一章⑤
5
“ねぇ、どうだった?ダヴィから、なんか聞き出せたぁ?”
シャチューヌは潜水服のボルトの軋む音に薄ら笑いを含ませながらエドウに語り掛けてきた。ダヴィの尋問から逃げるように出てしまったエドウはシャチューヌに呼びだされ、最執長室に来ていた。
“ダヴィは心神喪失状態で尋問にもなりませんでした。”
エドウは淡々と述べた。確かにダヴィは反応しさえしたが、それ以上のものはなかった。
“そっか……。パルちゃん寄こしたから、なんかあると思ったんだけどなぁ。じゃ、後で詳しく調書に書いてぇね。”
エドウはシャチューヌの掌で踊っているにすぎない自分に憤りを覚えた。
シャチューヌの言葉からは、おおよそパルとダヴィの状態もわれていると思われた。なれば、尋問の経緯を包み隠す必要などなかったが、エドウの自尊のためか、はたまた怒りの矛先か、婉曲な語り口に敢えてした。
“じゃあ、もういいや。戻っていいよ。あと、パルちゃんによろしくねぇ。”
エドウは会釈すると最執長室を後にした。今のエドウに部屋の観察をするほどの体力は残っていなかった。
エドウはエレベーターの中で深呼吸をしながら、苛立ち、興奮していた自分を鎮めていた。エレベーターの隔離された空気は汗腺から体内へと潜り込み、エドウを快くさせた。エレベーターの中はエドウのみで循環する自己完結の世界であった。
彼の全身を駆け巡る青臭い何かは、彼が今まで生きてきた記憶にその鼻につく臭いを万遍なく纏わりつかせた。その中にはもちろん、サプレッサーの記憶や、イシエとディオの記憶、そしてパルとの記憶も微量ながら含まれていた。それは、エドウが自身の経験や記憶から究極的に達観していればの芸当であった。時には自分の行いを冷静に分析することもあれば、醜態を嘲り、自己防衛をしたこともあったろう。エドウはその身体が受けたありとあらゆる情報、いうならば人生をそのようなプロセスを通して分解・吸収していた。エドウは一人、そのような心象的行為をエレベーターという限られた密室空間でおこない、恍惚に浸っていた。
そして、このエレベーターも時が来ればいつか開き、この恍惚のみで満たされた空間は無残に崩壊してゆく。それは、決して酔いの醒めぬ酒がないことと同じである。エドウはその恍惚の時間を有限の中で楽しむからこそ、彼の身体の中で破綻することなく生きる糧として機能しているのであろう。彼の周りにはそれらの空気と共に、エレベーターの静かなモーター音のみが響いていた。
もうそろそろ、この時間も終わるであろう、エドウはそう思い、体中にみなぎる青臭いなにかの動きを止め、恍惚感を抑えることで、エレベーター内の空気を薄めていった。体内の流動が収まると、エレベーター内の恍惚感は下へ下へと沈殿、劣化し、跡形もなくなってしまう。エドウは最執長室からの己惚れをすべて隠し、コートの襟首を整えた。エレベーターが電子音を鳴らし、停まった。そこでゆっくりと扉が開き、エレベーター内の空気は外界のへと飛び出していき、外の空気と混ざり合い、その存在感を体臭程度のものまで薄めるはずであった。しかし、エドウを乗せたエレベーターが開き、中の空気が出る前に、中に一閃の光が入ってきた。それは、エレベーター内に籠もっていた、エドウの悪癖から出たものをすべて焼き払い、彼の裡の自慰をさせていたものを鮮明に照らし出した。エドウは慌てて、自分の掌で日傘を作った。光が彼の黒い衣装に熱をためさせ、エドウは人肌の温みに包まれた。それはエレベーター内でのエドウの悪癖を優しく諭す、母のような趣さえあった。
エドウはその時、その光の感触を彼の記憶の中にあった一つのものとが迷い無く繋がった。それは、尋問時にダヴィがみせた、あの優しき眼差しであった。あれはパルに向けられたものであったが、エドウも同じようなものを受けたのである。
ただ、光が強く眩しかっただけでダヴィとの関係を挙げることは、非常に粗雑であざとく、それだけを理由にダヴィへの憎しみを持つこともあまりにも悪質な多感というものである。しかし、エドウにとって重要なのは、ダヴィのあの眼差しが自身に強く降り注ぐ太陽光との関係を変えてしまったことである。彼はもしかしたら強い光を浴びるたびにダヴィの眼差しをその中に見るのかもしれぬ。エドウの悪癖を優しく焼き払わんするようにそれは現われるのかもしれぬ。それは強い光に限らず、青々と茂る枝葉の踊るようにざわめく葉の間から、公園で楽しげに遊ぶ子供達の小さな掌に握られた乾いた砂から、その眼差しをエドウは見つけてしまうかもしれない。それは彼にとって、トテツモナイ脅威であった。エドウがその眼差しに対して行えることは、それを受け入れ、自身の悪癖が消滅するのを待つか、その眼差しの元凶を断つかの二つに一つしかなかったのである。それならば、エドウは前者を選び、この際に自身の悪癖を跡形もなく消し去ってしまった方がよいのかもしれない。しかし、彼はそれを素直に受け入れるほど、自らの癖を悔いてもいなければ、恥じてもいなかった。そのため、強い光の中に現われたダヴィの眼差しは、エドウの心の裡に善良識ぶって土足で上がり込んできた盗人猛々しい不遜者以外の何物でもなかった。
エドウはそれに対し、異常と思えるほどの憤りを覚えた。ダヴィは絶対に葬らねばならない。しかも、できるだけ残酷に、踏みなじるように。何体ものアシュラ患者を処分してきたエドウにとって、ダヴィを殺す理由などそれだけで充分であった。
エドウはエレベーターから降りた。そこはトッケイのオフィスである。好機かどうかはわからぬが、イシエ達はいなかった。パルも奥の応接室で休んでいた。もし、彼らが此処にいたならば、エドウはここまで瞑想することはなかったかもしれない。自身のデスクに腰を置いたエドウは先ほどの瞑想のためか、背凭れに押し付けた背筋をなぞるように疲れがべっとりと纏わりついてきた。それは、保安局員としての業務外で殺しのことを考えたのが初めてであったからであろう。エドウはそのままの向きで体をゆっくりと起こし、何を見るとも考えずにただ目の前に映える物を凝視していた。
“あら。戻ってたの、エドウ君。”
オフィスに戻ってきたイシエがエドウに語りかけた。
“いやぁ。ダヴィへの尋問があまり上手くいかなかったので少ししょげていたんですが、イシエさんの顔を見たら元気が湧いてきましたよ。”
エドウは口にもないことを言ってしまった。イシエは少し驚いたような顔をさせながら、愛想笑いをした。
その時でも、エドウの目の中に宿った殺人への羨望の灯は決して消えることはなかった。
エドウはイシエやディオ達に尋問の様相を聞かれたが、パルとダヴィとの間を伏せる形で伝えた。それは、ジョウザンシステムの適合者とアシュラ患者の共鳴にも似た作用でパルが少し取り乱してしまった、という言い回しであった。それももしかしたら本当のことかもしれぬが、下手にパルとダヴィの兄妹関係を晒してしまえば、今後の捜査に支障が出るとエドウの考えでもあった。これは非常に自己中心的な考え方であったが、話したところでダヴィによる暴走が鎮静化するわけでもない。何よりも、この件を伏せて欲しいと言ったのはパルであった、しかし、真に彼女のことを思えば、エドウはせめてトッケイの二人にはパルとダヴィの兄妹関係をいうべきであったのかもしれない。だが、エドウは局員としての冷傑さと、十四歳の少女パルの情緒不安を隠れ蓑として、彼女自身の意見を尊重した。
* * *
エドウはその夜、バー・モントルイユにいた。マスターはエドウのことを少し気にかけていた。二日続けてこの店に来るのは始めてのことであったので、マスターはエドウのことを少し気にかけているようであった。いつもは月に一度来るか来ないかの頻度で利用していたので、その定期を外して現れたエドウに対しマスターの接客商としての確かな感性は引っ掛かったのであろう。マスターのホットタオルを渡す手捌きは心もちか慎重であった。ホットタオルを広げると、そこからいやらしいほどの香水の臭いを感じた。実際は、そこまで強く臭いはしなかったがエドウにはどのような微細な香り、香らせることを宿命付けられた香料というものに過敏に反応してしまったのである。それはエドウの思考の中に無理矢理に入って来て、一つ一つの動きを緩慢にした。音も香りも何も無いところに行きたい、そう思った。
ホットタオルをつき返したエドウは、普段よりも一等度数の高い酒を頼んだ。少しでも脳血流を良くするためである。目の前に置かれた酒をエドウは何の躊躇ものなく咽喉へと流し込んだ。その激しく焼けるような感覚に一瞬意識が飛びそうになった。カウンターに付けた肘はそのままに、手の腹へと顔を隠すように額を強く押し付けた。エドウは焼けるような咽喉の痛みをゆっくりと味わった。
そこからマスターの心配そうな声を無視して幾許か経つと、エドウの肩を叩いて、隣にカムギが座ってきた。エドウはカムギに流し目を向けながら、軽く会釈をした。その時には、酒に酔って得た自尊心が薄まりつつあった。
“なぁ。ロロノアダヴィが捕まったっていう話は本当か?”
カムギは何の澱みも無く言った。エドウは無言で返事をした。カムギはそのまま黙り込んでしまった。
カムギはダヴィに対して、只ならぬ執念を燃やしていた。ダヴィの起こしたバビロン・シークレエ事件で、カムギは同僚である市装兵団の過半数を惨殺されていた。カムギは科学宗教ポノウェの摘発に借り出されており、難を逃れていた。ダヴィへの復讐はそんな隊員達の無念を晴らすためか、はたまた彼らを支えた市装兵団としてのプライドを守らんとしての行為であろうか。だが、今のカムギの沈黙はそういったものをエドウに想像させるには十分であった。エドウはこれまでに鋭い沈黙を保ったカムギを今まで見たことがなかった。その沈黙は保安局員であるエドウさえも飲み込もうとしていた。
そもそも保安局への不信感を募らせた上で辞職をしたカムギであったため、独自に調査を行わんとするカムギに対し、保安局が何らかの妨害をしてくることはある程度覚悟していた。だが、そんな不安をかすりもせず、完全に出し抜かれてしまった今では不甲斐なさを通り過ぎて怒りすら感じていた。
“ちょっと腑抜けちゃったかなぁ…。局員やめてから。”
と、カムギは一人呟いた。
カムギが相手にしているのが保安局というサリヴァンの権力図の頂点に立つ怪物である。奴と攻り合うためにはやはり手段をおちおちと選んではいられない。カムギはそう思い、景気づけと云わんばかりに酒をぐいと飲み干した。彼はどんなに思い詰めた時でも、決して一線を越えることはしなかった。自身を追い込んでゆくこともある種の戦略であったかもしれないが、それが自分の肌に合わぬことをカムギは自覚していた。
“まさか教え子のお前が俺の仇を捕まえるなんてなぁ……。ダヴィの奴、ちっとも現われねぇから俺の生きてるうちはもう無理だと思ってたよ。”
その言葉はいつものカムギの口調であった。エドウはカムギの顔を見ず静かに笑った。二人は互いの裡にある暗惨たるものを嘲笑うため。浴びるように酒を飲んだ。それは、彼らの決して避けて通ることのできないものに対して、これから果敢にぶつかってゆかんと声高らかに宣言する、陸上競技者の趣もあった。
しかしこれは一瞬の惚気であり、この時が過ぎてしまえばその残忍なる鋭さは彼らの裡にその姿をぬっくと現すのである。二人はそのことを互いになんとなく理解していたのであろう、いつもの彼らでは考えられぬような常軌を逸したような騒ぎようで飲み食いを続け、そこにいたマスターや客達をも混乱するほどであった。それは深夜まで続いた。
店を出てから、酒の力を借りなくなると、傍目から見た二人は完全な素面となっていた。
実際は酔っていたかもしれぬが、酒以上に彼らは現実に酔っていた。それは残酷な現実であった。その後、二人はカムギの伝手で現われた柄の悪い男のタクシーに乗って自宅に向かった。タクシーは先にエドウを送り、その去り際にカムギはエドウに言い放った。
“エドウ。お前は何処へ行くんだい。一体、何をするんだい。”
それは神託めいた言葉であった。カムギはまだ酔おうとしているのか、エドウはそう考えた。エドウは少し考えて
“さぁ。”とおどけてみせた。
パルはダヴィの取調べ後、応接室に引き篭もっていた。彼女はただ一人無音の空間に浸っていたかったのである。
パルは湿けって変色しかけた座椅子へ顔を押し付けながら、漠然とした時に身を投げ出していた。彼女は猫のような体勢で寝転んでおり、一見すると暇を弄んでいるようにも見えた。パルはダヴィの取調べ後、応接室に引き篭もっていたのである。時折、自分の緑色のお下げをいじくりながら沈滞した時間を過ごした。彼女はただ一人無音の空間に浸っていたかったのである。それは、先刻のダヴィとの出来事を、受け入れるにせよ忘れるにせよ、立ち向かわんとするために必要とした時間であった。それがどれほどの時間であるかは、彼女にも定かではない。
ドアがノックされ、イシエが顔を出した。
“パルさん?イシエだけど……。エドウくんは約束があるからって言って帰っちゃったけど、どうする?”
外はとうに陽が落ちた、静かな夜であった。閉ざされた応接室の中ではそんなものなど気にもならなかった。パルはゆっくりと顔を上げ、上体を仰け反らすとドアの方へと振り向いた。自分はどうやら相方にも愛想をつかされたのか、パルはそんな達観に耽った。まだ、無音の問闘の時間を引きずっており、どこか現実に馴染めぬようなとろんとした目をしていた。
“気分はだいぶ落ち着いたかしら。”
イシエは普段の執務官然としたものではなく、優しげに問い掛けた。
“……………はい。”
パルはその後、イシエに誘われトッケイにオフィスを後にした。自分を応接室から引っ張り出したのがエドウではなかったことに、パルは多少の不満を覚えていた。その後、彼女がイシエの車で帰路に着いた時、急に滞在していたホテルの眩さと喧噪を怖ろしく思い、イシエの家に泊めてほしいと懇願した。パルは人肌に飢えていた。その時彼女は、エドウの車に乗っていなくて良かったと思った。イシエはそんなパルを快く受け入れた。
彼女の家は大通りに面した集合住宅の一室であり、パルの滞在していたホテルに比べれば質素だが、女性一人では手に余りそうな広さであった。パルはリビングに腰を下ろした時に始めて自分がした恥ずかしい行為を理解し、そこから一歩も動けなくなってしまった。そんなパルに構わず、イシエは嬉しそうに喋り続けた。やれ、初めて会った時からまともに話せていないことが気になっていたとか、大変な仕事だけど頑張ろうとか、エドウとの関係はどうだとか、どうでもいいような話をやたらめったらに振ってきた。パルはその問い掛けに対し、水飲み鳥人形のようにただただコクリと頷くだけである。今の彼女は辛うじて体は動くが、それを司る心はまったくの空っぽであった。彼女が応接室から頑なに出ようとしなかったのは、このような自分を他人に見せたくなかったからである。だが、目前のイシエはそんなことは気にも留めていなかった。
“ねぇ、パルさぁん。コーヒーにはミルクとお砂糖、どの位入れる?”
それからパルはイシエのしゃかりきな世話焼きに反論もせず合わせていった。それは思った以上にパルに不快感を与えることはなかった。イシエのそういった行為もまた、パルの水飲み鳥の頷きと同じで、自身の心に拠らずパルのみに必死に合わせようとしているからである。
これらに見られるパルの行動は、元々の彼女がこのように考えていたこともあるが、一聯のダヴィとの接触により、その思考の体系は崩れて散り散りになり、普段はあまり表に出ることのない不感症の部分まで出ていた。
そんなやり取りを繰り広げていく中でイシエが、
“一緒にお風呂でも入らない?”などと、突飛なことを言い出した。
だが、パルにはそれを拒む理由がまったくなく、イシエに促されるままにフラフラと浴室へと向かった。一種の躁状態ではないかと思われるほどのイシエはパルの身包みを手際よくはがし、あっという間に一糸纏わぬ姿にしてしまった。パルはなんの迷いも無く、シャワーで体の汗を流し、温水で満たされた浴槽へと体を浸した。浴槽の中はパルの求めた無音の空間に比較的近しいものであった。温水によって血流は早く軽やかになり、パルの空っぽの胸の裡の周りを徒小僧のように駆け巡る。そんな小僧の走り回っている輪の中心にパルは何か形というものを持たない粒子の集まりができつつある事を感じた。それは、浴槽の中に溜められた温水の温みによって、パルが一時的な錯覚として幻影を見ているのやもしれぬ。だが彼女は、今の自身の状態に迫ることができればどのようなものでもよかったのである。例えそれがまやかしであったとしても。しかし、そんな時間は長くは続かなかった。
“あ、あのぉ。パルさん…。入ってもいい……?”
イシエが浴室に入ってきたのである。その姿はどこか挙動不審であった。今さらになって、二人で入浴することに恥ずかしさを覚えたのであろうか。パルにはそんなことなど気にも留めなかった。イシエの身体は、パルの流れるような肢体の線とは異なり、非常にメリハリの利いた柔らかい円線を描いていた。仕事での威気高なポニーテールは解かれ、その長髪はタオルで一つにまとめられ頭部に被り物をするような形で収められていた。ひとしきり体を洗い終えるとイシエは、
“一緒に浸かっていい…?”
と尋ねてきた。パルは頷いて了承した。イシエはパルの真横に、同じ方向を向きながら体を合わせることなく維持できる位置で浴槽に浸かった。先ほどまで騒がしかったイシエは、その姿をもう一度見せようとはしなかった。浴槽はまたも、パルの求めた無音の空間へと退行した。しかし、さっきまでのそれとは異なり、その空間の中には水を通してしっかりと感じ取ることのできるイシエの肉体があった。
それにパルは多少なり影響を受けたのであろうか、空っぽの心に存在していた形無き粒子の集まりが彼女の胸の裡を飛び出し、イシエの元へと流れていった。それはイシエの裸身に纏わりついていった。パルも自然とその粒子に近づいて行く。
“えっ………。”
イシエが少し驚いたような声を上げたのは、パルがイシエの丁度二の腕の辺りにそのなめらかな胸を押し付けてきたからである。パルはイシエの顔を仰ぎ見ることなく、その裸身に纏わりつく粒子の中へ、全身を埋めるようにイシエに絡んでいく。
“ねえぇ……。ちょっとパルちゃん…?”
それこそ最初は戸惑いを隠せないイシエであったが、パルのその行為に何か感じるものがあったのか、彼女は両手でパルを優しく包み込んだ。二人は互いの顔を直視することなく受け入れていたのであった。そこには奇妙なほどの静謐さが漂っていた。パルはイシエの胸に顔を埋めながら、その形無き粒子を全身で感じていた。ところがその粒子はづるづるとイシエの体内の奥へと入っていってしまったのである。パルはその奥深くに入り込んだ粒子へと力強く手を伸ばした。
“痛いっ!”
イシエはパルとの距離を取った。パルはしがみ付いていたイシエの脇腹の辺りに爪をたててしまっていた。イシエの柔らかい腹部から微かな血の靄が浴槽に現われた。イシエは気が動転しているのか、
“大丈夫。気にしなくても大丈夫だから。”
などと笑って言い、パルのを咎めようとはしなかった。
パル自身も自らの非を認められるほどに自意識が内側へと向いていることはなかった。彼女は今、イシエの奥に入った粒子へと手を伸ばそうとして爪を突きたててしまったことと、それからのイシエの呻きとの間に一瞬だけ垣間見えた、彼女の空っぽの心を満たしてくれるかもしれない煌きに全意識が向いていたのである。
* * *
ダヴィは寒く暗い檻の中で室内の外気にまったく当たることのない、自身の拘束具の下に広がる生温かいじっとりとした体気を全身に感じていた。彼の今にも全力で動かんとする体は、その凄まじい代謝機能によって常の一瞬も崩壊と再生を繰り返すかのように、生まれたての最善の状態へと体を保ち続けていた、それは、身体駆動のみを重視した異常な生理現象であったため、彼の意思は脳を凍眠状態のようにされ、無味感を超えた、存在の薄弱化とも言うべき域にまで達していた。しかし、自分は今、このように表皮につたわる体気の感覚をしっかりと感じることができている。彼の意思がこの体の上でまた芽吹き始めたのである。それはさながら、一度死んだ者が甦ったかのような感覚か、はたまた、自分だけがタイムスリップした未来の世界でただ一人の現代の、未来から見れば過去の生き人として深呼吸をした時の感覚であるかもしれない。そのため、なぜ自身が今になって意思を取り戻し得たのか、取り戻し得るまで自分は何をしてきたのか、そして、これから何をすべきなのか、今の彼には漠然とわからぬものが多すぎた。
“あら。やっと起きたのね。”
なぜ今まで気がつかなかったのか、自身の空間把握力を疑ってしまうほどに、その声の主の女性は彼の視界の中にしっかりと存在していた。しかし、彼はその姿を正確に捉えることができない。それは、明るい室内が一瞬で暗闇になり目が慣れずに視界を黒一色にするのではなく、長い無意識状態のためか、もしくは視神経の一部が完全に破壊され、外界を捉えることが物理的に不可能であるかのどちらかである。そうなると、今自分が感じている世界は身体への物理的な影響のよって作り出された虚構なのではないか、ダヴィはそんなことも考えた。徐々に意識が鮮明になってゆく中で、自分は思い通りに声を発することができないことに気づいた。咽喉の辺りを手で握られて顎の方へと吊り上げられているような感覚である。舌も咽喉の奥の方にずり落ちてしまっていた。痛みはこれといってないのだが、自由を奪われた咽喉と無気力な舌からでは、叫び声程度は出るが会話をするには絶望的であった。
“自分が何もできないことに今さら気づいたの?”
女は彼の思考を読み取っているかのように語り出す。
“これからあなたの五感は腐り落ちるようにどんどんなくなってゆくわ。本当はもっと速いのだけれど、私たちが少し手を加えてあげたから、ゆっくりとなくなってゆくの。でもね、結局は何も感じることができなくなってしまうのだけど。”
そう言うと女はダヴィの拘束具を一つずつ外し始めた。
“私たちはね、あなたが何をするのかが知りたいの。”
彼女の言葉の意図をダヴィはまったく理解できない。彼にとっては拘束具が外され、体を覆っていた生温かい体気が逃げてゆき、変わりに監獄の冷たい空気が入ってくることで、今自分の触覚は確かに快さを感じたことの方が重要であった。かといって体の自由を得た彼がエドオルムを飛び出し、サリヴァンの町を駆け巡ることができるというわけではなかった。拘束を解かれて気づいたことだが、全身が極度の酷使のためであろうか、まったくと言っていいほど、自分の思い通りに動かない。その体はもしかしたら自分がまた意識を失った瞬間に再び動きだすのかもしれぬ。その場に座り込み、何もすることのできない自分を女は見下ろしていた。
“それとこれね。あなたの新たなる旅立ちへの贈り物として受け取って頂戴。”
女はそう言うとダヴィの手に一つのペンダントを握らせた。
女は役目を終えたのか、その表情が人形のように硬くなった。そして、監獄から脇目も振れずに出ていった。その時ダヴィは、監獄の外へと目線を向けた。女の足元には人間とおぼしきものの変死体があった。あの女が殺したのであろうか、ダヴィは考えた。しかし、そんなものへの興味などすぐになくなった。ダヴィは自分の横たわる体を必死に動かそうとした。ダヴィはペンダントの中身を見た。そのペンダントはダヴィに無理矢理に記憶を植え付けるかのように、ある一つの像を彼の中から強引に引き出した。
それは、十歳にも満たない少年と少女が一緒に砂場で遊んでいる風景であった。二人は兄妹のようでありとても楽しそうに無邪気な笑顔をカメラに向けていた。それはとても微笑ましいものであった。その時彼は瞬時に察知した。その少女が自分の妹であるシェレエ・パル、教団改名がシュナイターであり、少年が自分、シェレエ・ダヴィ教団改名がロロノアであった。