禁煙中、合理的狂人は誘惑と戦う
※本作はギャグ・コメディ中心の作品です。
※倫理・制度・恋愛要素などは深く考えず、ゆるくお楽しみください。
ある日の教育番組収録後。
ノアは、控室の椅子に座ったまま動かなかった。
「……ノア?」
ヒロが声をかける。
返事がない。
「おい、聞こえてるか?」
ノアはゆっくり顔を上げた。
「……タバコ」
「ダメだ」
即答だった。
ノアは何も言わず、テーブルの上に置かれた灰皿をじっと見つめる。
教育番組の収録中は、なんとか我慢できた。
子どもたちとダンスをしている間は、意識が別の方向に向いていたからだ。
だが、収録が終わった瞬間、脳のどこかが静かに騒ぎ始めた。
煙の形をした思考が、頭の中をゆらゆらと漂っている。
「……合理的に考える」
ノアがぽつりと言う。
ヒロは嫌な予感がした。
「何をだ」
「一本だけ吸う」
「ダメだ」
「一日一本は社会的に許容範囲かもしれない」
「彼女の条件を思い出せ」
ノアは少し黙った。
ミレイの顔が頭に浮かぶ。
禁煙。
付き合う条件。
合理性。
三つが脳内で静かに並ぶ。
「……」
ノアはポケットに手を入れた。
取り出したのは、タバコの箱。
ヒロが無言で立ち上がる。
「ノア」
「……ん?」
「今、開けたら殴る」
ノアは箱を見つめたまま固まった。
指が、ゆっくりと箱の蓋に触れる。
空気が妙に静かになる。
そのまま――
ノアは箱を開けた。
ヒロが一歩踏み出す。
しかしノアは、タバコを一本も取り出さなかった。
代わりに、箱を鼻に近づけた。
「……?」
ヒロが眉をひそめる。
ノアは目を閉じた。
「……煙の匂いが一番好き」
「吸えよ!!」
ヒロが叫んだ。
ノアは首を振った。
「吸ったら彼女に怒られる」
「今の行動の方が狂気だよ!!」
ノアはしばらく箱を持ったまま動かなかった。
やがて、ゆっくりと箱を閉じる。
そしてテーブルに置いた。
「……我慢する」
小さく言った。
ヒロは深く息を吐いた。
「偉いじゃねえか」
ノアはぼんやり天井を見たあと、ぽつりと言った。
「……代わりに」
「何だ」
「非常食食べる」
「それは普通だ」
袋を開ける音だけが、静かな控室に響いた。
ノアの戦いは、まだ終わっていなかった。




