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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
6/62

一章⑥

     6


 昨日未明、ロロノアダヴィは高級管理区画で待機していたサプレッサーを殺害し、脱走した。

エドウはダヴィが現われてから脱走までの数日間が一つの絵巻物のように思えてならなかった。それは、今までのダヴィやトッケイを含めた保安局員の行動は、あまりの演劇的な予定調和の上に成り立っているように感じるからである。エドウはこの自身の心情とコミットしたかのように都合よく起きた事件に好機を覚えるよりもいぶかしみを覚えた。だが、なんであろうとも我々はアシュラ患者を処理しなければならない。エドウは自身にそう言い聞かせる局員でごった返したエドオルムの入り口へと入っていった。

 

メインエントランスに足を踏み入れ前にエドウは入り口のサプレッサーに身分証明の提示を求められた。局内に不要な人間を入れることを避け、被害を最小に、且つ制圧部隊の行動を迅速にするための配慮であろう。エドウは自分の身分証明をサプレッサーに提示した。サプレッサーはそれを見るなり、何の確認も取らずにすんなりと中に入れた。

エドオルムのエントランスには、二十名ほどのサプレッサーと共にイシエやディオもいた。エドウが入ってくるなり全員の視線は彼へと向けられた。どうやら自分を待っていたようだと、エドウは少し辟易とした感情を抱いた。彼は会議の輪の中へと入ってゆく。


“今現在の状況を確認すると、ロロノアダヴィは監獄に待機していたサプレッサーを突破し脱走、高管区のエレベーター前のカメラに姿を見せたのを最後に消息がつかめない。もし、このエドオルムの外へ執務官の立ち会い無く出たとすれば警報が出るはずだが、それがない。ならば、ロロノアダヴィがこのエドオルム内に今だ潜伏しているか、それとも執務官の手を借りて外に出たかのどちらかということになる。後者の場合ならば我々の起こしうる対応は限られるのだが、どうも前者の線もまったくないとは言い切れない。今は、イシエのイシエミサキ執務官の権限で市内全域への保安官の配備とエドオルム内への立ち入りの制限、追跡用のヘリコプターでの市内の捜索も行われている。しかし、相手がアシュラ患者である上、居場所の特定も難しいため、局内の捜索隊の編成に少し手間取っている。そこでトッケイには率先して捜索隊の編隊に入って貰いたい。アシュラ患者に唯一対抗できるジョウザンシステムを持ったトッケイを中心に局内の捜査を行って欲しい。”


 この場で一等指揮能力の高いサプレッサーの分隊長エドウの元上司であるスギヤマケーシスは言った。それに対しエドウ達トッケイの面々はその提案を断る理由が見当たらなかった。

 それを機に隊員達の編隊構成と装備点検は俊活となった。エドウも彼らが用意したであろう突撃銃へと手を伸ばした。

“おい。今のお前にそんなものが使えるのか?”

 一際大きな声でおちょくる様に言ったのは、スギヤマであった。そんな彼の言葉を聞いて隊員達は乾いた笑いをした。しかし、そんな笑いがこの場に長く漂うわけも無く、数瞬のうちに余韻も残さず収まってしまった。小刻みに動く人間の音を掻き分けて、スギヤマは銃の手入れをするエドウの隣へと腰を下ろした。

“なぁ、エドウ。お前もわかっていると思うが、俺も含めてみんな、冷静さを欠いてしまっている。平常を装うだけで手一杯なんだ。多分、みんなはバビロン・シークレエの再来になるんじゃないかと内心、怖くてしょうがないんだ。いくら、今まで戦ってきたアシュラ患者と同じだと言い聞かせても、やはり根っ子からそれを拭い去ることはできないんだ。だから、俺達はトッケイのジョウザンシステムにおかしいくらいに期待をしてしまっている。どうかそのことを考慮してくれ。”

 スギヤマの見解をエドウは理解しかねた。


隊員達の体のキレとその編隊列はエドウが入ってきた時とは見違えるほどに、強さと美しさを増していた。その中に大変不釣合いである、パルの姿をエドウは見つけた。その姿は大変滑稽であったが、誰一人として笑えるほどに余裕のある者はいなかった。

エドウは一人異なった慌て方をしていたパルに近づいた。彼は今にも泣きそうなパルの幼げな肩に手を掛けて、ゆっくりと彼女を人混みの外へと誘導した。そしてパルをエントランスの座椅子に座らせ、語りかけた。

“僕は君にこれを渡しておきたいんだ。”

 エドウはそう言うと懐から拳銃を一丁取り出した。それを見たパルは少し戸惑っているようであった。エドウは膝を着き、パルの手に拳銃をそっと持たせさらに語りかける。


“君はもう一度、ダヴィと、いや、彼と話をしなければならない。だけれど彼は、今はやはり常軌を逸してしまっている。いつ君が襲われてしまうかわからない。この拳銃は、そんな彼と安心して向き合うためのお守りだと思えばいい。こんなにも効力のありそうなお守りはそうそうないだろう?”


 エドウは素面を気取って微笑んで見せながらそう言った。だがこれは明らかな詭弁であった。エドウ自身、拳銃などには殺傷以外の効力などないことを十分理解していた。もっと言ってしまえば、エドウはパルがダヴィの額を撃ち抜くその一瞬の夢想を籠めて、彼女の手を握っていたのである。パルはそんなエドウの詭弁に少しの安堵(あんど)を覚えたようであった。




トッケイを含めたダヴィ捜索編隊はパルとディオのアシュラ患者への共感覚を頼りに始められた。しかし、いい意味での健常者であるサプレッサーの面々にパルやディオの共感覚は容易に理解できるものではなかった。そのため、編隊の中で先行してトッケイが専入することは、彼らをサプレッサーが信用しているのではなくその異業な能力に自分達の恐怖を覆い隠すための隠れ蓑としての効能を求めているにほかならない。ダヴィの前では、そのような余剰な感情の歪みから生じる一瞬の躊躇いが彼らの最大の弱点となるだろう。それはエドウの中に不安の種として残った。



         *         *         *


 イシエとディオはエレベーターで一旦最上84階へと向かい、そこから一階ずつ下に降りながら探索することになっていた。彼らは最上階から一階ずつ下へ下へと探索して行き、気づけば最室長室を含む78階へと足を踏み入れていた。

 彼らは、最執長室へと続く廊下から死角となる所に身を潜め、辺りの様子を窺った。それは、ダヴィが最執長室に立て篭もっていた場合、襲われた際に咄嗟に逃げ込む場所も廊下には無く、格好の標的となってしまうからであった。そのため、イシエとディオは息を殺し自分達以外の生理的反応の残り香がないか、五感を研ぎ澄ませて感じていたのである。その油分で満たされたような重く沈殿した空間には自分達以外の生き物はいない、それがイシエの見解であった。ディオももっぱら同じであった。二人は息を整えると、軽やかにステップを踏むように最執長室へと駆け出した。


 イシエはこのような生死に関わる緊張状態での任務の経験が少ないために、多少の浮き足立つような焦燥感がどことなくその体から滲み出てしまっていた。しかし、そんなイシエを諌めるように、この廊下は彼女が先へとまったく進んでいないように錯覚させた。

イシエはひたすらに自分が辿り着かなければならない一点だけに意識を向けて、足を動かした。それは、彼女が反射的にこの空間に身を溺れさせることは危険であると感じ取っていたからかもしれない。その黒く無機質で長い廊下は、人が一瞬の熱情で駆け抜けることのできる距離ではなかったのである。

進めども進めども、いまだ着かぬ最執長室を前にイシエの頭に雑念が生まれたであろうかというその刹那、その静まり返った空間にイシエとディオ以外の口笛の音が響いた。イシエの背筋は一瞬で凍りついた。しかし、それでも彼らは足を止めなかった。相手がダヴィかもしれぬ以上、一瞬のスキが死を意味する。なれば、走り抜けるしかないと、二人は生か死かの劇的なギャンブルをするように体を動かした。

口笛はこの廊下で存在感を増してゆく。これ以上この空間に危険である上に、その独特の雰囲気ゆえか、判断力も減退していった。イシエとディオの緊張はピークに達していた。視界に最執長室のドアが見えた。この間の時間は、一分弱もなかったかもしれないがやっと目前へとせまった最執長室のドアへと滑り込むように二人は入った。当然ながら、そこにシャチューヌはいなかった。

すぐさま、シャチューヌの大きなデスクの後ろへと隠れるとそのまま息を潜めた。ディオとの距離はだいぶ離れてしまった。口笛は澱みなく聞こえ、その主が確実にここに向かっているのが二人にはわかった。彼らは互いにコンタクトで互いの意思を疎通する。もはや、少しでも体を動かそうものなら、その存在を誇示してしまうほどにその空間は微細な振動を伝える静けさで満たされていた。イシエは自身が恐怖で震えていることにこの時始めて気づいた。その震えは相手に場所を悟られぬために抑えねばならないものであったが、抑えようとすると余計な動作をしてしまい、結果的にそれが自分の居場所を知らせることになってしまう。イシエはどうかこの震えが相手に伝わっていないことを祈りながら、ただ一度の強襲の好機を必死に待ち続けた。



         *         *         *


ディオは身をシャチューヌのデスクの裏に入れ込み、呼吸を整えていた。ダヴィはきっとこちらの存在を認知してい、この部屋に確実に入ってくるだろう。この広い最執長室といえど、デュオウルフでの自由な立ち回りもできるほどの広さでもない。なれば、いかに初撃で相手を怯ませ自分達の有利な環境に持っていけるか、そこにディオは神経を集中させていた。ちらとイシエの顔を覗った。非常に緊張しているのであろう、彼女の目線は何の脈略もなく床の一点へと熱心に向けられていた。それでもイシエは右手にしっかりとジョウザンシステムを握っていた。ディオはそんなイシエに今すぐにでも寄り添い、震える肩を抱き、その緊張を解いてやりたいと思ったが、状況はそれを許さなかった。だが、ディオ自身はそのような思いを持ったことで、心に多少のゆとりができた。彼はそんな心のゆとりを噛みしめながら、自身を戦士としての不感の中へと追い込んでゆく。


ディオの感覚でいう、相手の三回の呼吸の後、最執長室の中からその姿を直視できる位置に相手は辿り着くだろう。気づけば口笛は止んでいた。ディオの鋭敏な耳は相手の微かな呼吸音を聞き逃すことはなかった。

一回。ディオは体全体の力を一旦抜く。


二回。その体に強くしなやかな攻撃意志を通す。


三回。相手の姿が見えた。


ディオはイシエとのジョウザンしようと動き出したと同時に、入り口の方から機関銃の弾が飛んできた。しかし、ディオはそんなものには臆することなくイシエの元へと駆けてゆく。イシエの胸へと飛び込み、そのままジョウザンすると被弾の燃えるような痛みがデュオウルフを襲った。それは、イシエが撃たれたことを意味していた。デュオウルフはデスクの裏で傷口の止血をしながら、相手の出方を見張っていた。しかし、最執長室の前にいるであろう、敵の姿はもうなかった。

デュオウルフは懐から無線機を取り出し大声で怒鳴った。

“78階にてダヴィと思われる人物と交戦。ダヴィは逃走。イシエ執務官が負傷しました。追跡は不可能です。”

 デュオウルフは連絡を終えると自身の太腿から流れる血を止めんと必死の処置を始めた。



         *         *         *


デュオウルフの一報は、上階での激しい銃声と共にエドウとパルの元にも届いていた。エドウとパルがデュオウルフの襲撃された78階に向かおうとしたその時、スギヤマから無線が入った。

“エドウ、お前はそこで待機してくれ。78階にはサプレッサーが向かう。引き続きダヴィの捜索を続けてくれ。”

 ダヴィがどこにいるかわからぬ以上、無闇に動くことは得策ではないとスギヤマは考えたのであろうか。

たしかに人間の身体能力を超えたアシュラ患者の三次元的な動きは我々の想像をはるかに超えることがある。それが、このような入り組んだ構造のエドオルムで発現されたことで、人智の領域では彼らの行動予測は不可能になってしまった。しかならば、そのようなアシュラ患者に対して唯一対抗できうるものが、パルのアシュラ患者に対する感受性であったにかもしれない。

彼らはそんなパルやジョウザンシステムを、ただの武力としか見ていないのである。そんな彼らに、パルの感受性のみで分隊を動かせなどという指示はあまりにも酷であった。エドウ達は一旦エレベーターの前まで移動し、指示があり次第動けるように待機した。


スギヤマ達サプレッサーは至急78階とその上下階へと向かっていた。エレベーターはイシエとディオが最上階に上がってから一度も動いていないようである。

それは、ダヴィが78階でイシエとディオを襲った後、階段で上下階に移動したか、まだその場に潜んでいるかのどちらかであろう。そのためスギヤマは78階に行き来することのできるすべての階段、エレベーターからサプレッサーを進行させた。それで、ダヴィが下階に行く姿を認知できるようにした。もし、その道のりでダヴィに遭遇すれば、それを取り囲むように隊員達がダヴィを追い詰めるか、もし遭遇しなければ、ダヴィの居場所を78階から上の階へと絞り込むことができる。だがスギヤマはダヴィが78階より下に身を潜めている可能性を考えてはいなかった。だが一階やエドオルム周囲にも保安局員はおり、気づかぬ内にエドオルムの外に出るということはないであろう。スギヤマはエドオルムにある八つの階段の内の一つから78階を目指した。


日頃から厳しい鍛錬を自身に課してきたスギヤマにとって、現在の23階から78階までの五十階ほど階段を上ることは何の苦でもなかった。

彼は市装兵団の予備兵役として保安局の原型であるサリヴァン市警に入ったため、多少なり古めかしい考え方を持っていたことは否めない。そんなスギヤマは、アシュラ患者への応対というものを、武力による完全制圧のみとしていた。それは彼が教えを扱い、憧れていた市装兵団の行動原理と酷似していた。しかし、そのような思念ではダヴィには太刀打ちできぬかもしれない。その先はバビロン・シークレエ事件による市装兵団全滅という悲劇の末路である。スギヤマはその事件の際にはあまり深く関与はしていなかったが、自分達がダヴィを倒すことで憧れの市装兵団の雪辱を晴らすという、傲慢な奢りがあったのである。

 スギヤマは部下を引き連れて、78階へと辿り着いた。隊員達の連絡を総括すると、ダヴィは78階から下へは行っていないようである。スギヤマはそこで、このフロアーに集まったサプレッサー全員で階段やエレベーターを封鎖しながら、一階ずつ探索してゆくこととした。最執長室で見つけた負傷したデュオウルフを、数人の部下をつけて1階へと下ろした。

サプレッサーはダヴィが潜んでいるかもしれぬ78階を自分達が訓練を行う場と同じように自由に動くことができた。

それは、スギヤマの奢りが皆に伝染しているのかもしれなかった。彼らはあまりにも順調に迅速に進みすぎていた。それに気づき一歩でも停まることができればもう少し冷静に考えることができたであろう。だがそれでも、スギヤマの猛進は抑えられぬかもしれないが、最悪の事態は回避できたであろう。



         *         *         *


 78階より上の階は最執部の管轄となっているので、どのような設備があり、どのようなことに使われているのかは、一介の保安局員に知らされることではない。

 スギヤマはエドオルム79階、最執部の管轄区域へと足を踏み入れた。最執部には迎賓のための豪奢な施設が設けられているという噂もあったが、ここがまさにそうであった。

普通の階よりも倍以上の高さにアーチ状の天井が設けられており、その所々に嵌められたステンドグラスがふきぬけのためであろうか、太陽光によって美しく輝いている。そんな美しい光を永久に浴びることができるように、床は客人の足を労い、優しく包み込むように全面が赤い絨毯張となっていた。それは、スギヤマ率いるサプレッサーを呆然とさせた。なぜなら、小国の迎賓館とは比較にならぬほどの愚純な品位と莫大な資本の臭いを濛々とこの広い空間に漂わせていたからである。そこは高さ三メートルほどの上半分がガラス張りになった仕切りで大幅の廊下のように区切られていた。どうやらこの場所はもともとホールのようであり、そこを仕切りによって空間を分割しているようであった。

彼らはその廊下をゆっくりと進む。ガラス張りから望む休憩所には、三つのティーテーブルと椅子が置いてあった。サプレッサーは左右両方にある休憩室へと展開していったが、そこには特に何も無かった。

ティーテーブルから望む壁一面のガラス張りに透過するサリヴァンのビル郡はこの場所の雰囲気からすればあまりのも汚らしく猥雑なものであった。ここまで来て、スギヤマは少し違和感を覚えた。果たしてイシエ執務官はここを探索したのであろうか、という雑念である。それには、確たる証拠などない。しかし、あの血を流したジョウザン発動状態の姿と、ここの空気感とは同一の線上で繋ぐことができなかった。サプレッサーが探索していたエドオルムと、この79階とは明らかに違っていた。

これは罠かもしれない、スギヤマがそう感じた時、

“ここにはトッケイの奴らは来てないよ。”

エレベーターと対面する形で、仕切りの廊下の彼方に設けられたドアの向こうから幼い声が聞こえた。今までの探索ではまったくの無音の中を動いていた彼らにとって、それはあまりにも強烈な刺激であった。サプレッサーはドアからの死角へと一斉に身を潜めた。しかし、その時間は一瞬であった。互いに突撃の隊列を確認すると、ドア付近にいた隊員が俊敏に動き、なんの躊躇いもなくドアを開けた。室内の危険の有無を確認すると、死角に潜んでいたサプレッサーが鋭い殺気を発しながら室内に飛び込んだ。この時の彼らが、室内の幼な声の主以外の伏兵の存在まで気づけていたかどうかは不明である。しかし、元々ロロノアダヴィの捜索にも関わらず、このような妖しげな場所に足を踏み入れ、そこでまったく意図しない声を聞いたならば、冷静さというものはどこかに吹き飛んでしまうのかもしれぬ。

 彼らの目の前に現われたのは、一人がけのソファーに腰を据える、十二歳程度の少年であった。


 サプレッサーは一斉に周りを確認した。部屋は先ほどのホールよりも小さく、天井にはステンドグラスもない。部屋の中央にソファーが一つ、そこに座る少年はすっきりとした短い金髪であるが、そのゆらめきはどこか名門貴族を思わせる。

その顔面は異常なまでの理想主義者の手によってその人生のすべてを懸けて作られた彫刻のように白純として美しい。その体を通る血液はおそらくこの世で最も純度が高いと思えるほどである。その血が通る四肢もまた、一切の美的醜点すなわち、ブレがない。この少年の美しさは自然発生的に生まれるものではなく、卓越した美意識理論者によって作り出されたのである。

スギヤマはそんな少年に吐き気がした。少年は彼の感性を逆撫でさせるものいがいの何物でもなかった。


サプレッサーを見下すような態度で頬杖をつきながら足を組むと、少年は語り出した。

“まったく、僕を待たせるなんて。これだから、愚図な人間と付き合うのはいやなんだ。”

 少年の言葉はサプレッサーに向けられた以上の、まるでこのサリヴァンに住むすべての人々に対して放ったような鋭さがあった。

 サプレッサー隊員達は思考が止まってしまった。それは、少年の悪言によってではなく、なぜこの場に少年がいるのかということと、少年に対して銃を向けている自分達の滑稽さと先ほどまでの緊張との、急激な差によってである。そんな中、堰を切ったかのように慌ててスギヤマが声を発した。

“おまえは何処の配属だ。”

 これは只の少年に対して言う台詞ではない、素っ頓狂なものであった。普段の隊員達ならこれもスギヤマの笑い事として反応していたかもしれないが、今はそのようなことができる状況ではなかった。

“あぁ?人の形をしているから、もっとまともなことを言うかと思っていたけど、これはもうダメだね。手遅れ。だから、せめて下の三人の邪魔だけしないでね。だって、兄と妹の感動の再会だもんね。障害ナシの。”

 少年はパルとダヴィのことを言っているらしかった。だが、サプレッサーには何の事だかわからなかった。スギヤマがまた何かを叫ぼうとしたその時、少年は聞かせる気もないなんとない声で言った。

“もういいや。殺そう。カルロ。”

 少年の傍らから身の丈二メートル弱の大男が蜃気楼のように現われた。その男はその身長に比べて見た目に華奢な肉体を持ち、頭には異様なテンガロンハットのようなものを被っていた。

 スギヤマはその男を見て息を呑んだ。その手に機関銃と黒い剣のようなものを持っていたからだ。

男は銃を踊るかのように乱射した。その踊りは助走も付けず唐突に始められたので、踊り手の流動に乗ることができなかったこの空間の空気は入り乱れ、ぶつかり合い、膠着(こうちゃく)した。その空間のため動くことのできないサプレッサーは、全員が塵芥(ちりあくた)となった。男の弾丸は肉を裂き、骨を粉砕したのである。男の凶行はなおも止まらない。もはや姿勢を維持できず倒れ込もうとする隊員目掛けて斬りかかったのである。ある隊員は袈裟に胴体を切断され、またある隊員は鼻筋から真一文字に斬られ、頭蓋と目玉と脳ミソが宙を舞った。斬られた彼らの生存は絶望的であった。空気中には肌に粘りつくような忌嫌さを感じさせる。肉骨粉がばら撒かれたかのようである。

 少年は一部始終を見ていたが、つまらなそうに欠伸をすると、ソファーから立ち上がった。床に散らばる手足と胴体を、ゴミを避けるかのようにしてサプレッサーの入ってきたドアへと向かった。その途中、スギヤマの上げた微かな呻き声を少年は聞き逃さなかった。うつ伏せのスギヤマは瀕死であったが息はあった。少年はスギヤマの元まで駆け寄り、見下ろした。

“もっと奇麗にしてあげるよ。”

 そう言うと少年は瀕死のスギヤマの顔を靴の鋭利なつま先で小突き始めた。少年の靴についていたスギヤマにとっての仲間達の血が、顔面へと満遍なく塗りつけられてゆく。それを快く思ったのか、少年はスギヤマの髪にまで足で血を塗りたくった。そして、少年は少しばかり力を込めて、無抵抗のスギヤマの顔面を蹴った。スギヤマの目に少年の爪先が勢いよく入り込んだ。腹から捻り出すような“あぁ”という奇声を上げ、うつ伏せ状態から仰向けになった。少年はスギヤマのめり込んだ眼球をつま先で器用にこねまわした。独特の粘りつくような水音に少年は上機嫌になり口を開いた。

“そういえば僕の名前を尋ねていたね。僕はナギレッタスィナリーさ。最執長お抱えの暗殺者さ。まぁ、目ん玉ボコられて頭イッタあんたにこんなこと言っても無駄だろうけどさ。”

 ナギレッタはそう言うと失笑した。彼の比類なき美しさのためか、常人なれば下品であろうその笑いもハープの音色のように澄んでいた。一頻り笑い終えると、

“……飽きた。…もう帰ろう、カルロ。”

 そう言った。少年はそのまま男と共にその部屋を出た。そこで行われた一連の惨劇は児童園の遊戯とまったく同質のものであった。



         *         *         *



上階から聞こえる銃声にエレベーター前で待機していたエドウは過敏に反応した。イシエ達の救援に向かったサプレッサーがダヴィと遭遇したのであろうか、エドウは無線へと怒鳴りつけるが、スギヤマ達サプレッサーとの連絡は一向につかない。情報統括のために待機していた1階エントランスのサプレッサー達もその慌てようを隠しきれていなかった。

最初の激しい銃声の後に続く銃声はない。それは、ダヴィかサプレッサーのどちらかがやられたということになるのだが、スギヤマとの連絡がつかぬ以上、後者がやられたと考えたほうが妥当であろう。

“なぜ、功に焦った…。”

 エドウは行き場の無い怒りを露にした。深呼吸をして自分を落ち着け、もう一度考えた。上階のサプレッサーの元へ単騎で飛び込むか、もしくは味方を殺されておきながら、その亡骸に背を向けて撤退するかのどちらかであった。

こうしている間にも上階のダヴィは動き続け、1階に向かっているかもしれない。判断は性急を迫られていた。

“ねぇ。上に行った人たちはどうなったの?”

 天井を見上げながら、パルが言った。その姿はエドウの緊張とは打って変わり、妙な落着きを見せていた。

 そんなパルの姿を見たエドウは緊張していた自分を恥じ、平生を装いパルに語りかけた。

“きっと、さっきの銃声でサプレッサーはやられしまったと思う。だから、僕達はこれから不利な状況でダヴィと戦わなければならない。”

 エドウがそこからさらに言葉を重ねようとした時、パルが神託を言い渡すように、

“それはダヴィじゃない。ダヴィがいるのはアッチ。”

 言うと、突如パルは立ち上がり、軽やかな足取りで歩き始めた。その姿はエドウの目に、覆しようの無い純粋な意志として映った。エドウはアシュラ患者への感受性を発揮した、神々しいまでのオウラを纏うパルに、すべてを懸けてみることにした。

パルはそのまま糸操り人形のように騒がしく階段を上がっていった。それは彼女の裡にねむるなにか淫靡なものがそうさせたのかもしれない。しかし、それが何か明確にわからぬからこそ、彼女はその勢いのみで飛び跳ねるように階段を駆けるのである。

なぜパルがサプレッサーを襲ったのが、ダヴィではないと断言できたかといえば、それはカン以外のなんでもなかった。しかしそれは、彼女にとって常人が南瓜と檸檬を見間違えることが絶対にないように、歴然の差をもって感じられたのである。

その上階から感じたまったく別者の感触は彼女にロロノアダヴィへの執着を奮い起こさせた。常態の彼女であったならば、ただの執着だけでここまで情熱的に体を動かすことなどできるはずがなかった。そのまま思いを殺すように押し黙るか、相手によっては泣き喚いてこちらに近づけるかのどちらかしか、パルにはできない。それらはもはや、プログラミングされた反射、機械のような動きであった。彼女の行為すべてはその延長線上に成り立っていた。今の彼女の動きはこれとは大きく異なっていたのである。

パルが跳ねるような走りで辿り着いたのは、トッケイのオフィスであった。エドウはその瞬間にオフィスの中の人の気配を感じた。

“ダヴィよ!ダヴィがいるのよっ!”

 パルは勢いよくドアを開けた。中には、奇形と呼んでよいかもわからぬほどに変容し怪物のようになったロロノアダヴィの姿があった。ダヴィは銃身が二メートルはあろうかという玩具にも見えてしまいそうな持ち手の無い大口径リヴォルバー二丁を丁度竹馬のように自身の体に融合させていた。

 パルはダヴィと目を合わせた。ダヴィは獣のような咆哮をあげる。

 エドウはその時、何が起こっているのかまったくわからなかった。突然走りだしたパルに付いてゆき、トッケイのオフィスに来たと思えば、中には件のロロノアダヴィがいたのである。ダヴィはパルのデスクの上でしゃがみ込むような体勢でいた。ダヴィの顔は室内に射し入る光に照らされ、白い囚人服と共に暗い室内で際立っていた。それには、何かを喋るようにもぞもぞと動く口と、何処を見ているか他人にはわからない彫刻のような目があった。エドウはその姿に呆気に取られ、自動小銃を構えるのが遅れてしまった。もし、ダヴィが容赦なく襲い掛かって来ていたら、二人は間違いなく絶命していたであろう。

 しかし、銃を構えられてなお、ダヴィは一向に動く気配が無い。エドウは相手の出方を見ようと思い、逃げ道を確保しながら銃の引き金に軽く指を押し当てた。これは、エドウらしからぬ失態であった。普段のエドウならなんの躊躇もなくダヴィへと引き金を引き、その隙にパルとジョウザンするか、もしくは、もっと地の利を得ることのできる場所へと移動しただろう。今の彼が動かぬのは、パルへの流れ弾を恐れたという彼らしくもないものかもしれぬし、ただ単純にダヴィへの恐怖からかもしれぬ。

だが、その中でもエドウの目に最も奇異なものとして映っていたのは、その恐るべきダヴィと対等に向き合っているパルなのであった。彼女がなぜ、あれだけの恐れていたダヴィを前に悠然と立ち、相対することができるのだろうか。パルに一体何があったのか、それはエドウにはまったくわからない。しかし、今までエドウが見てきたパルとは明らかに異なる者が彼の目の前には立っていた。


 パルはショートデニムのポケットから何かを取り出した。

“パン。”

 銃声を聞いたエドウは目を見張った。パルがダヴィに向けて拳銃を発砲したのである。それはエドウが渡したによるものであった。

その弾はダヴィの脇腹に当たった。ダヴィは泡が割れるようなうめきを洩らした。パルは戸惑うことなくダヴィへと発砲を続けた。ダヴィの四肢は瞬く間に血まみれになった。ダヴィは竹馬のように使っていたリヴォルバーをパルのデスクの上でよろめかせ、オフィスの壁へと激突し、一時的にエドウ達の視界から消えた。パルはすぐさまダヴィの見える位置へと動く。それはまったくの無駄の無い動きであった。エドウも慌ててそれに続く。

そこには、デスクと壁との空間に器用に収まっているダヴィがいた。ダヴィはパルを目視すると、二つのリヴォルバーを器用に使い、耳障りな金属音をたてながら恐るべき速さで立ち上がった。それは昆虫の足捌きのように俊敏且つ嫌悪を催すものであった。

そして、パルを睨み付けると、鋭い跳躍で掴みかかった。パルは壁に叩きつけられ、馬乗りのような状態にされた。それらはエドウの目と鼻の先で繰り広げられていた。しかし、エドウは何もせず、ただ小銃を構えているだけであった。エドウは心中で念じていた。

“やれ、やるんだパル。君の心の中で嵐のようにうねる感情の熱量をすべてその弾丸に籠めろ。そして放て。それは不条理なダヴィの肉体を食い破ることができる。君の中で行き場を失くして暴れまわる感情の行く先は殺人しかない。銃は君にきっとそれをさせてくれる。だから今一度、そのいきり立つ銃身をダヴィへと突き立てるんだ。”

それはエドウの個人的な願望に等しかった。


ダヴィに覆い被られ、自由を奪われたパルは、自身の意志で銃口をダヴィの顔面へ押し付け、引き金を引いた。その弾丸はダヴィの額の頭蓋を砕きながらめり込んでいった。

その瞬間、ダヴィの体は少しばかり浮いた。脳への衝撃で一時的に神経回路にラグが生じたのであろう。エドウはすかさず小銃を持ち替えて、その尾でダヴィの頭を思い切り横殴りにした。その衝撃でダヴィの額の弾穴から脳片がこぼれ落ちた。そのまま倒れたダヴィの隙をつき、エドウはパルを連れてトッケイのオフィスから飛び出し廊下へと出た。エドウはとても清々しい気持ちになった。


 パルの顔にはダヴィの血とそこから漏れ出した脳片が所々に付いていた。彼らは少しでも有利に戦えるように場所を変えたのである。だが、ダヴィはその姿からは想像もできぬほどのスピードで二人を追いかけていた。このままでは追いつかれるとエドウは思ったのであろうか、懐からジョウザンシステムを取り出すと、

“パル、ジョウザンするぞ。”

 と静かに言った。パルもそれに対し、なんら反論するところはなかった。むしろ、兄であるダヴィに銃を撃ったパルにとって、ダヴィは恐れるに足る存在ではなかった。エドウとパルは身を翻し、ダヴィとの真っ向勝負にうってでた。

“ジョウザンシステム始動。”

 眩い光が二人を包み込んだ。だが二人ともそれに対し何の怖れも持ってはいなかった。ダヴィはその光に向かって、大口径リヴォルバーを撃った。その衝撃は、通路の空気を裂き、窓ガラスを一斉に割った。しかし、エドウとパルの光は、放たれた弾丸を蒸発させてしまった。そして、彼らを包んでいた光が花弁(はなびら)のように舞い散ると、そこには広い両袖から何丁もの禍々しい銃器を飛び出させているパルの姿があった。これが、エドウとパルがジョウザンした姿、シュナイターパルであった。


 シュナイターパルはその両手の銃器を前に突き出すと、そのすべての銃器を一斉に発射した。とてつもない轟音と共に放たれた弾丸は、通路の一帯を崩壊させた。それは、壁は砕け散り、床は底が抜け、天井が墜ちて来た、通路という空間が文字通り、崩壊したのである。それはダヴィとて尋常あらざる事態であった。だが、その場に一瞬はのしていたダヴィであったが、血肉尽きる前に、その弾幕が薄い場所へと退避していた。ダヴィとシュナイターパルとは、先ほどの銃撃によって壁と床が無くなった空間を挟んで見合っていた。この両者は、この間に心理戦を行っているのではなく、ただ一点、相手を屠ることのみを考えていたのである。


“パル、深追いはするな。相手のペースに飲まれてはいけない。勝負は一瞬の優位の取り合いで決まる。”

 エドウは自身の体に覆い被さるようになっているパルにそう告げた。エドウの研ぎ澄まされた身体と思考の上に自身の凶暴性をジョウザンしていたパルは、エドウの話を聞きはしていたが、そこから何も感じてはいなかった。ただ自身の中に溢れるとてつもない威力に身を任せていたのである。でなければ、十四歳の少女に殺人などでき得るはずがなかった。

 業を煮やし、初手を執ったのはシュナイターパルであった。彼女の両手の銃器が激しく火を吹く。ダヴィは着弾より先に素早く動き、その二人の間にあった崩壊した空間から、エドオルムの外へと身を投げてしまった。

“死ぬ気か…。”

 エドウは自滅してゆくアシュラ患者に一寸の怨恨を覚えた。

しかし、ダヴィはそんなエドウなど意にもせず、宙を縦横無尽に舞い始めた。大口径リヴォルバーから放たれる爆発から推進力を得ているのである。エドウはその姿に驚きを隠せなかったが、シュナイターパルとしては驚くこともなかった。空中を蝶の如く舞うダヴィを見て、

“私も飛べる。”

 そんな言葉と共に彼女もエドオルムから飛び降りた。シュナイターパルは頭から墜落していった。

それに対し、シュナイターパルの中のエドウは何も言いはしなかった。エドウとパルは同じ肉体、思考を共有しており、互いの考えは個々人で伝達するよりもはるかに鮮明に伝わっていた。エドウは彼女のその戯言のような一言がけっして、過信や奢りから生まれた物でないことを理解していたのである。

シュナイターパルは頭の中で、ダヴィが行っていた飛行の動作一つ一つを、鮮明なイメージとして書き起こしていった。この間も彼女は顔面を中心に、落ちてゆく体を風に煽られていた。轟音をたて四肢を吹き飛ばさんとする鋭い風を体に受けながら、それでも体勢を保ち続ける彼女の姿はやはり、人在らざるものであった。

シュナイターパルはその体勢のまま、両腕に一際の力を籠めた。

“ドォォォン”

 その力は、両袖から爆風となってあらわれ、彼女の体勢を大きく崩させた。シュナイターパルは錐揉(きりもみ)み状に落下していった。このままでは、ものの数秒で彼女は地面に激突し木っ端微塵になってしまうが、自分がダヴィと同じことができるならば、対処(たいしょ)の仕方はいくらでもあった。

 彼女は思い切りの腕の振りで身をはらりと翻し、激突するであろう地面へ向けて両袖から爆風をおこした。彼女は全身に凄まじい衝撃を受けながら、ダヴィと同じように宙を舞い始めたのであった。硝煙の臭いを辺り一帯に撒き散らしながら、シュナイターパルはあっという間にダヴィと同じ高みへと上ってみせた。ダヴィは大口径リヴォルバーを踊るかのように捌きながら、宙を舞っていた。それはあたかも、シュナイターパルの登達を待っていたかのようでもあった。

 ダヴィは急旋回をして、サリヴァンのビル郡上方へと飛んでいく。シュナイターパルはそれに着いて行く。

 シュナイターパルの眼下に永遠と流れてゆく無機質なビル郡は、両者の爆発の衝撃によってどろどろと溶解してゆくように彼女の目に入り込んだ。森羅万象のすべての型が崩壊し、影は光となり、書物は数式となり、大地は水となりて、人の足場のすべてを失くす。

 そこにいるのはわたしと、わたしが見るあなただけである。

 今のシュナイターパルにはそんな崩れゆく世界で人ではない、殺人の対象としてのロロノアダヴィしか見えていない。それ以外の物など今の彼女にとっては無いに等しい。目を向けてもそれらは、現在進行形で崩れてゆく瑣末なものとしか映らないのである。この思考は彼女が今、両手に収めている銃器の塊に依る所が大きい。銃器の持つその、圧倒的な破壊力がシュナイターパルにそのような思考を強いているのである。これがもしかしたら、エドウの言う所の銃器の思考的ネットワークというものであるのかもしれなかった。


 市街を飛行していたダヴィは郊外の、鉄骨が一部むき出しになった、浮浪者がたむろしているようなすさぶれた廃ビルの中へと入っていった。シュナイターパルもそれに続いた。彼女は爆風を上手く扱いながら、体勢を整えて着地した。この廃ビルは五階建てで、内装はすべて剥がされていた。その着陸した場所に溜まっていたヘドロはダヴィとシュナイターパルの爆風の熱によって、蒸発し、肺にへばり付くような酷い臭いをさせていた。しかし、それすらも彼女には無い等しいようで廃ビルの中をどんどん進んでいった。

“パル。少し用心しろ。相手は君よりも手馴れているんだぞ。”

 彼女は一種の興奮状態で何も感じられないのである。だが、力に怖気づいてしまうよりはこの方が良いであろうとエドウは考えた。彼女は両手の銃器を振り回しながら廃ビル内を歩き回る。それはもはや、こちらのみが目視してから優位で攻撃しようというよりも、出会いしなに、とにかく早く撃てばいいと彼女は思っていたのであろう。だが、そんな彼女の考えは壁越しのダヴィには通用しなかった。


“バゴォォン”


 シュナイターパルの真横の内壁が突如として爆発したのである。砕かれたコンクリート片が彼女の四肢に突き刺さり、表皮近くに違和感を覚えた。彼女はその爆風で吹き飛ばされ、碌な受身もとれず、全身を強打した。シュナイターパルは気が飛んだ。いくらジョウザン状態の彼女であったとしても、今ののぼせ具合と予期せぬ壁抜きからは逃れようがなかった。泥だらけの床にのびているシュナイターパルを見たダヴィは彼女に飛び掛り、のり出すように表情を覗った。

“パル、パル。”

 ダヴィは潰れた咽喉からかすれる声で言った。



         *         *         *


 ダヴィはシュナイターパルを前にして、始めて意思疎通ができるほどに正常さを取戻した。それは、ロロノアダヴィという人間は死に、まったく別の存在としての正常であった。それでもなぜだか、彼が人間であった頃の記憶や思考はしっかりと残っていた。それが実際、人間としての彼の記憶や思考とまったくの同質のものであったかどうかは不明である。だが、目の前の妹であるパルに声を掛けさせるこの衝動は、絶対に揺るぎようのないものであった。

“パル、パル。お兄ちゃんだよ。ダヴィだよ。”


 ダヴィは意識が戻ってから、始めて言葉らしい言葉を吐いた。しかし、ここまで妹のパルを思っているならば、なぜ、ダヴィは銃口を彼女に向けるのであろうか。それはやはり、ダヴィの凶悪な挙動の一つ一つが、人在らざるもの、アシュラ患者に身体が近づきつつあるために引き起こされるのであろう。だとするならば、人の意志としてのダヴィは、正常を感じられるほどに、いまのアシュラ患者に成りつつある身体に慣れてきているということかもしれなかった。この先さらに時間を経れば、このアシュラ患者に成りつつある身体は人としてのロロノアダヴィが不要であると悟り、いつしか葬り去ろうとするだろう。だがそれは、人としてのロロノアダヴィにとって、バビロン・シークレエ事件の後で少し眠りについた時となんらかわることはない。必要とされれば自分は何度でも甦る。今の自分はきっと、パルを救い出すためにここにいるのだ。ダヴィはそう信じて疑わなかった。

 彼が今一度、妹の名前を呼ぼうとした時、下腹部に激烈な痛みを覚えた。彼の腹は真っ赤な血を滴らせていた。

シュナイターパルはダヴィの腹に銃口を押し当て、発砲したのである。

だが、そんなことをした妹に対して、ダヴィはなんの感情も抱くことはなかった。この時彼は、今自分の中にある記憶や思考、感情といったものは目覚めた時から一向に変わることはなかったと、初めて理解した。自分には、これからどれだけの経験と時間を経た所で、それを分解、吸収するための正常な精神と肉体の関係がないのである。これがアシュラの宿命であろう。ダヴィは悟った。

ダヴィは一旦後方へと飛び退き、シュナイターパルとの距離を取った。シュナイターパルは左手の銃器の塊をダヴィへと向けた。ダヴィも大口径リヴォルバーを妹へと向けていた。もう、自分の声はパルには届かない。自分の音声はしっかりと空気を伝わってパルの耳に届いているはずである。それでもダヴィの巨大な激鉄(げきてつ)は動き、弾丸を撃ち出した。放たれた弾丸をかわしたシュナイターパルも空かさず反撃を行う。互いに銃を取ってしまえば、もう近づくことはできないのだろうか。

彼らは廃ビルの中を疾風の如く駆け抜ける。その二つの疾風の間には激しい銃撃の応戦があった。外れた弾丸は廃ビルの壁を砕き、形骸を剥き出しにした。自分もこれに当たれば、真性の自分が見えるのかもしれない、そんなことを思いながらも、ダヴィのその身体は跳躍し続けた。このまま、この無様な血糊の舞踏は永久に続けられるようにも思われた。ダヴィはパルとの間に生まれてしまった絶対の空白、そしてその空間に混合することのできない物理的不感者たる自分を見て、絶望した。


ダヴィは激しく動かしていた身体を急激に止めた。ダヴィの体内で動いていた運動エネルギーは体の一部分に集中し、体勢を大きく崩させた。それに伴いどたどたと動くダヴィの隙を、シュナイターパルは見逃さなかった。


彼女はダヴィの懐に入り込むと、その鉄塊にも等しい銃器の束で殴りつけた。ダヴィはコンクリートの床を転げ周りながら、壁に激突した。シュナイターパルは、壁に追い込んだダヴィを、両手の鉄塊で思い切りに叩きつけた。今までの銃撃戦のために熱を銃器は帯びていたのであろうか、表皮が熱によってちぢり破けた。もはや、表皮も抉られ、筋繊維が剥き出しの部分もあった。その激しい乱打のために大口径リヴォルバーは歪み、使い物にならなくなった。辺りは血みどろである。彼女の攻撃はまさにリンチなのであった。

ダヴィにはもう、反撃の意思は残っていなかった。その代わりにダヴィは、彼が人たり得るところの全盛を懸け、完全に狂ってしまった聴覚でパルの声を聞かんとした。

それは聴覚という形ではなかったが、シュナイターパルの心内の声を自身に聞かせることとなった。シュナイターパルの乱打が続く中、ダヴィは今にも事切れそうな神経を集中させた。そこには、パルの狂乱にも等しい叫びの(かげ)に、一人の男の声があった。


“やれ、やるんだ、パル。君の中にある(きらめ)きは紛れもない、殺人の本能なんだ。殺せ、殺せ。ロロノアダヴィを実の兄を、殺してしまえ。君をここまで苦しめたのは他でもない、彼だ。見ての通り、彼はもう人間じゃないだろう?だったら、最後に君の記念すべき解放の日の、名誉ある人柱としてやろうじゃないか。”


ダヴィはそんな男の声に覚えがあった。その声をエドウナウカだと気づくことにそう時間はかからなかった。ダヴィはそんなエドウの声に憐れみを持って聞いていた。本来ならば、妹のパルに殺人を誘惑している彼に憎しみを覚えるかもしれない。だが、今のダヴィはそれを思えるほどに正常でもない上に、エドウのその言葉の裏にある、畜生の極みともいえる様な愚かしさを感じていたのである、それはダヴィがこの町の至る所で聞いた下戸の嘔吐とまったく同じものであった。エドウもまた、このサリヴァンに住む酩酊者の一人でしかない。

今のダヴィは能動的に動くことはできない。ただ、受け入れるのみである。それが、銃を下ろした彼にできる唯一のことであった。


“ナウカ君。君はなんと憐れな人であろうか。ただ、それは君に限らず、この町そのものに蔓延しているようである。だが、それでも君の行為は過ちであると、私は言おう。私の妹に兄殺しをさせたことで得ることのできる快楽など、如何程のものであろうか。”


ダヴィの口にはシュナイターパルの銃口が押し込まれた。ダヴィはエドウの外面、シュナイターパルを見た。


“パル、君にこんな難しいことを思ってもわからないかもしれない。だって、僕の知る君の手はビスケットのように小さく、綿のように柔らかかったからね。だけど、今の僕はそんな君がこのよう手になってしまったというのに、君を慰めてあげたいとも、叱ってあげたいとも思えなくなってしまった。兄としてはきっとダメなんだろう。でも僕はナウカ君と君が出会えたことで少し安心もしているんだ。君とナウカ君はとても仲が良かっただろう?今の彼は覚えていないみたいだけど、君は教団の中で唯一懐(なつ)いていたのは僕とエドウ君だけだったんだよ。あそこは殺伐とした場所であったけど、君たち二人はそんな中でも凄く輝いていた。だから僕は今、きっと君たちに殺されてしまうだろうけど心配はしていない。僕はあの輝きを信じているから。待っているから。ちっとも怖くなんかないんだよ。………これは、強がりかな。でもね、これだけは絶対なんだ。どんなことがあろうと僕は。パル、君をいつまでも愛しているよ。”


“バァァン”


 悪臭で満たされた廃ビルに乾いた銃声がこだまする。

 ダヴィの事切れたアシュラ患者としての身体は脊椎を振動させながら最後の躍動を始める。

“私は命尽きたが、これは終わりではなく始まりである。私が、私という自由な精神が、仕組まれた肉体を砕き、無形で無数の私へと変貌するのである。その無数の私は妹のパルであるかもしれぬし、有機剤を吸い続ける塗装屋であるかもしれぬし、露店のひさしで休むサラリーマンであるかもしれぬし、砂場で一人遊ぶ子供であるかもしれぬし、もしかしたら、エドウナウカ、君であるかもしれぬない。私は私を束縛しない。それは私の肉体がアシュラによって、崩壊してゆくからこそ初めて至った見地であるかもしれない。私は私という世界を捨て、より広大な創造へと目指すのだ。”

 ダヴィの肉体がシュナイターパルの容赦ない掃射によって人としての原型を無くした時、ロロノアダヴィという存在は泡のように消えた。



         *         *         *



 思い返せば、ダヴィの最後はあまりにもあっけないものだったとエドウは感じていた。それは、時代を騒がせた希代の殺人犯であるロロノアダヴィが、出会って数日にも満たない自分とパルとのジョウザンによって屠ることができたからである。

エドウは保安局に一報を入れ、ダヴィの死体の回収と共に自分達もエドオルムに戻ろうとしていた。しかし、死体といっても、ダヴィの頭を吹き飛ばした後にシュナイターパルがダヴィの死体をハチノスにしてしまい、もはや人間の原型を留めてはいなかった。

そんな彼女の姿を見ていると、二人が兄妹だという話は作り話ではないのかと考えるほどであった。このサリヴァンでは人の記憶ほど容易に作り易いものはない。

ダヴィとの死闘をうかがわせる所々のひっくり返るように抉れた床面は、混戦時の汚濁に対する神秘さをまったく失い、ただの雑廃に成り下がっていた。そんな空間の中でパルは、外壁面がきれいに取り払われた階の縁で一人、脚を廃ビルの外へと垂らしながら腰を置いて、サリヴァンの町を眺めていた。エドウも彼女の隣に同じように腰を下ろした。

“大丈夫か?”

 エドウはパルにそう尋ねた。

“ええ、大丈夫。”

 パルは今までに無い冷徹な声音でそう言った。彼女はさらに続ける。


“あたし、本当はね。あんたと一緒にバディを組めるのか心配だったの。だけど、それはもう考える必要はないみたい。だって、アシュラ患者の大ボスみたいなロロノアダヴィを倒したんだから。そんなあたし達を悪いなんていう人はこれっぽっちもいないわよね。”


 実の兄を殺しながら、これほどまでに無情に客観視ができるのは、兄との関係というものが当人のダヴィさえいなければ彼女の中でどうとでもなる程度の問題であったということであろうか。そのために彼女は、騒がしく五月蝿い仮面を今、この時から付け始めるのである。

“ねぇ。煙草頂戴。”

 エドウは驚いた表情をした。

“君はまだ未成年だろう。”

“ここまでシタあたしを、まだ未成年扱いするの?あんた、ナメてんの?”

彼女はエドウを見ることなく、淡々と述べた。

それはパルと初めて会った時のあの侵し難いような呪詛的な美しさをエドウに感じさせた。ダヴィはパルを悩め苦しめ、この美しさを穢していたのだ。それはエドウにとって十分に死刑に値する重罪であった。

 エドウは彼女に煙草を渡す。パルは口に煙草を咥えるとエドウに火を借りた。曇天の空の下に、ライターの火で照らされてたパルの横顔があった。二人は自然と体を寄せ合うような格好になる。パルは火のついた煙草を少しばかり咥えると、それを吸うことなく、日陰で薄暗い路地の底へと落としてしまった。赤々とほのめく煙草は一つの、限りなく直線に近い軌道で落ちた。

それはパルなりの自分とエドウとの境界線をはっきりとさせるための一つの挑戦的な行為なのであった。その境界線が侵されぬ限り、彼女はもう苦しむ必要はなくなったのだ。しかし、それは同時に、彼女自身の変革の機会をみすみす逃したことと同じであった。エドウもそんなパルに対し過敏に反応しようとは思わなかった。

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