二章④
ディオが路肩に車を止めると、アラヤマは車を降りた。ディオもその後に従う。
イシエタケバツの家は、ディオの三派閥の豪奢なイメージとはかけ離れた白で統一されたシックなものであった。周りの住宅を見回しても、浮世離れを感じさせることはない。その複合的な立方体を組み合わせて作られたような独特のフォルムは、周りとの住宅景観を気にかけながらも、その中で十分な居住スペースの広さを確保せんとするデザイナーの苦心のあとが窺えるものであった。
アラヤマは玄関へと続く十段ほどの階段へと足をかけた。その階段と隣には車庫があった。それが土地を抉るような方法で設けれられたものならば、タケバツ邸は外見以上に容積があるかもしれない、ディオはそんなことを考えていた。
アラヤマは数回かチャイムを鳴らしたが、一向に返事がない。そもそも、アラヤマの謀反を知っているタケバツが彼を入れるかどうかは疑わしいが。
ディオはアラヤマと二手に分かれて、中の様子を探ると共に侵入口が無いか探すことにした。だが、終の住家としてこの家を建てたタケバツが異物を招き入れてしまうような手抜かりをするとは考え難い。玄関の裏側へ、鉄柵を越えて向かうと、そこは小さな庭のようなスペースがあった。そこにはただのガラス戸があるだけである。ディオは当然このガラス戸を調べたが、開いているはずがなかった。果たしてこの中にイシエはいるのだろうか、ディオはそんなことを考えた。ほんの刹那であろうとも、今、ディオのイシエへの思慕はイシエタケバツの作り出した絶対の防壁により、届くことはないであろう。もしこのまま永遠に彼女に声が届かなければイシエはタケバツの無菌室の世界で生きていくのであろうか。自分のような暴力の世界に身を置くならば、それも悪くは無いのかもしれぬ、などと考えていた。それは目前の一糸の綻びもないタケバツ邸に対し、諦観を持ち始めていたからかもしれない。イシエは暴力の描写をするよりも、被写体である方が性に合っているのかもしれない。ディオは徐々にイシエへの思いを薄弱にさせながら、足元の玉砂利の音を体内に響かせているその時であった。
がちゃりと、背後のガラス戸の鍵が開く音がした。ディオはタケバツ邸に入っていく。それは、動物的な生理的反応であり、イシエを助けたいという積極的な動機ではなかった。
ディオが入ったガラス戸はL字の通路に面していた。この通路には天井が無く、建物そのものの上面を見ることができる。さながら迷宮のようである。目測からすると、この家は三階まであるようだ。外壁にはいくつかの大きめの窓が付けられており、そこから二、三階の部分へと外光が入る様子はなんとも神秘的であった。
ディオはこの空間において、自分が第一になすべきこと、イシエミサキの捜索を忘れていた。前方に広がる外光の射し入った廊下に慢心していたのである。
病院に卸したての新薬の臭いがする、それはディオが漫然とした意識の中で唯一感じたことであった。ただ、その新薬はまったくの効力を持たない、患者の中でただただ薬害を蓄積し、大量投薬の機をうかがう害あるホコリである。この家は中毒者の体内であった。身体としての正常な機能はもはや望めないながらも、薬切れから生じる激しい衝動は、正常な人間のそれよりも生々しくそして、凶々(まがまが)しい。この家も居住ための機能をまったく満たすことができないながらも、人を強烈に求めたのである。この臭いは何を隠そう、アシュラの臭いだったのである。
ディオは漠然と廊下を進むうちに視界の隅にドアを捉えた。微かに残るイシエへの興味のみでドアノブに手をかけた。入ってみれば何の変哲もない、ただのリビングであった。しかし、この家主の物への執着か、動線をすべて殺すように室内の家具は巧みに配置されていた。それは獣を飼育するための檻のようでもあった。その絶たれた動線を乗り換えながら、調査をした。
そして、洋ダンスの上に、額に飾られた写真を見つけた。そこには十代後半であろうか青々しいイシエの姿が映っていた。その写真を乳臭い猫を愛でるように見た。
“あら、お客様がいらしていたのですか、申し訳ありません。なんのお構いもせずに……。” 五十代半ばの女の声がした。
ディオは慌てて声の方へと振り向くと、そこにはイシエ家に長年仕えていた女の従者がいた。
“私は保安局のディオ特別捜査官です。妖しいものではありません。こちらにイシエミサキ特別執務官のお話を伺いに参りました。”
ディオはイシエの写真を置くと、その場で懐の身分証明書を探った。
女従者の元へと近づいて行く。ものの数秒で済む距離でも、その不自由な動線のせいか余計な時間がかかる。このタイムロスは幸運にも、彼女の間合いへの不用意な踏み入りを防いだ。
“お名前は存じ上げております。タケバツ様のお申し付けにより、貴方様をここで殺します。それではさようなら。”
女従者は手の中に持っていた小さな銀の包みを広げ、それをライターで炙った。青白い火柱が一瞬であがったかとかと思うと、頭を鈍器で撲られたような強烈な臭いが辺りを占領した。
彼女が現れてから激臭までの時間は数秒とないであろう。ディオは五感からの情報ではなく、内在的な経験則から危険を察知した。目前での異様な言動をした彼女を心配しないわけではなかったが、ディオの身体がなによりも、彼女との間合いを取ることを反射的に選択したのであった。飛び退いて間合いを取ると、彼女の体が変形してゆく。
全身に付いていた筋肉や脂肪は瞬く間に減ってゆき、骨の折れる音と共に四肢が伸びる。体内の何か急激な反応により、筋肉や脂肪が分解されて、骨の形成に使われているのだろうか。この急激な身体変化はまぎれもない、劇薬アシュラのそれであった。
それは変形する体をよじらせながら、低く唸るような声を鳴く。大きな叫び声と共に、リビングの天井に激突するかという勢いで跳躍した。猫のような身のこなしで天井を深々と鷲掴みにすると、両手両足を着けたそのままの状態で静止した。
ディオは天井に逆さまの状態でへばり付いているそれを見た。黄ばんだ目を剥き出し、髪を振り乱しながら威嚇する姿はもはや人間ではない。それは今まで二足歩行していたとは思えぬほどのスムーズな四足歩行で天井をつたい、リビングの外へと出て行った。
ディオの顔には、天井が抉られた際に出た粉塵が降りかかっていた。彼は突然の出来事に呆然としていた。少しばかりの放心の後、女従者、現アシュラ患者を追ったが、見失ってしまった。天井の抉った後も途中で途切れており、それはどこかに身を隠している。ディオの全身はそれの殺気を嫌というほどに感じていた。アシュラ患者との交戦は避けられないであろう。ところが、今回はこのような事態を考えていなかったために武器である短刀を持ってきてはいない。アシュラ患者と戦うには無謀であった。
ディオはアシュラ患者が逃げた方向を窺いながらゆっくりと後退した。この入り組んだリビングで戦うことは得策ではないと考えたからである。この家から一旦出たならば、エドウに連絡を取り、彼に対処してもらうしかないだろう。今のディオにジョウザンもパートナーであるイシエはいないのである。リビングに戻ってからも、前方を窺いながらの後退は続いた。しかし、家具を飛び越えるようなことはしなかった。不要な動きは致命の隙を与えるからであった。ディオは全身を包み込む緊張の汗を感じていた。この狭い室内でアシュラ患者に飛び掛れたなら、無抵抗のままに嬲り殺されることは目に見えていた。リビングの猥雑な動線はさながら迷路のようであった。それも、こちらを確実に知覚しながら、そろりそろりと近づいてくる猛獣がいるのである。なれば、いっそのこと振り向いて、ガラス戸まで一気に駆けてしまえばよかったか。こちらの行動を読み取って襲い掛かってくるアシュラ患者より早く走る自信がなかった。
この死と隣り合わせの迷路は、実時間にしてみれば三分にも満たなかったが、なにゆえ生死がかかっていた為、ディオに、彼の半生を三度繰り返すほど濃縮された痛々しい時間を与えた。
ディオはやっと彼が入って来たドアのヘリに手をかけた。今まで吸ってきた天井からの粉塵とは異なる太陽光で熱せられた微小なホコリが咽喉を満たした。
ディオはほんの少しばかり緊張の糸にゆとりを持たせた、その時であった。
何者かの鋭い爪がディオの頭皮に突き立てられ、白い頭蓋を鷲掴みにした。それはL字の廊下の壁にへばり付いた、女従者の仕業であった。ディオはそのまま、廊下から見えた二階まで引き吊り上げられる。
“あっ、がぁぁっ…。”
ディオの身体の重みがそのまま負荷となって、彼の頚椎はメキメキと唸った。地が足から離れ、振り子のように振られた時は、首が千切れるような激痛と感じ、意識が飛びかけた。しかし、ディオの状態は痛みや意識といった神経的なものよりも、首への負荷と極度の混乱による呼吸困難であった。息もろくに吸えなくなり、無抵抗の死を覚悟した時、彼は二階のフロアに投げ出された。フローリングの床に肩甲骨を思い切りぶつけ、転がった。床にぶつけた痛みよりも呼吸ができた解放感のほうが強かった。
女アシュラはディオへと、草陰から忍び寄る捕食者の如き足取りで近づいてきた。しかし、ディオはそれに関心を寄せる余裕がなかった。
“バァン。”
一発の銃声がディオの耳をつんざいた。続けざまに五発分の銃声が聞こえた。それはアラヤマのものであった。ディオはその時の光景を見ることはなかったが、辺りに漂う強烈な血の匂いを無意識の裡に感じていた。
“ディオっ!早く退こう!”
張り詰めた声でアラヤマがそう言うと、ディオはアラヤマの肩を借りながら起き上がった。その背後に今だ、女アシュラの殺気を感じていた。それは多量の血を失おうとも、動いていたのである。朦朧とする意識の中、ディオは階段を降り始めた。
アラヤマは、タケバツとの接触に関して、何かしらの揉め事を予想していた。だが、まさかアシュラ患者に待ち伏せされていようとは思ってもみなかった。
二人はタケバツ邸から逃げ出した。屋敷の中の騒ぎを聞きつけたアラヤマが介助したことで、ディオは一命を取り留めた。
ディオの過呼吸を聴きながら、アラヤマは車を走らせている。とりあえずはディオを休ませることは先決であろう。その多さと法外私営ゆえに足の着きにくい、薄汚れた売春宿へと目的地を決めた。アラヤマは鋭い眼光でフロントガラスの向こう側、前方の車窓の中に次の一手を探していた。
タケバツ邸があのような有様ならば、イシエミサキは大分、タケバツの深みに嵌っているかもしれない。もしかしたら、もう手遅れかもしれない、アラヤマの脳裏にそんな最悪の情景が浮かんだ。
それは、アラヤマを幾分か悔恨の中に引きずり込んだ。彼はイシエとの関係の中に未練を感じていた。しかしそれは、アラヤマ自身とイシエの二局間で起こる単純なものではなかった。
アラヤマ二十二歳、イシエ数え年十九歳の時である。
互いが愛し合いそして将来の話ができた時分、未婚の上でありながら、アラヤマはイシエと子を設けた。若さと来るべき輝かしき将来と家の事情で婚期をはぶらかされ続けた二人が、いかんとも揺るぎようの無い婚約指輪以上の確固たる誓いを求めた結果である。
しかし、彼らの関係は両家の不仲が災いし、派閥からの圧力によって破談となってしまった。これに対し、当事者であるアラヤマは猛反発した。無論、タケバツはイシエの腹の子を認知していたはずである。だが、そんなことなど意にも介さず、イシエの父はアラヤマを武力も辞さずにイシエから引き離した。それ以降、アラヤマは自家とイシエ家の目を掻い潜って、イシエに会いに行った。なにがあろうとも、二人の間には派閥の圧力などには屈せぬ強い思いがあり、そして何よりもイシエの胎内には将来の新輝であろう子がいたのである。アラヤマはそれをひたすらに信じ、願い続けた。
しかし、父の命によりイシエは人工妊娠中絶をした。アラヤマとイシエの子は宿ってから三週目に死滅した。
アラヤマは憤怒した。それを聴いた時の自分の面は、彼の心臓にしっかと印刻されてしまった。
これはただの憤怒ではない。二人の子の血によって刻み込まれた呪詛である。このイシエの子との呪詛はアラヤマの理解の範疇を明らかに越えていた。彼一人で抱えきれるものではなかった。それをイシエと共に背負うこともできなかった。その呪詛を受けてなお、彼の性質は諦念と堕落を選ぶことはなかった。だが、無軌道なエネルギーへとアラヤマを駆り立てた。彼の激情の拠る所はすべてこれなのであった。
以降、アラヤマはイシエとの信頼を絶った。そこに是非を問う気力を今のアラヤマは持ち合わせていない。そのため、イシエと自分との関係を未練という言葉で表わす以外に方法がなかった。確たる名称を付けられぬものに対し、かれはしこり以上の認識を持つ事は無かった。アラヤマはこれ以上しこりを弄くり回したところで何にもならぬと思い考えることを止めた。
アラヤマは、後部座席に仰向けでのびていたディオの弱々しい声を聞く。
“アシュラはあの程度では死なない…。トッケイのエドウさんに連絡を入れなければ…。”
そう言うとディオは運転席から自身の携帯電話と取る仕草をアラヤマにして見せた。アラヤマにとって、自分の存在を徒らに知らせることはあまり好ましくない。アラヤマはディオの目線の先のアタッシュボードから携帯電話を取り出すと、車の外へと放り出した。
“何をするんだっ!”
それは負傷のためか異様に覇気が無い、怒りのみにまかせた言葉であった。
“アンタはイシエタケバツのことについて、どれだけ知っている?そして、そのトッケイのお仲間とつるんだ所でどれだけの情報を手に入れられると思っている?さっきのアシュラ患者を見ただろう?俺の想像以上に、最執部はアシュラすでに汚染されている。そんな奴らとつるんだところでどれだけの情報が手に入ると思っているんだ!イシエミサキを助けたいんだろう?なら、トッケイとかいう奴らと縁を切れ。そして俺と来い…。”
アラヤマはディオを食い殺さんとするかのように乱暴に言った。
“違う!そうじゃないだろう!あの程度の傷じゃアシュラ患者は死なないといっているんだ!イシエさんのことは関係ない!あのままにして置いたら、また暴れだして人を襲うかもしれないんだぞ!お前は執務官のくせにそんなこともわからないのかっ!”
ディオは緩急をつけるために必要なギアを失った、早口且つ乱雑な口調である。
“うるさい!俺は確かにあいつの頭を撃った、だから死んだんだ!それに、今はこちらの動きをあまり察知されたくない!イシエのために俺を選ぶのか。それともイシエと捨てて奴らとつるむのか。どっちなんだディオっ!”
アラヤマはアシュラを過小評価していた。おそらくあのアシュラ患者は生きてまた彼ら二人の前に現れるであろう。彼の熱血漢の性質が猪突猛進という悪い形で表れていた。
“あなたの言い分もわかった。だがやはりあそこは危険だ。匿名でいい、トッケイにアシュラ患者の出現だけ連絡させて欲しい。なんならあかの他人に連絡をさせる。付近の人達が心配なんだ、頼む。”
ディオは落着きを取り戻した声でそう言った。二人の間に少々の沈黙が流れた。
“わかった。俺も少し気が立っていた。どこかの小僧にお前からの伝言だとトッケイの連中に伝えさせる。すまなかった。どこかで少し休もう、お前の体の方も心配だ。”
ディオの落ち着きに影響されてか、アラヤマも静かになった。だが、結果としてタケバツの元にイシエがいないとなった以上、今のアラヤマに討てる手立てはなかった。
イシエとその父タケバツは、肉食獣並みの嗅覚によって、ディオとアラヤマとの接近を切り抜け、ホテルに閉じこもり夜会のための衣装や小物の準備をいそいそと続けていた。イシエは自身の今の境遇をまったく疑うことはなかった。父タケバツの存在は絶対であった。それは、タケバツの一方的な強制のうちに成された関係であったか、もしくは彼女自身からその深みに嵌っていったのか、今となってはどちらが原初であったか見当がつかぬほどに混迷していた。
“ミサキ、見てご覧。すべてお前のために揃えた物だよ。どれでも好きなものを選んで着てみなさい。”
イシエは言われるがままに、タケバツがダブルベッドの上に広げた何十着ものドレスの前に立った。ドレスの端々が重なり合っており、一着を引き抜くとこの整えられた隊列は一瞬で崩れてしまう。それは選択者であるイシエに絶対であるタケバツの意向にそぐわなければ後が無いことを意味した。だが、イシエは始めからタケバツの人形であり、墓標である。そのイシエに、操り手であるタケバツの意向を取捨選択する意識、もしくはそれを阻害する意識などあるはずがなかった。
彼女は停滞した時間であり、閉鎖された空間であった。そこに感情の流露はない。彼女の心理が自然と、タケバツの意思から離れることもない。もしかしたら、離れられぬといったほうが正確であるかもしれない。それはタケバツがイシエの父親である以上に、サリヴァンの執政を司った最執部の一員であり、逃げ切ることができぬということである。
イシエのこの事例はサリヴァンで生きる人間のほんの一ケースでしかない。このサリヴァンで生きる一人一人にサリヴァンの災厄は降りかかっている。それを総称して“アシュラ”とされた。劇薬アシュラが時代に背負わされた一つの命題である。
イシエはドレスに手を伸ばさず、おもむろに着ていたYシャツのボタンを外し始めた。開かれた胸元は薄藤色の下着をのぞかせた。
イシエはタケバツの視線を受けながらも、その体を晒すことにまったく抵抗を感じなかった。それは、肉親であるからという意識の延長線上にあるものではない。人形である彼女に羞恥の感情などなかったのである。それは幼女の爛漫さにも似ていた。
イシエはシャツとスカートを脱いで、下着姿になってしまった。彼女の重みのある乳房と古代の高級陶器を思わせる滑らかなくびれ、それに続く包容さを持った臀部はすべてタケバツの思うがままであった。イシエの肌は少しばかり赤らんでいた。それは恥辱ゆえのものではなく、電化製品に見られるシステマチックな反応であった。右膝をベッドの端にのせて両手を着き、四つん這いのような格好になった。左太腿から踝にかけて、美しい肉感を持った流線が現れる。彼女の髪はなだらかな肩に纏わりつく。タケバツから見れば、下着姿で背を向けていたイシエの滑らかな腰が徐徐にその形を沈めてゆき、パンツが食い込んだはち切れんばかりの臀部と薄藤色に隠された秘所が現れたのである。それはあきらかに経産婦のものではない。イシエはそんな自分の姿、そしてそれを真後ろから眺めるタケバツの姿を認知していた。タケバツが喜ぶであろうドレスを白絹の指で探る。その息は熱っぽい。四つん這いになったことで、ブラジャーに包まれた乳房は大きく弛んだ。
タケバツの執念をその胸に受け入れんとして変容したかのようである。
そんなイシエの姿は、タケバツを大そう喜ばせた。その目は娘を見るものではなく、ダッチワイフを愛でるような目であった。タケバツの股間は大きく盛り上がった。目前のダッチワイフに興奮していたのである。タケバツの視線は娘ミサキの水々(みずみず)しく張り詰めた臀部を舐め回すように動いていた。目線を左右に振るたびに、柔らかにうねるイシエの裸の腰と下着をつけた臀部を見ながら、タケバツは絶頂した。
“お父様、私はこのドレスにします。”
イシエはそう言いながら振り返り、そのドレスを地肌にぴったりとあてがった。赤熱を帯びた頬でタケバツを見る。彼はぐったりとした体勢で椅子に腰掛け、ザーメンで湿気った股間を隠していた。
部屋には、タケバツの終の住家のような病的な臭いが充満した。これは両者の盲目のなかで行われた、自昼夢の時間であった。
件の夜会が執り行われる場所は<キュピレスト・ガーデン>という大きな屋敷である。そこは、自治組織時代に芸術肌を気取った組織幹部の一人がサリヴァンを抜けた広大な土地に莫大な資産を注ぎ込んで完成させた屋敷が元になっていた。この芸術肌気取りの幹部はどこか間抜けであった。
まず、屋敷そのものの装飾は、実際に注ぎ込んだ資産それ相応の豪奢さではあった。だが、この屋敷の主である芸術肌気取りが要らぬ茶々を入れたがために、建築の元となった資産そのものを並べた方がよほど豪勢に見えるのではないかち言えるほどに、この屋敷は巧妙に美の観点から外れてしまっていた。さらにこの芸術肌の間抜けは続く。彼はその広大な土地代を浮かせるために、市内からわざと離れた場所に屋敷を建てることを決めたのだが、そこには生活に必要なライフラインおろか、道路すらも敷かれてはいなかった。そのため、この屋敷の建設計画は道路の整備及びライフラインの拡張工事から始まっていた。前述の、資産をそのまま並べた方が豪勢という表現は、ここで使われた資産を洩れることなく含まれている。
結局、この屋敷が完成するまで、十年近い歳月が費やされた。そんな屋敷には、整地されたといえど、当時の技術ではその悪路を完全に整えることはできず、ライフラインが止まることは頻繁であり、客人はおろか、郵便配達員まで来ようとはしなかった。
住み始めてから一月と経たずに家主の妻子はあまりの悪環境のため、屋敷を飛び出した。そして半年たった頃にとうとう家主もあきらめて、サリヴァン市へと戻っていったのである。家主のわがままで屋敷に縛られていた従者達も解放され、一目散に逃げ帰った。屋敷は無人となった。その劣悪な環境と立地の悪さによって、人々はその屋敷に近づこうとはしなかった。これは中だ!入れる場所を考えなければ
以上がその屋敷の生い立ちであり、三派閥が目を付け、道路からライフラインまで徹底的に工事を進めたことにより、現在の夜会会場、キュピレストガーデンの姿があるのであった。
* * *
クレナイチョウの出現とサリヴァン自治組織の分裂から発生した争いによって、サリヴァンの情勢は大きく変動していた。それはサリヴァンに潜伏していた原住民、もしくはその血を受けた混血種、移民であっても自治組織によって厳しい弾圧を受けていた者達がクレナイチョウの運動に同調し始め、自治組織もそれを脅かしい威力として認識し始めたからであった。自治組織はその名をサリヴァン市政へと姿を変えて、サリヴァン住民の管理、監視にさらなる力を入れた。それは争いの直接の引き金となったココルチェ武力部隊の強制ガサ入れの延長として捉えられ、クレナイチョウの膨大化を加速させる結果となった。
争いでの活躍により、原住民がクレナイチョウを見る目は大きく変わっていた。そんなクレナイチョウの中核を担ったのが、原住民の上層組織の生き残りであるカイゼヨウジョウサイとアシカジョウホロノミの二人であった。クレナイチョウの中核である彼らは、移民に抑圧されていた原住民の解放のイコンとなった。そんなイコンを得た原住民は各地で頻繁に暴動を起こすようになった。それは直接にクレナイチョウと関わりを持たぬ者達が起こしたものであった。これは、クレナイチョウという一つの組織以上に、それに影響を受けた、まったくの一市民の暴動者、潜在的な暴動者が存在することを意味した。原住民いう血統を超えた人種にまで波及し、その数はもはやサリヴァン市政の物理的な力で抑え込めなくなっていた。
そのため市政は、物理的な武力以上に市民を威嚇し、束縛するための仕組みを必要とした。そうして組織されたのが<市装兵団>である。それは今までの武力部隊や警察の装備とは一線を駕すものであったが、市政がなによりも望んだものは、その任務遂行から生じる一種の恐怖洗脳、テロルとしての効果であった。絶対たる力の対象として市装兵団が君臨することができれば、暴動はそのテロルによって鎮静化できるというものである。市装兵団が絶対の力として君臨するために倒すべき相手はクレナイチョウのみであった。サリヴァン市政は市装兵団の確実な勝利のために行動を開始したのであった。
* * *
タケバツ邸を後にしたディオとアラヤマは、ディオの体の具合を見るために簡易ホテル売春宿へと滑り込んだ。幸い、ディオの負傷は命に関わるような大事ではなく、頚椎の多少のズレと肉離れ、そして頭皮の切り傷のみであった。伝える技術……
ディオは応急手当で頚椎の位置を元に戻し、首に湿布を貼ると、大事をとってベッドで休んでいた。彼の自力による首の手当ては医学的にみれば危うい行為であったが、彼は自分の戦士としての経験を信用していた。ディオは安静のため天井の一点を凝視していたが、。その視界の隅に慌ただしく動くアラヤマの姿を感じていた。
ディオはそんなアラヤマをめずらしい男だと思っていた。それは、彼の感情の激しい隆起を見ていたからである。物質への介入、形而上学みたいな展開アラヤマはかなり気性の激しい人間であった。彼のその感情の激しさ、熱っぽさがこのサリヴァンに蔓延るアウトローの暴力性と類似することはまったくない。彼は、どこか粗野でありながらも、他人を熱狂の渦に巻き込むような魅惑があった。先ほどの車内での掛け合いも、あまり見られたものではなかったが、それというのも、彼の熱っぽさにディオがあてられてしまったからである。
彼のそれは非常に純粋だったのである。雄々しく荒れながらも、けしてその孤高さと力強さを失うことの無い、大海のうねりまさにそれだった。それは、彼が生まれ持った天性に拠る所が大きかった。フィジカルを伝えるための映像イメージ、形而でそのままやるのはだめか
彼の肉体とはまさに、生の摂理に抗うことなく順応した猛々しい猟師の男のものであった。それはディオの殺生のために鍛え上げられた肉体とは異なっていた。彼の肉体には生のみが宿っていた。ディオは不意に、もしこのサリヴァンに十人ほどアラヤマのような男が一同に介すれば、このサリヴァンに蔓延るアシュラを一掃できるのではないか、そう思った。アシュラの死の観念を打ち破ることができるのは生の観念のみである。間違っても、自身の持つ戦闘の技術、死の観念などではない。書き手の人生があって作品がある… 映像、情報以上のシナプスが形而上学、思弁小説?
ディオは確信した。イシエを救う支えることのできる人物はこの、アラヤマコトマしかいないということである。それは、彼女が秘めていた被虐癖とアラヤマの生の肉体から発する情動が調和するのではないかと考えたからである。対面がない…全部脳内……
アラヤマの言う所によれば、イシエは父親との関係が不良になり、仕事へとのめり込み、トッケイへと配属されたらしい。今の彼女にとってトッケイでの仕事、ジョウザンシステムの力、そしてディオは、イシエの被虐癖を緩和させうる一つのシステムと成り得ていた。イシエが父親と再会し、引き込まれてしまったのも、彼女自身が今だ父親と対面できるだけの段階になかったと考えることもできるのである。イシエがトッケイの激務の中で培ってきた経験というものはすべてジョウザンシステムとディオありきのものであって、た。その力が弱まりつつある時に父親へと向かってしまったから、イシエは飲み込まれてしまったのであろう。なれば、彼女はこの先なくなるかもしれぬジョウザンシステムの代わりとなる何かを見つけ出さねばならない。それが、このアラヤマコトマなのではないか、ディオはそう考えたのである。
視界の隅で動き回るアラヤマへと声を掛ける。
ここらへんに磔を入れればよかった……
“アラヤマさん。この先、イシエさんを助けたら、あなたはどうするつもりなんですか?”
アラヤマはディオの言葉に耳を傾けたことを示す、一瞬の静止の後、また慌ただしく動いていた。彼からの返答はなかった。
“イシエさんを救い出したら、アラヤマさん。あなたにはイシエさんと一緒にいてもらいたい。イシエさんは父親の元から離れてから、トッケイでの任務とジョウザンシステムでここまでやってきた。それでもかなり強がっていたし、無理をしていたんだ。今のイシエさんはジョウザンシステムの力が弱まりつつあるんだ。このままだともしかしたら、イシエさんはトッケイに居られないかもしれない。その後にイシエさんを支えられるのはあなたしかいない。”
ディオの口調は相手を見ていないにも関わらず、非常に鋭く、強いものであった。
アラヤマは動きを止め、イスに腰をかけると緩やかなテンポで語りだした。
“ディオ、俺は正直なことを言うと、最執部の輩を殺した後のことなんて、まったく考えていない。俺は奴らを相打ちになってでも地獄に引き摺り込む。とてもじゃないが、イシエミサキのことまで面倒はみられない。それにディオ。君は彼女と俺の関係をどこまで知っている?ジョウザンシステムというのは互いの頭の中を覗くんだろう?”
アラヤマの言葉には計り知れぬ重さがあった。ディオは思わず咽喉を鳴らした。
台詞が多くて、観察がおざなり?
“確かにジョウザンシステムの起動中には何かが見えたり、記憶を意図的に引きずり出すこともできる。だが、そんなことは好んですべきではないし、何より、記憶には人それぞれの特別な感情をともなっている。それは、彼女の人生のすべてを踏襲せぬかぎり同じ思いに至ることはない。それに記憶を見るといっても分散的なものだ。大抵は意味などわからない。”
ディオは天井を見続けていた。
“俺はね、イシエミサキに憎しみを抱いていると前に君に言ったと思う。それはこうだ。彼女が俺との子供を堕ろしたんだ。勝手に。多分、父親の言いつけなんだろう。婚約の破談に不服を言いに行った時にタケバツは堂々と言いやがった。………。もう、立ち上がることもできなかった。その場で突っ伏してしまったよ。あまりの不能感に涙が出た。今でも忘れないさ。だから俺は、最初は彼女も一緒に殺してやろうと思った。だが、クローヴィム号の事件で彼女が入院したと聞いて見に行ったんだ。一度は愛した女性だ。三派閥の輩と一緒くたに殺すのは可哀想だと思ってね。それで、床に伏せるミサキの姿を見たんだ。
あきれたよ………。あきれたよぉっ!俺はあぁっ!
ミサキは死人のようだった!意思も何もない、ただの人形よぉっ!
俺の憎しみは、音をたてて崩壊した。消えたんじゃない、崩れ去ったんだ。ミサキは所詮、トリミナギであった俺を取り入れるための道具だったんだと、その時理解した。いうならば、彼女も俺と同じ傷を受けた者だったんだ。俺と同じ境遇なんだきっと。だが、彼女は俺達の子供を殺した。殺すことを認めた。
……………………。
俺は彼女に執着することをやめた。もう何処にも行き場が無いと悟ったからさ。俺が彼女を助けるのは、微かに残った彼女との思い出のため、そして俺の子供の母親を見殺しにするのは、子供に申し訳ないと思ったから、それだけだ。俺はもう彼女は愛せない。
むしろさ。俺がなんでアンタに近づいたかわかるか?俺はあんたにイシエを支えて欲しいと思っているんだ、俺が死んだ後にな。“
アラヤマの語りの後、沈黙を保っていたディオの胸中にはありとあらゆる鉱物を錆び付かせる潮風が吹いていた。ディオはアラヤマと、イシエについて語らうことを止めた。アラヤマの裡に眠るイシエへの思いは、容易に変えうることはできなものではないと悟ったからである。
ディオは話題を極めて現実的な地点へと戻す。
“少なくとも、今の彼女はトッケイの一員であり、僕のパートナーだ。そこは心配しなくていい。その先のことはイシエさんも含めて、助けた後にでも考えよう。ところで、最後の頼みの綱だったタケバツ邸にもイシエさんはいなかったんだろう?これからどうする。”
口調を穏やかなものにして、ディオは言った。それを受けて、アラヤマは再び動き出す。
“前にも話したかもしれないが、週末に三派閥が主催する夜会があるんだ。そこにきっと、タケバツと彼女は現れる。俺のターゲットである三派閥も含めてな。できることなら彼女を夜会までに奪還したかった。夜会への刺客がもうサリヴァンに入り込んでいる。筋金入りの悪漢共だ。修羅場となるのは避けられない。だから、ディオ。夜会で君にはイシエを助け出して、守って欲しいんだ。彼女が死んでしまわぬように。”
“その刺客がココルチェというわけか。ここまできてなんだが、あなたは本当にココルチェとアシュラの取引をしていないんですね。”
アラヤマはディオの枕元に立つと、
“彼女に渡して欲しい。これはアラヤマ家の墓の場所だ。俺の名も刻んである。そこにアラヤマコトミという名がある。俺と彼女の子供の名前だ。俺はコトミのために戦う。そしてイシエミサキを取戻す。それが今の俺にできる唯一のことだと思っている。




