北の大地
どれくらい眠っていたのか解らないが日付が変わっているのは確かみたいだ……。
勇はぼんやりと考えた。
扉の隙間から光が差している。
勇が目を覚ましたとき、目の前には自分くらいの少年が立っていた。幼さの残る目の大きな顔で少しむっとした表情をしている。
勇はしばらくじっと見つめていたが、やがて声を小さくして聞いた。
「もしかして、君、市村君?市村鉄之助君?」
「そうだけど。そら、着替え」
ぶっきらぼうに突き出されたのは、黒色の洋装の軍服らしい。
「俺のだから、後で返してくれよ。貸すだけだからな」
「あ、どうも……」
突きつけられた服をましまじと見る。何とか着られそうだ。
で、気がついたことがある。
「あの、市村君。きいていいかな」
その言葉に市村が顔を向けた。
「あの……さ。あたしの着てた服、どうなったの」
「あの服か?俺が洗って干してあるけど」
勇はあまりのことに目を見張った。
「洗った?君が?」
「当然だ。土方先生に洗濯なんかさせられるわけないだろう」
市村は当然と言った風に応える。確かにそうかも知れないが……。
「で。あの、あのさ。何処に干してあるの」
「甲板」
あまりのことに勇は頭を抱えた。
「もっ、もしかして、パンティも一緒?」
「ぱんてい?何だそれ」
「あたしが穿いてた……」
市村はわけが分からないといった顔。確かに脱がせたのが土方ならわかるまい。それに、パンティなんて言葉は知らないだろう。
「あの……。えっと、み……水色の小さい」
「水色ってなんだ?」
水色もわからないのだ。色の言い方が違う。
「浅葱色の小さな」
「あああったぜ。あれがどうした」
「取ってくる。どこ?」
「ばか、ここから出すなと言われてんだよ。俺が取ってくる。でも乾いてるかどうかしらねぇぞ」
「それだけでいいから……」
甲板に自分の服が干してある。下着も一緒に。その情景を想像するとたまらなかった。「下着なんだもん」
「したぎってなんだよ」
「?」
市村の答えに勇は言葉をなくした。
この時代の女性は着物で下着をつけていない。そのことを失念していた。
腰巻きとかならわかるのだろうが。穿く下着はこの時代日本に無い。
だが、いくら知らぬとはいえそれを市村が持ってくるということは……。考えると顔から火が出そうだ。
「見ちゃ駄目だからね」
強く念を押したのだが、理解してないのか市村が戻ってくるとき、手にしたそれを振り回しながら来たのだ。それを目にしたとき勇は思わず悲鳴を上げた。
「やめてよ」
思わずひったくるようにして受け取る。
涙目になってしまう。
勇の着ていたデニムの上着は乾いてなかったと言った。
市村に後ろを向かせて、下着を身につけると服に手を通す。
何とか着ることができそうだったが、さすがに胸元はほんの少しだけきつかった。それよりズボンが少し小さめかなと思いなから、
「市村君、もういいよ」
と、こえをかけた。
「お前の方が足が長いのか」
明らかに気分を害した声だった。
身長はどっこいどっこいなのだが足の長さは勇の方が長いのだ。
「起きたか」
声がして土方が入ってきた。
「何とかなったな」
軍服を着た勇を下から上へとひとしきり眺めて、満足げだ。
「お前にはこの後一芝居してもらうことになるからな」
ついで、人前では必ず土方さんと言え、ときつく言い渡された。だが付け加えて、
「人のいない時は好きに呼んでいい」
そう言ってくれるところが心遣いだ。
まもなく鷲ノ木だと言いながら野村が入ってきた。
起きている勇を見てにっこりと笑う。
「俺は野村だ。よろしくな勇ちゃん」
「野村……祖父に付き添ってくれた人ですね。その節はありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる勇の頭に手を置いて、
「あのときは結局何もできなくてすまなかった。今度は何かあったら俺に言ってくれ」
そう言うと髪の毛を撫でていった。
「副長、甲板は人が集まってきてますよ。陸が見えてきてますからね」
「そうか、では始めるか」
土方がにやりと笑った。
勇が命じられたのは……
「は?男の人を恐がれ、ですか」
「俺の後ろに隠れてもかまわん。ともかく男が怖いという態度をとれ。出来るだろう?」
「それは、まぁ。やってみますけど、なぜ?」
「まあ、見てな」
土方は勇を引き寄せると肩を抱いたままドアを開けた。
甲板に出ると一斉に目が向けられる。さすがに勇はぎょっとした。
皆の注目が痛い。
思わず身をすくませ俯いた。
「土方君、今呼びに行こうかと思っていたところだったんだ」
にこやかに挨拶したのは大鳥圭介だった。
土方の傍らに立つ勇にいち早く目を付けている。
「この子が海から助けた子かい?」
すいと伸ばしてきた手を、勇は身をよじってかわした。
……大鳥圭介!こいつなんかに触られてたまるか。
一瞬、きっと睨んでしまった。いけない、まずかったか?と思う。
「何か嫌われてるのかな?」
明らかに気分を害したような声だ。
勇はあわてて顔を背けた。
「失礼、大鳥殿。聞くとまあやむを得ないことなので」
土方はそう言うと、全くでっち上げの勇の身の上を語りだした。
その話では、勇は松前藩の下級武士の娘で、生活に困窮している家族のため、その器量に目を付けた花街に身売りされたと言うことになっていた。ただ花街の生活には全くなじめず、客で来た外国人の船員に船で働くことを条件にこっそりと船に乗せてもらったのだという。発見されたときの服装は船員の作業着と言うことにしたらしい。
「だが乗せてもらった船でも男に乱暴されそうになったそうで、辱められるよりはと船から海へ身を投げたのだそうだ」
すらすらと土方は話す。
勇は内心舌を巻いた。よくもまあこれだけのことをでっち上げるものである。
話がうまいというか、口先三寸というか。
口べただったと聞いていたが、謀においては饒舌だ。
「まぁ、そんなことがあった後だ。仕方ないだろう。男が怖いというのもわからんでもないがね」
勇はごくりとつばを飲み込むと顔を上げた。そして伏し目がちに
「いさみ、と申します。助けて……いただきありがとうございます」
それだけ言うと再び黙り込む。ぎゅっと土方の袖を握りしめた。
「土方君、君はここから陸路をとるんだがその子はどうするね。この船で預かろうか?」
言ってきたのは榎本武揚である。
勇はあわてて顔を上げた。こんなところに取り残されるのはたまらない。
土方が勇を見下ろした。勇はあわててかぶりを振る。
捨てられてた子犬みたいな目だ、と土方は思った。
ふっと土方が笑う。
「連れて行きます。面倒を見ると言った手前もありますし、どうもついてきたいらしい」
「懐かれましたな土方君。男は怖いが鬼は平気か?」
大鳥が覗き込むような目で皮肉に言った。
「鬼の方がましな目にあったのでしょう」
土方はさらりと受け流す。ふい、と土方は後ろを向くと
「おい、野村。部屋へ連れて行ってくれ」
勇を野村に託した。
勇は野村に手を引かれ、土方の部屋までおとなしく付いていった。
「巧くやってたな。たいしたもんさ」
「……殴ってやりたい」
勇が下を向いたまま小さく呟いた。
「榎本さん達をか?なんで?」
「……」
「それで手ぇにぎりしめてたのか」
くっくっと野村はのどを鳴らして笑った。
勇はずっと掌を握りしめていたのを、野村は気がついていた。ぶるぶる震えていたのを。
勇が大鳥たちが嫌いなのには理由がある。 この後箱館で生まれる蝦夷共和国。
指導者達の中で戊辰戦争中その命を散らしたのは土方歳三ただ一人なのだ。他のものは新政府に迎えられ栄達していくことになる。土方一人を死地に追いやったような気がしてどうしても許すことが出来ない。
暫くすると土方が戻ってきた。
「副長、榎本さん達は納得しましたか」
「まあな、勇を連れていくことの言質はとった。予想どおりかなりしぶってはいたがな」
「渋るって……なぜです?」
不思議そうな声で勇が訊く。
「勇、お前自分の立場わかってンのか?野郎ばっかりのところに降ってわいたように女が一人、しかも周りがほっとかない器量の好い娘が飛び込んできたんだ。目をひくさ。しかもただならぬわけ有りな様子だ。ぜひ手元に置いときたいところだろうな」
……器量よしというのは絶対お世辞だな。 勇は思う。本当に土方は口がうまい。
こうなると勇は黙るしかない。
「新撰組は本隊と共に大鳥の下だ。俺は額兵隊らを率いて迂回する。勇は俺と来い。離れるなよ」
土方は兼定を差しなおした。
翌日より鷲ノ木の浜に投錨した開陽丸他の軍艦から舟が降ろされ上陸が始まった。
吹雪で波が荒い。冬の訪れるのが早い北の陸地には雪が積もっている。
今日は十月二十一日。もっとも勇の感覚から言えば十二月四日だ。暦が違うのだ。
……雪。
キャビンからみえる白い北海道の大地。
白いのは……雪だ。
……雪だ。
ドアをそっと開け、甲板に出た。
吹き付ける風に雪が混じる。
手に受けた雪はすぐに消えていく。
風の冷たさに思わず震えると、襟を立てる。
遠く波の向こうの陸地を見ていた。
「何を見てる」
甲板で黙ったまま、陸地を見つめていた勇に土方が声をかけてきた。
勇はその声に振り向いた。
「別に何も。雪を見ていた。やっぱりあたし、過去に来たんだなって思って。あたしが直前までいたのは真夏だったんだ」
少し寂しげにほほえみながら答えると、改めて土方の顔を見つめることになった。
土方はさりげなく勇の風上に立っていた。 考えてみるに、明るいところで顔をしっかり見たのは始めてだ。
さらりと風に流れる短い漆黒の髪。睫毛の長い涼しげな目元。精悍な、でもすっきりと整った顔立ち。色が白くてとても歴戦のもののふと思えない。微笑みながら見下ろしているので口元が優しげだ。若くて……局長だった近藤勇と同い年とは見えない。二十代半ばに見えるくらいだ。なで肩ぎみだがすらりと長身で西洋の軍服がよく似合っていた。
……現代でも絶対二枚目で通るよね。
「何だ?」
じっと見つめているので気になったのだろう。土方が訊いてきた。
「あの、歳三さん二枚目だなと思って」
どうやら思いがけない言葉だったようだ。「変なこと言うんじゃねぇよ」
そう言うと、ぷいっと横を向き右手で鼻に触れた。
……あれ?
その仕草に引っかかった。覚えがあるような。
……もしかして歳三さん照れてる?
しかしこれ以上言うと拳骨を食らいそうなので黙ることにした。
ランチで浜に上陸したとき、海岸にはすでに二千人近くの兵士達でごった返していた。
大鳥圭介のいる部隊は箱館までの最短距離である本道を行く。新撰組の本隊は伝習隊と共に大鳥隊として行くことになる。
一方土方の率いる方は大きく迂回して川汲峠を通る部隊である。
野村は今、陸軍隊付きになっているため新撰組本隊から離れ土方隊にいる。
しかし軍事作戦中は陸軍隊隊士であるため勇と共にいることが出来ない。
野村は勇の姿を見つけると離れたところから手を振って見せた。
今、勇の側にいるのは市村達小姓と島田魁のいる土方の直属の守衛新撰組数名である。
とりあえず大鳥からも榎本からも離れているのうえ土方の目の届くところにいるから野村が警護にあたる必要はない。
「怖いか?」
「ううん。怖くない」
「そうか」
群衆は二本の流れとなっていった。
一つは内陸へ、もう一つは海岸沿いへと。
海岸沿いを進む土方の部隊。
とにかく雪がひどい。腰まで埋まりそうだ。
あまり広くない道を進む。そのことが土方には気に障るらしい。戦うに不利と読んだからだろうが、四方に気を配る姿はさすがに歴戦の戦士と言うべきだろう、と勇は人ごとのようにのんきに眺めていた。
ともかく川汲峠までは動きはないはずだった。歩きながら懸命に記憶を掘り起こす。読んだ本、歴史書、家の言い伝え、年表等役に立ちそうなこと、そして、彼らには……言えないこと。
黙ったまま歩く勇に市村が声をかけてきた。
「なあ……」
周りに聞こえないように耳の側で小声で話す。
「本当にお前近藤局長の、その……」
言いにくそうだが、いわんとしていることは解る。
「そのようだね。自覚ないけど、周りはそう言う」
「似てない」
「うん、あたしもそう思う。写真見るたびに。だって口の中に拳固なんて入らないよ」
「そうか」
市村は小声で笑った。
「おまえ、面白い奴だな」
「そう?でも言っとくけどあたし君より年上だからね」
そう言うと、市村に向けて片目をつぶって見せた。
「えええっ」
市村の声で、自分が年下に見られていたことを確信した。
「だろうと思ったんだ。ま、いいけどね」
「見えねえ。嘘だろ」
「あたしは十七だよ」
市村が黙り込んだ。ちょっといじめすぎたかもしれない。
「でも、勇って呼んでよ。近藤君とかなんて言い方したら返事しないからね。年下扱いでもあたしは全然構わないし。役に立てないこと自覚してるよ」
ほっとしたような顔つきに、今どう呼ぼうかと考えたのだと手に取るように解る。そんな市村を見ると少しだが自分の具合が良くないのを忘れられる。先ほどの小休止で食事が出たがほとんどのどを通らなかったのだ。水も少ししか飲めなかった。
……体調が戻ってないンだろうか。体が重い。
しかし、迷惑はかけられなかった。ただでさえ武器などの荷物を持っていないのだ。
……しっかりしろ勇。倒れたりするわけにはいかないんだから。
雪道の行軍は暗くなるまで続いたが、勇は何とかもちこたえた。ありがたいことに天候に恵まれたこの日は砂原まで進んだ。土方としては大きく迂回している以上とにかく距離を稼がなければならなかったのだ。
しかし、翌日は吹雪となった。
先陣を切るものは腰までの雪をかき分けて進む。
幸い勇は軍の中より後方だ。踏み固められた場所を進むことになる。とはいえ……。
防寒具などあるはずもなく、濡れた体は急速に体力を消耗する。
しかも皆着ている服は薄着だ。
夏の頃からの着物そのままで、防寒着らしいものもろくにない。
とにかく寒い。
まして東京の現代っ子である勇は寒さに慣れていない。
それでも皆の足を引っ張らないように懸命に歩く。しかし疲労は隠しきれないほどになっていた。
鹿部にたどり着き、屋内に宿を取ったときには精根尽きていた。食欲などあるはずもなく膝を抱えて目を閉じていた。しかし、数少ない集落の建物に五百余名もの兵士が泊まるのだ。余裕などあるはずがない。暖房が完備された現代と違い部屋はとても寒い。ろくに横にもなれない環境では眠りに落ちることもままならない。その上体は濡れたままでなかなか乾かない。
過酷ともいえる状況で、うとうととしては目を開ける事の繰り返しだった。周りでは兵士達も休みはじめたみたいである。あたりの声が静かになってきていた。
隣に誰かが座った気配がしたので反射的に顔を上げる。もっとも行灯しかない状況だから薄暗い上に、半分は眠っている状態だからそれが誰なのか全く解らない。
何かを体にかけられる気配がした後ぐいと抱き寄せられた。
「寒くて寝れねぇんだろう。これで少しは温くねぇか。」
その声は土方だ。
行灯の弱い光だったが傍らに腰を下ろした土方が自分の外套の前をあけて勇をくるんでいてくれているのがわかった。
抱きしめられた肩に軍服のボタンのあたる感触があった。土方の腕の暖かさと重みが気持ちよかった。
だから……
今まで聞き難かったことを口にした。
きっと疲れと眠さが気兼ねを蹴飛ばしたのだろう。
「歳三さん……」
自分の声、半分寝ぼけた声だ、と勇は思う。
「何だ」
「おじいちゃんのこと、嫌い?」
「何をいきなり」
土方のあきれた様な声だ。
「この戦、途中で降りちゃったもの。意気地なしとか腑抜けたなんて思ってない?」
「思っちゃいねぇよ」
「おじいちゃんのこと、どう思ってる?」
「そうだな。大事な人だ。同志であり友であり師であり。今の俺があるのは近藤さんのおかげだ。だから嫌いになんかなりようがねぇ」
勇の心の重荷が一つ消えた。
「いろんな本なんかでいろいろ書かれてたから……。ホントは歳三さんおじいちゃんをどう思ってたのかなあって気になってたんだ。ありがと、嫌いにならないでくれて。嬉しいや」
すうと力が抜けていくのがわかる。でも、後もう一つだけ。
「歳三さんが……戦い続けるの……おじいちゃんのた……」
め、の言葉が声にならなかった。
土方の答えは寝息を立てた勇の耳には届かなかった。
「お前が気に病む事じゃねぇよ」
土方は静かに笑った。
翌朝、吹雪の中進軍が開始される。
勇は市村にそっと耳打ちした。
「土方さんに言っといて。川汲峠で動きあるからって」
「勇が言わないのか」
「目立つから」
それだけを言うと市村の背をたたいた。
「よろしく」
本当のところは土方に今の顔色を見られたくないというものだったが、市村はそれで納得したのか土方に向けて駆けていく。
ついさっき市村に顔色を指摘されたとおり体調は最悪だった。昨日は何とか夕方まで持ったが今日は持つ自信がなかった。
そして、軍隊が川汲峠に差し掛かったとき銃声が響いた。
松前藩の藩兵が放った銃弾は空を切ったがそれを合図に戦端が開かれた。
響く銃声に、刀の打ち合う音。兵士達の叫び声。
駆け寄ってくる松前藩の兵士が振りかざす白刃がきらりきらりと光る。
「勇、下がってろっ」
勇を後ろへ押しやり市村が叫ぶ。丸腰の勇には戦うすべがない。立木を背にして硬直していた。
勇も近藤家の人間であるから天然理心流を学んではいる。だが、真剣、しかも刃がある刀など振るったことはないのだ。まして、人を斬るなどと。
あちこちで噴き出す血が見える。斬られてあげる悲鳴が響く。
勇が耳を押さえ蹲りそうになったとき近くで刃のぶつかる音がした。
顔を上げると市村が敵兵と斬り結んでいた。だが、力負けしている。押し倒され相手が刀を振り上げた。
……やられる。
市村は次の瞬間斬られることを覚悟した。
が、刀は振り下ろされなかった。
真っ直ぐ飛んできたものがその男の顔にぶつかりのけ反ったのだ。その一瞬を見逃さず市村は刀を薙いだ。松前藩の兵士は腹から血を吹き出しながら後ろへと倒れる。
市村は大きく安堵のため息を付いた。ふと自分の横に落ちている赤いものに気が付く。
……なんだ?印籠か?
拾い上げると印籠ではなかった。思いの外重みがある。艶のある四角い物。見たことのない物だった。あわてて懐に入れると刀を握り直した。
見ると敵兵は波が引くように退却し始めている。
「助かった……」肩から力が抜けた。
振り返り勇を探す。
「おーい。無事だったか?」
駆け寄ると懐から先ほど拾った赤い物を差し出した。
「これ、お前のだろ」
勇は少し笑みを浮かべるとそっと受け取る。
「思わず携帯投げちゃったよ。壊れてるのにやっぱり大事なんだ。あたしには」
ありがとう、と言った次の瞬間勇は口元を押さえた。あわてて駆け出す。
かなり離れたところまでくると木にもたれて……吐いた。
ここ暫くはほとんど何も食べていないから吐いたところで出てくるのは胃液ぐらいなものではあったが、なけなしの体力を消耗させるには十分だった。
死体を見たのは初めてだ。しかも殺された、凄惨な現場を見たのは。斬り合いだって初めて見たのだ。
何度か吐き、肩で息をしているとき後ろに人の気配がした。あわてて振り返ると市村と……土方が立っていた。後には島田の姿もある。どうも彼が土方に告げたらしい。
「大丈夫かよ、勇」
「はは……ざまないね。ごめん。もう大丈夫」
「吐いたのか……お前には酷だったな」
「何もしてないのにね。情けないや」
勇はふっと笑うと枝から雪を一掴み握り口を拭いた。
四人連れだって歩き始めたが、ふいに勇の足下がもつれた。そのままぐらりと体が倒れる。
「おい、勇ッ」
市村があわててその体を支える。が、その腕の中でずるずると崩れ落ちた。
「ひでぇ熱だ」
体を支えるとき触れた体。熱があった。
「市村。任せていいか」
土方が市村に問う。
「はい」
軍を率いるため島田と共に前方に去った土方を見送ると市村は同じ小姓仲間の沢忠助を呼んだ。
「俺の荷物持ってくれ。俺はこいつを背負うから」
腰から刀を外しながら市村は話す。
「俺がこいつ守らなきゃ」
ぐったりと意識のない勇を背負うと動き始めた部隊に合流する。
肩口にもたれた勇の髪の匂いがする。微かに甘い花の匂い。
……女の子ってこんなのか?
背中に柔らかな胸の感触が当たる。思わず耳が熱くなった。
「どうした市村。顔赤いぜ。しんどいなら変わろうか?」
「いや、いい。俺が背負ってく」
仲間の沢には譲りたくなかった。勝手と言うなら言え。市村は変にムキになってる自分に気が付いた。