一章①
統正のとれた街路計画の中に律然と、歴史と雅艶を閉じ込めたビルディングが建っていた。しかしそれは、中世のヨーロッパに照応する誉れと美が均整の元に綯い交ぜになったようなものではない。建物は、形骸が近代以降の素材を用いてはいるが、外装や細部に至る部分が、現在から紀元前までの特徴的なデザインをコラージュのようなつぎはぎで構成された、奇怪なものである。だが、この建物が発する奇怪さは、物質的な形容によって引き起こされるものではなく、コラージュを中継とした、建物の持つ鏡のような特性が見る者の姿を鮮明に写し出す時、この両者の関係の中で生まれるものである。
政策事業の一介として、一つの象徴となり得るような巨大な記念碑を設けることは、常磐の政策であるが、この建物についても、その例にもれることなく含まれる。この建設計画はこの町の復興と新規発展への足がかりになるはずであった。だが、その目論見は結果的に失敗に終わったのである。そこには、人々の徒労を啜り、荘厳さと神聖さをまとうまでに成長した建物があっただけである。それは人々を絶望させた。
我々はただ、安全に子供達が走れるような道がほしかった。我々は自らの生をより輝かしくする仕事や、その中で真に信用し合える素晴らしき同僚がほしかった。我々は愛すべき家族と雨風が防げるほどのあたたかい家がほしかった。心の底からの本当の笑顔がほしかった。だが、我々が得たものはそれらではなかった。我々はただのハコモノを、いや、もっと悪い、怪物を、怪物を生み出してしまった。
しかし、人々に反抗の意志があったわけではない。彼らはその怪物の圧倒的な威力の前に、後悔の嘆きを、明日への淡い希望への嘲笑を、自らの不幸な境遇を受け入れるための自身への宣誓を、大気中にまき散らすことしかできなかった。その怪物は、自身の細部の隅々にまで、彼らの苦悶の叫びを浸透吸収し、恐るべき変態を遂げていった。人々は増築、拡大の一途を莫大な資金と権力によって行わせるその建物になすすべもなかったのである。この建物は、この町において市政よりも権限の強い、保安局最高執務部を頂点とした一連の保安組織のすべてを統括するメーンシンボル、エドオルムサリヴァンそれであった。
***
近代を象徴するような幾何形態の都市区画と粗雑な市民の生活を糧に、粘菌のように蠢くビル郡がここにはあった。その粘菌の上に一個の微生物のようにエドウ・ナウカもいた。自らに、軽く対衝撃性のとんだ防弾鎧をまとわせ、傍らには、黒く水牛のように頑健な大型車を侍らせていた。
その車両の中には彼の同僚の男がいた。エドウは保安局保安部に属する機動保安隊サプレッサーの分隊長補佐であった。
車内の本部と連絡を取り合う同僚は死人のような顔色をしている。エドウはあまりにも趣味の悪い事を考えていた。ならば、この車はさながら霊柩車とでもいったところであろうか。いや、違う。これは棺桶だ。そう呟いた。
暴力と殺人の現場に身を置く自分達が、誉れとされる殉職を遂げた際、飛び散った血肉をこの棺桶はあますことなく、すべてを収容するであろう。彼が自分達の境遇をこのように暗惨たる視座で眺めることができたのは、自分が死ぬという想像に興味すら持っていなかったからかもしれない。
車内に収納された小銃器へと、エドウは手をかける。彼は自分の命を預ける最も信頼の置けるこの相棒の、手入れを欠かすことはない。この銃器は繊細で巧緻的な数々の部品でできあがったものであるが、そのうちに秘められた破壊への想念は使用者を含めた人間そのものの存在すらも蔑ろにしてしまう。そこには、人間の意志を超えた領域に銃器そのものが存在し、あずかり知らぬところでそれ同士の何か怖ろしい思想的なネットワークでも起きているのではないか、エドウは不意にそのような思い付きをした。
もしかしたら、自身の感じているこれが、殺人者を殺人者たらしめる、ある種の禍々しい衝動なのかもしれない。仮に、彼の衝動が殺人者のそれと同じだったとしても、その手に握りしめられた銃器から放たれる弾丸に、それを持ちえていた人間が持たなければならない志念というものをエドウは十分理解していた。
彼が始めてこのおそるべき銃器を手にしたのは、齢二十六の時分から、十年ぐらいかのぼったくらいであろうか。保安局養成学校に通っていたとき、初めて銃器に触れた。彼はその黒い、体積からは想像もつかないような破壊力を内包したそれを握り締め、自らが正義の使者として、この絶対の行使力への誇りを感じたものであった。だが、彼のそんな誇りは年経るごとに、徐々に摩耗していった。気づけば誇りなどという愚かしいナルシズムは、職務をまっとうすべきという自分に、覆い隠されすっかり息を潜めてしまった。しかし、だからといって彼の誇りがなくなってしまったということではなく、日々の忙殺の中で気にも留めなくなっただけである。彼は今でも銃器を握る時、胸のうちになにか込上げるものを感じることがある。だが、様々なものを見聞きしたからこそ、これが本当に誇りというものであるのかどうか、断言はできない。もしかしたら、自身の感じているこれが、殺人者を殺人者たらしめる、ある種の禍々(まがまが)しい衝動なのかもしれない。仮に、彼の衝動が殺人者のそれと同じだったとしても、その手に握りしめられた銃器から放たれる弾丸に、それを持ちえていた人間が持たなければならない志念というものを十分理解していた。
エドウが瞑想の如き思案をもって、己の身魂を極限まで研ぎ澄ませていたところに、一本のけたたましい無線が入った。
“アシュラ発見しました。紫のパーカーの男で拳銃を所持している模様。A 街区27番から31番に入り、E街区方面へ移動中。ビルの屋上から飛び移っている。射殺および拘束せよ。”
エドウが車内にすべりこむと、空焚きされていたエンジンが轟音をあげ、巣穴から飛び出すイタチのように車は駆け出した。車窓も走馬灯のように駆け巡る。それは現実感を失った町である。
“待機中のサプレッサー3番車まではアシュラの追跡、それ以外はこれから指示する路地の封鎖をして下さい。”
しかし、エドウはそのまま同僚に追跡の続行を命じる。
“十人程度で取り囲んだところでアシュラ患者は止められない。それだったら、できる限りの戦力で袋叩きにしたほうがいい。”エドウは、決して上部の意向を考えられぬほどに想像力を欠いた男ではない。
“各車両に。アシュラ確認次第直ちに伝えろ。囲い込んで袋叩きにする。”皆が承諾の意ととれる無音で返答する。彼らを強力に繋げる要素は単純に言えば上層部への反感である。
このアシュラ、すなわち、
“都市法弟8条11項目の特定劇薬について“に書かれた”合成薬物の一種であり、ある特定の条件下に被用者の精神および肉体の変化を誘発しうるところの劇薬“
を服用したアシュラ患者への対応について、上層部と下層部とで認識の差が甚だしいからである。上層部は早期に解決すべき重要の問題と明言しながらも、現場でのアシュラ患者との応対、といっても即時処刑となることがほとんどだが、それをする特殊保安隊サプレッサーに何の情報も寄こさない。アシュラ患者と対面するサプレッサーの面々は、極端を言えばその異形と凶悪な殺傷性しか、アシュラ患者への情報を持たず、その背後にあるかもしれぬものへの不可視から発生する誇大妄想を押さえ込むことができない。彼らのように肉体と精神を極限まで研ぎ澄ませて任務にあたらなければならない身の上にとって、このような邪念は能力を著しく引き落とす。
なぜなら、彼らが知らされぬ情報は現場で直接応対するサプレッサーの生命に関わる情報であり、彼らが知るべき情報だからである。
“アシュラ、C街区移動を目視。牽制射撃にてD街区中央路6番沿いに誘き出す。”車両は一斉に中央路へとハンドルをきられる。間髪いれずにエドウは無線に叫ぶ。
“これからの連絡は106の無線の一本だけとする。不要な情報は混ぜるな。”
彼がこの判断を下したのはなんの論理性もない一種のカンのようなものであった。 “アシュラがD街区中央路に出ます。脚をつぶして中央路に落とします。”
その無線から一呼吸後、銃声がした。
この路地を抜ければD中央路である。エドウは銃器を抱えた体を垂れた鞭のように弛めた。車両が中央路に出ると裂かれたように開いたドアから、銃器を抱えたエドウが飛び出す。
八方からの銃声と共にビルの縁から飛び出したアシュラ患者は不恰好な放物線を空に描きながら、一階の商店の軒を叩き壊して墜落する。隊員たちは商店を背にしたそれの四肢を吹き飛ばすため掃射を行う。
銃器から伝わる激しい反動が、アシュラ患者の状況を捉えんとする彼らの視力を曖昧なものにした。
掃射を終えると、エドウや数人の隊員たちが車両の運転席へと退いていく。動きが止まったアシュラ患者を轢き潰すためである。エドウが先陣を切り、アクセルを踏みゆっくりと確実なスピードで近付いてゆく。その時エドウは、アシュラ患者の銃口が微かに動いたことを感じた。
ドアを開け放ち素早く身をこなすも、放たれた弾丸はフロントガラスを貫通し、エドウの鎖骨の左下方に当たる。
奇声を上げたアシュラ患者は、四方八方へと弾丸をとばす。それらの弾丸は、隊員たちの四肢内の白骨へと深く入り込んだ。
弾けとんだ彼らの血と肉片と共に、あたりを鼻に粘りつくよう鉄の臭いが充満した。アシュラは高らかに征服者としての咆哮をあげた。隊員たちは血を流した身体の内の脊椎がその叫びによって侵略されていくことをまじまじと感じていた。
しかしそんな叫びは急激に炊かれたエンジンの轟音によって掻き消される。血まみれのとある隊員がアシュラ患者への車両による体当たりを敢行したのである。車両は全霊を懸けてアシュラ患者へとぶつかってゆく。凄まじい衝撃を与えた車両は濁った粉塵を媒介に著しく停滞した時間を隊員たちに伝えた。
その、静止した時間の中からいち早く覚醒したのはエドウであった。
“頭だ。頭を吹き飛ばせ。”彼のこの叫びは車内の隊員に届いたかどうかはわからない。
なぜならエドウは、息を吹き返したアシュラ患者が銃口を、体当たりでひしゃげた車両のフロントガラス向けつつある、その姿を見たからである。銃声の後に、後部座席に散らばった赤い粒々をエドウは見た。それは車内の隊員の歯であった。
アシュラ患者の生気が今は亡き隊員たちの肉の鎖を引き千切り、この町全体へと広がってゆく。これは、エドウの観念的な私見ではあったが、隊員たちがアシュラ患者と対峙することへの責任と覚悟、そこから発生する誇りを少なからず感じていたことは事実であり、自分たちの敗北こそがこの町の終わりだ、という奢りも持っていた。
だが、多くの血を失ったエドウに、再びアシュラ患者と交えるだけの精力はなかった。それの形容をこの目に焼き付けることが今の彼にできる最大の足掻きであり、誇り高き意思の表明なのであった。
だが、そんな彼の愚かな行為は一笑の下に降される。
鉛色の狼の仮面をつけた男がアシュラ患者の前に現れたからである。その力強い体躯から放たれる鋭さと威厳は、楔のようであった。しかし、狼の仮面に象徴されるように、彼の姿は一風変わったまるで子供のための催しものに出る演者のようにも見えた。仮面の男は懐からゆっくりと二本の短刀を出した。アシュラ患者は、自身の絶対の優位を取り戻さんために、仮面の男へと飛び掛ろうとした、その刹那である。仮面の男はアシュラの挙動より早く動き、その懐へと飛び込んだ。その瞬間、急激に動いた空気は摩擦で熱を帯びたように熱くなった。
男は手に持った短剣の、その一薙ぎによってアシュラ患者の左肩を粉砕した。アシュラの身体は醜く歪み、その場に膝を落とす。男の猛攻はさらに続き、アシュラの頭を掴むと地面へと思い切り叩き付けた。凄惨な音と共にアシュラ患者の顔面は人のそれとはかけ離れたものとなった。すぐさま仮面の男はうつ伏せのアシュラ患者を右足で踏みつけながら屈むと、左肩から短剣を処女膜でも破るかのように挿し入れる。そのまま脊椎を切り裂くように短剣を斜めに力任せに動かした。男の腕力のおかげで短剣は難なくアシュラの脊椎を断絶した。砕かれた脊椎はアシュラを完全なものへと変えた。統制の利かなくなった肢体はうつ伏せの状態で、各部分が勝手気ままに動き出した。
これがアシュラの災厄である。脳による統御ができなくなったことで、アシュラに明確な悪意はなくなったが、肉体は筋繊維の一本一本がすべて腐り消滅するまで永久に動き続ける。それはアシュラの殺人が意志を司る脳からの命令で起こるものではなく、劇薬と身体が初めて触れ合った時に生じる信号のようなものによって引き起こされるのであり、劇薬によって人間の所有域から抜け出た肉体が、細胞への劇薬が生んだ電気刺激を通して動くという超自然的なアルゴリズムを持っているのである。そこには人間の大脳新皮質から発現する意思というものがない。それは、純粋な動物的肉体欲求による運動であると言えるかもしれないが、劇薬によって引き起こされる運動は、なにか恣意的なものを含み副次的なものにならざるを得ないのである。
仮面の男は地べたでのたうつアシュラ患者の、頭を踏み潰した。横たわったゼンマイ人形のようなアシュラ患者の肢体を男は見下ろしていた。
そしてエドウは、その光景を額から血を流しながらも薄れゆく意識の中に焼き付けていった。迅速かつ機械的に情報を収集してゆきある一つの事実にたどり着く。生身の人間が単独でアシュラ患者と対等の威力を持ちうるのは、最執部からの特別権言で超機密武装、ジョウザンシステム”を持つ、特別怪奇事件担当捜査班のメンバーだけであった。