一章③
* * *
“もしもし、おじさん?パルよ、パル、パル。いつものハニトーお願い。おサトーと生クリーム、ケチっちゃ駄目だかんねっ!絶対ねっ!”
パルは朝起きるとまず一番に、ルームサービスでこのホテルの二階にあるコーヒーショップのキャラメルハニートーストを注文する。これは彼女がこの町に来てから一日も欠かすことなくおこなっている習慣である。
ベッドのうえで四つん這いになり、めいっぱい手を伸ばしてルームサービス用の受話器を戻すと、彼女ははやる気持ちを抑えながらベッドの上へと再び体を埋めた。
しかし、それでも抑えきれぬハニートーストへの期待は、彼女を勢いよく立ち上がらせる。そのまま、純白に装ったクローゼットへと歩いてゆく。その中には蛍光色に富んだピエロのような衣装があった。パルはそれを姿身の前であてがうと、軽やかに体を揺らした。それはあまり品の良い物ではなかった。
彼女には生来の貧乏性のようなものがあった。クローゼットの中に入れられた衣服はすべて同じものであった。彼女が先ほど頼んだハニートーストもこのホテルに着てからずっと食べ続けているのである。挙句の果てに、体調を心配したコーヒーショップのマスターが、おまけで野菜のサイドディッシュを添えてくれるほどであった。パルはそれにいたく感激した。
彼女の欲求は自分が憧れていた衣服を何着も持つことや、気に入った菓子を食べ続けることそれ以上のものがなかったのである。
インターホンが鳴った。ホテルボーイがハニトーストを運んできたようである。
“はぁぁぁい。”
パルは威勢よくボーイを出迎えた。
3
エドウは今朝からのエドオルム内の慌ただしさが何であるかわからなかった。行き違う局員は口々に“ダヴィ”の名を漏らした。
ダヴィ、総称ロロノアダヴィとは、保安局前の警察組織の精鋭部隊であった市装兵団の全滅によってその名をこの町に恐怖と共に轟かせた。サリヴァン最大の複合施設であったバビロン・シークレエに現れたダヴィは十二人の市民が殺し、さらにそこへ突入した市装兵十五人全員を殺害し逃亡した。これは、サリヴァンの絶対治安神話を崩壊させ、保安局最執部という新たな警察組織体制の樹立を意味した。この町のシャチューヌを頂点とした保安局という警察組織が作り上げられた背景にはロロノアダヴィというの伝説的シリアルキラーの存在が大きく帰依したことは誰もが知るところであった。
だが、エドウは、それが伝説的なシリアルキラーであったとしても、アシュラを服用したアシュラ患者である以上無闇な感情論を振り翳すようなことはなかった。
彼にとっては、アシュラ患者も一被害者にすぎない。その考えは、アシュラという劇薬に飲み込まれ字の如く身も心も陵辱されてしまった彼らを救済の元に解放する、という大業なものではなかった。壊された機械を優しく修繕するように、あるべき姿へと戻してやろうという、淡い思いをエドウに持たせたのである。
だが、彼のアシュラ患者に対する攻撃欲は、そのようなことを微塵も感じさせない残虐なものであるかもしれない。それは、彼らも一刻も早いアシュラからの解放を目的としており、むしろ、アシュラ患者を騒ぎ立てて周知に晒すことのほうがエドウにとっては忌行なのであった。
エドオルムの異界として名高いトッケイもこの日ばかりは他局員と同じ慌てようであった。エドウの存在に気づいたイシエは、大変落ち着いた口調で言った。
“エドウ君。これからロロノア・ダヴィの捜索を行うそうです。私たちトッケイも警邏捜索に参加するので、仕度を整えてください。シュナイターさんは、エドウくんに着いてください。いつでもジョウザンシステムが使えるように。”
エドウとパルはエドウのために調整されたジョウザンシステムの適合者がパルなのであった。
エドウは仕度を整える中で、ジョウザンシステムという奇怪な装飾の腕輪をまじまじと見つめていた。これが、エドオルムの誇る対アシュラ患者への現在最も有効な武装である。これは、魔術や呪術のような人智を超えた力によって作られているという妖しき噂までたっていた。しかし、彼はこのジョウザンシステムの中に潜む破壊力を見極めることができなかった。エドウはそれの得体の知れぬ何かを警戒していたなぜなら、怪物であるアシュラ患者を屠ることの出来るジョウザンシステムは、彼にとってはアシュラと同等の恐ろしい物なのである。
* * *
タイヤはコンクリートに齧り付きながら車体を着実に前へと進めて行く。イシエとディオを乗せた車は、エドウ達と異なる巡回ルートを、風切る如く駆け抜けていた。
彼女にとって、この町の平和とは何であるか、彼女が守るべき市民生活とは何であるか、それを知り得るほどに彼女は自身と向き合っていなかった。
彼女が殉じているのは、この町の治安を守る職務であってこの町の平和という、彼女の町に対する見聞から内発的に発生したものではない。これによって彼女の日々の職務に支障が出るかと云えば、そんなことはない。
しかしそれはイシエと職務という無機的な関係の上でのみ言えることであって、ひとたび有機的なもの、動植物や、人間に対しては彼女の対応は非常に芳しくないのである。そういった物を見たり聴いたりする時に感ずる人間の一種の鮮明な感情、生命と歴史が紡ぎ出した美しさといものを彼女は感じられないのである。そういった感情の豊かさ・起伏・寛容さなどはそのまま自分そのものを、澄むよう明確にしてゆく哲学と結びつく。
この哲学がすなわち、この町の平和とは何であるか、という事柄なのである。哲学のない彼女の行動はやはり、どこから見ても少し間の抜けたものとなってしまう。そういった行為では、有機的なる人間に効果など期待できない。
しかし、彼女がなんらかの形でこれに気づいたところで、この町にはこれに対しての対応策を編み出すだけの環境が整っていない。この町に哲学を呼び起こすような有機なる源泉がないのである。
イシエのこの状態は決して彼女のみに限ったことではなく、この町に住むすべての人々に当て嵌まるのである。
* * *
ディオはイシエの駆ける車で町中を巡回しながら、地図に印を記入していた。アシュラ患者に対し、プロファイリングのような捜査方法は基本、無効であった。彼らには行動心理もなければ人間のような身体的習性もない。まさに人有らざる怪物、アシュラそのものなのである。そのために保安官は彼ら個々の個体から、行動パターンを直接の関わりを元に組み立てていかねばならなかった。
アシュラは人体に入ったその瞬間に、その肉体の急激な変態に伴ない、個人の身体的習性や思考・感性と化学反応のようなものを起こし、まったく異なるもう一つの原理を創り上げる。これは、アシュラとそれを摂取した人間との唯一無二の関係の中で生まれるものであり、何一つとして同じ原理は存在し得ないのである。例え、瓜二つの双子がアシュラを服用しても、その行動原理、果ては姿身さえもまったくの別物となってしまうのである。
そのためアシュラ患者と対峙するトッケイにおいて何よりも重視されるのは、地道な捜査の中でいかにアシュラの原理に近づくことができるか、ということである。
それは、ジョウザンシステムの適合者となったディオやパルにしかできぬ行為であった。言い方を換えれば、彼らはその数瞬だけ、アシュラ患者と同質のものになっているのかもしれない。
“イシエさん、次の交差点を左に行ってもらえますか。F街区の135番から番外に出てください。”
何かを感じたディオが空かさず言った。イシエはディオの言葉を信じ、ハンドルを左に切った。ディオの頭の中へ波のように何かが入ってきていた。
それはかすかに聞こえる鈴の音のようでもあり、彼を強力に引き寄せる磁力のようでもあった。
イシエとディオの車は、閑散とした郊外の黴臭い通路を走り抜ける。そこは浮浪者、ジャンキー、殺人を生業とする輩のテリトリーであった。サリヴァンには、エドオルムから離れていくほどに、このような保安局の治安政策から零れてしまった地域が数多く見受けられる。
イシエとディオは、広々とした空間に出た。そこには、生命力にすべてを任せ、雑然と荒波のように繁った白根や茎に覆われた、レンガ造りの工場があった。その工場は、この土地が開拓された当初に建てられた非常に年季の入ったものであった。
イシエとディオは車内から周りの様子を観察した。
“いるの?”
イシエは視線を外へと向けながら、ディオを見ずに尋ねた。ディオは工場の資材搬入用の錆びれて歪んでいた大入り口を凝視していた。
“いますよ。”
その向こう側に彼は何かを感じていた。大入り口から一人の男が現れた。
“奴だ。”
ディオがそう言うと同時に、イシエが無線機に手を掛けた。
“こちらイシエ。番外Fでロロノア・ダヴィと思わしき人物を発見。接触します。”
ダヴィは空を仰ぎながら、この工場の凄惨さに感傷に暮れるが如く、ただ佇むだけである。ディオにはそれが不可思議でならなかった。ここまで心穏やかな気持ちでアシュラ患者を見たことがなかったからである。
ロロノアダヴィはテトラポッドの周りを楽しげに遊泳する寂しくも愛らしい魚であった。そのまま彼は、このような工場が何十棟にも群がって出来た工場廃地の奥へと、女形男優のような足取りで入って行く。
ディオもそれを追跡せんと車から降りた。しかしそれは、明確に追跡をするという意志が働いたというよりも、ダヴィの春陽の穏やかな暗示に罹り身が弾むように疼きそれに合わせて足が前に出ていたのである。イシエもそれにつられ、車内から抜け出てディオの後へと続いた。イシエは咄嗟の機転から無線機を通信状態にして置き、少しでも位置の特定を容易に出来るように図った。三人が三人、
イシエはその緊張のためか、その強張る筋肉を必死に動かしながら、ディオの後をついて行く。これは彼女が実戦経験が少ないために起こしているのではなく、ディオのいつにもない身の軽さ、ひょうきんさのようなものに驚いたために起きていたのである。こと、追跡や不可避な交戦において、彼の非凡なる能力は十分に発揮され、それはイシエが大いに信頼を寄せることのできるものとなっていた。しかし、今のディオは明らかおかしく、一端刃を交えると一種の躁状態に自分を追い込む癖とは異なり、その軽妙さは普段の彼をしても考えられぬ身の振る舞いであった。この時間はなんの意義もなんの価値もない透明なものであった。それは気づかぬうちにイシエやディオを飲み込んでいた。
イシエは危惧した。このままでは自分達は、何をもなさぬままにダヴィの餌食となってしまうだろう。先のことなど、周りのことなど考えられぬ。この状況を打破することでイシエは手一杯であった。
風鈴のように歩みを進めるディオの肩へと、おもいきり曲げられた板バネのような動きでしがみ付き、イシエは叫んだ。
“ディオ!”
その瞬間、ディオは我に帰った。時間は唐突に彼らに現実を突き付けた。
イシエとディオはダヴィに誘われるがままに、廃工場の中に入っていた。工場内は三者が十分なドッグファイトができるだけのスペースと、あとは迷路の如くはりめぐらされ大小の配管パイプに占められていた。
後ろには不安の表情を浮かべるイシエがいた。ディオの前方十五メートルにはイシエの叫びに反応してか、ダヴィが二人を正面に据え、顔を伏せながら立っていた。
ディオの全身の汗腺から汗が吹き出した。例えイシエが声を上げなかったとしても、ディオとの一連の関係性、互いに交信間が途絶えた時点でダヴィは彼らへと明確な殺意を向けたであろう。
“イシエ、彼とは戦うことになりそうだ。ここで足止めをして包囲網を作るだけの時間を稼ぐんだ。”
ディオはそういうと両手に、胸のサスペンダーに備えられていた短刀を持った。イシエは頷くとジョウザンシステムを懐から取り出す。彼らは、ゆっくりとロロノアダヴィとの間合いを詰めていく。
しかし、こうして刃を構えて近づいてみると、歴史に名を残した殺人犯であるロロノアダヴィだと考えてみると、今のこの瞬間は少しばかり拍子抜けしてしまった。彼は今までイシエやディオが戦ってきた数々のアシュラ患者とまったく同じだったのである。それは、先ほどの呪術的な暗示さえ潜り抜けてしまえば、そこにいるのはただのアシュラ患者でしかなかった。
だとしたら、ロロノアダヴィの特異性というものはその伝聞から推測されるような凶暴性にあるのではなく、呪術的な暗示を二人にかけたあの魅力であるのかもしれない。だからこそ、今その魅力を欠いたロロノアダヴィは一介のアシュラ患者に成り下がっているのである。
あと六歩も進めば、ディオの踏み込むことの出来る間合いである。二人が間合いに入るまでの五歩目を踏んだ時、ダヴィは恐ろしい奇声を上げて、体を屈めた。懐に捩じ込んだ手は確実に拳銃へと伸びていた。
イシエはジョウザンシステムを顔前に掲げた。
“システム起動。”
すると、ディオの肉体の核心部は光となり、体組織は粒子となった。その光と粒子はイシエの全身を覆う。それは昆虫のサナギにも近しい。彼女の肉体を一時的に分解し、ディオの核心と粒子を混合させることで、まったく別の状態へと変態するのである。それは光速で行われる数秒の出来事である。彼女の肉体は屈強な男の体になった。
これが、イシエとディオがジョウザンした、“デュオウルフ”ディオの真の姿である。
デュオウルフへ目がけ、ダヴィは二丁の改造拳銃を構え、弾丸を放った。デュオウルフは大型のパイプの隙間へと身を滑り込ませた。ダヴィの弾丸はそれらのパイプに当たり、ヤニに臭いのするパイプの破片を四方に撒き散らした。デュオウルフは工場にそのままにされたコンベアーの配電機や天井からぶら下がった塗装用大型ブラシなどの廃機材の間を縫うように進み、ダヴィはそれらを踏み潰さんとする勢いでデュオウルフを追った。
両者は相手の姿を捉え切れてはいなかったが、着実に互いを感じていた。彼らはいちいち視界に相手を留めなければ気が紛れてしまうような、低能な戦いをしているのではなかった。彼らが見ようとしているのは、相手の意識が事切れるほんの刹那の無防御状態、その一瞬の姿であった。そこへと刃をねじ込めば、肉体は死に絶えていく。さすれば、勝敗は決したも同然である。だからこそ、彼らはその懸心の一打のためにすべての挙動を逆算的に編み出していく。
デュオウルフの蛇行の軌跡に沿うようにダヴィの放つ弾丸は、嫌味ったらしい大音を響かせている。音だけを聞いていればダヴィはただ弾を外しているだけかと思うかもいれないが着弾位置は確実にデュオウルフに近づきつつある。この調子なら、このまま逃げ回っていても、十発前後目の弾丸でデュオウルフの頭部は完全に撃ち抜かれる。その前までに、こちらが先に攻めてダヴィを降すしかない。デュオウルフはそう考えると、今までの無駄のない回避の軌跡からは考えつかぬようなあさっての方向へと駆け出した。その動きには鋭いキレがなかった。ダヴィはそこへすかさず弾丸を放った。その弾は流血の有無でしか着弾か否かを判断できないほどに、デュオウルフの体に重なって見えた。外れた数発の弾が大型パイプを留めていたボルトを破壊し、その一連の機材が砂埃を巻き上げながら崩れていった。勝利を確信したのであろうか、ダヴィは不用意にその瓦礫の近くへと鈍い音を立てて着地した。ダヴィはその瓦礫の山へとゆっくりと近づいて行く。デュオウルフに最後の一撃を喰らわせるためであろう。瓦礫の山とダヴィの存在以外では、この廃工場は普段と変わらぬ静けさと陰惨さを取り戻していた。標的を感じ取ったのだろうか、ダヴィは瓦礫の山へと銃口を向け、装填されていたすべての弾を撃ち尽くした。その銃声の反動のせいか、周りの空気はとても冷たく、重い。ダヴィは射精を終えた後の蕩けた顔をしてこの場から立ち去ろうとした。その時である。廃工場の壊された窓々から、自然のものとは思えぬ不可思議な肌触りの風が吹いた。ダヴィは恐るべき俊敏さで身を捌いた。なぜなら、瓦礫の中から突如として舞い上がった火の粉が風にのって徐々に人の姿へと寄せられていったからである。
これがデュオウルフ秘術、ヒノトリとカミカゼの合わせ技であった。
その火の粉と交わった紅く血粘っこい風はダヴィの懐へと入り込み、左手と思われる火の粉の集まりをでダヴィに掴みかかった。ダヴィの体を掴むことはできなかったが、見事片腕を掴み、肘の根元からそれを引き千切った。ダヴィは低い唸り声で苦悶を浮かべながら、火の粉との距離をとった。火の粉はどんどんその密度を上げていき、それはデュオウルフの姿になっていた。彼らは最初に対刀した時と同じような状態に戻った。双方それなりの手負いはしていたが。
“イシエ、もうもたないか?”
“…ごめんなさい。少しきつくなってきたわ…。”
これ以上、イシエの体に無理はさせられない、デュオウルフはそう考えた。ジョウザンシステムは字の如く一人の人間の肉体の上に、もう一人の人間の特性・能力・思考を上乗せする、すなわち乗算するのである。それは、特性や能力・思考を上乗せする側の人間は、上乗せをされる側の身体的な限界を受けなければならないということを意味する。たとえ、でデュオウルフが非常に優れた特性や能力を持っていたとしても、それをイシエの体が受け切れなければ使うことはできない。もし限界を超えた能力を使おうとすれば、イシエの身体はその過荷重に耐えられなくなり崩壊してしまうだろう。先ほどのヒノトリとカミカゼの合わせ技でイシエの疲労はピークに達した。これ以上は逃げ回るだけでも精一杯であろう。
デュオウルフはダヴィの千切れた左手に握られていた改造拳銃へと手を伸ばした。この時、ダヴィが何処で改造銃を手に入れたのか、などと考える暇もなかった。デュオウルフは銃をダヴィに向け引き金を引いたが、弾が出ることはなかった。激鉄の寂しい音のみが辺りに響いていた。
* * *
ダヴィは意識を取り直したのか、デュオウルフにゆっくりと近づいてきた。左手を失いながらも、口を使いながら器用に拳銃への装填をしている。ここで逃がしてしまうと、ダヴィの凶行は罪なき市民に降り注ぐこととなる。ここは退けぬ場であった。その時である。
“ディオ!”
銃を構えたエドウが静惨のみに支配されていた二人の間に入り込んできた。デュオウルフは安堵した。エドウがここに来たということは廃工場外の包囲網は抜け目なく出来上がったということだろう。このエドウへの信用は、自身の戦士としての経験から培った力眼によるものであった。エドウの一言に続くように、大入り口には車両や防御装を纏ったサプレッサーや保安官が囲こっていた。
突如として、ダヴィは、殺意が消えてイシエとディオが会った純真無垢な魚となり、その場に硬直した。その目線の先には、大入り口から望むサプレッサーや保安官の奥向こうの、黒い乗用車の中で待機するパルがいた。ダヴィの殺意はパルによって打ち払われたのである。
ダヴィは獣のような鋭く息を吐くと、パルの乗用車目掛けて凄まじい跳躍をした。頭上を跳んでゆくダヴィに対し、息だけは上がっていたサプレッサーや保安官はなにもできなかった。それは突然の刹那の出来事であった。誰一人として事態を把握できぬ中、その中でもずば抜けて思考の起き上がりが早かったエドウはパルの元へと駆けて行く。
“エドウ、ジョウザンシステムを使え。それならダヴィと戦える。”
デュオウルフは駆けるエドウにそう言い放った。
* * *
パルは突如として視界に入り込んできたダヴィに呆然としてしまった。彼方の人ごみから跳んできたダヴィはパルの乗る車のバンパーに着地した。凄まじい衝撃にパルはむち打たれた。ダヴィはパルに目掛けて拳を放ち、車のフロント硝子を叩き割った。割れた硝子の破片と共にダヴィを涎が彼女に降りかかった。
この時パルは初めて、自身が置かれた状況を理解した。しかし、この時のパルにできたことは、震える身を小さく縮めて、氷雪のように崩れてゆく自分の意識をダヴィに侵されぬように涙を堪えながらささやかに守ることだけであった。
ダヴィはダヴィの鋭い爪がパルの頬の皮膚を削り取った。嗅覚には、歪み潰れた車から出る、鉄の強烈な臭いとダヴィの腐乱した血の臭いが纏わりつく。頬の微かな傷口からその臭いが体内に入ってくるような錯覚さえ覚え、パルは意識が飛びそうになった。そのために起きた幻聴であろうか、ダヴィが自分に対し、
“パル、パル。”
と呼び掛けてくる何者かの声を聞いた。
パルは虚ろな瞳でダヴィを見た。自分は犯される、そう思った。しかし、目の前のダヴィはパルの死角から現れた黒い影に蹴り飛ばされた。その影はエドウであった。
エドウは歪んだ車のドアをこじ開けると、パルを引きずり出した。パルは無表情であった。ただただ震えているだけであった。そんなパルをエドウは全身でゆりかごのように包み込んだ。それは所詮、人間が自然を真似た模造の産物であった。
“ジョウザンをしよう、パル。今ここでダヴィを倒すことができるのはパルと俺だけだ。パルの力を貸して欲しい。俺にはパルが必要なんだ。”
彼の言葉には生々しい澱みがない。それは、彼がこの言葉を彼女への気遣いとして言ったのではなく、一つの業務におけるプロセスとして言ったからであった。パルとの人情芝居に興じられるほど、エドウは腕の立つ役者ではなかった。
パルの憔悴し切った瞳にはエドウが映っているだけであった。彼女に考えるだけの余力はなかった。
“わかった。”
パルの返事もまた、エドウと同じく一切の澱みがない、小川のせせらぎのようであった。しかしそれは、エドウのものとは大分異なるあまりものを考えない浅はかな返答である。
エドウは懐からジョウザンシステムを取り出した。
“システム始動。”
彼はその整えられた声音で静かに呟く。その言葉と同時に、パルは自身の裡から零度の白い靄のようなものが溢れてくるような感覚を覚えた。これがジョウザンシステムというものか、とパルは思った。パル自身は、なぜ自身がジョウザンシステムの適合者となりえたかなど知る由もない。彼女はそれを自分から知ろうとも思わない。なぜなら彼女は、自身の身に降りかかってきた行為はそのまま受け入れさえすればいい、そう思っていたからである。ジョウザンの光はパルの心の裡を照らした。
彼女の人生はすべて、受動的な行為の上に成り立っていた。能動的行為を彼女が忌避するのは世間を半端に知ったがゆえの倦怠であろうか、奢りであろうか。自分は能動的行為を拒んだ、だから受動的に生きるしかない。それだけが、彼女の受動的行為をするための拠り代なのである。しかし彼女は能動的行為を完全に否定しているわけではない。拒んでいるのである。
彼女はこのジョウザンの瞬間を実時間としては一秒にも満たないかもしれないが、今まで生きてきた自身の齢をじっくりと鑑賞できるほどの長い時間とも感じていた。
気づくと彼女の前に白い壁が現れた。これはもちろん、彼女の脳内の出来事である。ここから先は彼女が今まで立ち入ったことのないスペース、記憶がまったくない六歳以前のものである。これもジョウザンシステムの恩恵であろうか。彼女はいつもなら触れぬその白い壁にそっと手を触れさせた。
白い壁はその見た目とは異なり、非常に脆く、あっという間に乾いてひび割れたペンキのように粉々になり、雪のようにゆったりと落ちてきた。彼女はその白い壁の向こう側に一人の青年の姿を見た。姿かたちは違えど、今のパルにはそれが誰だかわかっていた。
彼はロロノアダヴィであった。
パルはエドウとのジョウザンに失敗した。
パルは驚愕した。それは自分の裡にロロノアダヴィを見たからではなく、今現在見ていたダヴィと裡に表れたロロノアダヴィとが互いに混ざり合い、奇妙な存在感を醸し出したからである。パルの中のおぼろげな幼少の記憶は、ダヴィによって形あるものとなった。