落とし物ターミナル
地下三階のその部屋は常に澱んだ湿り気を帯びており、天井を走る配管からは絶えず遠雷のような鈍い轟音が響いていた。
頭上には世界有数の乗降客数を誇る巨大ターミナル駅が広がっているはずだが、
ここには季節はおろか朝夕の区別さえない。
あるのは蛍光灯の白々しい明滅と埃の匂いそして都市が吐き出した膨大な量の「忘れ去られたもの」たちだけであった。
湊は山積みになったビニール傘の束を無造作に掴むとタグ付け作業に戻った。
二〇二五年六月十七日。
品目・傘。特徴・透明、特になし。
保管期限・三ヶ月。
これらは誰の人生の重要人物にもなれなかった脇役たちの墓場だ。
有名私大を出てまで入りたかった鉄道会社の本社ビルは遥か彼方の空に聳えているというのに、
配属されたのはこの遺失物センターだった。
同期の連中が都市開発やマーケティングといった華やかな部署で「社会」という巨大な生き物を動かしている間、僕はこうして誰かが置き去りにした抜け殻をひたすらに数えている。
生きるとは何だ。
就職活動のエントリーシートに書いた「人々の生活の足元を支えたい」という言葉が呪いのように喉の奥にへばりついていた。足元どころか僕は社会の排泄器官に詰まった異物を処理しているに過ぎないのではないか。
「湊くん、その傘」
背後から声をかけられ湊は手を止めた。
定年後に再雇用でここにいる六車だ。
六車は古びた老眼鏡の奥の瞳を細めながら、湊が「廃棄予定」の箱へ放り投げようとしていた一本の傘を指差した。
「柄のところを見てごらん。そこに小さな傷があるだろう」
言われて目を凝らすとプラスチックの柄に、子供が爪でつけたような無数の傷が刻まれているのが見えた。ただの汚れにしか見えない。
「それがどうしました」
「名前も書いていないし特徴もないビニール傘だ。けれど持ち主にとっては雨を凌ぐためだけの道具じゃなかったのかもしれない。その傷は焦りや苛立ちあるいは誰かを待つ間の退屈が刻んだ時間そのものだよ」
六車はそう言うとまるで美術品でも扱うかのような手つきでその安物の傘を保管棚へと戻した。
この老人は時折こうしてゴミ同然のものに物語を見出そうとする。効率を最優先する湊にとってそれは感傷以外の何物でもなく単なる業務の遅延行為でしかなかった。
生きるということは取捨選択の連続だ。
不要なものは切り捨て必要なものだけを鞄に詰めて先へ急ぐ。それが東京という街のルールであり僕たちが教え込まれてきた正解ではなかったか。
忘れられる程度のものに価値などない。
忘れられる程度の人間にもまた価値などないのと同様に。
午後三時を回り集配のトラックが新たな荷物を吐き出していった。
今日の収穫はとりわけ豊作だった。
片方だけのハイヒール。
画面の割れたスマートフォン。
中身の入った弁当箱。
その中にひとつの奇妙な物体が混ざっていた。
骨壺だ。
白木の箱に入ったそれは風呂敷に包まれることもなく、むき出しのまま網棚の上に置き去りにされていたという。
湊は息を呑んだ。
誰かの「生きた証」の最たるものが今、管理番号を振られようとしていた。
「人間ひとりの重さなんてこんなものさ」
湊は誰に聞かせるでもなく独りごちた。
遺骨さえも忘れ物になる。
ならば今この薄暗い地下室で息を殺して伝票をめくっている僕の時間は一体どこへ消えていくのだろう。
六車が静かに近づいてきて骨壺の前に立った。彼は手を合わせることもなくただじっとその白い箱を見つめていたがやがてぽつりと呟いた。
「忘れたんじゃない。置いていったのかもしれんね」
「どういう意味ですか」
「背負いきれなくなった荷物を一度ここに下ろした。生きるために」
六車の横顔が蛍光灯の光を受けて陰影を深めた。
その瞬間、頭上の配管がゴウと唸りを上げ、どこかで通過する急行電車の振動が地下室の空気を微かに揺らした。
それはまるで、止まることを許されない社会という激流が僕たちの頭上を素通りしていく音のようであり、同時にまだ僕たちの心臓が拍動していることを告げる鼓動のようでもあった。
湊はキーボードへ伸ばしかけていた手をゆっくりと下ろした。
指先が震えているのが分かった。
ここにあるのはゴミではない。誰かが必死に生きようとして、その過程でこぼれ落ちてしまった「生」の破片だ。
僕もまた、何者かになろうとして削ぎ落としてきた自分の破片をこの薄暗い部屋のどこかに置き忘れてきたのではないか。
湊は骨壺の蓋にそっと手を触れた。冷たくて硬い陶器の感触が指先から腕を伝い胸の奥にある空洞へと染み渡っていく。
まだ終わってはいない。
湊は新しいタグを手に取った。
そこには「遺失物」ではなく「預かりもの」としてその時間を記録するために。




