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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
7/62

一章⑦


              7



“今回もまた手酷くやられちゃったねぇ。サプレッサー、ほぼ全滅じゃない。でも大丈夫、僕は怒ったりしないよ。だってぇ、ただの常人がアシュラに勝てるわけないもんねぇ、アハハ。”

 シャチューヌは侮蔑の笑いを上げた。エドウとパルは、ダヴィを処分してエドオルムへと帰ってくると、すぐに最執長室へと誘導された。エドウはそこで改めて、イシエの状態やスギヤマのサプレッサー全滅のことを聞いた。しかしエドウは、スギヤマを筆頭としたサプレッサーの面々への驚くべき無関心を保っていた。それは、この町で保安局員として生きる以上、仲間の殉職程度でうろたえてはいけないという、そんな強い思いが働いているのやもしれなかった。

シャチューヌはエドウとパルの目の前でそれらのことを、体を踊らせながら嬉々として語っていた。

 

彼はちらとパルの方を見た。エドウのそんな無礼な姿にも上機嫌のシャチューヌはまったく気づかない。

彼女はシャチューヌの話を笑顔で聞いていた。それは明らかな退屈の意思表示であった。エドウはそんな彼女を美しいと感じた。

彼女は決して受け皿と成り果ててはならぬ。シャチューヌの言葉を、保安局の体制を、ロロノアダヴィという存在を受け入れてはならぬ。そのためにエドウはパルに銃を渡した。彼女の青才なる高潔さを守るために銃は必ず力を貸すであろう、そう確信していたのである。彼女はその力をもって、ジョウザンシステムを制し、ロロノアダヴィを殺害した。それは、何者にも侵されぬ絶対の彼女であり、エドウが憧憬することのできる存在であった。エドウは不意に、パルの腰の後ろで組まれた両手の中には拳銃が仕込まれているのではないか、そう考えた。シャチューヌのあの猥雑な物言いしかできぬ口腔に目掛けて、弾丸を放つのではないか。その弾丸はシャチューヌの潜水服のヘルメットグラスを貫通して、その肉体を内側から破壊するのである。だが当然ながら、微笑むパルの両手には拳銃など隠されているはずもなかった。

自分は未だ、パルとのジョウザンの余韻から抜け出せていないのかもしれない、エドウはそうは考えた。




         *         *         *




ヒノマルの輸出を完全な軌道に乗せるために、原住民を支配下に置く必要があった。言うなれば、植民奴隷である。


まず、長い船旅の末に難破船同然の状態でここまで辿り着いたニュー・ビル・サマーは兎にも角にも、この地で衣食住ができるために身を立てることの方が重要であった。それは、幸運なことに原住民のその高すぎた知性によって彼らが興味・関心の対象と成り得たことで、当初の衝突を除けば驚くほど円滑に解消された。彼らは原住民の生活の中に入り込んだのである。

 その中で、彼らは一すじの光を見た。それこそが秘薬“ヒノマル”であった。


 彼らは、自分達の土地での麻薬抗争に敗れ、なかば逃げるようにしてこの土地に来たのであった。そんな彼らの逃避行を支えたものこそ、彼方の地にあると言われる伝説の薬物であった。彼らは外へと麻薬を求めたのである。それは当時にしてみれば、御伽噺を信じるうつけのようであったかもしれぬが、結果から言えば、先見の明であったと言えるだろう。

 彼らは原住民と交流してゆくことで、徐々に信用を得て行き、その生活基盤を磐石なものにしていった。その中で彼らは、自分達の文化・科学技術を原住民に教えていった。ニュー・ビル・サマーはこの地に一大麻薬プランテーションを築こうと考えた。ヒノマルの依存性とそれから発生する需要は極めて高く想定でき、ここには莫大な資本が動くそう睨んだのであった。


 この土地で生きていた原住民は簡単な精錬技術なら持ち得ていたが、彼らにとっては小童の遊戯程度であった。だが、原住民の学習能力には、目を見張らせるものがあった。原住民は彼らの技術を体得してゆき、十年も経たぬ内に彼らが乗っていた船とまったく同様の物を作り上げてしまったのである。それがヒノマルによる作用であったかどうかは今となっては知る由もない。

彼らは早速、ヒノマルの輸出の事業に取り掛かった。ヒノマルは飛ぶように売れ、需要は瞬く間に広がった。

 需要が高くなれば、麻薬仲介売買者も次々と海を渡り、ヒノマルを求めてきた。そこで凡庸な集団であったならば、そんな彼らを受け入れることはなかったかもしれないが、ニュー・ビル・サマーは違っていた。彼らは渡航してきた仲介売買者を原住民に紹介し、仲をとりなしたのである。これは、もし輸出競争が始まれば自分達の敵が増えることを意味したが、それでもなお、ニュー・ビル・サマーが彼らを受け入れるのには理由があった。それは、ヒノマルの供給に限度があったからである。

 ヒノマルの生成すること事態が頻繁に行われるものではない、祭事的な意味合いを強く帯びていたのである。原住民には商業という概念がなく、輸出のための生成というものに原住民が難色を示したのである。この件を境に原住民はニュー・ビル・サマーに不信感を募らせ、両者の関係は不良となった。ならば、ニュー・ビル・サマーは強攻策に出ざるを得なかった。この土地に麻薬仲介業者やそれを取り扱うギャング団を入れていくことで、実質的な植民地支配をしようとしたのである。さすれば強制的にでもヒノマルの生成は可能であろう。

 しかし、それを原住民の上層組織が気づかぬはずがなかった。原住民はニュー・ビル・サマーを筆頭とした移民を警戒し、徐々に距離を置くようになった。この頃になれば、渡航してきた移民が貨物船にのせた資材で土地の開発を進めていった。その資材を搬入した船こそがクローヴィム号であった。



         *         *         *


 今、エドオルム内はダヴィとの一戦による一部の破損修繕により、通常の局員の導線は少しばかり変わっていた。

ダヴィ脱走事件の翌日となれど、やはりあの緊張感をエドオルムはまだ引きずっている。エドウは特捜部のハバキ研究室へと向かう。そこには、ダヴィが捕縛された際に着込んでいた衣服か持ち込まれていた。その衣服からダヴィが潜伏していた場所が特定できるかもしれぬ。それは、ダヴィがなぜ保安局の捜査網にかからなかったのか、もしかしたらダヴィのその異常な性質から、逃走を援助していたかもじれぬ組織への足掛かりとなるやもしれなかった。

そのためにエドウは個人的な関わりのある研究室主任のハバキに鑑定を依頼していたのであった。エドウとハバキとは、保安局勤務前からの旧知の仲であった。

エドウは向かいから来る、忙しく資材を運ぶ作業服姿の男を見るた。それは、破損部分の修繕のために必要な人物ではあるのだが、エドオルム内では明らかな異物であった。これこそが真のエドオルムだ、エドウはそう思った。その複雑に入り組んだ廊下を血球よろしく局員達が慌ただしく走り回る。ある球はいそいそと捜査に出かけ、ある球は気だるい足つきで自身の部署へと戻り、ある球はいらだちをもって執務部へと勇んで行く。この慌ただしさは今までのエドオルムでは考えられなかった。これらの現象はエドオルムの破損によってその生々しい傷口からエドウの眼前へと溢れ出てきたものであった。


エドウは特捜部化学科のハバキ班研究室の前に立っていた。

エドウは二回ほどノックをすると、返事を待たずにドアノブを回した。鍵は閉まっていなかった。ハバキは基本、人間に興味を示さない。そのため、声を掛けたところで返事など貰えるはずもなく、自分からずかずかと中に入って行くしかない。

室内は、人が辛うじて通ることのできる軌道を残して、あとはすべて実験器具を乗せたラックで埋め尽くされていた。それは本来この場所は人が来るべきではない、そう啓示しているかのようであった。エドウはラックの間をくぐり抜け、研究室の奥へと向かった。そこには汚らしく色落ちした青いつなぎを着たふけだらけの髪の男、ハバキがいた。

“ハバキ、この前の衣服は調べたか?”

 ハバキは作業を止めて、メガネをかけたひげ面をエドウに向けた。

“ああ、ナウカか。服は調べたよ。それよりも見てくれよ。この設計図どうりに作れば、もしかしたらレーザー光線銃ができるかもしれないんだ。レーザーガンだよ!レーザーガン!”

 ハバキはそのハエのよう目玉を輝かせながら言った。彼はエドウの方へ顔を向けてはいるものの、まったく目線が合わない。おそらく彼は、エドウという呼称によってエドウ自身を認識しているに過ぎず、実体としてのエドウには興味も持てないのであろう。

 ハバキから設計図を渡されたエドウはそんなものにはほとほと興味がなかったので、

“これは人間が使えるものか?”

 そう問いた。

“そうだねぇ…、普通の人間には危険かもしれないけど、でもきっと彼らにだったら使えるはずだよ。だって彼らはポノウェの最高傑作だもん。”

 ハバキは嬉々として叫んだ。かれは“劇薬アシュラ”の信奉者であった。


 エドウは積み重なった書類を置いた机の上に腰を下ろした。窓からの微かな太陽光を顔に浴びた。この研究室があまりの陰湿であったので外の光が恋しくなったのである。

 それから二人は身動き一つとるのも憚れる研究室の中でつまらぬ回想を巡らした。ハバキにはエドウと会うことが、それの同義となっているらしく、その時間を好感を持って受け入れているようであった。エドウにはその時間は苦痛以外の何でもなかったが、ハバキの機嫌をとるためならば仕方ないと諦めていた。

“ところでハバキ。ダヴィの衣服の件はどうなった?”

 エドウが今までの雑談の語韻(ごいん)を破るように言葉を発っした。ハバキは少しばかり不服そうにしながらも、渋々と机の上の資料の中から一枚の紙を取り出した。

“衣服にはアシュラがしっかりと付着していたよ。全身にそれを塗りこんだかのように。付いている量だけで、ゆうに百人はアシュラ患者にできるよ。もしかしたらダヴィはアシュラの上で寝転んでいたのかもしれないよ。だって、繊維の中まで気化したアシュラでびっしりだからね。それぐらいの付き方をしてる。きっとダヴィの潜伏場所には大量のアシュラがあると思うよ。”

 ハバキが信奉していたのはアシュラのその特性、理念ともいうべきものであって、実物には興味がないようである。

“なんだそりゃ。ダヴィはアシュラの風呂にでも入ったっていうのか?そんな量のアシュラがこの町にあるのか?”

 エドウは冗談交じりで聞き返した。

“衣服からはアシュラと一緒に重油の固着物も見つかったよ。これは船の重油だね。きっとダヴィは船にでも潜伏していたんだろう。船の中だ。アシュラはきっと船の中にあるよ。”

 ハバキは天井を仰ぎながら断言した。エドウは皮下に迸る鋭い電流を感じていた。アシュラ患者のあの異形の中を駆け巡る元凶に初めて手をう触れんとしたのである。

アシュラの元凶でもある科学宗教(かがくしゅうきょう)ポノウェが滅んだ今でもアシュラは出回っている。それは、アシュラがいまだに何者かの手によって生成され続けているか、もしくはどこかに大量に貯蔵されているかのどちらかであろう。もちろん保安局も血眼になって探しはしたが見つけ出すことはできなかった。今となってはアシュラその物の捜索に関しては、諦観で包まれていた。

エドウはとうとう、この町に蔓延(はびこ)る災厄であるアシュラに近づく導を得たのである。そこからは使命感というよりも、純粋な興味に近しいものが湧いてきた。

“この町の郊外には、ヒノマルの輸出で使った廃港があちこちにある。そこからダヴィがサリヴァンに入ってきたのかもしれない。”

 エドウのはしゃぎ様に、ハバキは興味を示すことはなかった。彼はもう、この話題を語るに飽きたのであろう、一人PCの画面へと没入していた。エドウはただ一人、好奇心に駆られた様子で最後に一言問いかけた。

“そういえば、ダヴィから採取したアシュラはどうなったんだ。”

 エドウ自身、現物のアシュラというものを今まで見たことがなかった。これは完全な軽口であったが、ハバキがかったるそうに言った。

“採れたアシュラは、最執部が秘匿資料だからといって全部持っていったよ。”

 エドウはそれを聞き流すと、研究室を後にした。これは完全な失態であった。


 エドウが去った後、ハバキは一人自慰に耽るように黙々と研究に没頭した。それはこの研究室に満ちている惨々たる自尊そのものであった。エドウも最執部の名が挙がった際に何らかの疑念を巡らすことができなかったのは、彼も一種のオーガズムにあったからかもしれない。エドウは常に懐に拳銃と爆弾とジョウザンシステムを忍ばせていたのである。

 エドウはアシュラを積んでいるかもしれぬ船舶の調査のために局内な配備されたヘリコプターを使用することとした。それは、船舶がアシュラを積んでいるならば、一箇所に留まるようなことはないであろうと、エドウが考えた末の判断であった。そのためには保安部総務課を通して、海上警備隊と交渉をしなければならない。普通ならば一介の局員では相手にもされないであろうが、トッケイというラベルは役立った。

 結果的に、海警隊に配備されたヘリコプター全てを捜索に借り出すことに成功した。操作開始はトッケイの権力を使ったとしても、物理的な限界で三日後となった。エドウはこれからエドオルム中を駆け巡り、迅速に準備に取り掛らねばならなかった。

もし、今個の瞬間にアシュラ患者が現われでもしたら、エドウはどちらを優先するか、自分でもわからなかった。もちろん、市民の安全第一を考えれば迷うことなくアシュラ患者のもとへ向かうべきである。しかし、今のエドウにとってそれは一種の欺瞞でしかなかった。それは、サリヴァンに蔓延るアシュラの根絶せぬ限り、市民が真にアシュラ患者の脅威から解放されることはないからである。なれば、今叩くべきはアシュラ患者よりもアシュラなのではないだろうか。

 エドウは青才な若者に見られるような夢想の耽溺の中にいたのである。




         *         *         *



“へぇ。オンボロ船にアシュラがあるの?”

 シャチューヌは素っ頓狂な声を上げて、エドウの話に耳を傾けた。エドウは捜索には一台でも多くのヘリコプターが欲しいと考え、最執部の所有するものの貸し出し承諾させるために交渉しているのであった。だが、本当にアシュラを積んだ船が海原にぽつねんとあるかどうかはエドウの推測の域をでることもなく、そのための直訴でもあった。そもそも、なぜ最執部がヘリコプターを所有しているのかも、要人の送迎のためといえども、あきらかな過剰投資であった。今ここで使わずして何のためのヘリコプターか、エドウは口に出さずともそう考えていた。

“でも、本当にあるのぉ?”

 シャチューヌは疑いの念を拭うことはなかった。

“確かに船によってアシュラが今まで保安局の捜査網から逃れてきたという証拠はダヴィに付着していた船の重油だけですが、現段階でアシュラの製造、流通ルートの大元に辿り着けぬ以上、わずかな可能性であってもそれに懸ける意味は十分あると思いますが。”

 エドウはいつになく熱に中てられたように力強く語った。それは純粋にアシュラへの興味から来ていた。だが、この件をシャチューヌに伝えることに関して、エドウは幾分かの不安も感じていた。保安局はアシュラ及びポノウェに関する資料を隠蔽する体制がすでに出来上がっている。なれば、このアシュラを積んだ船というものも、保安局の権限によって捜査が出来ぬやもしれぬ。逆に、予想以上の軽触で、保安局が捜査を認めたならば、そこにはアシュラがない、もしくはすでに回収した後かもしれない。それらの全てが浮き彫りになるのは、目の前にいるシャチューヌの一言によってである。

“いいよ。使っても。ヘリコプター。事が事だから、早めに動いておいた方がいいよね。じゃあ、これからL街区のヘリポート行ってもらって、直接話をした方がいいでしょう?僕から言伝しておくから。今からすぐ行ける?”

 エドウは複雑な心境であった。だが、ここで拒否をする理由もなかった。


エドウが最執長室から足早に出て行った後、

“いやぁ。エドウ君もなかなか立派に動くなぁ。役回りというものが分かってきたのかな。”

 呟かれたシャチューヌの言葉はなんとも機械じみた不敵なものであった。




         *         *         *



 パルは全身の血流の具合を調べるため、台の上に寝かされた後、機械に覆われ、淡いアレンジ色の光を地肌に浴びていた。彼女は動かぬ自分に対し、無性に腹を立てていた。自分の裸身を舐め回すように浴びせられる光のことさえ気にもならぬほどである。

 彼女はこの検査そのものを、まったくもって無価値なものだと感じていたのである。それは、ただ単に彼女が医学的な精査に信頼を寄せていないというわけではなく、今の自分を誰よりもわかっているのは自身であり、今さら機械で検査することは無意味であると思っていたからである。

しかしこれは、パルの体調の管理以上のジョウザンシステムの貴重な検証データを得るためのものであり、彼女の介入の余地など無い。だが、今の彼女にはその数義的なデータすらも知りえている自身の一つとしてしまっていた。データを取りたければ、機械などを介さずに、直接自分に聞けばいい、その方がより正確に、流暢に語ってみせる、パルはそんな陶酔の中に溺れていた。

彼女は検査機の中で裸身を左右に捩った。手足はバンドで固定されているため、意欲的に動かそうとはしなかった。それは、彼女の陶酔から生まれる意思というものが、手足を不自由にするバンドを破ることのできぬほどに貧弱であることの証明であった。彼女の強情は所詮、外に出せるほどの強さでもなかったのである。

彼女は何の躊躇いもなくダヴィの殺すことのできた、シュナイターパルの力に言いようもない恍惚感を覚えていた。ジョウザンした自分であったならば、こんなバンドなど今すぐに引き千切り、機械もろとも吹き飛ばすことができるであろう。しかしそれは、ジョウザンシステムによって呼び起こされた彼女の化学反応的な使命感によっており、自身の意思とは言い難い。だからこそ彼女は、自分の意思を超えた身体の疾駆に、何かとてつもない過信をよせてしまうのかもしれない。自分の愚かな意思を超えた先に、在り得べき真の自分を見ようとしているのである。

 パルの体を淡く照らしていた光が消えて、機械がゆっくりと白色灯の明かりを取り込んでゆく。それは先ほどまでの光とは異なり、肉体を裂くようにパルの仲に入って来た。彼女はその激しい差のあまり、一瞬眩暈をおこした。

しかし、そんな彼女を研究員は気にも留めず、せかせかと台から下ろした。パルの足取はよろよろとみすぼらしいもので、緑の背筋に沿う髪はモップのように揺れた。とにかく、この煩わしい光の当たらない場所に行きたい、そう思った。この時の彼女は万人が見ても非力な少女以外の何者でもなかった。今の彼女には自身の容姿を客観的に考える余力さえ残っていなかった。

辺りには研究員が数人いたが誰も、パルに声を掛けたり、その体に触れようとはしなかった。皆不感応なのであろう。

 鋭い光に耐え切れず、パルが倒れてしまうかというその時、彼女の体を優しく支える人物が現れた。それはエドウであった。彼は裸同然の彼女に自分のロングコートをかけると、そのまま更衣室まで誘導した。なぜエドウが特捜部のこの研究室に来たのかはパルには解かりかねた。だが、それは彼女にとって非常に喜ばしいことであった。パルはエドウの腕から肉香と汗の臭いがした。

 彼とジョウザンシステムがあれば、自分を脅かすものは何も無い、彼女は自分にそう言い聞かせた。



         *         *         *


 エドウはパルの斜め後ろを慎重に追って歩いた。そんな彼女の姿は研究室での弱々しさを微塵も感じさせることはなかった。それは、この加虐性とまったく同質の徒な不感症こそが、パルの最善の性であるとエドウが考えていたからである。

 これはエドウ個人の見解であって、パル自身がどのように考えていたかはエドウにも推し測ることしかできない。しかし、今のエドウはこの推量の意識が怖ろしく減退していた。それは減退というよりも、その意識が視界に入らなくなったと言った方が正確であるかもしれない。

エドウ自身がそれを自覚しているかどうかは、もはやわかる術などない。なぜなら、エドウは一種の幻覚症状の中にいたからである。それは血の酩酊にも近しい状態であった。エドウもパルも、アシュラ患者に対抗できるジョウザンシステムに飲み込まれてしまったのである。毒をもって毒を制すという使い古された常套句とはまさにこのことか、アシュラを制することのできるジョウザンシステムもまた劇薬に他ならないのである。

だがそれは、パルにとって良い方向であるとは限らない。

“体の具合はどうだ?”

 エドウは今できうる限りの想像力と親しみの中からこの言葉を捻り出した。何の思考の走りも感じさせぬ空白の後、

“あたしは医者じゃないから、さっきの診断結果なんてわからないけど、こうやってあんたと会話ができるぐらいの健康状態っていうことじゃない。”

あからさまな挑発の籠もった言葉を吐いた。それは、彼女にとっては非常極まりない加虐的な行動であると言わんばかりの声の張りを持っていた。だが、エドウにはそれが愛おしくて堪らなかった。

エドウは、彼女のそれなりに達観しながらも愚かしい行いを頑として遂行してゆく虚弱性、もっと言えばそんな自分を作り上げているパルという人間の諦観を、自身の寓意としてとらえていたのであった。それはエドウの中に存在していた何かしらの脅威に対し、パルという外界の事象をエドウ自身の内に寓意的な形に置き換え挿入することにより、脅威への防衛を図っているのである。そのように考えれば、エドウのパルに対する干渉というものは少なからず、個の外側で起きた自己憐憫への対応というものに限りなく近くなる。この見方は少なからず、エドウ自身の心象が影響していた。この怖ろしいほどにくだらない投影は、対象と自分との一方的な類似項を見つけることができなければ成立し得ない。

“さっきから何ジロジロ見てんのよ。さてはあんた、また欲情したのね。さっきわたしの裸見たから欲情したのね。死ねばいいのに。”

 エドウの思案の目は粘着質であったようだ。エドウは彼女の声を受けて、堰を切ったように喋り出した。

“パル、トッケイは近いうちにアシュラの摘発をすると思う。これからかなり忙しくなると思う。一緒にがんばろう。”

 エドウはパルに微笑みかけた。これは今までも彼の皮肉めいた笑いとは少し違っていた。なんせ、彼女からかえってくる返事など当に予想ができていたからである。

“あっそ。”



         *         *         *



サリヴァンの廃港から南東に約四八六〇海里の海上にクローヴィム号は回航していた。

 その白塗りの外装には度重なる補修と改装によって、隠しきれることのないサビ共が、皮下をうねる蛆となって現れていた。もはや、人を載せるための船としての尊厳は失われていた。それは、無尽蔵に変貌を遂げんとするクローヴィム号の無機的で冷淡な衝動が、いつしか人智を超え始めたからである。人々はそれを、屠られるべき過去の遺物として見た。人に乗られぬ船など、鉄屑同然である。しからば、クローヴィム号はなぜ未だに動き続けるのか。それは至極当然のこと、船に乗る乗客がまだいるからである。

しかし、今のクローヴィム号は人間を乗せることはない。人間から忌避される以上に、クーヴィム自体がそれを拒んだのである。すなわち、クローヴィムが認めた乗客とは人間ではない。人有らざる者、すなわち、アシュラ患者であった。しかし、アシュラ患者がクローヴィムの運行をしている姿は容易には想像できぬかもしれない。

これは、クローヴィム号の処女航海が秘薬ヒノマル闘争のための武器運搬のために用いられたことを考えれば、それほど驚くべきものでもない。ヒノマルを積載し、渡航を繰り返すたびに補修をしていったクローヴィム号こそが一番最初で最大級のアシュラ患者なのである。

 

遠くで微かだが耳障りな音が聞こえた。それは海警隊のヘリコプターの音であった。クローヴィム号が目視されたのはこれが初めてではないか、そう思わせるほどに海警隊の中には誰一人、この船を知る者はいなかった。


“ブォォォン”


そのヘリコプターのモーター音をクローヴィム号はさらに大きなエンジン音で掻き消した。船体をゆっくりと旋回させる。そこには、クローヴィムが姿態を人下に晒した時に作動するように、あらかじめ船装の蛆虫にプログラミングされていたのである。

クローヴィムの操舵を動かしたのもおそらく蛆であろう。最厄はゆっくりとサリヴァンへと近づいていった。

“こちら六番機からエドオルムへ。不明船を発見。大型の貨客船です。”



         *         *         *


入崎はエドオルム79階、スギヤマ率いるサプレッサーが謎の男と交戦した迎賓室へと向かおうと、自身のデスクから腰を上げた。そのデスクには何も置かれておらず、整理が行き届いているというよりも、ただの何にも関心が無いというだけであった。それは気味の悪さすらかんじさせた。その階は選らばれた数人の高職執務官しか入ることを許されておらず、彼女がその一人であった。

彼女の歩き方はどこか高潔さと勇ましさを感じさせるところがあった。それはサリヴァンを守る保安局員ならば誰しもそう在るべきかもしられないが、このエドオルム内に入ると、組織の軋轢によって皆どこか僻みを感じさせるような歩きをする局員がほとんどであった。それに比べて、入崎は保安局員の鑑のような存在であり、それを突き通す様は、局員達の癪に障った。それでも彼女がそんな姿勢を保つことができたのは、周りの局員達のその僻みに対し、並々ならぬ敵対心を持っていたからである。しかし、彼女のこの善行な敵意というものは、僻む局員達への徹底的な侮蔑という形でしか表れなかった。しかしそれは、彼女の人間的な薄弱さの証明と捉えるには少しばかり早計であった。彼女は敵意から生まれた熱量をまったく別の何かに転化しているらしく、侮蔑は一種のカムフラージュとも言えるのかもしれない。

“やぁ、入崎。これからカーヴィンの所に行くのかい?”

 丁度、高職執務課のオフィス入り口の所に佇む一人の少年がいた。それは、スギヤマ達がであった少年、ナギレッタスィナリーであった。入崎はナギレッタの言葉に答えた。

“そうよ。それにしても、あなたがこんな所に顔を出すなんて珍しいじゃない。あの部屋以外は空気が悪いといって降りて来ることなどなかったのに。”

 ナギレッタは天使のように頬を赤らめながら口元を弛めた。

“これからきっと戦争が始まるんだよ。だからジッとしていられなかったんだ。そうなれば、ここにいる蛆共は全部、肉骨粉だ。その前の状況をぜひとも覚えておこうと思ってね。それに、あそこは家畜の血で穢れたから当分はいられないよ。”

 ナギレッタは平然として言った。





 

        *         *         *


 サリヴァンの郊外僻地は、保安局にも見放された荒廃地である。そこにはサリヴァンが成立する前、ニュー・ビル・サマーが跋扈していた時代にヒノマルの収益によって無造作に建てられた厭らしい建物があった。それらは装飾の一種として不定者共の骸を室内に溜め込んでいた。歴史を経た物象というものは自らの意思とでも呼べるものによって招き入れる人間を選んでいるのかもしれない。そのような意では、この場所もクローヴィム号も同じであるかもしれない。

 そんなサリヴァンの郊外僻地の一つのボロ家に、市装兵団の用いた戦闘用のパワードスーツを念入りに整備する二人の男がいた。褐色の肌の一人は乱雑に伸ばされたひげと床磨きのように縮れた白髪が浮浪者のそれであったが、その鍛え上げられた筋肉は裸体石膏の持つ艶美さえ漂わせていた。もう一人はカムギであった。カムギとこの男とは市装兵団の同志であった。男の名はウォントン・ジェフという。

“兄貴ぃ。とうとう出撃するんですねぃ。”

 彼の軽快な口調は温暖な気候独特の陽気さが含まれていた。だが、鍛え上げられた肉体はその陽気さに一種の加虐性を与えていた。

“ジェフ、お前にはいろいろと迷惑かけたな。こいつを揃えるのもおまえがいなけりゃできなかったぞ。”

 カムギは物静かにそう言った。ウォントンはサリヴァン市警が解体され市装兵団が分解された時、保安局編入の話を蹴って、郊外僻地で商いを始めた自分の適所というものを理解することのできる人物であった。彼は独自のルートで銃器を仕入れ、それを郊外のならず者達に流していた。それは、彼が未だに市装兵団の中で見ていた、血の夢現から抜け出すことができず、暴力に生きた時分を懐かしんでのことである。だが、ここのならず者達が、それを再現できるほどに知力に富んでいるわけでもなかったため、カムギからの市装兵団の武装の調達を任された時は天にも昇るような心地であった。

 しかし、いうなれば戦争狂であるウォントンがアシュラ患者に対してあまり目を向けないのは、彼が一方的な虐殺しか好まなかったからであろう。彼にとって殺人とは、何にも換え難い娯楽なのであった。そんなウォントンをカムギはあまり快くは思っていなかった。にもかかわらず、カムギがウォントンに武器調達の依頼をしたのは、こと戦闘に関しての彼の仕事は正確で俊敏だからであった。一方のウォントンは、カムギの市装兵団時に見せていた凶暴性を大層かっていた。

“なあ、ジェフ。こりゃなんだ?こんなもん頼んでねえぞ。”

 カムギは地べたに置かれていた携帯型火炎放射器を軽く小突いた。

“俺は前々からずっっっと生きた人間を焼きたいと思ってたんですよぃ。それも逃げ惑う人間を焼いた方がいい。そこらへんのジャンキーを焼いても、頭がイッてるからちっとも楽しくない。それに俺は目覚めたんすよ。自分で焼くよりも他人が焼いてるのを見るのもこれはこれで楽しいってねぃ。自由にマスも掻けるしぃ。”

 ウォントンは上機嫌で語っていた。

“持っていくのはこれだけじゃねえんだ。こんな重いもん持って行けるか。”

カムギはにへらと笑いながら、煙草を一本取り出した。もちろん、火炎放射器のタンクは空であった。



         *         *         *



エドオルム79階、入崎とナギレッタが向かっているこの場所に一人の銀髪の少女がいた。その衣装は少女らしさを微塵も感じさせない、切開手術を受けるためのもののようにも見えた。だが、そこから露出させた白く美しい手先や脚、蕾のような緩やかな丸みを描きながらまとめられた銀髪などは、可愛らしい花を思わせた。彼女こそがナギレッタと入崎の件の人物、カーヴィンなのであった。カーヴィンは広い室内の片隅で近くのティーテーブルも使わず、窓の縁に体を預け、眼下のサリヴァンのビル郡を眺めていた。その姿は、年相応とは思えぬほどに落ち着きがあった。その小さく、小鳥の囀りを聞かせようかという口からは腐敗を誘うような重く沈殿した息を吐いた。それをもし何も知らぬ人が見たならば、そのあまりの残酷な呪詛をかけられた姿に、自らの身を焼くほどの悲哀に襲われるだろう。少女はその美しさや怪奇の如き状態、すべてにおいて呪いというものを体現していた。

79階に到着したエレベーターの中から、入崎とナギレッタが緊張した面持で現われた。彼らはあらかじめ決めた歩調で進んでいるかのように、一切の無駄がない。それはさながら、戯曲の一場面のようにも見えた。カーヴィンの微かな息の音が聞こえる距離まで近づいた二人は彼女と目を合わせぬように声を掛けた。

“そんなに堅くならなくてもよい。それとも、私を殺すための拳銃でも忍ばせているからそんなに堅くなるのかい?”

 入崎とナギレッタは少し困惑したような顔を見せた。それは、少女の言葉の真意など捉えきれないと思えるほどに、少女が奇怪だからであった。入崎はカーヴィンの言葉に答えることなく、用件のみを言った。

“ダヴィの保管場所であったクローヴィム号が、局員に見つかりました。クローヴィム号はただいま進路をサリヴァンに向け、進行しています。”

 彼女はつまらなそうに、

“私にそれを伝えて、何になるというんだい?そうゆう遊びはシャチューヌに任せているんだ。”


 そう言うと、その柔らかい息をガラス窓へとそっと吐いた。澄んだガラスによって冷やされた息は、粒子状の水滴となってガラス上に現われた。カーヴィンはその水滴の中に、破壊を司る原子を見た。その原子はガラスを凄まじい速さで侵食し、脆くしていった。この現象は常人の分解能では捉えることができない、彼女の前でしか起きぬ現象なのである。

カーヴィンはその水滴のついた部分、脆くなったガラスの一部へと指を触れた。するとガラスは、人肌を炙った時の内部と外部が激しく反転するような変化を見せ、小さな穴が開いた。その穴からかまいたちを思わせるような鋭い風が入ってきた。カーヴィンの髪は激しく乱され、ガラスに触れていた指はもぎ取れ何処かに飛んでいった。それでも彼女は慌てることなく両手でその穴をそっと塞いだ。ガラスの穴は塞がり、元通りになっていた。

一部始終を見て、唖然としていたナギレッタと入崎に、カーヴィンは語りかける。

“私が知りたいのは、アシュラのことだけなんだ。いや、もう少し細かく言えば、アシュラが私達に何を見せてくれるか、何処に連れて行ってくれるか、それだけなんだ。私はホロノミの魂を継いでいる。きっと、ヒノマルを超えてみせるさ。”



         *         *         *



“作戦は明日に決行ですか?”

 エドウは驚きのあまり、声が裏返ってしまった。

“そうだよ。だって、アシュラを積んでいるのかもしれない船を、事前に知って置きながら入港させちゃうのはまずいでしょ。だから、エドウ君には船が港に着く前に乗り込んでもらって、止めてもらおうと思ってるんだよね。”

 シャチューヌは平然と言葉を紡いだ。シュチューヌがこんなにも易々と言い放つことができるのはなぜであろうと、エドウが考え込んでしまうほどにその言葉は鮮詳であった。しかし、それもシャチューヌの異常性の一言で片付けることのできるものであった。

 シャチューヌの提案に対し、エドウは思うところが無いわけではなかったが、気に留めることもしなかった。エドウの沈黙には、今までの躁状態の反動によってうつつとも取れるような沈殿した冷静さを含んでいた。それは、シャチューヌの言葉のすべてを鵜呑みにしてしまうような体たらくをエドウに演じさせる結果となった。

“船の潜入作戦は明日の0100から始めるからね。それまでに、エドウ君が必要だと思う人に声を掛けておいてね。爆弾とかの装備も忘れずにね。あっ、もちろんトッケイのみんなにはちゃんと伝えておいたから。”

 自分はなにか下らないコントでもしているのではないかと、エドウは漠然と感じていた。しかし、このコントは役者達がその劇空間に入って行くというよりも、空間そのものが役者を飲み込んでゆくハプニング演劇のようであった。しかし、ハプニング演劇にはない陰惨な痛々しさも相まって、ある種の閉鎖空間で起こり得る集団リンチの様相にも近かった。

 エドウは今回の作戦に必要な人手を、そのような陰な空虚感を引き摺ったエレベーターの中で考えていた。彼の毛細血管の一つ一つにハリガネムシがにゅるにゅると畝っていた。だが、エドウがそれに何かを感ずることはない。それこそが正常である。そんな正常なエドウが一番に思い浮かべた人物は、

“カムギさんだ。カムギさんを連れて行こう。”

 パルやディオではなかった。腕時計を見るとだいたい十三時を示していた。

“後十二時間後か。”

 エドウの血流はとても穏やかなものであったので、その十二時間は何を慌てることも無く気を落ち着けることができるだろう。しかし、なぜ自分達が潜入するのだろうか、船内捜索であるならば海警隊の調査から入るのが当然ではないかと考えた。それは至極明快なこと、海警隊ではアシュラの捜索は役不足なのであった。



         *          *        *



最執部からの正式な連絡を受けたディオとパルは何分急なもので、各自で作戦への準備を始めた。しかし、不明船である以上、中の構造や状況の把握もままならぬ今、彼らが持ち得る装備といえば、自意識の防護のための使い慣れた武器のみであった。パルに至っては銃すら持っていなかった。彼女の武器はエドウとジョウザンシステムであった。

 このシャチューヌの急な命令に対して、ディオとパルは別段怯えることはなかった。なぜなら、常時アシュラ患者との対応に迫られる彼らにとって、この程度のイレギュラーは動じるに値しなかった。パルは転属間もないこともあり、多少の不安はあったかもしれないが、彼女の無軌道な騒ぎはそんなものをいとも簡単に弾き飛ばしてしまった。

 そこへエドウが帰ってきた。彼は沈黙を保ったまま、自身のデスクへ着くとおもむろに何かの準備を始めた。三人は何の会話もなく忙しなく手を動かし続けた。しかし、その沈黙に耐えかねたディオがエドウに問い掛けた。

“エドウ君、なんで僕たちは船に潜入することになったのだろう。ここ二・三日の君はこの件で動いていたんだね。特に僕は過度に不安になることては無いけれど、それでもことが急すぎる。言える限りの範囲でいいから教えてくれないかい?”

 ディオは至極真っ当な質問をした。エドウは準備の仕度を一旦止めると、少しの間の後、語りだした。

“潜入する船はどうやらロロノアダヴィが潜伏場所として使っていたものらしいんだ。ダヴィを捕縛したときに着ていた衣服から推測することができた。もしかしたらそには大量のアシュラがあるかもしれないんだ。かなり厄介な任務だが、これはトッケイにしかできない。こんなに急なのは、その船がどうやらサリヴァンに近づきつつあるからだ。上陸まで二日とないらしい。サリヴァンにアシュラを入れてはならない。叩くなら今しかない。”

 エドウは二人を見ずに、一点だけを睨みながら語った。作戦の意図はディオにもパルにもなんとか飲み込むことができた。それはやはり、トッケイの任務で養った奇異な平衡感覚のおかげであった。

“俺はこれから海警隊の方を覗いてくる。”

 エドウはそう言うと、トッケイのオフィスを足早に出て行った。エドウは明らかに常態といえる振る舞いようではなかった。この妄言の中にとり憑かれたエドウを救い出せたのは、もしかしたらこの二人だけであったかもしれない。しかし、そのような人に向けられるべき善意を彼らは、アシュラ患者への破壊欲へと転化していたため、エドウを思い留まらせようとは思わなかった。それはトッケイの人間を超えた力が非人間的な論理の上に成り立っていることの証明であった。



         *         *         *



作戦までの時間があることを確認したディオはイシエの見舞いへと来ていた。イシエはエドオルムの局立病院に入っていた。その訪問は潜入任務で命落すかもしれぬ前に一目でも会っておきたい、という急な思いつきではなく今日この時間に会いに行こうと前もって決めていたのであった。

 イシエのベッドは一人部屋の窓際から少し離れたところにある。この部屋はイシエの優良な血統のためか、普通の執務官に割り当てられる部屋よりもうんと豪華であった。室内は温みを感じさせる木目調の壁面となっており、病室とは思えぬほどに明るい雰囲気であった。

そのためであろうか、病床に伏せるイシエは無機的なほどに動かぬ姿を、鮮烈に見舞いに来た者達に植え付けた。それは彼女がもう死んでいるのではないかとその者達に思わせるほどであった。イシエは峠は越したようであるが、血を多分に失ったせいか、未だに目を覚まさない。

そこで寝るイシエの頬に風がかかった。それは、窓の隙間から寂しく入り込んできたものかもしれぬし、慌ただしく動く看護師の衣服のずれによって起きものかもしれないが、ディオはイシエを前にそれすらもわかりかねた。ただ、そんな風を嫌がることも無く受け付けているイシエの顔はさらにわかりかねるものであった。それはディオに死の想念を呼び起こさせた。

ディオはイシエの顎を優しく撫でた。

“これは生きた人の触り心地だ、彼女はまだ死んでなんかいない。”

 それは数多の死体と付き合ってきた彼の確かな観察であった。

彼はその弱る体に悔恨の鞭を打って必死に動かそうとした。それは弱々しく愚かしい自分自身への制裁のようでもあった。だが、その制裁は決して彼自身を傷つけないため、通り過ぎる看護師は誰一人としてか彼を諌めようとはしなかった。



         *         *         *



潜入開始の九十分前、エドオルムのヘリポートに集まったのはエドウ、パル、ディオを含め、たった二十人であった。このトッケイを含めた二十人という人数は海警隊の最大の応援を受けた上での人数であった。

そんな海警隊の面々の肉体は非戦闘用の防弾チョッキに強化ヘルメットを身につけていたが、痛んだ果物のような酸えた臭いがした。それは、不明船の監視のために蓄積されたストレスからくるものであったかもしれないが、なによりの要因は唐突に実行に移された突入作戦への不満であるだろう。彼らは海上での様々な事件で活動するため、突発的なアクシデントに対してのストレス耐性はある程度持ってはいたが、自身の活動領域にトッケイや最執部が介入し、強力に先導して行くことへの寛容さを持つことができなかったのである。彼らの異様な体臭とはそのような不満を押さえつけたために、滲み出てしまった一種の意義申し立てであった。

二十人の編隊はヘリコプターに乗り込んだ次々と人が乗り込んでゆく中で機体が軋む音は、死体を載せた滑車台のような音であった。それは、皆違った世界の中で生を謳歌しているたからである。彼らが誰一人として生者ではなかったのである。

 ヘリコプター中に漂う体臭は濃縮され、強烈になった。そんな中でただ一人の女子であったパルは、

“くっさ。”

と、一人呟いた。だが、その言葉を聞いた者は隣のエドウを除いていなかった。生者の声に死体が耳を傾けることができないことと同じである。

だが、エドウは確かに熱帯に煌く極彩色の蝶の羽音のような彼女の声を聞いていた。ここまさに熱帯の密林であった。ヘリコプターの床や機材の隙間に詰まった土埃は、湿潤で肥沃な腐葉土であり、乗員の服の擦れる音は、広葉樹の葉鳴りとなった。その騒々しい密林の中を悠然と翔け回る蝶に心奪われぬ人が何処にいようか。

“なによっ。なんであたしを見てるのよ。キモチ悪い。”

 エドウはそれが初めて聞いたパルの本心の声音であるように感じた。もちろん、トッケイに配属されてから、エドウはパルといくらか会話したが、それがすべて偽りだったと思えるほどにダヴィ襲撃後の彼女の言動は大きく変わっていた。それはエドウの個人的な見解であったが、実兄であったダヴィを殺したことでパルに著しい変動が起きたとしてもおかしくはないであろう。

“少し緊張しているかもしれないが落ち着いていこう。なに、船上でアシュラ患者と戦うだけだ。いつもと場所が変わるだけでね。ダヴィの時のようにやればきっと上手くいくさ。”

 このエドウの発言はパルに対しても非常に無礼であるばかりか、船内にアシュラ患者が存在しているという断定されていない誤った情報を海警隊に固着させかねない失言であった。だが、トッケイが出てきた時点で彼らもある程度の覚悟は持っていたかもしれない。

“気張らないでよ。ウザイ。”

 この会話は生まれ変わったパルと、エドウとの間で初めて交わされたやり取りであった。エドウのパルを見る面持は、少女を愛でる皮膚の緩んだ老紳士のようであった。



         *         *         *



最執長室に珍しい客人が招かれていた。

“ポレ。やはり君の趣味は変わっているね。支柱も、壁面の彫り物も、空間による境界の作り方も、古今東西の優れた技術が君の感性の上でかなりおかしなことになっているよ。まぁ、それが君の良さと云えるのかもしれない。”

 その珍客はいつぞやの銀髪の少女、カーヴィンであった。

“そんなことを言わないでくれよ、アゴス。照れるじゃないかぁ。”

 潜水服をガチャガチャと擦り合わせながらシャチューヌは笑った。彼らは互いをポレとアゴスという名で呼び合うほどに親しい関係のようであった。他愛もない会話を交わしながらも、カーヴィンがシャチューヌに問うた。

“ここに私を連れてきたということは、君もクローヴィム号に行くんだね。存分に楽しんでおいで。強烈な時の流れに身を任すことはとても気持ちいいものだよ。解放を恐れないこと。それが私からのアドバイスだ。”

 シャチューヌは感極まった様子で言った、

“ありがとう、アゴス。僕は君のような心の熱い友とめぐり会うことができて、本当にうれしいよぉぉ。”

 シャチューヌはそう言うと、その重たい潜水服を地底から這い上がりでもするかのように脱ぎ始めた。潜水服をすべて脱ぎ終えると、そこには金髪の、十二・三ほどの裸の少女がいた。それがシャチューヌのもう一つの姿であった。その髪は黄金の水面を思わせるような美しいうねりを持っており、肢体は星屑の砂で作られたように清く輝きながらもいつかは儚く崩れてしまいそうな不安定な曲線美を内包していた。思い潜水服を着込んでいたためか、少女シャチューヌが背伸びをするように腕を上げると、腋下から乳首にかけての生々しい凹凸はその幼さからは考えられぬほどの色気を漂わせた。

 カーヴィンの視線を意識してか、少女シャチューヌは顔を赤らめ流暢に語った。

“僕の体は余すことなくアゴスに見られてしまった。視姦されてしまったんだにゃぁ。”

 そう言うと、それはカーヴィンの胸の中に埋まった。それは二人の間の通例であった。カーヴィンはにこやかに笑いながら、

“やはり私は君の感性が好きだよ。少女を性的に見る力眼だけは君に適う者はいない。その調子でクローヴィムでも君らしく暴れればいいんだ。ところで、君は今、特別な事情を持っていやしないか?なかったらいつも通りに振舞っておくよ?”

 カーヴィンは胸中のシャチューヌに尋ねた。

“いんやぁ。特には何もないから、アゴスの好きなように僕の代わりをやっていいよ。”

 シャチューヌは悪戯でも仕掛ける妖精のように無邪気に体を擦り付けた。カーヴィンはシャチューヌを抱きしめると軽く接吻をした。

“これはこの体だからできることだね。いいよ。すごくいい。”

 カーヴィンは惚けた顔をしていた。



         *         *         *



クローヴィム号の狭い通路を徘徊していたのは服も着ず、腐乱臭を漂わせているロロノアダヴィであった。シュナイターパルによってダヴィは殺されてはいたが、そこにいたのは紛れもないロロノアダヴィその人であった。それは、ポノウェの史上初のアシュラ患者を戦力として利用するために、複製装置によって作られたクローン人間であった。

なぜダヴィを複製する必要があったかといえば、ポノウェがダヴィにアシュラを服用させたのには理由があり、彼がアシュラによる変化を最も効率的且つ自精神を崩壊させることなく受け入れることができたからであった。しかし、複製されたダヴィがオリジナル、すなわちシュナイターパルに殺されたダヴィとまったく同質の力を持ち得ていたかといえば、それは疑わざるをえない。

アシュラに対しての反応とは、服用者の性格とでもいえばよいか、そういったものの影響を過分に受けるようであり、そういった点から見ても、オリジナルのダヴィと一寸の狂いもない同じ人生を歩ませぬ限り、オリジナルの力を再現することはできない。この経験を元にダヴィのクローン計画は立ち消えたはずであった。

船上の旅客スペースにはかつて、カジノとしての機能を備えていた広いホールがあった。そこは、ヒノマルの運搬の役目を終えたクローヴィム号を改修し、貨客船としての運用を求めた結果生まれたものであろう。そこには今、何百体というクローンダヴィが横たわっていた。それは人間を引き寄せるカジノの光景であったとしても、嫌悪を催すものであった。彼らは傍から見れば死体同然であろうが、そもそもアシュラ患者には死というものがない。運動神経を焼き切り、断絶させぬ限り永久に動き続けるのである。ホールに横たわる死体には傷一つなく、ただただ目醒めの時まで平静を保っているのであろうか。


そんな中ただ一人、覚醒し船内の通路を徘徊しているクローンダヴィは何の意図も無くただただ歩いているだけのようにも見えた。時として立ち止まると、船内ゆえに見えもしない空彼方へと視線を向けて、口を魚のようにパクパクと動かすのみである。それはオリジナルのダヴィが見せた行為と同じであった。だが、クローンダヴィのそれは、とても機械的ななんとも淡白なものであった。

エドウ達を乗せたヘリコプターはクローヴィム号を目視で確認できるまでの距離に近づいていた。船内にも微かだがヘリコプターのプロペラ音の振動は聞き取ることのできる強さで伝わっていた。しかし、ホールに横たわる死体はそれに対して何の反応も見せず、徘徊者は自らがダヴィである証を求めるかのように船内を歩いているだけであった。



 

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