【第四夜】こうしゃのかげ
「古い地図が出てきたのよ」
それがあっきゅんからかかってきた電話の、最初の一言だった。
「冷蔵庫から?」
私がそう返すと、即座に「古いチーズじゃないってば」と笑い声が返ってくる。あっきゅんの笑い声で、私はちょっとだけ平静を取り戻した。もうずっと忘れていたのに、よりにもよってどうしてあの場にいなかった旦那が思い出させたりするのよ。
「ねぇ、ミレちゃん、聞いてる?」
「あ、うんうん。聞いてる。ごめんね」
ついうっかりとあの話を出してしまいそうになる。いけない、いけない。あっきゅんはあの事件のせいであの後ずいぶんとイヤな思いしたんだから。親友として持ち出さないのが礼儀よね。
「もう、ミレちゃんのせいでチーズフォンデュ食べたくなっちゃったじゃない!」
「そうね。今度一緒にパーティしましょうよ。うちはいつでもオッケーよ」
「本当? それじゃ今からでも平気? 地図持っていくから……」
「あ、今はダメ。ごめん。ヒロくんが熱出して寝込んじゃって。きっとムラっちのせいだよ」
「マジ? ムラっちむかつく。万年学級委員のくせに、あたしの憩いの阪本家に何してくれてんのよっ!」
「だよねー。あ、でもあっきゅん、急ぎの用なら私がそっち行くよ?」
「え、ヒロツグほっておいて平気なの? あんた嫁としてそれどうなのよ?」
「今、寝てるみたいだし、それに何かあったらスープの冷めない距離だし」
「さすが親友! じゃあ、待ってる!」
いつもだったらあんな状態のヒロくんを置いていったりなんてしない。でも今は、なんだかヒロくんの近くに居るのが怖かった。あの……思い出したくもないアレのせい。
外へ出る支度をしながらも頭にはあのシーンが勝手によみがえってくる。その度に頭を振って気を紛らわすものの、今日はやけにくっきりと思い出してしまう。教室にあったハンモックに無理やり乗せられた大介君が、千葉たちに思いっきり揺らされていたあのシーン。毎日、そんな日が続いてた。あっきゅんが何度も丸浜先生に報告したってのに、いじめはやまなかった。やまなかったんじゃない。直接は何も行動起こさなかった私たちも同罪、先生も私たちも千葉たちと一緒で、やめなかったんだ。でもあの日……思いっきり揺らした拍子に大介君がハンモックから落ちて、それなのに皆、助けに行かないんだよね……違う。私も「皆」の中に居た。怖くて、動けなかった。大介君、首が変な方向に曲がったように横たわっていて、でも左手だけにゅっと天井に向かって伸びて……ああっ、ダメ。思い出しちゃった。もうずっと忘れていたってのに。
私は耳にイヤホンをつっこむと、頭が痛くなるほどボリュームを上げて、家を飛び出した。私、いろいろと失格だ。ダメ人間だ。そんなのわかっている。でも今は、そういうことを考えたくなくて。
「あれ、ミレちゃん、泣いてるの?」
玄関の外まで迎えに出てくれていたあっきゅんに、私はぎゅっとしがみついた。
「ね。もしかしてヒロツグのヤツ、ミレちゃんに何か酷いことしたの?」
私はしがみついたまま首を横に振る。
「違うの。酷いことをしたのは私なの」
「……もしかして、あの事件のこと、まだ引きずってるの?」
あっきゅんがいきなりその話を持ち出したこと、私はとても驚いた。きっと体がビクッてなったんだと思う。あっきゅんは「やっぱりそうか」と小さくつぶやいた。
「ここじゃなんだから、とりあえずうちに入ろっ」
小学校時代、毎日登下校でそうしていたように、あっきゅんは私の手をきゅっと握りしめて引いた。私はいろんな思いから逃げるように彼女の家へと入ったのだ。
「あ、ミレちゃん! こんばんはっ!」
玄関では、ひでみんが私に元気よく挨拶をくれる。
「こら秀美っ! ミレちゃんって呼んでいいのはママだけ。あんたは年下なんだから礼儀正しく美玲さんって呼びなさいっ」
「はーい。美玲さん、こんばんはっ!」
私はひでみんに手を振りながら、涙をごまかすためにとっさにあくびの真似をする。そのうっすらと閉じかけた目に、ひでみんの肘に巻かれた包帯の白が飛び込んできた。
「え、ひでみん、怪我してるの?」
「そうなのよ。さ、秀美、あんたはもう寝とき!」
あっきゅんがひでみんを子ども部屋へ強引に追いやると、私はあっきゅんの部屋へと通された。ホッとする場所。小さな頃からほんと変わっていないよね。あっきゅんがひでみん連れて出戻ってきたとき、私は親友のために一肌でも二肌でもいくらでも脱いでやろうと思ってた。でもフタを開けてみれば、私の方があっきゅんとひでみんに助けられてばかりだった。あっきゅんが私の家を「癒しの場」とか言ってくれているけれど、私にとってはあっきゅんそのものが癒しの存在。だから、あっきゅんがこんな表情する今、日頃の恩を返すいいチャンスなんだから……私は涙をくっとぬぐった。
あっきゅんは机の上から古びた筒を取り出してきた。小学校の卒業証書が入った筒よりもずっとずっと古そうなやつ。
「ミレちゃん、あの子が怪我したの、例の場所なのよ」
例の場所。そう言われただけで、私たちの世代はピンとくる。
「え、もしかして、こうしゃのかげ四月四日四時四分、なの?」
あっきゅんは黙ってうなずく。この長ったらしい名前、誰が最初に言い出したんだっけ。ムラっちじゃなかったかな。皆がよく怪我する場所が、四月四日四時四分に校舎の影が指す場所だとかいう話。長いからいつの間にか「こうしゃのかげ」って呼ぶようになったんだよね。あ……そういや大介くん、いつもあそこでお辞儀してた。なんだったんだろう。男子は呪いの儀式だとか言ってたんだよね。大介君が嫌いな人を呪いで怪我させている、って。で、それからじゃなかったかな、大介君がいじめられ始めたのって……。
「ミレちゃん、聞いてる?」
「あ、うん。聞いてる」
いつの間にか、私の前に古い紙が広げられていた。あ、これか。古いチーズもとい……。
「古い地図だよね、ごめんごめん」
「そう。お祖父ちゃんの蔵から出てきたんだよねっ」
あっきゅんのお祖父ちゃんはここいらじゃ有名な地主一族。あっきゅんが出戻ったこの家だって、あきゅパパが結婚祝いにもらったとかいう豪勢な話。ちなみにひでみんの部屋は、もともとは神戸に嫁いだあきゅ姉の部屋。そんなあっきゅんのお祖父ちゃんが別宅の一つをアパートに建て替えるとか言って、大掃除したとか言ってたような。
「このお寺見て。これ、あたしらの小学校が出来る前にあったお寺ってやつじゃない」
確かに、大きな道路や川の配置からすると、そんな感じ。
「で、この井戸見てよ。これが『こうしゃのかげ』だと思うの」
「この井戸が」
試しに指差してみただけで、背中がぞくりとする。
「あたし、聞いたことあるんだよね。お祖父ちゃんのとこに来ていた業者さんが怪談めかして話してくれたの」
「井戸の話? 髪の毛の長い女とか出てくるとかじゃないでしょうね」
「もっと怖い話。あのね、このお寺、戦前は水子供養で有名だったみたいなのね。それで妊婦もよく通っていたみたいなの」
「あれ? ちょっと待って……水子供養と安産祈願って別もんだよね?」
「そのへん言葉濁してたんだけどね、どうやらその真ん中みたいなのよ」
「真ん中?」
「産みたくない妊婦が、赤ちゃんがまだお腹の中に居るうちから水子供養をしちゃう、みたいな」
「それって人工中絶をお寺がやってたってことっ?」
「噂だからね、真相なんてわからないけれど、戦争の時あの寺だけ跡形もなく焼けたのは、そうやって殺された水子たちの怨念だって言われてたんだって」
「なにそれ怖い……」
「でね、この井戸に……引きずり出した」
あっきゅんがそこまで言ったとき、指先に鋭い痛みを覚えて地図から慌てて手を離した。
「なんか今、ビリってきた。ねぇ、この地図、なんか怖いよ」
「そうなのよ。だから本題。この地図、歴史的価値はあるかもしれないけれど、燃やしちゃった方がいいと思うんだ。だからそういうのお焚き上げみたいなのしてくれるいいお寺とか神社とか知らない?」
あっきゅんのその声に反応するかのように、何かがパサリと音を立てた。私とあっきゅんは思わず抱き合って、そして二人でそっと音のした方を見た。それは本棚から落ちた一冊の道路地図だった。
「あ、あっきゅん、このお寺とか良さそう」
私はなぜか、道路地図で開かれていたページの一点を指しながらそう言った。なんで、と思ったとき、脳裏に緑色の袈裟のようなイメージが一瞬だけ浮かんで消えた。
「おおっ! ミレちゃん頼りになるぅ!」
そのお寺に、もしかしたら緑色の袈裟をかけたお坊さんが居るかも、と、言いかけたんだけど、なぜか何も言葉が出てこなかった。私は急にヒロくんのことが心配になって、すぐに帰宅することにした。わずかな距離がとても遠く感じられる。目を閉じてもいないのに、あの地図の井戸を指していたときの景色が、頭の中にはっきりと浮かぶ。
「こうしゃのかげ」
自然に、その言葉と、それから涙が私の中から溢れた。
(了)




