消するべく、それを混沌から生み出した者たちの手によって、その光の消去が行われた。
『黒の魔法使い』の備えたその力は「黒」だった。それは何物にもなれて、何物にもなれないものである。視界に入る物体の影の色は一見すると黒である。その現象は、どのような物体であっても同じだ。けれど、じっと見つめてみれば皆それぞれが固有の色を持つ。決して黒とはなり得ない、というのが「黒」が何物にもなれて、何物にもなれない理由である。その力も同じだった。その力は「調和」と「破壊」を求めた。その二つの色は、「紫」と「紅」であった。
それが触れた、小さな光の抹消と共に目覚めたのは、「紅」のほうであった。それは、自らを生み出した者たちを、その力によって滅ぼすことを望んだ。けれど、それはやがて自らをも滅ぼすこととなった。
それが生まれた地を離れた後に、別の二つの光に出会うことがあった。先に出会ったのは、あの時迷い込んだ小さな光とは異質の、白く眩しい光であった。後に出会ったのは、自らを導いてくれた小さな光と同質の光であった。それは、彼らと親しくなった。あの時のように失われないように、自らを傷つけても守ろうとした。だが、黒と白は相反するもの。それには、その白い光はあまりに眩し過ぎた。同じ場所にはいられないということを悟り、それは自ら姿を消した。白い光に応じることもしなかった。後に出会ったほうの、あの時の小さな光と同質の光は、そうではなかった。光でありながら、黒に近しい部分があった。その由縁は、それと同様の境遇におかれたことがあったからだという。もう一つの小さな光は、それに手を差し伸べた。しかし、その傍には常に、あの眩しい白い光があった。それは差し伸べられたその手に微かに触れただけであった。やはり、それは光を求めながらも、自身はそれを害する存在であることを悲しみ、その二つの光の前からは姿を消した。
「紅」の力により自らを生み出した者たちを滅するという望みは叶った。「紫」の力によりそれと共にあった者たちを幾度も救うこともできた。けれど、それを生み出した世界の禍は永遠に消えることは無く、それを縛り続けた。それは、自分を導いた光のことを思い返しながら、誰も立ち入ることのない世界の隅で、儚く消えた。それが備えた心のほとんどが消えてしまったけれども、その力が消えることは無かった。
その力は、世界を浮遊し続けた。その間に、世界は一度滅び、再び生まれた。ほんの些細な部分を変容させ、同じ体を保っていた。力は、自らの求めるもののために作用する、利己的なものである。ごくわずかに残った心は、消える前にその目にしたいと望んだもののある場所へと、その力を導いた。その力は、新たな姿を持って生まれたという。
その一つが、今、この男たち視線の先にある、少女であった。
「お前は、『黒の魔法使い』の一部だ。その力を我々は、預かりたいと思っている」
少女は頷くことをしなかった。虚ろな目で、堂々と語りかける男の方を見ていた。
「その力をどう使うのかって?我々の治めるこの国と、そこに住まう者たちを守るために振るってもらう。ただそれだけだ」
心当たりのある役割だ、と少女は思った。でも、もう、昔の自分が何であったのか、思い出さないようにしていた。ただひたすらに愚かなだけであったからだ。しかし、その記憶を空白として処理することもできないのだから、今聞いた伝承の如く、自分は「それ」であったのだと考えるほかなかった。そうだ、自分はこの力を振るう、道具なのだ。そうであるなら、あるはずがないものを信じていた、縋り付いていたなどという事実はありえない。
「どうせ、あのちっぽけな国で、お前の力は忌まれていた、もしくはただ便利なだけのものだとして軽視されていたのだろう?我々はそのようなことはしない。お前の力だけでなく、お前自身も我々が預かってやろう」
殊に穏やかな声だった。けれど、どこか野心に満ちているようでもあった。それが何であるのかは、想像がついた。あの男と近しいものだろう。彼女はそう思った。また、自分のいたあの地を滅ぼしたのが、彼らだということを悟った。
「少々痛みを伴う役目もあるだろうが、命が損なわれるようなことは決してしないと神に誓おう。娘よ、頑張りたまえ」
中心の男が一旦話を止めた。少女は、繋がれたまま別の部屋に移された。それに伴い、少女を取り囲んでいた者たちも共に移動した。
そこは、不思議な空間だった。真っ白であった。この世に存在しないものを祀るかのように、白い花が中心の祭壇に溢れ返っていた。空間と配置された物の、その白さはこの世に比類なく、混じりけのない美しいものであったが、生気のない、ある意味気味の悪さ、息苦しさを感じさせるようでもあった。
少女は、祭壇の上に寝かせられた。再び、少女の周りを男たちが取り囲んだ。先ほどと違う者たちのようだが、皆仮面を付けていた上、白い装束で体を覆っていたために、どんな者たちかはよく分からなかった。そして、彼らは比較的近い距離にいた。彼女を円形になって取り囲み、手に長い棒のようなものを持っていた。魔法の杖である。金属で作られたもののようで、それぞれ微妙に形状が異なっていた。彼らはそれを一斉に構え、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
それはちょうど、儀式の始まりを示していた。少女を取り囲む者たちは大人数で、大掛かりな儀式であった。しばらくして、杖に光が纏わされ、鼓膜に響く音が立ち始めた。そして、一斉に少女に向かって光を放った。杖から放たれた光と同時に、祭壇を中心に、奇怪な文様の陣が表れた。それから放たれた同様の光も、彼女の身体を取り巻いた。光はまるで鎖が命を宿したかのように、少女の四肢を締め付けた。その柔らかな白い肌に覆いかぶさり、組織を蝕もうと枝を延ばした。少女の全身には想像を絶する感覚がほとばしった。それは、全身の神経の一筋一筋に、何かするどいものを通され、ゆっくりと、時に激しく、それらを引き裂くようなものであった。今にも、身体の奥深くから、何かよくないものが全身を犯し、中身をぐちゃぐちゃにされる、そのような痛みが少女を襲った。部屋の外まで悲鳴が聞こえてしまいそうなほど、彼女は泣き叫んだ。声が出せなくなっていてもおかしくないほど、長い間口を閉ざしていたことが嘘のようだ。これ以上口が開かないほどに大きく口を開き、消えることのない痛みを逃がそうと、声をあげた。今の彼女の瞳は、虚ろな紫色ではなかった。受け止めきれなくなった痛みが、涙になって流れ落ちる。それは止まることを知らなかった。体は思わず動いてしまうが、光に縛りつけられ、空しくもがくのみであった。
悲痛な声とは裏腹に、少女を取り巻く者たちは冷静だった。あるいは、笑みを浮かべながらその姿を見つめる者もいた。
やがて、少女の身体にある現象が引き起こされた。少女の肉体に取り入る光は、身体の各所を拘束する純白の帯へと変化した。腕・大腿・胴・首に巻き付けられ、衣となった。そして胸部の桎梏となるものが現れた。それらは柔肌をきつく押さえつけた。所々にひらひらとした飾り布、蝶のような形に結われた布が取り付けられた。
儀式は終った。長時間にわたるものであった。けれど、少女にとってはそれ以上の時間に感じられた。彼女は祭壇の上で横たわっていた。先ほど放たれた術により引きおこされる痛みは未だ残り、全身は痙攣していた。しかし、意識は保っていた。自ら動いたわけでは無いのに、少女の呼吸は荒げていた。儀式の最中の叫び声に比べれば、随分とましにはなったが、それでもなお、苦痛にあえぐような息遣いであった。目は潤み、涙は白い頬を伝って、緩やかに流れ続けた。少女は、ゆっくりと、震える体を起こす。そして、自分の身体が目に入った。こうやって自分自身を見つめたのはいつ以来だろうか、と訝しく思った。
先ほどの、暗い空間にいた際の、裸同然の格好よりはまともであるように思われる。しかし、明らかに心地の良くない部位に取り付けられた帯に、身体を覆うためのただの衣装に対して抱くことのない違和感を覚えた。さらに、肌を晒す面積それ自体は多くないものの、あまり見られたくない箇所に限って、顕わになっていた。なぜこのような意匠にする必要があったのか、彼女にはまだ分からなかった。多くの視線を集めてしまうため、隠そう思ったが、まだ思うように手足が動かせず、それは叶わなかった。
そうこうしているうちに、中心の男が口を開いた。そして厳かな足取りで少女の前へと歩み出る。
「ここに、リベリカルテスターの誕生を記録する」
少女は、その言葉の意味は分からなかった。周りの者たちは、全て理解していた。少女が理解したのは、もう、「璃月」という娘の存在はとうの昔に消え失せているということ、たったそれだけであった。
「さて、リベリカルテスターよ。お前は我らが国、オルティスのため、その魔の力を振るえ。我々を脅かす、全てのものへ立ち向かうのだ」
もちろん、彼女にそんなことをする義理はない。しかし、彼女は拒まなかった。
「…わかりました」
微かな声だった。昔のことはもう、どこかに置いてきた。けれど、この身に宿したこの力を何らかの目的に使うこと、それは、彼女自身にとっての唯一の存在価値だった。この国は、自分のいた場所を滅ぼした憎き国である。しかし、ないものに縋り付くことがどれほど無益なことであるかは、自分が最もよく知ることであった。もう、何であってもいい。だから、自分の存在がここにあること、その感覚が欲しい。ただそれだけだ。こんな弱い自分に生きる意味などない。生まれた時からあるのはこの魔法だけ。守るべきもの、変える場所もない。死ぬこともできない。死ぬのは…こわい。
――戦うしか、なかった。
―純白は、染まることを拒んだ、けれど、抗うことはできなかった―
リベリカルテスターとは、国が自らの領土を広げようとする際に、侵略した国から奪った、力のある奴隷たちを兵士として利用することと同義であった。それが魔法使いという体になっただけのことである。それを、この国、オルティスではそう呼ぶこととしたのである。
リベリカルテスターとなったその少女は、国内における犯罪者との戦闘、国に出現、あるいは侵入した魔物や、オルティスに攻め入ろうとする他国の魔法使いの兵団の撃退などを行った。彼女は、それらを殺害することなく、撃退、もしくは捕縛するにとどめていた。彼女を管理する国の枢密院の者たちは、それを看過した。実害を及ぼさなければよいとの考えのもとにあった。
彼女はその任務のため、魔法の杖を与えられた。白く大きな杖で、彼女の背丈を超えるものであった。衣服と同質の力を以て構成されているもののようで、軽く丈夫であった。彼女は今まで、杖を使うことなく魔法を振るっていたが、杖を手にすることで、その精度飛躍的に向上した。
また、思いのほか、彼女はその組織に束縛されることは無かった。彼女は、枢密院の本拠地であるブラッドフォード城に居住していた。国内に異変があれば指令を受け、その場所へ早急に向かい、その事象を解消すればその後は自由であったのだ。枢密院への反逆行為に当たるものを除けば、何をしても構わないようだった。
しかし、良い扱いを受けているとはとうてい言い難かった。彼女は、なぜか、夜にその任を請け負うことはなかった。その場合、リベリカルテスターが誕生する前に、国の警備にあたっていた魔法使いの兵団に、その仕事を回していた。その兵団は、リベリカルテスターの存在に不服を抱いていたが、枢密院に権力を奪われているため、それを表に出すことは無かった。
いくらこの少女が、黒の魔法使いの強力な力の一部を持つとはいえ、何もせずともその力が保たれているわけでは無かった。魔力も、体力と同様、用いることがなければ劣化するものが多い。一般的な魔力であれば、使用することで本人の感覚が鍛えられるとともに、その力自体が向上した。けれど、彼女に継承された「黒」の力はそうではなかった。
彼女を管理する枢密院の男たちもまた、魔法使いだった。それも、国内外で名を挙げた実力者たち、または古くから続く名家の血統を持つ者たちの集いだった。彼らの魔法に対する見識と探究心は並々ならぬものであった。「黒」の力に対しては尚更そうだった。だから、彼らは彼女に対して、あの伝承における『黒の魔法使い』に対する同様の行為を行ったのであった。『それは、自らに関わる事象を害されることにより高められるものでもあった』という部分のことである。
蠱毒、というものに近い行為だった。毎晩、少女は強制的に呼び戻された。少女は城の地下深く、牢に入れられた。枢密院の男たちが集めてきた選りすぐりの強力な魔物たちと共に閉じ込められることもあれば、兵団によって捕えられた、凶悪な罪人とともに放り込まれることもあった。言うまでもなく、彼女はそれらによって蹂躙されるがままになっていた。普通の者ならとっくに死んでいるところ、彼女は生き延びていた。「黒」の力、そのうち彼女が持つ「紫」の力は、損なわれた身体を急速に再生する力があった。一度病気にかかるとその病気に対する免疫が付くことと同様に、外傷を受けて再生することを繰り返せば、それが早まるのであった。
また、彼女の感じる苦痛が限界に達すると、無意識のうちに発揮できる以上の力を放つことがあった。「黒」の力の性質を受け継いでいるものの、彼女の放つ力は白だった。それに当てられた魔物や罪人は、あっけなく吹き飛ばされた。そして硬い石の壁に全身を打ち付け、気絶することもあった。しかし、力を放った本人も、意識が朦朧としていた。これを繰り返すことで、通常の状態で放つことができる力が向上するという。
「お前は、身も心も、我々のものだ」
夜を迎えるたび、この言葉を何度も、何度も耳に刻み付けられた。自分たちに対して隷属する道しかない、ひとりぼっちの少女を取り囲み、枢密院の者たちから、その言葉に一寸も違わぬ扱いを受けていた。けれど、彼女は逃げることは出来なかったし、逃げようともしなかった。何度も自分に言い聞かせてきた。もう、居場所などないのだ。今は無き遠いあの地で、あの時は、これ以上のことをされたのかもしれない。だから、今は、決して幸せではないし、むしろ、その逆の状況にあるけれども、それを思えばまだ耐え忍ぼうと思えるのであった。
あのとき、あの人が助けてくれなかったら。そうだ、あの人は、もういないのだ。これからも、ずっと、そんな人など、存在しないのだ。
朝になった。彼女は目覚める。いつの間にか、誰もいない牢の中で横たわっている。昨夜、どこかで意識を断った後、ここへ運ばれることになっているそうである。いつものことだった。自分の身体に目をやると、変わらずあの奇矯な白い衣装を纏っていた。まだ任務の連絡はなかった。シャワーを浴びたいと思い、浴場へ向かった。この衣装の着脱は煩雑だった。この城の外で自らこれを外すことはできなかったし、それができる者もおそらく存在しなかった。城の中であればそれはかなった。最初にこの衣装を取り付けられたときの凄まじい痛みはもうなくなった。一度取り付けてしまえばこの衣装の魔力が身体になじみ、あれほどの拒絶反応を起こすことは無くなるそうだ。けれど、完全に無痛とはいかなかった。多少の苦しさはあった。それに、どこの誰だかは分からない、仮面を付けた術者に自分の姿をさらすのもあまりいい気分ではなかった。でも、耐えられる程度だった。毎晩受ける仕打ちに比べれば、任務における痛々しい怪我でさえもかすり傷に思えるほどだった。
シャワーを浴びることは、彼女にとって数少ない至福の時間だった。冷たい水しか流れなかったが、物質的な身体の汚れと共に、自分の肉体にこびりついた何かを洗い落としてくれるような、そんな錯覚を与えてくれたのだ。所詮は錯覚だということに気付くと、少女は俯きながら咽び泣いた。最初は立っていたけれど、足の力が抜けて、ぺたんと座り込んだ。けれど、降り注ぐ水はその涙を覆い隠してくれた。小さく薄汚れた鏡に映る、自分の見苦しい泣き顔を見なくて済んだ。跳ね返った水がその鏡を見えないようにし、曇った紫色の瞳に目を合わせる必要がなくなった。それも含めて、シャワーを浴びることを好んでいたのだ。
浴場から出ると、再び魔法により白い衣装を取り付けた。やはり心地は良くなかった。そして丁度、出向の命が下ったようだ。
オルティスの末端、町を離れた郊外の森で、魔物が現れたとのこと。この森自体は主要な地ではないが、この魔物をこのまま放っておけば市街地に移動し、多大な被害を及ぼす可能性があるという。少女は杖を携え、その地へ向かうのであった。
とある時代の西洋の地、名もなき平原にぽつりと存在する森を、近くの崖の上から見つめる者がいた。それは、澄んだ夜空のように真っ黒な髪をしており、それは、昼であるにもかかわらず、月光が射すが如くの艶を呈していた。その肌は白く、雪のようであった。紫色の瞳は、憂いを含みながらも、淑やかに透き通っていた。
その身に纏う衣は、純白であった。その肌にたいそう適うものであった。衣と髪は風に棚引き、それぞれを引き立て合っていた。
彼女は、リベリカルテスターという、魔法使いである。