一章④
* * *
パルはエドウに借りたコートで身を包みながら、大破したエドウの車の傍で一人佇んでいた。辺りは鎮圧された暴徒が発する異様な静けさで満たされていた。
パルとの接触以降、凶暴性を失ったダヴィはあっという間にサプレッサーに捕縛されたのであった。
しかし、ロロノアダヴィという存在は、彼女の中でいまだに暴れ回っていた。彼女はダヴィとの間にただならぬ因縁のようなものを感じていた。それは彼女の五感でしっかと知覚できるようなものではない。しかしそれは、彼女の中に確実に、今まで踏み込むことのなかった白い壁の向こう側に道化のような形で失笑しながら存在するのである。
彼女は自身が知覚しているもの、曇りか晴れかもわからぬような曖昧な空模様、レトロな風合いを漂わせる廃工場、極度の緊張から解放されてか体をだらしなく動かすサプレッサーの面々、二人語らうエドウとディオ、どこかにいるであろうイシエ、自分の緑の髪とそこにのせられた帽子、未成熟な身体とそれを包み込む衣服、すべてが白い壁の向こう側に引きずり込まれて行くような感覚を覚えた。まだ、自身にジョウザンシステムの影響が残っているのかしらん、パルは考える。
しかし一つ断言できることは、あのロロノアダヴィがもしかしたら自分の兄であるかもしれないというなんとも不定形ふていけいな意識が自分のなかにある、ということだけである。
それはただ単純にロロノアダヴィとの血縁関係に相応する身体的類似項を見出したわけでも、六歳以前の記憶を鮮明に思い出し、その中に疑いようのないロロノアダヴィの姿を見たわけでもない。それはもはや、自身から内発的に生まれたものではなく、何者かの手によって外側から埋め込まれたのではないか、そう思えるほどにその意識は彼女を強迫していた。
パルはふいに自分の頬に触れた。そこにはダヴィに頬を触れられた時にできた引っ掻き傷があった。もしかしたら、今自分を悩ませるものはこの傷口から入ったのかもしれないと、パルは思った。
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“今回の事件は十二年前に起きた”バビロン・シークレエ事件“となんらかの関係があるものとして、高級執務課が一連の捜査を引き受けます。この場は私、高級執務課の入崎ジュアンが監督させていただきます。皆さんは我々の指示に従ってください。
現場に突如として割り込んできた高執課によって、ダヴィの捕獲劇は早急に終演へと向かう。それは崇高な音楽のようでもあった。
サプレッサーは高執課の指示で、屈強な肉体数人がかりで押さえ付けていたダヴィを拷問器具のような拘束具で縛り付けていった。暴れもせぬダヴィに対しそれはとても容易なものであった。すると、いつの間に来たのやらわからぬ大型のトレーラーの中から、罪人を拘束しつつ運搬するための車輪つきの担架が運ばれてきた。ダヴィは運搬されるために奇麗に梱包されていく。
それを間近で緊張を持って眺めていたエドウの横に、車内でのイシエの介抱を終えたディオが立った。
“これはシャチューヌ直々の命令だ。ロロノアダヴィをエドオルムに連行し、尋問をするそうだ。”
エドウはダヴィ捕縛で揺れる群集の中の一角に指をさした。そこには入崎ジュアンがいた。
“見ろよ。あそこに高執課がいるだろ。最執部お抱えの揉み消し部隊だ。この先一体どうなっていくのやら。”
エドウはディオを一見もせず、淡々と答えた。それは、エドウなりの不信感の表れであった。
4
あまりにも騒然と事が進んではいたが、気づけばまだ午後の二時であった。ダヴィは捕縛の後、大破してしまったエドウは自車に代わり、イシエの車でトッケイの面々はエドオルムへと帰って来ていた。彼らは今までの気疲れのせいか、品の微塵も感じられぬほどに腑抜け切っていた。パルとイシエに関して言えば、首を傾け鈴のような寝息をたてていた。
“パルちゃんの調子はどうだい?”
助手席に座っていたディオが尋ねた。
“よくはわからない。だが、俺は彼女とのジョウザンに失敗したようだ。そもそも、ジョウザンシステムとは一体なんだ。ただ単にアシュラ患者に対抗できる装備というわけではないのだろう?やはりこう障壁が出てきてしまうとどうしても知らなければならないと思う。そもそも、人のなりでアシュラ患者にとんでもない物に、俺達が知り得るべき部分なんてないのかもしれないがな。”
エドウの言葉には明らかに焦りの色が見えた。それはパルからの悔恨や自身の不能から来ていたかもしれなかった。この質問自体が何の意味も持たないことをエドウも重々承知していた。
“正直なことを言うと、僕にも原理はよくわからないんだ。ただ言えるのは、二人の人間が合体して人間離れした超人的な力が得られるということぐらいさ。自分でもこんなことを言うのは滑稽でならないけど、僕達もその程度しか知らないんだ。僕達トッケイはそんなブラックボックスの上に成り立っているんだ。”
二人はジョウザンシステムに一抹の不安を覚えたとしても、それを嫌悪できるはどに自分達に選択の余地はないことを理解していた。ロロノアダヴィを捕縛できたのも、ひとえにイシエとディオのジョウザンがあったからこそできたのである。
この町はアシュラに対し、ジョウザンシステムがなければ成り立たぬようになっていた。
* * *
陽落ちと共に当然のようにトッケイのオフィスに灯がついたが、それはとても陽の代わりになるような温かみなどなかった。陽はすでに空とトッケイのオフィスに翳りを与えんとその姿を地平の向こうに隠していたのである。それは当然の天体としての作用である。
しかし、オフィスに集まるトッケイの面々は、誰一人としてそのような自然体な時間軸の上に今日一日を生きていたのではない。そのため、この時間軸の上に突如として投げ出された彼らは、その時間に体が対応できず、惚け切った状態になってしまった。これは、一晩おいて翌朝の眩しい朝日を浴びながら昨日のことはすべて夢だったのだと自分に言い聞かせぬことでしか抜け出すことはできないであろう。
しかしかといって各自が定刻だといって、トッケイの面々は帰路に着くことはしなかった。なぜならこれからシャチューヌが直々にトッケイの面々と会って話がしたいと言っているのである。何を言われるのか、エドウには皆目見当がつかないが、凶報ではないことを切に願うばかりであった。
エドウはゆっくりと周りを見回す。イシエは緩慢な動きであるが、書類を作っているようであった。時折、頬杖をついてうたた寝をしている。先ほどまで疲労のためか、応接室のソファで少し横になっていたようだ。今回の逮捕劇の最大の功労者は彼女であろう。実際に戦ったのはイシエとディオがジョウザンした姿であったが、その身体はイシエのものであり、その致傷や疲労はすべて彼女のものとなる。
パルは何ものっていない自分のデスクの前で膝を抱えるようにして座っていた。現場での会話以降、エドウは一切口を聞いていない。今の彼女に何を言っても、聞きはするが、受け取りはできないだろう、エドウはそう考えたからである。
“はい、どうぞ。”
ディオが肩越しから一杯のコーヒーを差し出した。エドウは厚意としてそのコーヒーを受け取った。ディオはそれから、イシエやパルにもコーヒーを振る舞っていた。エドウの隣の自分のデスクへと、ディオは腰を下ろす。
“今日はいろいろと大変だったね。”
ディオが小声で微笑みながらエドウに語りかけた。ディオが小声なのは、作業中のイシエや、思案しているかのようなパルを気遣ってのことかもしれないが、彼女達には人間の地声を聞き分けるだけの活力すら残っていないだろう。しかしエドウは彼の調子に合わせて言った。
“そうだね。でも、これからもっと大変になるぞ。なんせ、あのロロノアダヴィがこのエドオルムにいるんだからな。”
そのロロノアダヴィ、という言葉を聞いた瞬間にパルの体が小刻みに震えたのをエドウは見逃さなかった。やはり、初めての現場であれだけの恐怖を経験したのだから無理もない、エドウはそう思っていた。しかし、彼女にはこれからこの恐怖に打ち勝ってもらわなければならない。
内線の音が唐突の鳴り始め、その内容はわからぬが、この場にいたトッケイの面々は一斉に同じ具合の緊張を示した。内線を取ったのはイシエであった。今までの呆けた姿とは打って変わって、彼女の凛とした言動はエドウを感服させた。
内線による用件はシャチューヌからの呼び出しであった。
“最執長からの呼び出しよ。行きましょう。”
そう言って、イシエは立ち上がった。なぜイシエがこんなにもきびきびと動けるのか、エドウにはわからなかった。エドウはコーヒーのまどろみを抜け出さんとゆっくりと腰を上げると、入り口のドアへと正面を向いた。すると、イシエが声を掛けた。
“エドウ君、最執長室にはこのエレベーターで行くのよ。”
このエレベーターは、四人が乗るにはだいぶ狭く作られていた。右隣にいるディオに触れてしまう分にはどうということはないのだが、それとなく気丈に振舞っている彼女達は、自分達がやっとの思いで取り繕った世界をけっして壊さないで欲しいという、宣告を体からじゅうじゅうと発していた。エドウは彼女達の気丈に振舞わんとするその意志と努力を最大限尊重したいと思ってい、尚且つその気丈さから見える男性感性的な可愛げのなさを指摘したところで、仮に親密度が上がるという手違いが起きたとしてもその親密度が業務上に何の利益をも生み出すことはないとも思っていた。それは明らかにエドウの考えすぎで、徹底的なナルシズムに裏打ちされた思考であった。だが、エドウはそれを矯正すべき悪点とは思っていなかった。
このエレベーターは最執長室まで直通であり、一分も経たずにシャチューヌのいる78階へと到着した。ドアが開くと、目の前には光を吸収する真っ黒な道が広がっていた。トッケイの面々はエレベーターから降りた。エレベーターから洩れた明かりを頼りにイシエが先頭となり進んで行く。
“やぁ。よく来たね。さあさあ、おいでなさい。”
シャチューヌはやはり奇怪な潜水服を着込んでおり、こちらに手招きをしていた。心もちか、今のシャチューヌは今朝よりも動きが軽やかである。自身のテーブルの前にトッケイの面々を整列させると、嬉々とした声音で語りだした。
“本当に今日はお疲れだったね。まさかロロノアダヴィを逮捕できるなんて思ってもみなかったよ。トッケイはボクが直接、設立に関わったからね。こんなにめざましい活躍をしてくれて本当にウレシイよ。”
シャチューヌの言葉はその内容以上の、なにか寓意のようなものが仕込まれているようで、彼らに要らぬ猜疑の念を興させた。シャチューヌが興奮して激しく動いているせいか、服が擦れて非常に耳障りな音、食事中に不躾な者が口を開けながら咀嚼する時の音がしていた。しかも、当のシャチューヌはそれには気づいていないようであった。それはエドウに多少の違和感を感じさせた。
エドウが抱いていたシャチューヌのイメージでは、一挙手一投足のすべてを緻密な計算の上で行い、相手に与える影響までも完全にコントロールしていた。それは、シャチューヌの嘲笑をあえて誘うような行為も例外ではない。しかし、今のシャチューヌにはそういった優れた打算性のようなものをあまり感じない。
彼のその軽妙さも備えた威圧感は健在なのだが、それらはただ思うがままに、小童の玩具遊びのように粗雑に扱われていた。エドウは周りのトッケイの面々の顔をシャチューヌに気づかれぬよう横目で窺ってみた。彼らは何事もないように平然としていた。エドウもこれは自分の思い込みであろうと、頭の片隅から跡形もなく消し去った。
“そういえばさ、エドウ君。君はパルちゃんとのジョウザンに失敗したようだね。”
シャチューヌはエドウに唐突に話しかけた。
“やっぱり、トッケイにいる以上は、ちゃんとジョウザンしてくれないと困っちゃうよねぇ。そうじゃないと、トッケイに引っ張った意味がなくなっちゃうよ。”
エドウはシャチューヌの言動に対してさして脅威を感じることはなかった。今のシャチューヌに対しエドウは大変な強気の構えであった。しかし、エドウの隣にいたパルは心持か少しばかり怯えているようにも見えた。これはパートナーとして行うべき義務であろう、エドウはそう思いダヴィに意見した。
“確かに今回はジョウザンには失敗しました。しかしそれは、彼女が経験不足であることと、私自身もジョウザンシステムというものに少し動揺してしまったからであります。”
エドウは饒舌に、パルに負い目を少しでも軽減させるように今回の失敗の必要性と対応を説いた。それは、一見すれば彼女を思いやって言葉を紡いでいるようにも見えたかもしれないが、ただ単に自身が不能のシャチューヌに対して有能を演じてみせているだけかもしれなかった。やはり、どちらにせよ、エドウはシャチューヌの手の内で粋がっているにすぎなかったのである。しかし、エドウにこの要らぬ痴態を演じさせたのはシャチューヌではなく、パルであった。
その後シャチューヌのくだらぬ談義を二十分ほど聞かされ、トッケイは最執長室を後にした。
エドウが去り際に最執長室を一瞥した時、部屋が一昨日よりもどこか広くなったような印象を受けた。それは単純に室内を模様替えしたというわけではない。この部屋が物質的に変容したのではなく、エドウに与えていた精神的な威圧がなくなったためであろう。思えばこの室内に施された数々の鋳造も、今にも浮き立ってしまいそうなほど調和というものを欠いていた。むしろ、これらの鋳造が調和を極め、人間を拘束していたあの瞬間こそが異質であったのかもしれない、とエドウは思った。そんな彼の思案を知ってか、エレベーターの扉はそんなエドウの思考を断絶するように一際大きな音をたてて閉まった。その当然の視界の変化と、大きく粘っこい音はエドウから考える気力を奪った。
エドウ以外のトッケイの面々も力が抜け、先ほどのオフィスの腑抜けた状態へと戻った。
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パルの人生はすべて、受動的な行為の上に成り立っていた。パルが能動的行為を忌避するのは世間を半端に知ったがゆえの倦怠であろうか、奢りであろうか。自分は能動的行為を拒んだ、だから受動的に生きるしかない。それだけが、彼女の受動的行為をするための拠り代なのである。
しかしパルは能動的行為を完全に否定しているわけではない。拒んでいるのである。ゆえによって、彼女は受動的をしている最中にあってもけっして打ち払うことのできない能動的行為への憧れを抱き、受動的行為をしている自分に虚飾の達成感を募らせてゆく。
それは少しずつ堆積していき、一つのフラストレーションへと変貌してゆく。そして、限界寸前まで膨れ上がったそれを彼女がいかにして処理していくかといえば、その作業こそが彼女の過敏な反応なのである。エドウに高圧的に迫ることや、道化者のような衣装に身を包むことによって、彼女は裡にあるフラストレーションを処理しているのである。
パルのその行為が今まで拒み続けてきた能動的行為への欲求を発源としているが、彼女が求めた能動的行為から得られるであろうものと比較してみると、その微妙な差異が明確に表れる。彼女の能動的行為への欲求から発源した行為は能動的行為の代替となることはない。なぜなら、彼女のその行為はなによりもフラストレーションを発散させるための行為という大前提があるため、真に彼女の求める行為とは成りえないのである。
彼女は自らが求め憧れた行為と同質のことをしていたとしても、フラストレーションの発散のために仕組まれたその即時性と一過性と過激さを含んだ行為を自身が求めた行為とは思えないのである。
この状況を脱するのは、ただ彼女が偏強に受動的行為にしがみ付くことをやめ、素直に能動的行為に拠ればよいだけのことである。ただそれだけのことでも、時として割り切れずに躊躇うのが人の業とでもいうものであろうか。
しかし、今の彼女は大きく揺れ動いていた。それはロロノアダヴィによってである。彼女にとって能動的行為の象徴とは、ロロノアダヴィもしくは、自身の唯一の肉親・兄妹の関係にあるその人に生りつつあったのである。
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パルはエドウとの別れ際に精一杯の作り笑いをしてみせた。エドウがパルに見出した可憐さは死に絶えつつあった。それは夜風を火照った頬に受け自然と顔を仰いだ先に、ほんの一瞬、都会のけたたましい光の中では見ることの出来ない数々の星を見た直後であった。
“あぁ。星がとても奇麗だね。”
エドウはそんな無神経さを発揮した自分を呪った。この一言さえなければ彼女はこんな顔を見せなかったかもしれない。
パルはエドウの運転していた車から少し離れて会釈をすると、ホテルの中へと入って行く。
“また明日。”
エドウは表面張力で満たされたコップから水が少しばかり溢れるような声でそう言った。
パルの作り笑いは今までの彼女からすれば想像だにできぬものであった。彼女は確実に変化の兆きざしを見せ始めていた。それをエドウがどれだけの落胆を持って見ていたかは推し量るまでもなかった。
* * *
ダヴィを捕縛してから一日経ったエドオルムにいるすべての局員は、緊張の中にいた。それは、アシュラ患者への尋問を行うのは史上初の試みを行おうとしていたからである。ましてやそれが犯罪史に名を連ねるような殺人犯ということもありエドオルム全体の空気が殺気立っていた。
捕縛されたダヴィは、エドオルム21階保安部留置室では不相応と判断され、執務部の管轄である64階特別管理区画に仮の監獄を設け、そこに収容されていた。
それは今回のロロノアダヴィ捕縛に一役買ったトッケイも例外ではなかった。ロロノアダヴィの尋問は、主に執務部の専門の取調官がおこなうこととなっていたが、なぜだかトッケイにも尋問の時間が割かれていた。
尋問はダヴィを留置している仮の監獄で行われ、そこには尋問に特化した執務官五人が入り、その監獄前の廊下には精鋭のサプレッサー十人が常駐していた。トッケイがアシュラ患者の事件を担当しているならば、この扱いは不当であるとイシエはその不満げな表情から不服を露にしていたが、エドウは内心安堵していた。それは、ダヴィとパルを徒に引き合わせるのは得策ではないと考えていたからである。どこまで信用できるかはわからないが、エドウはディオから少し奇妙な話を聞いた。
“僕やパルちゃんのようなジョウザンする側は、やはり普通の人とは少し違った能力を持っているらしいんだ。ジョウザンした際に顕在化する能力はその個々人で違うらしいんだけど、同属を嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さは自然的に発露するらしい。同属っていうのは、同じジョウザンの素質を持った人や、アシュラ患者のことだね。僕なんかは特にこの嗅覚が優れているらしくて、アシュラ患者の居場所とかもわかることあったり、相性によってはアシュラ服用前のその人の記憶が見えることもあるんだ。それで、ここからが本題なんだけど、僕がダヴィと遭遇した時にその波長というかイメージみたいなものが僕の中に流れ込んできたんだ。それがね、すごくパルちゃんに似てるんだよ。わかりづらいかもしれないけど、要するに、ダヴィとパルちゃんは何か深からぬ因縁があるんじゃないか、ということなんだ。今回の、パルちゃんとのジョウザンの失敗したのはもしかしたらそれに原因があるのかもしれない。だから、エドウさん。パルちゃんには十分気を付けてあげて。特に今、このエドオルムにダヴィがいるからこそ。”
ディオのアシュラ患者への感受性とそのお節介さはエドウに感嘆の声を洩らさせた。だからといって、ディオの注意を反故に出来るほどに、今のパルがジョウザンできぬことを克服するための明確な方法論がエドウにあるわけではなかった。彼女が現場慣れしたからといってジョウザンが成功するという確証などあるはずもなく、エドウのシャチューヌに対しての強勢は、陳腐ちんぷな精神論でしかなかった。はたしてその精神論でジョウザンシステムの問題が片付けられるかどうかはエドウにも解かりかねた。なれば今は自身よりもジョウザンの手に詳しいディオの注意を信じるしかないであろう、エドウはそう考えたのである。
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トッケイは自班のオフィスでダヴィとの対面をただただ待つだけの時間を送っていた。皆違った意味でも気が気ではなかった。その中で最も著しいのはパルであった。彼女は自分のデスクに着きながらその存在感を完全に消していた。この場所にもダヴィの体温は伝わっていたのである。それは初めてエドウと会った時のあのはしゃぎようからすれば、この姿はとても考えられぬものであった。
エドオルムの中は、罵声怒声と共に凄まじい速さで行き交う男だけの体が異常なほどに五月蝿く感じられた。彼らがこの程度のことで慌てふためいているのはこういったイレギュラーな事態に対して慣れていないのだろう、エドウはそう考えていた。それは見れば見るほど滑稽なものとしか映らなかった。
内線が入った。それを取ったのはエドウであった。エドウとパルが仮の監獄へと招かれた。エドウにとっては喜べない招待であった。
“おはようさ~ん。元気?シャチューヌだよ。みんながお待ちかねのロロノアダヴィへの尋問を始めるから、エドウ君とパルちゃんだけ来てね。イシエちゃんは待機だからね。ここ、きつ~く言ってね。じゃないとあの子、来ちゃうから。じゃね、よろしくぅぅねっ!”
シャチューヌの話芸はまさにサーカス団のための太鼓持ちのために特化した類のものであった。それは恐るべき緊張感の冷度から、一流のサービスショウをぶつけられた時の歓喜の温暖への急激な温度差のために、エドウの思考は一時、混乱してしまった。この時エドウはシャチューヌに事情を話し、パルを尋問から絶対に外してもらうことを確約する考えもないわけではなかった。しかし、それはできなかった。彼はシャチューヌの怪物の如き人為術に見事に嵌ってしまったのである。
そもそもロロノアダヴィが自身の同僚の兄であるなど、どこぞの三流小説でも使い古されたものである。そのものが実際にあるわけはない。なれば、実際に引き合わせて確かめてみればいい。シャチューヌの意図に載りエドウはそんな風に考え始めていた。
* * *
エドウとパルはダヴィの留置されている監獄がある64階高級管理区画こうきゅうかんりくかくの留置室に直通するエレベーターへと向かった。直通エレベーターに行くまでの道のりは、ネズミが好むような、わずかな蛍光灯のみで照らされた薄暗く狭苦しい迷路じみた道であった。その人を寄せ付けぬ奇妙な設計理念のためか、目的の監獄まで歩いた感覚は、実際の距離よりも長く感じられる。ダヴィの監獄に行くには、他の常用のエレベーターでは行くことができず、エドオルムの中で唯一つの直通エレベーターを使わなければならないのである。
エドオルムの重犯罪者を留置するために設けられた高級管理区画の留置室は、その犯罪者に与える不能感と犯罪者留置の機能としては、刑務所のそれとほぼ互角であると云えた。罪人達は、その暗く長い道のりと、留置室とは思えぬほどの貧惨さによって、自らは法の元で裁かれることも許されぬ悪人であり、自身のすべてを公明正大なエドオルムに任せなければならないという責務を意識の根深くへと刷り込まれるのである。
エドウとパルは、一切の無音の中でエレベーターが来るまでの時間を過ごした。いつもなら聞こえることもないであろう、二人の呼吸の洩れる音は、動物園で駆られている獣のそれとまったく同じであった。
エレベーターの液晶が明灯したと直後、耳に粘つくような音が鳴り、エレベーターのドアがゆっくりと機械のモーター音を聞かせるように開いた。
エレベーターの中には五人の執務官がいた。彼らは直にダヴィと対面していたからであろうか、鼻につく臭いがエドウとパルを襲った。当の本人達はいたって平然としてエドウに話しかけた。
“あなた方がトッケイですね。尋問の話は聞いていると思いますが、今呼ばれたのは尋問ではなく、万が一ダヴィが暴れた際に取り押さえるための要員としてです。”
エドウはその瞬間、耳を疑った。アシュラ患者であるダヴィを抑えるためにトッケイに声がかかる事は十分想像ができた。だが、イシエやディオを省いた形で行われるのはどう見ても要領が悪い。これは多分、ダヴィを抑えるために自分達は呼ばれたのではない、エドウはそう考えた。なればエドウとパルのみをダヴィに引き合わせんと画策した、もっと云えばパルとダヴィとの関係に気づいていて、それを意図的にシャチューヌが仕掛けたのであろう。では、シャチューヌはパルとダヴィとの只ならぬ関係を知っているということであろうか。
“とりあえず高管区に向かいます。早く乗りなさい。”
エドウはその五人の中で一番ヒエラルキーが高いであろう女に促されエレベーターに乗った。その女は何時ぞやの高級執務課、入崎Nジュアンであった。
エドウとパルは執務官達の後に続き、ダヴィのいる監獄へと向かう。そこ果てしなく長い廊下であった。横並びで人二人がやっと通ることができるだけの、すべてが白で統一されているそれは蛍光灯の無機質な灯りによって青白く光っている。全体を照らせるように短い間隔で付けられた灯りや、少し高めの天井は、直通エレベーターに向かうネズミの廊下とは大きく異なっていた。だが、この場所は秘匿性を保つためか、自然光を取り入れるような設計はなされていない。
そんな空間を悠然と歩く目の前の執務官達は、狂いなく動く工業用の工作機械のようにさえ思えた。彼らはこの定められた環境でのみ最大の能力を発揮するのであろう。もし彼らが能力を発揮できぬ環境に置かれたならば、その環境を自分達が最大に動くことの出来る環境に作り変えてしまえばよいだけである。執務部の高級執務課にはそれを実行するだけの権力があった。だが、果たしてそれが迅速な事件の解決へとつながるかどうかはなは疑問であった。
高級管理区画の留置室は白純はくじゅんの道のため距離感が鈍るせいか幾ら歩いたかはわからぬが、幾許か進んだ先に、廊下の右側に扉が二つ、左側には三つ見えた。各扉は大分離れており、それだけの室内の広さをエドウに思わせる。左側一番奥の扉の前にサプレッサーが四人ほど立っていた。その中にダヴィがいるのである。もう臭覚は完全におかしくなってしまったのであろうか、悪臭の元凶がほんの数m先にいるというのに、臭いという臭いは気にならなかった。
エドウはいざ、尋問というものを考えてみると一抹の不安を感じずにはいられなかった。
執務官の導きによって、エドウとパルはロロノアダヴィとの願わぬ再会を果たした。拘束されて、監獄の鉄格子を挟んでダヴィを眺めると、本当に恐るべきシリアルキラーであるのかわからぬほどに、ダヴィは身動き一つしなかった。
この時エドウは始めて、パルの様子を確認した。エドウは緊張のためか、パルへの気遣いをまったく欠いていたのであった。それは彼自身も頭を抱えてしまうほどの明確な手抜かりであった。しかし、様子を見る限り、彼女に異常な仕草は見受けられない。エドウはパルへの思いをまたも凍結させ、目前にいるダヴィへと意識を集中させた。
“それでは開錠します。”
そう言うと、執務官はセンサーパネル部分にIDカードのような物をあて、その手元で二、三の挙動をすると、監獄の扉がゆっくりと開いた。エドウとパルは慎重にダヴィのいる監獄へと足を踏み入れた。だが、監獄の中へと入ったところで、今まで彼らが想像していた劇的なことなど起こるはずも無く、少し拍子抜けしてしまった。長机を挟んで数m先には件のロロノアダヴィがまったくの無害さをアピールするかのように首を傾けて鎮まっていた。そのまま何事も起きなければ、自分達はただのセンスの欠片もない俗悪なオブジェに対して語りかけなければならないのか、エドウはそう思ったほどである。
ガチャリ、と大きな音をたてて、監獄の扉は閉められた。さすがにこれには、二人は動揺した。いくらダヴィが落ち着いているとはいえ、いつ暴れ出すかとしれぬダヴィと逃げ場の無い空間に一緒にいることは言い様のない緊張感を二人に与えた。エドウはすぐさま、サプレッサーとして養った自己専制によって落ち着くことができた。エドウが今まで対応してきた暴れ狂う身体のアシュラ患者からすれば、今のダヴィはなんと可愛いものであろうか。しかし、ここは現場で漂う血の錆ついた臭いなどまったくしない。それがエドウの思考を幾分か遅らせる要因となった。
“あなたに掛けられている容疑は、昨夜E街区を在留していた保安官が射殺された事件ですが、別件として十二年前に起きたバビロン・シークレエ事件についても話していただきます。”
ダヴィは、互いの論理が融接することのない距離間を保った執務官の言葉に、まったくの聞く耳を持っていなかった。だが、執務官もそれを想像の範囲内の事象と捉えているようであった。懐に忍ばせた短剣で腹部を突き刺すように執務官は言葉を発した。
“この保安官殺人に関してあなたは不起訴になるでしょう。なぜなら、あなたが犯人だという物的証拠が我々にはなく、それをしゃにむになって探そうという気も毛頭ないからです。我々があなたに聞きたいのはたかが保安官の死に様なのではなく、バビロン・シークレエ事件のことなのです。”
執務官の質問の数々はエドウにとっては茶番としか映らなかった。先刻の執務官の発言のようにこの尋問は保安官射殺の件で行われているのではなく、ダヴィがバビロン・シークレエ事件の真相をどれだけ掴んでいるかという確認のために行われているのであろう。
エドオルムは権力による弾圧、それはもはや潔癖とでも言い換えられるものによってバビロン・シークレエ事件のありとあらゆるものを封殺してきた。今ここでダヴィが現れ、その潔癖の尽力をもって完成させたサリヴァンの中に、ダヴィの汚らわしい口から放たれる現実が入り込むことが我慢ならなかったのである。
エドオルムはすべての情報を手の内に入れた上で完全にコントロールしてゆく自身に、オーガズムに近しい快楽を覚えていたのである。エドオルムが誇るその秘匿性質や無意識に起こし得る威圧的態度はすべてこれが根幹にあると云ってもよい。
なれば、エドオルムという大きな組織そのものが秘匿と威圧によってオーガズムを感じるというならば、それを構成する人員一人一人がまったく同じような快楽を得るのであろうか。
エドオルムを構成する保安局員達は、それの激しいオーガズムを空間に対する熱狂として感ずるのである。それは肉体的快楽を凌ぐ、薬物の摂取時に感じる快楽に近しいものであった。
* * *
執務官の質問はさらに粘っこく、一見雑駁ざっぱくを思わせるようでいて実に計算高く考え抜かれた構成の内に行われていた。しかし、そんな執務官の戦略に対しても、ダヴィはまったく動じることはなかった。むしろ、この尋問を格子を挟んで聞いていたエドウの方が体力的にも精神的にも疲労していった。
ダヴィのいる監獄の中は、大きな髑髏どくろのような魔獣の栗の中に身を晒し喰われるか否かを試すような、おおよそ人間の智の及ばぬ空間となりつつあるとエドウは感じていた。
生身でダヴィを長時間感じているサプレッサー達が命のない蝋人形になってしまっうようにこの空間ではありとあらゆる物質が、あらぬ物へと流転してしまう法則があるように思われた。堅いはずのリノリュウムの床はスポンジのように歪み、千切れ、体の自由が奪われ不意に手を着いた壁には脳へと直接音が伝わる。それは彼らがダヴィの発生させる毒気のようなものに中てられ五感を狂わされてしまったのだろう。エドウはその瞬間、トッケイへの移属のために最執長室を訪れた時の酩酊の体感を脳裏に置いた。あの時の体感とこの場の体感は非常に似通っていた。ただ、ダヴィから感じたものの方が幾分か人間味があった。
突然、尋問をしていた執務官の長机に置き据えられていた内線がけたたましく鳴った。エドウもパルも集中していただけにその音にはとても驚かされたが、執務官はなんの反応も無く、受話器を手に取った。
“エドウ特別執務官、最執長から電話です。”
エドウは受話器を受け取り、恐る恐る耳へとあてた。
“もしもし?シャチューヌだけど。あのさぁ、ダヴィの尋問だけどねぇ、パルちゃんにやって欲しいのよ。パルちゃんの初体験ってことでさぁ。やっぱイロンナコト、ヤッとくべきだと思うからさぁ。じゃ、パルちゃんに替わって。”
エドウは何も考えずに受話器をパルへと渡した。
“最執長から話は聞きました。我々は一旦退室することとします。後はお二人にお任せします。”
執務官は機械的に荷物をまとめると一切の不審を見せずに監獄を後にした。彼は本当に何も思っていないのだろう、エドウはそう感じた。
取り残されたエドウとパルは、改めてもう一度ロロノアダヴィを見た。それはただの、板のようなものに真白い布で縛り巻き上げられた虚弱な男であった。
いざ、ダヴィへと自身との親類関係の有無を聞くことのできる立場にあるというのに、パルは一向に乗り気がしなかった。それは、ダヴィが自身となんらかの関係があり、それがもしか兄妹の仲ではないだろうかという考えを、感情的な情報を肥大化させた誇大妄想の域を出ておらず、信憑性の高くない、危ういものとして捉えていたからである。
彼女が今までこのように感じ、考えたことなど他に一度も無く、自分がなぜこのような思いを巡らしたのか、要因を究めたいと思ってはいた。それでも、執務官の向こう側にいるダヴィに対し質問を行うことに不安を感じていた。なぜなら、パルにとって家族、この場合はダヴィが兄かもしれぬということは、彼女の中であまりにも情熱を欠いた、冷め切ったものとなっていたのである。
もしの、本当にダヴィが兄であったとしたら、今の彼女の人生は間違いなく壊れるであろう。それは、ライ狂人の兄を死ぬまで看病し続けなければならないけなげな妹の姿か、一級のシリアルキラーの妹として社会の前に姿を晒さぬよう、一生の地下生活かのどちらかである。そこは光も透らぬ絶望の真暗闇であろう。それは今の彼女にとって耐えられるものではなかった。しかし、どのような状況であったとしても、本当の兄かもしれぬダヴィとの過ごすことのできる時間とは今までのパルには感じることのできなかった何か、彼女が心の底から真に欲していた何かを得ることができたやもしれぬ。
彼女が今、悩み苦しんでいるのは、このダヴィとの対面の中で、彼との関係を探ってゆくことによって、壊れてゆくものと新たに得てゆくものが、雑技団のテントを飛び交う空中芸のように互いがぶつかる寸前をすり抜けるようにして動いているからである。もし、互いがぶつかりでもしたら、その衝撃によって彼女は糸の切れた人形のように動かなくなってしまうかもしれない。
そんな状況の中で、パルはダヴィとの距離をどこまで詰めればよいかわからなくなってしまった。彼女に自分の過去生、記憶なき家族・兄ダヴィとの思い出などの輪郭を見せたところで、背中を後押ししてくれるような効果は望めなかった。
* * *
パルは沈黙を保ったまま口を開こうとはしなかった。そもそも、正規の局員研修すら受けているかどうかも疑わしい彼女にこんなことをさせること事態が無謀であった。だが、パルとダヴィのことを知っているエドウとしては何らかの効果を期待する念もないわけではなかった。五分ほど沈黙が続いたであろうか。さすがに自分の苛いじめめ根性に嫌気がさした。
取調べをまったく行えないパルに変わり、隣にいたエドウが口を開いた。
“ここにいる、シュナイターパル特別保安官とあなたに何らかの接点があるのでしょうか。”エドウの質問に、パルは動揺を抑えることで精一杯であった。彼女はできるだけ、自身の素行を表わさぬように神経を使っていたつもりであったが、まさかこんな男に見破れようとは思ってもみなかった。
しかし、このようなものは一度転がり始めてしまえば、何かにぶつかるまで止まることはない。なれば、一旦はこの運動に身を任せて、出させるべきものは出させてしまおう、このまま考え込んでいても今の自分にはきっと何もできまい、パルはそう考え、エドウの愚考を受け入れた。彼女は自らの奢りに目前のダヴィを斥しりぞける酔いの力を見出した。
その“パル”という単語は、監獄の中で信じられぬほどに違和感を持ち始め、この空間を壊すことのできる唯一の綻びであるのではないかと思われた。
“では、質問を変えます。あなたはシュナイターパルという人物を知っていますか?”
エドウの質問の対してダヴィはまったくの反応を示さない。そもそもアシュラ患者に対して言葉を掛けているこの構図事態があまりにも滑稽なものだとエドウは感じた。
いつも腐乱臭と雄叫びを纏わせ襲いかかって来るアシュラ患者を、罵声と弾丸によって吹き飛ばそうとする現場でしかやり取りをしてこなかったからである。アシュラ患者には言葉など通じぬと思っていた為、こんなことをしようなどと考えたこともなかったが、自身が今まで処分したアシュラ患者へ語りかけなどすべきであったのかもしれない。
エドウはそんなことを考えながらも幾多も言い回しを変えながら、ダヴィへパルとの関係を問いた。彼には取り調べの心得など一つもなかったが、何とかしてパルの話題から、ダヴィの口を割らんと苦心した。しかし、一向にダヴィは喋る素振りを見せようとはしなかった。エドウは焦る気持ちを抑えつつ、これからじっくりと詰めてゆけば良いと楽観的に考えた。オブジェと化したダヴィに対しエドウは余裕の感ができつつあった。
“私がパルです。エルシェSパルです。”
隣で硬直していたパルが、沈黙を破り言葉を発した。それは風にそよぐ青々しい枝葉のように弱々しい口調であった。
彼女の声音はこの空間に澄んだ響きとして広がり、エドウや外で待機する執務官、サプレッサーの胸に率直に入っていくものであった。しかし、当のダヴィは何の反応も示さない。パルはそんなダヴィに対し、何度も自分の名を呟いた。今の彼女にはそれ以上の言葉を紡ぐことができなかったのであろう。
自分の名を言う度に、感情が昂まり、言葉に熱が篭ってくる。顔はほんのりと紅潮し、体制は机に着きつつも前へ前へと傾いてゆく。今なら言えるかもしれない、彼女はそう思った。
“…お兄ちゃん。……私パルだよ、お兄ちゃん。”
体の中に引っ掛かっていたものが、その穏やかな感情のせせらぎによって、咽喉へと伝わり口からゆっくりと洩らした。
それを聞いたダヴィは無音を裂くように唸り声を上げた。エドウもパルも虚空に投出されたように息が止まった。唸りは徐々に大きくなる。速い心拍に合わせてうねる動脈は、ダヴィの体を激しく動かす。その勢いのままに、後頭部を、体を縛り付けた板へと思い切りのいい音をたてて打ちつけた。その音により、ダヴィの騒乱は終わった。ダヴィは頭皮から血を垂れ流し、顔をだらんと伏せた。
誰しもその凶行を止めることはできなかった。なぜならそれは、過剰な自傷行為ではない、ダヴィが自身の中の何かを押し殺そうとする必死の抵抗だったからである。
そしてゆっくりと、パルへと視線を上げた。それから数瞬後、パルは泣き崩れた。ダヴィのパルを見る目線はシリアルキラーとは思えぬほどに、あまりにも温かく、優しいものであった。
彼ら二人の間には言葉すら交わされていなかった。
パルがダヴィの瞳の中に何を見たのかはエドウにはわからなかった。中の異変に気づいたか、サプレッサーが銃を構えて入ってきた。監獄を満たしていた生温かい空気は、一瞬で外の廊下へと流れ出ていった。泣き崩れたパルを抱くようにして、エドウ達は監獄を後にした。
先ほどのパルの憐れな姿にも、ダヴィの優しい眼差しにも虫唾むしずのようなものを感じていたエドウはけっしてパルの歩調に合わせようとはしなかった。この時の彼は自身の素行の無礼さすらも気づけぬほどに苛立っていた。しかし、何に対して苛立っているのか、エドウ自身にもわかっていなかった。