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地下三階の始発駅


 その叫びは海風に煽られ、頼りなく虚空へ吸い込まれていった。

 だが、女の肩がびくりと跳ねた。

 ゆっくりと、まるで錆びついた蝶番が軋むような動作で、彼女が振り返る。

 逆光で表情は見えない。けれど、乱れた黒髪の隙間から覗くその目は、底のない井戸のように暗く、静まり返っていた。生気というものがまるでない。そこに恐怖も迷いもなく、ただ「終わり」だけを見つめている目だった。

「来ないで」

 唇が微かに動いた。声は波の音にかき消されたが、拒絶の意志だけは鋭利な刃物となって湊の足を縫い止めた。

「どうして……どうして持ってきたの」

 彼女の視線が、六車の抱える風呂敷包みに釘付けになる。

 その瞬間、彼女の顔が歪んだ。悲しみとも怒りともつかない、見るに堪えない苦悶の表情。彼女は自身の細い腕で頭を抱え、その場にしゃがみ込むように身をよじった。

「やっと、置けたのに。やっと手放せたのに。どうして追いかけてくるのよ!」

 悲鳴のような絶叫だった。

 彼女は娘を捨てたのではない。娘の死という、あまりに巨大すぎる現実の質量に耐えきれず、心が圧死する寸前だったのだ。網棚に骨壺を置いたあの一瞬だけが、彼女が呼吸を許された唯一の時間だったのかもしれない。

 それをわざわざ届けることは、正義なのか。

 溺れかけている人間に、いま一度重石を背負わせるような残酷な行為ではないのか。

 湊は言葉を失った。正論など、この断崖の前では無力だった。

 だが、六車は歩みを止めなかった。

 砂利を踏む音を響かせ、彼女との距離を詰めていく。その足取りは、地下室でタグを付けている時と同じように淡々としていたが、決して冷徹ではなかった。

「返却に来たんじゃありません」

 六車が、風に負けない通る声で言った。

 彼は彼女の三歩手前で立ち止まり、抱えていた骨壺を、地面にそっと置いたのではない。

 自分の胸の前で、しっかりと抱き直したのだ。

「私たちは、預かりに来たんです」

「……預かる?」

「ええ。鉄道会社の遺失物係です。あなたの荷物が少し重そうだったから、私たちが代わりに持ちに来ました」

 沙織が顔を上げる。涙で濡れた頬に、月明かりが反射した。

「重いでしょう。人の命というのは、一人で背負うには重すぎる」

「私は……捨てたの。最低な母親なの」

「いいえ。あなたは休憩しただけだ」

 六車は諭すように、優しく語りかけた。

「電車だって、ずっと走り続けることはできません。点検が必要です。車庫に入って、油を差して、また走れるようになるまで休むんです。人間だって同じだ」

 

 六車は一歩、踏み出した。

「この骨壺は、私たちが責任を持って預かります。期限はありません。あなたがご飯を美味しいと思い、夜に眠れるようになり、またこれを背負って歩いてみようかなと思える日が来るまで。一年でも、十年でも」

 湊は息を呑んだ。

 それは業務規定違反だ。保管期間は三ヶ月。それを過ぎれば処分される。それが組織のルールだ。

 けれど六車は、そのルールをたった今、人間の論理で書き換えた。

 「遺失物」を「預かりもの」へと変えることで、彼女に「生きるための猶予」を与えようとしている。

「だから、今日は帰りましょう。荷物は私たちが持っていますから。手ぶらで帰ればいい」

 六車が差し出した手は、皺だらけで、節くれだっていた。

 沙織は呆然とその手を見つめ、やがて震える手で地面を掴み、嗚咽を漏らし始めた。

 糸が切れた操り人形のように、彼女はその場に崩れ落ちた。

 断崖に打ち付ける波音よりも大きく、彼女の泣き声が夜の闇に響き渡った。

 湊は空を見上げた。

 雲が流れ、幾千の星が瞬いている。

 僕たちは、何かを拾うためにここにきた。

 それは彼女の命であり、同時に、僕自身が見失っていた仕事の誇りのようなものだったかもしれない。

 誰かの人生の「休憩」を守ること。

 地下三階のあの薄暗い部屋は、墓場なんかじゃなかった。

 あそこは、傷ついた人々がもう一度歩き出すための、始発駅だったのだ。

 湊は涙を拭い、沙織の元へと駆け寄った。

 その背中にそっと手を添える。温かかった。

 生きてさえいれば、人は何度でも忘れ物を取りに戻れる。

 

 遠くで、始発列車の汽笛のような風の音が聞こえた気がした。


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