沁みるのは、商店街の優しさと酒
※本作はギャグ・コメディ中心の作品です。
※倫理・制度・恋愛要素などは深く考えず、ゆるくお楽しみください。
ヒロの家の玄関が開く。
「おう、今日は早かったな」
リビングから顔を出したヒロが、いつもの調子で笑う。
ノアは靴を脱ぎながら、小さく返した。
「あー……うん」
声に張りがない。
ヒロの眉がわずかに動く。
「なんだよ、そのテンション」
「別に」
それだけ言って、ノアは自分の部屋へ向かった。
ドアが閉まる音。
ヒロはしばらくその方向を見つめて、ぼそりと呟く。
「……何かあったな」
翌日。
ノアは初めて、仕事以外の理由で店を休んだ。
「たまには休め」
ヒロがそう言って、半ば強引にシフトを外したのだ。
丸一日の休み。
ベッドに仰向けになり、天井を見つめる。
静かな部屋。
頭の中では、ミレイの声が何度も再生される。
『未来を一緒に考えてくれる人がいい』
『好きだけじゃ足りないから』
ノアは目を閉じる。
何もする気が起きない。
時間だけが過ぎていく。
夕方。
ふと、体を起こした。
理由はない。
なんとなく、外に出たくなった。
商店街を歩く。
夕飯前の匂いが漂う。
惣菜屋の前で立ち止まり、コロッケを買った。
紙袋を片手に、公園のベンチへ。
スマホを取り出し、配信を始める。
「どうも」
画面の向こうがざわつく。
『珍しい時間!』
『休み?』
『顔死んでない?』
ノアはコロッケを一口かじった。
カリ、と軽い音。
「彼女と別れました」
さらっと言う。
一瞬の静寂。
そして――
『は!?』
『え、マジ?』
『ノア最低』
『なんで?』
コメントが荒れる。
ノアは表情を変えない。
「僕が悪いと思う」
淡々と。
ふと、コメントが流れる。
『ピアノ弾いて』
ノアは画面を見つめる。
「……暇だし、行ってみるか」
商店街の端にあるストリートピアノ。
少し音の狂ったアップライト。
ノアは椅子に座る。
鍵盤を鳴らす。
乾いた音。
即興で弾き始める。
低音から、静かに。
ミレイの横顔。
未来を問う声。
答えられなかった自分。
旋律は迷いながらも、澄んでいく。
切なくて、透明で、どこか優しい。
曲が終わる。
拍手。
そして――
コトン。
缶ビールが一本置かれる。
続いて日本酒。
ワイン。
ノアはそれを見て、少しだけ笑った。
「金じゃないからな」
誰にともなく呟く。
この商店街なりの、暗黙の了解。
夜。
ヒロが帰宅する。
「ただいまー」
しばらくして、玄関が開く。
「ひろぉー……」
両腕に大量の酒瓶を抱えたノア。
顔は赤い。
足元はふらついている。
「うわ、すげえ量」
「もらったぁ……」
「弾いたのか」
「うん……置いてかれたぁ……」
ヒロは苦笑する。
「まだ続いてんだな、その文化」
「なくならないらしい……」
ノアはテーブルに瓶を並べる。
カラン、と乾いた音。
「ヒロも飲もぉ……」
「ここまで酔うの初めて見るぞ」
「今日は……なんでも、いい日だから……」
「意味わかんねえ」
けれどヒロはグラスを出す。
「……付き合うよ」
酒を注ぐ。
ノアは一気に飲み干す。
「未来って……むずいな」
ぽつりと零す。
ヒロは肩をすくめる。
「急に考えたって答え出ねえよ」
ノアは少し笑う。
強がりの笑み。
けれどその奥に、確かな痛み。
商店街の暗黙の優しさと、
失った未来。
酒瓶が並ぶテーブルの前で、
ノアは静かに酔っていった。




