1.
ルーは、ルーシーは半年前に出来たばかりの妹だ。
まだほんの九つで、その誕生日に僕があげたテディベアを何処へ行くにも離さない。
ふわふわとした金色の髪がどうも珍しいらしくて、気の優しいルーは学校で時々いじめられてしまう。そんな時僕は飛んで行って、いじめっこたちを追い払う。ルーはそんな僕の背中にぎゅっと縋る。
お姫様を守る騎士みたいで、ほんの少し誇らしい。
パパはいつも僕に言っていた。男は大事なものを守れなきゃいけない、って。
パパの手はごつごつと大きくて、撫でられると一人前と認められたような気持ちになる。大きくなったらパパみたいな男になりたいと、僕は本気でそう思っていた。
パパが仕事で外国に行っている間、ママとルーは僕が守る。それはパパと僕との約束で――だからあいつを近付けないようにするのも、僕の役目の筈だった。
そいつは、数日前からうちの様子をうかがっている。
街頭や玄関の明りの届くぎりぎりの暗がりに、まるで僕が気づくかどうかを試すかのようにじっと佇んでいる。
どうやら若い――といっても僕より全然上なんだけれど――女の人らしい様子で、何が目的なのかはさっぱり判らない。
ママには何度かその事を伝えはしたのだけれど、冗談だとでも思ったのか、まるで無視されてしまった。かといってルーは言えない。余計な心配をさせてしまう。怯えさせるのはうまくない。
なら僕がなんとかしなくちゃ、だ。何か悪い事が起きる前に、僕が一人で対処してのけるんだ。
考えた末に決心して、僕はその夜、こっそりと家を抜け出した。ママもルーもぐっすり眠っていて、玄関での物音には幸い気付かないみたいだった。
ぱっと見たところ相手は一人きりだけれど、でも仲間が居ないとも、危ないものを隠し持っていないとも限らない。万が一の用心に、ペーパーナイフを懐に入れてある。
積極的に傷つけるつもりなら役に立たないだろうけれど、身を守る時の助けくらいにはなる筈だ。何よりこれはパパから貰った、僕が勇気を出す為のお守りなのだ。
家の囲いから頭を突き出し、あいつの居場所を探る。
するとそいつは今夜も居た。やっぱり光と影の境界に、通用門の傍らにひっそりと立ってた。
面憎い事に家から出てきた僕を見ても、全然動揺する気配がない。ただじっと、静かにこちらを見返している。
服装にも態度にも、少しもおかしなところはなかった。きっと太陽の下でなら、ごく普通のひとにしか思えないんだろう。
でも人工の照明と月明かりのコントラストを帯びたそいつは今、まるで立ち上がった影法師のように、ひどく不吉な代物に見えた。
「――」
ナイフに触れ直して、竦んだ足に力を込める。ここで竦むのは男じゃない。何より僕には、パパとの大事な約束がある。
パパが帰ってくるまで、ママとルーは僕が絶対守るのだ。
ぐっと眦を決して、ぎゅっと拳を握り締めて、僕はそいつとの距離を縮める。そこへ――。
「君が忘れてしまったのなら、」
何をするよりも早く、涼やかなアルトが響いた。それがそいつの声だと悟るまで、僕には少々時間がかかった。
「私はそれを告げねばならない」
ひどく悲しげな瞳で、そいつは僕にそう言った。
表情はとても物憂げで、僕は幾許もない余命を患者に告げる、お医者さんを連想する。
嫌で嫌で堪らない。でも嫌だからこそ、他人には押し付けられない。そして絶対に必要な事で、だから自分がせねばならない。
そこにはそんな雰囲気があった。
「……」
それきりそいつはまた黙り込む。そして僕をじっと見る。
静かな視線が、まるで喉元に当てられた大鎌の刃のように僕を圧迫した。足が動かない。喉がからからで声が出ない。ただ見つめるだけの瞳が、限りない重しになって僕に圧し掛かる。
逃げ出す事も出来ずに、どれくらい経ったろう。どうにかなってしまうと思ったその時、かちりと音を立てて、まるでパズルのピースが嵌まるみたいに、僕の中で何かが腑に落ちた。
そうして僕は思い出した。忘れていた事を、忘れていたかった事を思い出してしまった。
――でも。
──でも、それでも僕は。
「行くと良い」
そのひとはいつしか僕から目を離して、冷たい月を仰いでいた。
「今少しならば、猶予はあるさ」
それからもう一度僕を見て、また悲しげに微笑した。