二章⑩
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少女カーヴィンは扉を閉めると、ガラス壁の室内から見て左端に立った。それは、トルターチと対立するかのような位置合いである。カーヴィンは微笑みながら、
"君は相変わらず、愛想がないねえ、君達のために白狼を調整した時もそうだったよね。君はそんなにポノウェが嫌いかい? 私は互いの領分を導き出せれば、それでいいと思っているんだけどねぇ。"
言葉をトルターチへと投げかけたが、彼は鼻についたように笑うばかりであった。
"あの三人組はお前のさしがねか。ずいぶんな乱暴者だな。襲われるかと思ったぜ。"
トルターチから強気が消えることはない。
"ああ、彼らは君のようにあまり物分かりが良くないんだ。許してやってくれよ。"
カーヴィンのその口調からは挑発な意味合いを取ることができたが、トルターチはあえて聞き流すことにした。
"いいじゃないか、旧知の仲なんだから。もう少し楽しく暇を潰そうじゃないか。"
カーヴィンはそう言うと、トルターチの座るベッドの正面にある椅子へと座った。
***
シャチューヌからのココルチェとディオ、イシエの捜査を受けて、エドウはココルチェに属するゾーラと名乗った男との接触を決意した。それは、夜会での大騒動で操作が実質的に振り出しに戻ってしまったエドウ達の最後の頼みの綱であった。そうと決まればエドウの行動は早かった。彼はゾーラから渡された走り書きの番号へと発信した。電話口から聞こえたゾーラとエドウは、落ち合う日取りと場所を決める。その時のゾーラの声音はどこか色めきたっていたが、明日会おうと提案された。相手の意向であるならば致し方なしとエドウは思ったが、幾分か不安を感じないわけではなかった。
そして今エドウはゾーラとの面会場所へと車で移動しているのであった。隣にはパルはいなかった。それは、ゾーラの要望であった。だが、エドウもいきなりパルに斬りかかったゾーラを彼女と再会させることをすべきでないとした。そのため、パルを乗せ慣れてきたエドウにとっては少しばかり寂しさも感じていた。だからといって、彼がゾーラにその隙につけ込まれることはないであろう。しかしながら、彼はココルチェに対して微塵も興味を持っていなかったのである。エドウが何よりも興味を持っていたのは、そのココルチェという組織の動脈を流れていたであろうアシュラに関してであった。そもそも、彼がこの事件の当初ココルチェの捜査から夜会にたどり着くことができたのも、ひとえにいえば彼の類稀なるアシュラへの嗅覚の賜物といえた。彼のココルチェの入港口での履歴の精査から、元保安部出身というコネクトと執務部に対してのトッケイ権限での情報開示などなど、そういった保安局員としての実直かつ情熱的な行動は、すべてアシュラ関係なのであった。彼がこのような捜査から集めた情報の中で、アラヤマとの間接的な関連しかない三派閥夜会を正確にピックアップし、確信を持て潜入することができたのもそのためである。そんな彼の嗅覚がゾーラからアシュラの臭いを感じとることができないのである。そのために彼はこれからのゾーラとの接触に職務以上の情熱を注ぐことができなかった。たとえ、保安局員が悪人と対面するような職務であったとしても、それが対人であるならば、ある種の情熱は不可欠であろう。その点からいえば、エドウの勤務態度は怠慢であるとも言えるのかもしれない。しかしながら彼が、トッケイという形の見えぬ劇薬アシュラを追う保安局員ということを考えれば、今の役職は適材適所であるといえよう。だが、彼が今追うのはココルチェのゾーラである。
エドウはゾーラから指示された面会場所に着いた。そこは、要人との面会場所とは思えないような、人通りの多い大道に面したカフェのテラス席であった。午後の穏やかな陽に照らされ、ぬくぬくと居心地のよいであろうそのテラス席の内の一つは予約されており、テーブルの上にはフルネームでエドウナウカと、ゾーラ、の名を記した白く輝いたタグが置かれていた。
それは、暗殺者としての任務遂行力や、律儀さとは一線を画す接待であった。エドウは不安を通り越し、どこか呆れたような気になってしまった。なして、その道の長者には件の彼のような変人気質を持った者が現れるのであろうか。エドウの内でそれとして真っ先に浮かんだのは特捜部のハバキであった。ハバキしかりゾーラしかり、そのような変人気質あってこそ、その道の技術を覚えるのではなく体得でき、抜きん出た能力を開花させるのかもしれない。変人気質も行動を起こさねば、それは潜在的な種子でしかない。それを嗅ぎ分け、見つけ、選別し、植え、そこから実際の行動による経験で養分を与えることで初めて芽を出すのである。そのために必要な素養が、自己内面への観察と速断の行動力なのである。それは、変人気質がその道の長者になるというよりも、変人気質を育む素養こそが、その道の長者の要因であるということができるだろう。つまり、変人気質の彼らは、何よりも自己への、観察力と行動力に優れているのである。それは、エドウには到底及ばぬ世界であった。すなわち、彼が自身の劣りを認め、敬意を持て見ることでもあった。しかしながら、その世界に入って行こうとは絶対にせぬ。その気質を得る前提としての観察力と行動力が、今のエドウにどれだけの影響を与えるのか見当もつかぬものだったとしても、彼の内に植え付けられている何かが、それを必死に阻むのであった。それが、彼の誇示意思であったか、ポノウェとしての教えであったかは、エドウ自身にもわかりかねた。彼はその理解不能な自身の現象を起こすゾーラに対して、呆れるという回避行動をもって応対しているのであった。だが、先の例では、ハバキとゾーラを同上の意図で分類しながら、ハバキに対してこのような反応を起こさぬことはなぜであろう。それを純粋に付き合いの年数と処理することもできたが、エドウとハバキが同じ、ポノウェに所属していたという経緯は捨ておけないものであろう。しかしエドウの自惚れた観察力では、いまだそれに気づくことはできない。
エドウがカフェテラスでそんな一服をしていると、そこへゾーラが現れた。
彼は黒と蛍光ピンク、グリーンのモザイクがあしらわれた袖のないジャケットを着ていた。下半身は構造はわからぬが、股下が膝の辺りまで引き伸ばされたようなズボンと、自信過剰なほどの黒光りするブーツを履いていた。その袖なしジャケットにはフードが付いており、フードの中からテラスに座るエドウを見つけた時のゾーラのはつらつとした白髪と嬉々とした表情を窺うことができた。彼はその威丈高なブーツで激しく重々しい足音を鳴らしながら、こちらに近づいてきた。
エドウは正直、この手の男と絡むことに免疫がなかった。
"やあ、すまない。待たせてしまったなあ。エドウナウカ君。"
ゾーラは大袈裟な動きをしながら、エドウの真正面の席に着いた。それは良い意味での男性的な融通の効かなさと、女性的な気まぐれさとをエドウに彷彿とさせた。あきらかに、サリヴァンにはいない人種である。
"いやあ、本当に君から返事が貰えて嬉しいよ。"
彼ははつらつとそう言いながら、ウェイターにコーヒーを注文した。
"さっそくですが、ゾーラさん。私がアナタと会いたいと思ったのは、単刀直入に言えばココルチェとアシュラのこと、についてです。"
エドウはゾーラの変な陽気さに流されることなく、実直にトッケイとしての話題を切り出した。普段の彼なら、もう少し相手の出方をうかがったかもしれない。ゾーラの雰囲気に飲まれまいと必死だったのであった。
そんなエドウを見て、ゾーラは笑った。
"そんなに気を揉まなくていいよ。見ての通り、君を殺すために今ここにいるわけじゃない。エドウナウカと話がしたいからここにいるんだ。"
そう言って、ゾーラはいさ椅子の背もたれに寄りかかった。
"ええと。それで、ココルチェとアシュラの話をすればいいのかい? いいだろう。話をしてあげるよ。"
エドウはそれを聞いてやっとこ、質問をひねり出し始めた。
"アナタ方ココルチェは、アラヤマコトマとアシュラの売買をしていたのですか?"
この質問はエドウにとって、アシュラの追跡のほんの序の口に過ぎない。
"依頼を聞いた限りでは、そのようなことはない。我々は、アラヤマコトマから夜会に潜入し三派閥を殺して欲しいと頼まれただけだ。"
ゾーラは笑みを浮かべながらも決して軽口を滑らせる男ではなかった。エドウを吟味していたのである。
"アナタ方の組織は同等の権力を持つ四幹部で構成されていると聞きます。その上でも、アナタ方の組織はアシュラに関わっていないと言えますか。"
この質問はアシュラの有無よりも、それが流れるココルチェの組織に対しての観察である。
"ココルチェの四幹部は、組織そのもののマネジメントの中心となる、リフォウ、それを補佐するような形でブレインとして動く、ヴィアクト、殺人任務を行う殺し屋を束ねる、ブラディ、情報・謀略などの隠密戦を指揮する、ファントムの、4人だ。ココルチェの名目上の首位はリフォウということになっているが、君が言ったように4人の権力は円卓状に配置されており、互いが互いに過剰な介入はしないことになっている。だから、組織内での意見の齟齬は対立といった形で現れる。だが、それは良い意味でのものだ。四幹部は自らの称号に持っている。そのため、彼らの対立とはその自信に裏打ちされたものであり、陰惨な引き延ばしを良しとしない。四幹部の自信はココルチェの帰属によって成り立っているんだ。つまり、ココルチェの失態をココルチェに帰属する自身の失態に他ならない、そういった意識を四幹部が持っているからだ。その意識を生むことができたのは、彼ら四幹部に強固な階級制が無いことがプラスに働いたのかもしれない。といっても、これは現リフォウからの受け売りで、今のココルチェは今言った体をなしていない。ヴィアクトとファントムの称号は消失してしまった。そのため、今のココルチェにある称号はリフォウとブラディの二つだけだ。そのせいかはわからぬが、ココルチェの力は昔の盛りから見れば凄まじいほどに衰えている。リフォウもこの依頼が最後かもしれないとも言っていた。この土地とはココルチェから分家したN.B.Sとの関わりもある。ここでココルチェが骨を埋めることが正解なのかもしれない。これが君のさっきの質問の回答といったら、納得してくれるかい?"
ゾーラはひとしきり話し終えると、話の最中にウェイターが置いていったコーヒーを一口すすった。
エドウはゾーラの饒舌ぶりに少しばかり驚いた。彼が依頼に関して真意を見せないのに対して、身の上のことに対してこれほど軽やかに語るとは思っていなかったからである。
その後エドウは、二、三かの質問をした。が、間接的であっても、アシュラとの関係を匂わせるような回答はなかった。対話中の両者には温かい日差しがテラスの日除けに遮られることなく、降り注いだ。エドウの体は清い温みをもっていた。彼は紫外線にあまり良い印象を持ってはいなかったが、ゾーラとの会話の中ならば、あまり気にしなかった。ゾーラという存在は、エドウの忌み嫌うものを何らかの形で中和したのかもしれなかった。それを引き起こすものが、ゾーラの若気であったか、殺人者としての律儀であったか、それともココルチェのブラディという称号であったかは定かではない。ただ、深い意味はないが、エドウとゾーラの相性が良かったことだけは確かであった。
エドウは一通りの質問を終え、ゾーラと談笑した後、エドオルムへ戻った。面会自体は二時間ほどであったが。
最後にゾーラは、
"君とはいい仲になれそうだ。"そう言った。
その姿は、好漢の接待の口上にも見えた。
しかしエドウは、そのゾーラの瞳の奥の凶々しい煌めきを見逃すことはなかった。ゾーラにとっての良き仲とは、どうやら死闘を互角にできる関係のことをいうらしい。彼はそれを確認したことで、体がうずいているのである。エドウは、ゾーラとの死闘を嬉々として受け入れた。彼も元来、血の気の多い男である。
***
"君はアシュラをどう思うかい?"
少女カーヴィンは微笑しながらトルターチにそう尋ねた。その口振りは、自身の有智にかこつけて相手を見下すかのような趣があった。
"あれは、頭どころか体までおかしくなる、正真正銘のイカれもんだ。戦場に行く兵士がゲン担ぎに強壮剤を使うのとはわけが違う。人害になるだろ、アレを使うと。何がいいのか俺には全くわからない。"
トルターチはそう言い、煙草に火をつけると、燃えかすをそのままカーペットに落とした。銀色の絨毯が少しばかり溶け、動物性の毛の特有のいやらしい臭いがした。
それを嗅いだカーヴィンは水滴のようにしたたかに笑みをこぼした。
両者が相対する室内は、敵対とも融和ともとれない、奇妙な緊張感で満たされていた。完全な整合性など、この空間からは消え去っていた。
"トルターチ、君はいつからそんなヒューマニストになったんだい? もう少し前の君なら、アシュラの本質を勘ぐれたと思うんだがね……。残念だ。それでは白狼も浮かばれない。やはり、ココルチェが弱くなってしまったから自信が無くなってしまったんだろう。今の君は白狼にしがみついてやっと体裁を整えている有り様だ。大ギャングとも言われたココルチェが新鋭の情報に飛びつかないなんて、つくづく君も馬鹿になったもんだ。"
トルターチは目前の年端もいかぬ少女の形のカーヴィンの言葉を黙って聞いていた。煙草の赤熱は揺らめいていた。
"俺は人間でいいんだ。身のほどにあった姿でいい。アシュラには振り回されたくない。"
カーヴィンはトルターチの呟きを聞くと、椅子から転げ落ちるかという大笑いで、
"ははあ。白狼という玩具が手元にないと、ここまでひ弱になるのか。私から一つアドバイスをしてあげましょう。現実を見なさい現実を。ココルチェがヒノマルで財を成したことを忘れたのかい? 確かにヒノマルとアシュラでは勝手が違うでしょうし、その昔の方法論では危険がともなう可能性も大いにあります。だが、ここには私がいるんですよ。アシュラを開発したポノウェの導師たるカーヴィン・シトックがいるんですよ。私達と共に成れば、アシュラによって今一度、ココルチェが返り咲くことだって可能なんですよ。にもかかわらず、君は私の計画を反故にした。今ここでもう一度チャンスをあげましょう、友として。君が考え直すならば、アシュラの手配をしてもいいでしょう。どうですか、トルターチ君。"
カーヴィンはあくまで冷静を装っていたが、その言葉は今までのカーヴィンからは想像もできぬほどに、生々しく、野生的であった。
トルターチはそれを十分に感じ取っていた。
"今のお前を俺は醜いと思うよ。お前の見る非人間とは、かけ離れた人間様々の醜態だよ。お前の思い描いているアシュラとやらからすらも、だいぶん離れているんじゃないか?"
トルターチの言葉を受けたカーヴィンは苛立たしげにその白く細い足を組んだ。
"まさか、アシュラを蹴ってその白狼を選んだくせにそれの本質すら見抜けない君にそんなことを言われるなんて。負け犬の遠吠えというやつかい? 狼のいない君にはさぞお似合いだ。"
互いの空気感は混沌を極めた。この一連の会話は、ココルチェの首領たるトルターチと、ポノウェの導師たるカーヴィンとの自我を懸けた争いであり、サリヴァンの歴史、大小様々でありながらも、すべてはこの一瞬に凝縮されていた。歴史というものは未来人がどれだけ俯瞰し、徒に概念の壁で分類していったところで、所詮は一個の人間が、町村単位であれば何百、国家単位であれば幾千万の集合体なのである。たとえ、どれだけ複雑な由縁や関係があったとしても、一個人という最小単位は必ず存在する。さらにいえば、その個人の奥に秘められた神経回路ともいえる世界観のネットワークにこそ、国家、町村、気候風土、主義思想などの身体よりさらに高次の概念としての真像がある。この両者、トルターチとカーヴィンはまさに、個の宇宙に広がる世界観そのものを懸けた争いをしているのであった。ネットワーク、すなわち神経回路の純粋な拡大が世界の動きと直接に同調するのである。
"もう……か。君は来れないんだな。だとしたら、消えてしまう他ないぞ。私達は死してなおアシュラで生き続けるのだ。"
不気味な沈黙を破ったのはカーヴィンであった。
"そうだなぁ。じゃあまず、アシュラについてもう一度話そうじゃないか。今回は前の装置を軽く清めた時とは比較にならないくらい、私がアシュラの真髄を語ってやる。"
そういきがるカーヴィンの姿をトルターチは沈黙を持って眺めていた。
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ディオはエドウから指名手配の連絡を受けると、イシエを連れて大急ぎで自宅を抜け出した。今彼らは、路線バスで移動していた。それにしても、アラヤマとの協力が問題になるであろうと考えてはいたが、まさか指名手配までされるとはディオ自信にも想定外であった。
そんな想定外の現状であったとしても、隣の席に座るイシエは相変わらず一言も言葉を発しなかった。バス運転手の運転が荒いのであろう、車内は上下左右によく揺れた。乗客達のその揺れを耐えんと変に体を強張らせる姿は、林立を思わせたが、その一方イシエは至って柔軟であった。とうとうバス運転手にまで主導権を明け渡してしまった彼女の姿は笑い事であった。
彼ら二人が目指す場所はレクタオン墓地であった。それは、アラヤマがディオに渡した、イシエとアラヤマとの亡き子が眠るばしょであった。
今のディオを動かすものは、アラヤマとの約束でほぼ全てであった。だが、それはディオの中でイシエへの思慕が無くなったというわけではない。今の彼は隣の女性をイシエミサキだと認識できない、認識したくないというだけである。それは、彼の中のイシエへの憧憬が強く影響しているのではなく、どちらかといえば憐れみの方が強かった。ディオは、今この瞬間のイシエをイシエと認識することが何より彼女自身のためにならぬと薄々感づいていたのである。現状の彼女を打開できるのは彼女自身でしかない。そのための一つのきっかけとして、アラヤマは墓標たらんとしたイシエと亡き子の墓とを対面させるよう、ディオに託したのであろう。しかしながら、この一連の行動・思考はすべてアラヤマの呪縛により、ディオの中でやっと成立しえたものであった。アラヤマがいなければ、ディオは性根の敗退劇を酷く演じ、彷徨してしまうであろう。その点では、彼もイシエと似通ったところがあった。彼らは空っぽなのである。
隣のイシエは心中を失っており、ディオに頼らなければ体勢を保つことができないようであった。彼の肩に頭部を預けながら、前方の車窓に視点を合わせるばかりである。その頭部は異様なほどに重みを感じられなかった。
ディオは不意に病室で寝込んでいた時の彼女の姿を思い浮かべた。寂寥感に襲われた。自分と彼女との関係とはなんだったのだろう。あの病室で風にあおられたイシエの薄紅色の頬とは何であったのか。自分が案じた彼女の将来とは何であったのか。今のイシエの姿とTVに映ったアシカジョウの姿は同じであるのだろうか。そして、今自分が彼女と向き合うことへの真摯さが本当にあるものなのだろうか。イシエは元は強い女性であるが、今は弱々しくなっている。それに対して己の行為とはかくあるべきか。これは、至極明快な、アラヤマの音幅がディオの中で響いていたからである。彼の瀕死の中で一生を懸けて放った言葉は声であり、音であり、振動であり、衝動であった。アラヤマの言葉はただの発音でありながらも、ディオのいかなる行動よりも、より行動らしかった。信があり、意思があった。彼とディオの決定的な違いはそこであった。しかしその衝動は、思考したからといっておいそれと自身の中に織り交ぜられるほどに単純ではなかった。そのために多くの行動と見聞を必要とした。いつ何時、その衝動と自身体が同調するかはわからない。だがそれでもディオは多くの行動をせねばならなかった。生きねばならなかった。ただ、その衝動は外側から与えられるものではない、外側と内側との温度差ともいうべきものが生じた時、己の昂まりか、外側の零下かが起きた時にその姿を見せるのである。その衝動と初めて遭遇した時、不遜を演じてはならない。逃げてはならない。ただ真摯に向き合わなければならない。それが、赤面してしまうような痴態であったとしてもそれを恐れてはならない。これは戦ごとではない。勝者と敗者があるわけではない。不完全であっても構わない。ただ、自身がいかに自身の中の衝動に、信に、意志に、時間に、正直であれたかということである。ディオは今、その固い木材のように肩に当たったイシエの頭部の振動でこの衝動を誘発されたのであろう。しかし、今の彼にはそれが何であるかは、言葉にできない。だがそれでも、自分は行動せねばならない。血の流動にかけて、自分は行動せねばならない。衝動には先見が伴わないだが、彼にはそこに意義があった。今のこの傀儡と化したイシエへのこの行動にいかほどの価値があるかもわからない。隣にいるイシエへの行為でありながら、まるで暗中模索かのようであった。自身への感覚すらも伴ってはいなかった。
ディオはただ、イシエの肩を抱いた。少しばかり勢いがあったせいか、イシエの頭部が揺られ、またもディオの肩にごつんとぶつかった。
"ごめんなさい。"と、ディオは言った。
それは、イシエに対しての言葉なのか、自分に対しての言葉なのか、アラヤマに対しての言葉なのか、エドウかパルに対しての言葉なのかわからない、所在不明の言葉であった。だがそれは、矛先を決めぬ言葉だからこそ、清らかな水紋のようにバスの車内へと広がっていった。
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クレナイチョウの壊滅と共に、市装兵団は華々しくサリヴァンの地に君臨した。彼らの存在はサリヴァンの市民を恐怖によってまとめ上げた。そしてその、恐怖による市民への統制は、自治組織の組織改変を促し、その名をサリヴァン市政と名付けさせた。この頃なれば、サリヴァンを治める者に前歴のギャング達の臭いは弱まりつつあったが、その行為自体は市装兵団を始め無くなることはなく、むしろ、官僚的思考の輩のそれは、ギャングのものよりタチが悪い場合もあった。市装兵団はサリヴァン市政による絶対的な管理社会体制へのキャンペーンとして使われたのである。それは、この地には数々の暴力の血の嵐あれど、これほどまでに非人間的で残忍なものはなかった。サリヴァン市政は市装兵団をキャンペーンとして市民の生活を侵略し始める。どのように賢明な人物であろうと、この侵略という秘薬が誘発しうる快楽には慎重にならねばならない。それほどまでに依存性が高く、人の心を狂わせるのである。市政はその快楽に身を溺れさせた。彼らはキャンペーンの名の下に、定住所を画一化し、マスプロを前提にした家屋計画を立てた。そこに大量の雇用が生まれ、サリヴァンの町は瞬く間に変貌した。市民の高低含めた平均敵な生活は大幅に向上した。この点だけ見れば、市政の行為は優れたものと言えるであろう。しかし、市民の生活の端々には、必ず市装兵団がいた。市民にとって市装兵団とは、体制に盾突いたクレナイチョウをショーよろしく虐殺した恐るべき存在である。そのことは、市民に極度の緊張を強いた。なぜなら、市民は自らの生活の中に、あのクレナイチョウとつながってしまう瞬間がないか、外を行進する市装兵団に目をつけられてしまう要素はないから、常に不安と共に生きなければならなかったからである。それは、無象のテロルと呼ぶに等しかった。それは、目に見ることのできる大きな囲い、整形のための金型の、内側に備えられた見えぬ棘である。囲い、金型の外に出んと少しでも暴れると、たちまちのうちにその体を傷つけるのである。これのもっとも恐ろしいところは、内側の市民は決して外側の市装兵団に攻撃されるのではない。内側の棘、すなわち肌に触れる市民の一部によって攻撃されるのであった。精神的に抑圧された集団というものは、邪悪なヒエラルキーが発生するのは別段怪奇なことではない。市装兵団は市民を抑圧するにとどまらず、彼らの精神をも文字通り侵略したのである。この時期、サリヴァンでは市民同士による大量の私刑が行われた。それは、クレナイチョウとの闘争における負傷者と同じ規模で起きていたのではないかと言われている。しかし、これらの人々が市装兵団と関連づけられて考察されることは金輪際ないであろう。それほどまでに、内側に向いた棘というものは厄介なのであった。市装兵団によるサリヴァン市民への無象ねテロルは、科学宗教ポノウェの登場を待つ間、続いたのであった。
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ゾーラはココルチェの宿へと戻ると、まず一杯の酒を仰いだ。それは、首領であるトルターチが誘拐されていることをつゆにも感じさせない爽快なものであった。口元から勢いのあまり酒が垂れる。酒は首筋から鎖骨を伝ってシャツの上に歪んだシミをつけた。それは本質的に幼年の食べ汚しに同じである。ゾーラはその杯を思い切り床に叩きつけた。飛び散った数多の破片は、絨毯に絡まっていた。これは、ゾーラにとってのココルチェにおける慣習であった。戦の前に行う一種の戦意高揚である。しかし、彼はこの行為にココルチェが四幹部に望む理解のほどを示してはいなかった。それをココルチェの一幹部として猿マネしている程度に過ぎなかったのである。それを彼自身が自覚しているかはわからぬが、その裏付けとなりうる、粗雑な慣習の一場面が今まさにここに現れているのであった。
ゾーラは杯を割り終えるとベッドに腰を下ろした。そして、エドウとの来るべき一戦を思い描き、微笑みをこぼした。彼のエドウへの執着は情念であった。些細な良い間違えを恐れずに言えば、彼はエドウを愛していた。夜会最中に会ってから幾分の時間も経ぬうちに、一方的といえど両者の間で愛を語ることはおかしく思われるかもしれない。しかし、ゾーラにとってこのエドウへの愛とは、戦いすなわち暴力であった。彼がエドウに対して感じる性的興奮は経験の累積によって成り立つものではなく、その鍛え上げられた肉体との刹那の衝突によって生み出されるものである。ベッドに腰を下ろして歓喜のために震える体は、自身とエドウとの激烈な死のシーン、弾け飛ぶ両者の熱い血と肉と汗を思ってのことであった。それこそが、彼を暗殺者として確固として支えたアイデンティティなのであった。その核を除けばココルチェやブラディの称号も含めたすべてが飾りに過ぎなかった。
誰かがドアをノックした。
"入れ。"ゾーラは言った。
室内に入ってきた黒服の部下は、
"リフォウ・トルターチはどうするのですか。"と、聞いた。
ゾーラは口角を鋭く上げた。
"トルターチはトルターチで差し引きならない修羅場にいるだろう。俺達の出る幕じゃない。俺達はココルチェとしての最高の仕事をすることだけを考えろ。"
ゾーラは年老いて肉体的に弱まったトルターチに対して、微塵の興味も無かったのである。
***
パルはエドウの運転する車で空港へと向かっていた。エドウ曰く、
"俺達は空港に張り込むことにしよう。ココルチェは空路か海路で脱出するかもしれない。港は海警隊に任せる。ココルチェから、意地でもアシュラを引っ張り出す。"
パルはその言葉を受けて、エドウの顔を見た。それは侮蔑さえ感じるような冷淡な目であった。
"わかったわ。"そう言ってパルは手遊びを始めた。
この両者の間には信頼や期待のような人間的な情はなかった。
パルは先刻のエドウの対応に白けていた。だが、エドウが何をしたところで彼女はおそらく白けてしまうであろう。たとえ、エドウの行為がパルの琴線に触れるものであったとしても、彼らの間には物理的とも言えるほどの強力な束縛が存在していた。それが互いの精神的接触を阻害していたのである。彼女はこの車が運転手であるエドウなどいないかのような声音で言った。
"ねえ、アンタこの先どーするつもりなの。夜会からイシエさんもディオさんもいないし、何より夜会にはエドオルムの要人もいたんでしょ? そこであんなこと起きてもアンタもエドオルムもこんな感じだし、もうこの町が終わってんのはうすうす感づいてたけど、もう、終末観ハンパないわ。で、話戻すけど、どーすんの? これから。それともこのまま愛の逃避行、なんて……。うっわー、キッモー。自分で言ってて寒気がしてきたわ。"
エドウは沈黙していた。彼女のどこか非人のように扱う傾向は今に始まったことではなかったが、最近はそれに拍車がかかっていた。それがいかなる感情により起こっているかはエドウにもわかりかねた。両者の車内は感情の混雑のあまりまったく振動を感じさせないものとなっていた。が、エドウにとってそれは常態のことであった。
パルはといえばだからといってそれを解消するほどにエドウとの交流を深めようという気はさらさらなかった。彼女にとってエドウとの交流は少女の、金品を代価に不特定多数と交際する行為に似通っていたが、問題なのは彼女がそれを自身のアイデンティティとしているところに無自覚であることだった。
ハンドルを一心に握り空港へと向かうエドウの心中は、とかく鮮血と暴力の感情で満たされており、そのハンドルさばきは暴力的且つ乱暴に尽きた。これは彼の常日頃の戦闘の洗練から導き出された美しささえ感じる凶暴性と比べれば、あまりにもお粗末なものであった。しかしそれを、彼の先天的な性分と片付けるのも賢明ではない。
パルはというと、横の運転席で乱暴な運転をする顔面蒼白でニタリと笑うエドウを心底気持ち悪いと思いあまつさえ自分がここにいる理由すら忘却するのであった。
この彼の気味の悪い乱暴さとは、彼の心中の著しい乖離から生じた無と呼ぶには大変愚かしい、空白状態によるものである。彼は頻繁に、生い立ちに関わる特定の事項や、自身の処理範囲を超えた巨大なものに対した時、己から自我を破壊せんかとする勢いの乖離を起こすのである。それは、一般的に理想と現実の軋轢による精神崩壊と捉えることができた。しかしエドウの場合は、個人の心的作用とサリヴァンの町そのものの情勢が合一しまったく同じ変動をするという、奇妙なものであったが。エドウは前へ前へと猫背になりながら、ただフロントガラス越しの前方、そして目指している空港、その空港で起きるであろう夜会よろしい悲惨極まる惨劇を好奇の目で見ていた。今の彼にはそれ以外の事物は理解不能のものと化していた。
車を交差点の停止線で止めたエドウは、前の横断歩道を渡る通行人の中にココルチェのゾーラを見出し、眼球が剥き出た。
ゾーラは横断歩道の真ん中で立ち止まり、エドウの車の方へ向くと、ニヤリと笑った。
エドウはパルに車を降りるようにせきたてると、自分も車道にも関わらず勇んで車から降りてしまった。
エドウもゾーラも、性的な嗜好は違えど同じ血の赤を求めていた。
ゾーラは何の予備動作も無しに突如直立のまま真上へと抜刀した。
エドウは瞬時に右へと飛び逃げた。
ゾーラの前方へと銃のごとき煌めいた弧の形をした何かが飛び出し、エドウの車に着弾すると車体を真正面から真っ二つにし、続けて後方の二台も切断された。車達は切断された衝撃で軽く宙に浮いたが、すぐさま着地し粉塵を巻き上げた。車が切断された轟音の後、辺りの人々は沈黙したが、徐々に事態が分かり始めるとにわかに活気立った。だが、後方の二台の車の様子を見に来た人々は、左肩から股間へと斜めに身体を切断され、臓器と筋肉を露出させ泣き呻いている運転者と、左肩と太股を切断され大量出血していた女を見たのであった。
"さあ! これから我がココルチェのために盛大なセレモニーを始めようぞ!"
ゾーラはサリヴァンに生きるすべての人々に宣告するようにそう叫んだ。




