表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
2/62

一章②



   2



目を開いた時に一番最初に見たものは、老人の顔のシミとも思える天井の模様であった。


エドウは、どうやらあの狼面の男がアシュラ患者を屠った後、すぐに救護班に連れられ、このエドオルム内の局立病院で最善の治療を受けられたようだ。痛みなどもまったくなく、その不自由は身体に悶々とするだけの日々が続いたが、もともとの彼の治癒力の高さあってか、目覚めてから一週間もすると病院内を徘徊できるまでに回復していた。

そんな彼の日課となったのは、外光を燦燦と受け入れるラウンジで、寛いでいる患者達の姿を午睡を交えながら観察することであった。

彼は病人たちが健全であろうとしながらも、目の前に立ちふさがる肉体の損傷に対し、苦虫を噛み潰した表情を現す瞬間がどうしようもなく愛らしく思うのである。


彼らは自身体の損傷に対し、闘争本能とでも言えるような情熱を持て向き合っている。しかし、闘争本能のような情熱の源は、紛れもなく損傷した身体それなのである。それは、自身体の損傷とその情熱の対立関係を自らの意志で成立させたところで、そもそもの対立関係などできうるはずもないことを意味する。

かといって、一度作り上げた関係を壊して作り直すことは、不安を呼び起こす要因たりうるし、壊したところで本当に今の自分に必要なものがわからないのである。

病人たちの表情にはそのようなことに気づきつつも何もできず、ただただ時間の経過と共に自身体の免疫による修繕(しゅうぜん)に身を任せざるを得ないことへの無念さをエドウに感じさせるのである。

ここでエドウが見てきた病人たちは比較的中・軽度の損傷の者であり、重度の病人に対しエドウはまったく同じ感動を受けるかといえば、そうではない。彼は重度の病人を忌み嫌っていたのである。

なぜなら、重度の病人はその重い身体的損傷とそこから発生する感情が乖離(かいり)することなく、かといって互いを相殺することもせず、まさに調和しているとも捉えられるような姿をエドウに示すからであった。

中には、自身の損傷の重さに打ちひしがれてしまう者もいるが、エドウにとっては身体的損傷と感情が一致しているという点で差などないに等しかった。

彼にはそのような人間が理解できなかったのである。身体と感情の調和など起こりうるはずがない、それが彼の持論であった。


これを見る限りでは、エドウという人間を人の努力や覚悟を見下し、笑いものにするような陰惨な(やから)だと感じるかもしれない。しかし、このエドウが感じる不快さには、自分が身体と感情の一致に辿り着けぬと感じた時の嫉妬感とそれを遥かの超える願望とが、入り混じっている。かといって、彼らの懸命に生きようとする姿のすべてを打ち壊さんとするほどに、無謀な男でもなかった。

そのためにエドウは、彼らに対して忌避と不快をしめすことで、一定の距離を保とうとしているのかもしれない。


“あなたがエドウナウカさん?”

 彼の貴重な午睡は高圧的な女の掛け声で台無しになった。女はエドウの反応も待たずに用件を語りだした。

“私は高級執務官(こうきゅうしつむかん)の入崎Nジュアンです。あなたには最執部代表長官(さいしつぶだいひょうちょうかん)のシャチューヌポレから出頭命令が出ています。退院後で構いません。最執長室に来なさい。”

“シャチューヌポレ?”

 エドウは聞いたこともない名に少し驚いた。

“保安局の最高権力者ですよ。そんなこともわからないのですか。失望しますね。”

 女性的な肢体の美しさがありながらも、それを壊すことのない凛とした背広の着こなしは、男以上に男性的な魅力を醸し出していた。

 今回の任務の失態が原因であろうか。しかし、同僚の死以上に彼にのしかかるものなどなかった。

 エドウは老体のようにゆっくりと立ち上がると力なく答えた。

“了解しました。”

 女は見下すようエドウを見ていた。彼女はヒールによって、エドウよりも幾分か背が高かったのである。

“それにしても、こんな汚らしい人間を見ていると反吐(へど)が出るわね。”


 女は罵詈をハープのような美しい声音で奏でると、この諦念の柔和しかないラウンジを踏み(にじ)るようにして去って行った。それは奮馬(ふんば)の猛々しい蹄の音であった。かの馬の勇ましい姿態は原に横たわる死体によってさらに輝きを増した。



         *         *         *



保安局の最高権力である最執部代表長官に招集(しょうしゅう)を受け、エドオルムの78階、シャチューヌポレのいる最執長室へと続く黒曜石の真っ黒い廊下を歩いていた。

どのくらい歩いたかわからなくなる閉塞的且つ拘束的な廊下の左側に、幅の狭さによって本道との差異化が図られた道が現れた。それはひずみによってできた亀裂のようであった。この道を行けば最執部に行き着くのであろうか。エドウは目に見えぬ境界に仕切られたその小道の中へと、ゆっくりと入って行った。

左右上下の黒い光沢を持った黒曜石の面がエドウの反射した姿を黒い(もや)をかけて映し出した。エドウには黒い廊下に等間隔に設置された照明から出る垂直な光は、実体のない人間のようにも、誰の目にも鮮やかに映る亡霊のようにも見えた。


微かに水のせせらぎの音、汚らしく言えば死霊の呻きが聞こえた。

 ここは生者の立ち入りを許さぬ、亡霊どもの異界であった。


彼がこのように考えたのは、保安局の最高権力者であるシャチューヌ・ポレに対しエドウが、現実感ないし物体としての存在感をまったく感じられなかったからである。これは、局内でのヒエラルキーが下になればなるほど顕著に現れた。

エドウはサプレッサーの一員であり、現場の最前線で組織機構の障害や不満を常に感じてはいた。だが、それを悪しきと考え、局内体制改善の意見陳述書という形にはならなかった。それは、エドウやサプレッサーにとってシャチューヌは、その亡霊にも等しい無在観によって、局員達の正当な意見陳述の対象から抜け出ていたからである。姿の見えぬ亡霊に対し意見などできぬだろうし、どれだけの価値があろうか。彼らの意見陳情の衝動は対象の不在によって悪性を保ったまま、彼らの体へと戻ってゆくのだ。今思えば、自分が頭の中でシャチューヌ・ポレという固有名詞を呟いたのは入院中にその名を聞いた時しかなく、その姿などは見たことすらない。

存在しない、知覚することのできない相手になど話しかけることなどできようか。これこそが、最高権力であるシャチューヌ・ポレの無在観(むざいかん)、この廊下に巣くう亡霊の正体なのかもしれない。



         *         *         *


エドウは唐草文様の大きなドアの前へと立った。そこは、この町の最大権力である保安局最高執務部の代表、シャチューヌ・ポレの部屋であった。エドウは萎れた背筋を整えてから、しっかりとした挙動でドアをノックした。

ドアの向こうから微かに聞こえる声は男の入室を促した。

エドウは怖じけることなく、最執長室に入り込んだ。


シャチューヌ・ポレの前へとゆっくりと進みながら辺りを、品位を損なわぬ程度にエドウは、見回していた。一分の隙もないほどにすべてのものに品位が漂い、壁面や支柱の彫刻が完全な調和を実現している。天井はとても高いのだが、部屋に充満する空気の密度が高く、狭くさえ感じる。

 シャチューヌは、窓際から挿し入る光によって細部まではわからなかったが、潜水服のようななにか異様なものを着込んでいた。それはシャチューヌを、歯車で動く巨大なダッチワイフのようにも見せていた。さらに、表情を(うかが)うことのできぬ曇ったヘルメットや、動くたびに堅い繊維同士が激しく擦れあい鳴る耳障りの音がその見識に拍車をかけた。イスに深く掛け、ふんぞり返った状態からゆっくりと起き上がると、エドウへと話しかけた。


“やぁ。なんだかずいぶん遅かったねぇ。”

シャチューヌ・ポレがつぶやいた。

エドウはシャチューヌの問いかけを受け、窓際に鎮座するシャチューヌと目線をしっかりと合わせた。

保安部特殊制圧部隊(ほあんぶとくしゅせいあつぶたい)サプレッサーのエドウナウカ保安官です。”

 エドウの正確な敬礼に対し、シャチューヌは卑猥(ひわい)な笑い声を上げた。

“なんか、今回は手酷くやられちゃったみたいだねぇ。ほんとなら銃殺刑ものだよ。”

 エドウは何の反応も示さなかった。

シャチューヌの言勢は六十代末の鋭敏を損なわぬ鈍さと齢相当の手馴れた滑稽さによって作り上げられたものであった。エドウはシャチューヌに、形容から滲みでる異常性を会話の中にまで見つけることはできなかった。エドウは違和感を覚えた。シャチューヌの異常な姿に対して、言勢があまりにも平凡すぎたのである。それは、姿身と言勢(げんせい)が奇妙にちぐはぐで、まさに下手な物書きが作った人物のようであった。

だが、シャチューヌの格好が、身体的なハンデによって必要然としたものであるかもしれぬ、儀装のような自らを律しうるためのものであるかもしれない。それを根拠に彼の姿の異常性を示し言勢の平凡さと対照させること自体が誤りなのかもしれない。


 

“まぁ、来られたからいいか。でも、ほんとに大丈夫?今だって具合悪そうだし。もっとタフな人だと思ったんだけどなぁ。そんなんじゃだめだよ。だって君は今から、特別怪奇事件担当捜査班、略してトッケイに転属になったんだから。”





 *         *         *



エドウはシャチューヌとの謁見を終え、歩いているとエレベーターの前に立つ一人の女性が見えた。女性と目を合わせてしまったエドウは、彼女が手を振りながらこちらに駆け寄って来るのを見ていた。体勢をぴしゃりと整える。

“あなたがエドウ・ナウカさんですね。私はトッケイのイシエ・ミサキです。”息を切らせながら女性が言った。


エドウは、イシエ・ミサキの後について、重々しいエレベーターの中へと慎重に入っていく。そもそも、なぜ自分がトッケイに転属になったのかもよくはわからなかった。

イシエは姿身、齢二十四・五といったところで、しっかりと整えられた背広と、ダークブラウンのストッキングをはいた脚を美しく際立たすスマートパンツで、より大人びた色香を漂わせていた。だが彼女のかけた、その小さな顔にはあまりにも不釣合いな大きな黒縁メガネと、腐り落ちた生け花のように揺れるおさげは、他人から笑われてもおかしくない子供のような手抜かりも見せ付けていた。


エドウとイシエの間には、怖ろしいほどの透明度を持った、粘っこい空気が隙間なく満たされている。お互いにさほど、誤謬(ごびゅう)を恐れずに言えば、敵対心のようなものはなかったといえる。  

しかしそれは、どちらか片方が無関心の中で相手を歯牙(しが)にもかけなかったわけでも、両者でのんべんだらりとした共有域の中を回遊しているわけでもなかった。

互いの確固たるものを最大限尊重しつつ、それを侵さぬように慎重に、自身を客観視しながら行動しているのである。彼女はエレベーターに乗り込んでから、息一つ吸う素振りも見せていないが、それは自身に絶対の優位があるという女性の体からすればあまりのヒロイズムに悲劇さえ思わせるようなやるせなさをエドウに感じさせた。

この両者の間に満たされた空気は、常人に理解しえぬ所の緊張感をもって、霧中の旅人が感じる一種の神秘性すら漂わせた。この空気を本質的に理解できるのは、エドウのような病的なほどの慢心家(まんしんか)か、こんな無駄な思考に人生の貴重なひとさじを費やすことのできる一握りの天才か、腐りきった大うつけのどれかである。

今の段階では彼女が何であるかを推量するのは妥当ではない。ただ、彼は自分と似たようなものを内包しているのであろう彼女を嫌う理由はなかった。


停止階に着いたエレベーターのドアが開き、エドウとイシエは()き止められた水が溢れ出すように、広い廊下へと出た。

この階は先ほどの最執長室の赴きと異なる、能率を重視した非常にシックな作りとなっていた。それは彼が慣れ親しんだ、サプレッサーのオフィスと似通っていた。唯一つ、血生臭さを除いては。

エドウの先を行くイシエは、しっかりと薄い繊維材を敷き詰めた床を踏み抜いて行く。それは、イシエとエドウ自身がこの空間とはやはり相容(あいい)れぬものであり、彼女の一歩一歩はこの空間にはっきりとした痕跡を残しているのである。

“どうかしました?”

エドウの目線に気づいたのであろうか、イシエが首を(かし)げながら尋ねてきた。それはとてもしっかりとした、型の上での女性の応対であった。

“いいえ、なにも。”

エドウはそのあまりにもわざとらしい型の芝居に、微笑を隠しきれなかった。この両者の間には男と女のただの笑い声が響いていた。




     *         *         *



“ここがトッケイです。”

 イシエがトッケイのオフィスのドアを力強く開けた。そこは他の部署との大差もない、いたって平凡なものであった。現在は班員が四人のみということで、相応の小ささである。トッケイということで少し身構えていたエドウであったが、幾分か気が楽になった。

“新しい仲間が来たんですね、イシエさん。”

 オフィスの奥、応接室のドアが開きそこから一人の男が出てきた。これがもう一人の班員だろうか、とエドウはその青年の輪郭を描写するかのように目線を動かす。

 その雰囲気は保安局員というよりも、どこかの学校の教諭を思わせるような柔和さがある。エドウはますますトッケイというものがわからなくなった。トッケイの面々とは、あの狼面の男のように、全身からアシュラを粉砕せんとする衝動を噴出させていると思っていたからだ。しかし、エドウのその考えは、まったくすべてが見当違いというわけだはなかった。その柔和さは、彼の鍛え上げられた肉体からくりだされる殺人的に鋭敏な動きのカムフラージュなのである。その粟色のくせのある髪質も、焚火のしんから人をあたためるような優しい眼差しも、すべては凄まじい破壊力を秘めた肉体を隠すためのものだとしたら、彼は天才的な役者になっただろう。それは、エドウの変質的な分解能をもってしても、ややもすると見落としてしまうほどのものであった。

 青年に、近づくとエドウは軽い挨拶をし、頭を垂れたあとその青年に握手を求めた。

“こちらこそよろしく。僕のことはディオと呼んでください。”

 ディオは恥ずかしげに頬を緩ませながら、エドウの手を軽く包み込んだ。彼の手は非常に華奢で繊細であった。だが、その繊細さはどこか異質とも病的ともとれ、包み隠さず言えば、人を殺したことのある手にしか宿らないものであった。



“さて。顔合わせも終わったことですし、これから少しトッケイについて話します。エドウさんも知っているでしょうけど、ここは最執部からの勅令を受けて、アシュラ患者と専門に捜査しているので、他部署と勝手が違う部分があります。その辺りの話がしたいので、向こうの応接室に行きましょう。あ、それと。私が今日からあなたの上司になる、イシエ・ミサキです。よろしくね。”

先ほどの彼女から比べると大分砕けた印象を受けた。どうやらここは、彼女の安息の場所であるようだ。彼女もやはり、年相応の女性である。トッケイのオフィス外での彼女は、自らの職務を全うするために身の丈を超えた虚勢を張っているのだろう。それは、若年特有の血生臭い奢りとも、頑健な鎧の隙間から突き刺さる剣を夢想するマゾヒズムとも取れた。どちらにせよ、エドウはイシエに対し人並みの好触を感じていた。

“こっちよ、エドウ君。”

 先ほどディオが出てきたドアの前で手招きをした。エドウは優しい足取りで応接室へと流れ込んでいった。

 応接室はオフィススペースとは異なり、日光が室内を照らすことがなくどこか黴臭い沈鬱な雰囲気を漂わせていた。一人用の腰掛は二つ、間に小さな机を挟み対面にするように配置されていた。二人はそれに腰を下ろす。

“ではまずこれなんだけど。”

 イシエは脇に抱えた分厚い大判の封筒から数枚の紙を取り出す。

“トッケイの階級は執務官と同等の特別執務官になります。基本的な権利と待遇は執務官と同じなのだけど、トッケイには最執長から勅令の優先捜査権があるのね。”

 そう言うと、机の上に一枚の証書を出した。

“これが最執長から与えられた優先権の証書ですね。”

 イシエの言葉を奪い取るように、証書を見たエドウは呟いた。イシエは少し不服そうな顔をした。


 このエドオルムは大きく分けて三つのセクションで構成される。執務部(しつむぶ)特捜部(とくそうぶ)保安部(ほあんぶ)の三つである。執務部は俗に言うキャリアであり、保安局組織の管理・運営から法的実務への従事、現場の総指揮などの高度な知識を必要とする業務を行っている。その作業に合わせて様々に分科が成されており、最執部もその一つである。様々に分科が成されていれば、その中での力関係が生まれる。例を挙げれば、執務部でも捜査課は周りの執務官から見れば下等の保安部の叩上げ、程度にしか見られていない。

特捜部については、遺体の検死解剖や科学捜査、局員の装備の開発などを行っている。保安部は町を警邏する派出所に勤務する保安官で構成されており、エドオルムに本部がある。直接事件と関わるのはこの保安部であり、エドウが所属したサプレッサーもこれに含まれる。しかし、この三部門は情報の一元化がまったくなされておらず、特捜部と保安部は執務部に対し権限の元、一方的に情報を開示せねばならぬ立場にあるため関係は良好とは言い難い。

トッケイは最執長から与えられた優先捜査権によって、特捜部、保安部はもちろんのこと、執務部へも情報開示を求めることができる。他部署からしてみれば、得体の知れない弱小の輩に自分達の領域を踏み荒されることである。トッケイが彼らから忌み嫌われるのはこのためである。

“これが、大体のトッケイの説明ですね。”

 イシエは長々とエドウにとってわかりきった、かったるい話を終えると、体を屈ませながらぼそぼそと喋った。

“これがトッケイに支給されている装備です。”

 彼女は、足元に置いていたジュラルミンケースから一つの銀の腕輪を取り出した。それは、あまり見栄えの良くない無機的な彫り物を除けば極普通の代物(しろもの)であった。

“これは、ジョウザンシステムといってアシュラ患者に対抗するためにトッケイが使用する装備なんです。これが少し変わった機械で、あなたともう一人の新任の人と二人で使うのだけれど、こればかりはうまく説明できないのだけど、合体するとでも言えばいいのかしらん。”

 少し思案したあと、何かに気づいたように、彼女は頬を赤くしてしまった。だが、そんなことをエドウは気にもせず机上のジョウザンシステムをただただ見続けていた。

“ミサキさん。届け物が来ているのですが。”

 イシエは急に思い立ったように大袈裟な反応をすると応接室を出て行った。



         *         *         *



 イシエがそこで見たものは、犬小屋にも見えるような大きなダンボール箱であった。ディオの戸惑いはその箱の大きさから来ていた。こんな狭いオフィスにこのような箱を送り付けて来るのは他部署の嫌がらせであろうか。彼は箱の面に体を押し付けるように中身を探り始めた。中から微かな寝息が聞こえた。彼は不審を思いながらも、イシエにその旨を伝えた。

 そもそも、保安局に送られてきた物品に対し、怨恨(えんこん)などを念頭に置けぬほどにディオとイシエの危機管理能力は低いものなのであろうか。イシエに関して言えば、彼女は少し乏しい部分があった。それは、彼女自身の能力が特別低いというものではなく、年相応の未熟さであり、これからでも早急に矯正することができる欠点であった。しかし、ディオは

決して、身に降りかかる危険を察知できない愚鈍な男ではない。彼はこのダンボール箱の中身が危険物ではないことを見切っていたのである。

もし、この箱の中身が爆弾かなにか殺傷力があるものならば、それを届けに来た宅配員は真っ先にディオに切り殺されてしまうだろう。しかし、目前の爆弾に関しては無抵抗のまま、その破壊力を全身に受けるのである。それは、宅配員はディオに対して圧倒的な弱者であり、爆弾は彼と同等かそれ以上の強者だからである。彼の中にはこと敗れた者の諦念と劣情、そこから発生する怒りを含んだ加虐性があった。

ディオ自身はこういった幼稚な短絡的性質を十分に理解した上で、それを内面に抑え込む術を持っていた。



         *         *         *



“ねぇ、エドウ君。エドウ君。”

 イシエの呼び掛けに対し、エドウは影のようなのっぺりとした動きで応接室から顔を出した。

“この荷物、宛名があなたになってるわ。”

エドウはイシエに誘われ、犬小屋のダンボールの前に立った。

“送り主もよくわからないし、危険物ではなさそうだけど、なんか中からへんな声がするし…。”

 イシエの挙動はもはや滑稽なものとなっていた。エドウはそんな彼女のセンスにすべてを任せてみよう、そう考えた。

 ディオはエドウに承諾を取ると、二人がかりでダンボール箱の包装を取り始めた。包装を取り終えると、三人は意を決し、その中身を覗き込んだ。

 

そこには少女が居た。


三人は呆然としてしまった。

陽に照らされた青々と萌える若草を思わせるような髪の色は、彼女のはつらつとした活力を寝姿であろうと十二分に伝えてくる。薄布のネグリジェに包まれた華奢(きゃしゃ)な体を羽毛のクッションの上で膝を抱え込むように寝ていても、呼吸と共にリズムよく鼓動(こどう)する胸部や腹部は、まさに童話に見られる男女の花の如き可憐さを持った舞踏を思わせた。このダンボール箱の中という空間においてその少女は、いかなる著名な作家の作品よりも美そのものに近しいと錯覚してしまいほどの可憐さを備えていたのである。この少女に対し、何人たりとも触れることすら許されない。厳密に言えば、彼女のこの可憐さを壊してしまうような接触は許されぬ、ということである。

その口からこぼれる芳しい体臭を纏わせた寝息をエドウは凝視した。彼女の全身をくまなく、絵画の筆跡の一つ一つを追うように目線を動かした。

彼女の耳元には何かの暗喩のために置かれているのではと訝ってしまうような大量生産品の時計があった。

その時計は突如(とつじょ)、大音量で鳴り出した。


“うひゃあ!”


 少女はダンボール箱の中で踊るように飛び起きると、音源の耳元の時計を両手で思い切り引っ叩いた。この間、ダンボール箱の外の三人はことの一部始終をただ見ていることしかできなかった。なぜなら、このダンボール箱の少女の一挙手一投足は、何者もの介入をさせぬほどに無駄のない完璧な静謐(せいふつ)そのものだったのである。少女はダンボール箱の中で急に動いたために上がった息を整えると、周りへと目線をずらした。彼女の目には自分のあられもない姿を覗き込む、三つの顔が映った。

 少女は視界の左右上方から突き出すように顔を出すイシエとディオの顔ではなく、正面の顔を仰ぐことのできるエドウを見ていた。それを彼は、六つある目の中から自分の二つの目を少女が選んでくれたと思い込んだ。しかし、そんな陶酔の中で彼女の可憐さは、ダンボール箱の中でのみ成立する純粋さがあったからこそだとエドウは感じていた。だからこそ、彼女がダンボール箱の空の世界にエドウへと目を合わせたことは、彼女から純粋さを奪い、その可憐さが崩壊したことに他ならない。

 エドウはほんの少しでも、その可憐な少女を見ていたかった。その少女の可憐さが一瞬でもこの世に長くあれば良いと思った。しかし、そんなエドウの思いとは裏腹に、少女は顔を赤らめ、大粒の艶やかな水あめの涙を目に溜めて、大暴れした。

エドウは彼女の柔らかな足裏に顔を打たれ、後ろに数歩、よろめいた。青臭い戯言を喚いている少女なぐさめんと、イシエとディオが必死に言葉を掛けていた。その時エドウは、少女の体重によって不恰好に拉げたダンボール箱からにょっきと揚げられた白い足を見た。それは汚らしいものであった。


“あんた達、私を誰だと思ってるの!私はトッケイっていうエラーい保安員の一員なんだからね!誰に断って触ってるのよ!”

少女の名はパルといい、トッケイに着任した保安局員で、エドウの新しいパートナーであるらしい。しかし、どこから見ても十代半ばの少女であり、若すぎた。エドウはまだ新品同然の自分のデスクに就きながらそう考えた。エドウの視線に気づいた少女は捲くし立てるようにエドウに食って掛かる。

“何見てるのよ!さてはアンタ、ヘンタイね。さっきも私の生足で蹴られて興奮してんでしょう。だってアンタの顔、女っ気がないもん。そーゆーことされるとスグ、ドキドキするんでしょ。アンタしかも、私の下着見たんじゃないの!だとしたらノゾキ魔じゃない。サイテーよ!ケームショ行け、ケームショ!”

 彼女の言動は路肩(ろかた)に転がる酩酊した浮浪者と同じであった。この手の人物の扱いが下手なエドウやイシエに変わり、ディオが接することとなった。

“パルちゃんだったね。もし君がトッケイの一員なら、何か身分を証明するものがあるはずなんだけど、持っているかい。”

 優男(やさお)で演者の如く手数の多いディオは、パルにとっての浅ましい琴線に触れたのかもしれぬ。パルは騒ぎ立てるのをやめて、ディオの話を聞いていた。やはり彼女は少女だ、エドウは改めてそう思う。

彼女の声を荒げて騒ぐ姿は、思春期の純潔さを覗かせる自己顕示欲の表れ以外の何でもない。これは、まだ彼女自身に確固たる核が出来ていないため、外に示すことで自分がなんとするかを示そうとする行為を成立させられないことを意味した。ただ、外に示すことである種の充実感を満たすのである。この場合の彼女の叫びは、相手が誰であろうとも、自身の行為を目撃してくれる他者がいれば良いのである。

エドウは今一度パルの、イシエのコートに隠された白い四肢を見た。それはこのトッケイの薄暗いオフィスとは似つかわぬほどに、その美しさをエドウに鮮烈に刻み込んだ。ディオのその優れた手腕によって、少女の多感な叫びはまったく鎮まっていた。彼の殺人者としての静謐さは際立っていた。

エドウはそんな二人の横で今夜の私用の連絡をしていた。まだエドウに仕事らしい仕事はなかったのである。今日は粗方の説明と珍入者によって、トッケイにこれ以上の進展はなかった。



         *         *         *



エドウはパルを彼女の宿屋まで車で送ることとなった。これは若年である相棒の思ってささやかな厚意であった。今の彼女には定住できる家がなく、トッケイの権限で公費で宿屋に泊まっていた。パル曰く、“この町で一番高い、エドウが泊まれないようなホテル”が彼女の宿屋だそうである。

彼女の衣装はワイシャツとウエスト周りが緩々(ゆるゆる)のジャージであった。イシエのコートをそのまま着せておくことができなかったので、イシエが改めて貸したのであった。


助手席のパルは騒ぐこともなく大人しく、ガラスを透して夜町のさざめきを小動物のように肩を縮こめて見ていた。男と二人きりになるのは始めてなのであろうか。それとも、箱や車内のような区切られた空間では硝子細工のように凛と静まってしまうのか。

外の夜風は噛みしめるほどに爽やかな塩味を口いっぱいに与えてくれるが、彼女はそれを良しとしなかった。彼女は甘党であった。締め切った車内はパルの肉香と混ざり合ったイシエから借りた衣服の香水の臭いで充満していた。それはエドウの好みではなかったが、夜風の代わりには十分な、味わい深いのもであった。

赤信号で車を止めたエドウは隣のパルを見た。

両者の沈黙は視線のやり取りだけで崩せるものではなかった。もしかしたら、自分はパルに試されているのかもしれない。しかし、今のエドウには、彼女が作りだした無音を打ち破る発されるべき言葉といものが皆目見当がつかなかった。

“あの。”

 パルが思いかけず声を発したので、エドウは反応が遅れてしまった。

“信号、変わってるんですケド。”

 パルの注意を聞いて、エドウはアクセルを踏んだ。


 どこか彼方に聞いたこともない悲愴を帯びた汽笛が聞こえた。どこかの港に船が入ったのだろうか。気づけば、ここから港までそう離れた距離ではなかった。パルに誘われるままに自分はここまで来てしまった、エドウは不意にそんな陰気な考えをした。


“ここよ。このホテル。”

 そこは彼女の言ったとおりの、この町で最も高級なホテルであった。エドウは半信半疑で正門にいたボウイにパルの名を尋ねると、ほんとうにここに住んでいるというので大そう驚いた。

“ほら、本当でしょ。私をオオボラ吹きとかなんとか思ってたんでしょう?謝罪よ、謝罪!”

 第三者を得たパルは昼間の激しさを取り戻した。礼の一つも言わずに、ボウイが開けたドアからさっさと車を降りてしまった。彼女の軽やかな後ろ姿をエドウはただただ見るばかりであった。


エドウは一人車内に残された。これが完全無比な可憐である彼女の行為なのである。エドウはそれを甘んじることもなく、すべて受け入れた。そんな彼女の後ろ姿が美しかったのである。

なんの迷いもないエドウは、勢いよくエンジンを噴かすと、バー・モントルイユへと車を走らせた。エドウは排気ガスの朝霧が懸かる暗天の浜辺にパルの幻影を見ていた。その眼前に広がる海原を悠然となにかが航海していた。それは、サリヴァンの歴史的産物、ニュー・ビル・サマーの用いていたクローヴィム・サリヴァン号であった。




         *         *         *


唯自然崇拝(ゆいしぜんすうはい)の原住民は、このサリヴァンの土地で最古に確認された社会や国に匹敵する大型コミューン、認称“ヒノマル”である。これは、原住民が何かの秘術(ひじゅつ)に用いていた薬物の呼称をそのまま移民が用いたところからきている。

原住民は、上層の組織を中心とした彼ら独自の言語体系を用いて非常に洗練された集団意識の形成を行っていた。その文化水準は未開部族などと言われ、笑いものにされるべきでない。しかし彼らは、移民の植民地政策の前に力を弱めていく。移民こと、ニュー・ビル・サマーの渡来である。

ニュー・ビル・サマーがどのような経緯でこの土地に来たのかは、いまだ語らうべき部分の多くを残してはいる。だが、原住民が使用していた薬物の輸出によって莫大な富を得たことは、今に続く生活様式がそれを如実に物語っている。

渡来当初は原住民と移民との緊張関係は当然のごとくおこった。両者は、互いに意思の疎通をしてゆく中で、適当な関係で共存してゆく道を選んでいったようである。品がないそれは、その土地に生きる原住民にとって非常に歯痒いものであろうが、これ以上の争いが自分達の損失にしかならないことがわからぬほど愚かでもなかったことと、移民が持ち込んだ科学文明の利器が、原住民の一部を、とりわけ生命力と可能性に満ち溢れた若者達の行動に大きく影響したことは言うまでもない。

原住民にとって、ヒノマルとの物々交換で入ってくる移民の品々はどのようなものであっても非常に興味深い、価値ある物として映った。それは、彼らの非常に優れた文化的精神性の高さを示すものであったが、その興味を逆手にとった移民に不平等な取引を許してしまう要因ともなりえた。

そのため村の上層部は、規則を定め、ヒノマルの流失を食い止めんとした。これは結果的に原住民の彼らの中で、ヒノマルの流失を防ぎ、自分達の生活様式を守りたいという側と、移民の文化を積極的に取り入れ先進的に発展へとつなげてゆきたいという側との対立を生むこととなった。これらの二派党は、体制派(たいせいは)が後のクレナイチョウ、革新派(かくしんは)がコクシチョウへと転じてゆく。




         *         *         *


その毛羽立った座椅子の布団と改築することができなかった床に染み付いたヤニの黄ばみは、店名バー・モントルイユという名前と合わさりなんとも奇妙な空間を演出していた。エドウはこのバーで、昔の上司であったカムギ・ゼンジと会う約束をしていたのである。カムギ・ゼンジはエドウがまだサプレッサーに配属される前、局員養成所に訓練局員として勤務していた頃、教育係として教えをこいていた。エドウにとってカムギは、保安局員のなんたるかを自分に説いてくれた数少ない親しい人物であった。

エドウは今日一日で非常にくたびれてしまった。できることならう多少なり愚痴でも喰らわせてやろう、そんな風にも考えていた。そのようにエドウが考えられるのはカムギ独特の純真さのおかげであった。それは、万人を受け入れるだけの非常に単純で頑健な容量をカムギ自身に持たせた。エドウはそれになんの気負いもすることなく体を預けることができたのである。

二人の交流は上司関係がなくなった今でもこのバー・モントルイユで定期的に続いていた。現在カムギは局員をやめ、町のしがない私立探偵となっていたが、自分に対してなぜ声を掛けてくれるのか、エドウには謎であった。

 保安局員当時、カムギは執務官という高職ではあったが、前所属の市装兵団(しそうへいだん)時に養った戦闘、それを指揮する能力を買われ、エドウたちのこれから新しく設置されたサプレッサーの教育係となった。


市装兵団は、全身を甲冑で包み込んだエドオルム屈指の殺戮集団であった。しかし、前エドオルム警察の崩壊と乗っ取る形で現れた保安局によって、それは廃止された。市装兵団にいた者は、高職である執務部へと多くが入ったが、彼らは所詮、暴力に長けたならず者でしかなく、その後の行く末は見られたものではない。


そんな中でのカムギのこの活躍ぶりは彼の多才さを示すものであった。しかしそれでも、執務官という役職からしてみれば彼の活躍は下等のものとされていた。

彼はエドウたちの教育係もしていたが、執務部捜査課(そうさか)の一員として事件の捜査をすることもあった。そこでの彼の評価も決して低いものではない。むしろ、このような職務に関しての彼の才は目を見張るものがあり、なぜカムギが保安局をやめたのか、これもまたエドウの大きな疑問であった。

エドウは直接カムギにこのことを聞いたことがあった。しかし、はぶらかされた。それは、彼が捜査課にいた時の十八番であった、相手をゆするためのはぶらかしであった。それを感じて以降エドウはこの質問をカムギにしなくなった。カムギは保安局をやめた現在でも何かを捜査している。それはもちろん、探偵を生業(なりわい)としている以上調査するのは当然であるが、それを保安局員であるエドウに行うということは、捜査の対象はエドウ自身もしくは、エドウを末端とした保安局そのものである。



         *         *         *


だが、エドウはそのあまりにも露骨なはぶらかしにどこか熱きものを感じていた。カムギは紛れも無いエドウの恩師である。その恩師の思いを素直に受け止めよう、エドウはそう考えてこれ以上のことを聞かないように心がけた。

バーの入り口が勢いよく開き、酔いも醒ますような冷たい風と、妙に茶目っ気のある中年の男の声が同時にエドウの手元の空のグラスまで届いた。

“よう、エドウ。元気にしてるかい。”

 ごちゃごちゃとした店内に響き渡るような声量であったが、それは確実にエドウの元にのみ鋭く届く、往年のカムギを思わせるようなものであった。


“ところでエドウ、おまえトッケイに入ったのか。”二人の他愛もない雑談の中からカムギが突如、声音を変えた。今日転属を告げられたばかりだというのに、それを局外のカムギが知っていることを少し訝しく思い、

“なんで知ってるんですか。”

エドウは作り笑いで聞いた。

“俺はこう見えても人望が厚いんでね。いまだに慕ってくれる奴もいっぱいいるのよ。”

カムギはにやりと笑いながら、手の中のグラスの酒を一口飲んだ。

 だが、エドウはカムギのその言葉を鵜呑みにしてはいけないことをよく知っていた。カムギが捜査課にいた時、その存在を不動のものにしたのはその多才さよりも、市装兵団で養った凶暴性であった。彼の中に市装兵団は脈々と息づいており、それを自由に飼いならし、出すべき時に出せることもカムギの優れた才の一つであった。 彼の笑いにはいつも相手に何かを思わせるような深みがあった。だが、それが何であるか、誰一人としてわかる者はいない。エドウも時として、カムギについていけなくなることもあった。



         *         *         *


 カムギとの酒盛りの後、自宅へと戻ったエドウは今日一日の出来事のすべてを洗い流すような熱いシャワーを浴びたいと思った。室内照明を付け、目に入ってくるのは何の味気もない家具とそのレイアウトである。


そこから何のためらいもなく窓のカーテンに手をかけ、ゆっくりとめくり、夜のサリヴァンの静寂を聞く。微かに聞こえるのは、野犬の荒んだ叫び声だけであった。どこかで天寿をまっとうした老犬へと野犬共が弔いでもしているのだろうか。

その想像はエドウのなによりの酒のつまみになり、安物のウィスキーを腹の中へと流しこませた。


体の内からほどよく火照ってきた。テーブルの上のウィスキーはそのままに、ゆらゆらと立ち上がったエドウは、コートを脱ぎ捨て背広のまま、シャワー室へと入って行く。背筋を不必要なまでに大きく曲げてシャワーのノズルに手をかけた。一瞬でぬるい水がエドウの背中にかかった。温水を服の上から浴びながら脚を投げ出すように力なく座り込んだ。彼はそのまま、何も考えずただ温水を浴び続けた。


彼は部屋着に着替え、机の上に置かれたウィスキーを再び飲み始めた。シャワー室からは、止まることなくだらだらと流れ続けるシャワーの水音によって、そこに脱ぎ捨てられ水を含んでふやけた抜け殻のような背広と下着がエドウの脳裏に入り込んできた。

エドウの目に夜のサリヴァンは、オートマタを彷彿(ほうふつ)とさせる細緻(さいち)に富んだ懐中時計のように映った。それは、一分の隙もない静謐さが持ち合わす美しさを持っていた。この町に溢れかえった大小の様々なものすべては、意味のある歯車となってこの町に確かな何かを刻み続けているのである。だが、エドウが杯を傾けるその安酒の効用であろうか、サリヴァンの歯車など、奇術師が使うからくり箱の中身である爆竹や紙切れと同等の価値に成り下がっていた。


“パン”


エドウの耳に銃声が聞こえた。今日は特別酔っているのであろうか、普段なら聞き逃してしまうような音であった。


続けて三、四発と銃声が後を追う。


どこかの不良共が銃で遊んでいるのだろうか、エドウはそう考えながら安酒をまた一口、含んだ。

サリヴァンの夜景と野犬の鳴き声と、不良共の悪意なき銃声と、今夜は酒のつまみには事欠かなかった。 

しかし、エドウはこの銃声が予め、このサリヴァンという時計の中に仕組まれた、定められた周期にしか動くことのない特別な歯車であったことに気づくことはなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ