忘れものターミナル
地下三階の澱んだ空気が微かに揺らいだのは、六車が骨壺を包んでいた白布の結び目に指をかけた瞬間だった。
縦結びになったその布は、持ち主の動揺をそのまま封じ込めたように固く食い込んでおり、六車の節くれだった指先をもってしても容易には解けそうになかった。だが老人は焦ることもなく、まるで赤子の産着でも直すかのような手つきで、時間をかけてその強張りを揉みほぐしていく。
湊は息を潜めてその背中を見つめていた。
定時を過ぎたオフィスの静寂は不気味なほどで、頭上を走る電車の轟音だけが一定のリズムで天井を震わせ、僕たちの心臓がまだ社会という巨大なシステムの底で動いていることを主張していた。
「見てごらん」
六車のしわがれた声が、地下の冷気に溶ける。
解かれた布の間から覗いた桐箱の底には、薄れてはいるものの、確かに青いインクで『海猫斎場』という判が押されていた。
海猫。
都心から電車で二時間ほど揺られた先にある、寂れた港町の名前が脳裏をよぎる。
そこは夏の海水浴シーズンを除けば観光客など寄り付かず、冬になれば鉛色の波が防波堤を打ち砕くような荒涼とした場所であり、同時に、人生に行き詰まった者たちが最期の場所として選ぶ断崖があることでも知られていた。
「今から行くんですか」
湊の声は乾いていた。
常識で考えれば警察に届けて終わりだ。遺失物法に基づき拾得物として処理し、三ヶ月間持ち主が現れなければ所有権は自治体に移る。それがルールであり、僕たちが守るべき秩序だ。
だが六車は、桐箱を丁寧に風呂敷で包み直すと、当然のように立ち上がった。
「届け物だよ。これは遺失物じゃないと言っただろう。誰かが人生の途中で息継ぎをするために、少しだけ荷物を下ろした。それだけの話だ」
老人の瞳には不思議な熱が宿っており、それは長年ダイヤグラムという緻密な数字の羅列と向き合ってきた男とは思えないほど、感情的な光を帯びていた。
地上に出ると、街は激しい雨に打たれていた。
帰宅ラッシュの波に逆らって下り電車に乗り込むと、車内は嘘のように空いており、湿ったシートの匂いが鼻をついた。
窓の外を流れる景色がコンクリートの塊から、次第に闇に沈んだ雑木林へと変わり、人家の明かりが疎らになっていくにつれて、湊の胸中にはある種の諦めにも似た静けさが広がっていった。
骨壺を抱えた老人と新入社員。
傍から見れば奇妙な組み合わせだろうが、不思議と居心地の悪さはなかった。
「湊くん、君は電車がなぜ走るか知っているか」
暗い窓に映った自分の顔を見つめていると、不意に六車が問いかけてきた。
電気、モーター、物理的な摩擦。答えはいくらでもあるが、この老人が求めているのが、そのような即物的な正解でないことは明白だった。
「次の駅があるからですよ」
六車は独り言のように呟いた。
「『次はどこそこです』と約束された場所があるから、安心して進める。だが、人生には路線図がない。次に停まるべき駅が分からなくなった時、人はどうすると思う」
湊は膝の上で拳を握った。
分からない。
就職活動で何十社もの面接を受け、「御社のビジョンに共感しました」と嘘を吐き続け、ようやく手に入れた切符で行き着いた先が地下三階の墓場だった僕に、次の駅など見当もつかない。
「緊急停止ボタンを押すんだよ」
六車は膝の上の風呂敷包みを、愛おしそうに撫でた。
「この箱の持ち主は今まさに非常ベルを鳴らして、暗闇の中で立ち尽くしている。誰かが駆けつけるのを、震えながら待っているんだ」
ガタン、と車体が大きく揺れた。
線路の継ぎ目を越える音が、深夜の心音のように響く。
僕は緊急停止ボタンを押したことがあるだろうか。
嫌なことから逃げ出し、楽な方へと流れてきただけの人生だと思っていたが、もしかしたら僕もまた、誰にも気づかれないまま暗いトンネルの中で立ち尽くしていたのかもしれない。
だからこそ、六車の背中を追ってここまで来てしまったのだろうか。
電車が速度を落とし、到着を告げるアナウンスが流れた頃には、雨は小降りになっていた。だが、窓ガラスの向こうには漆黒の海が広がっており、波の音が風に乗って微かに聞こえてきた。
駅のホームに降り立つと、潮の香りが肺の奥まで染み渡り、都会の埃っぽい空気とは決定的に違う「生」の生臭さが漂っていた。
改札を抜けた先には街灯も疎らなロータリーが広がっており、タクシー乗り場には一台の車も停まっていない。
「歩こうか」
六車が歩き出す。
その足取りは地下室にいた時よりも遥かに軽く、まるで何かに導かれているかのようだった。
僕たちは夜の港町を歩き始めた。
それは単なる落とし物の返却ではなく、僕自身が置き忘れてきた何かを拾いに行くための、行軍のようでもあった。




