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嘘で雨が降る王国。三年と二日ぶりに私を見た政略婚約者の王子が『あの時から愛していた』と言った

作者: 奇譚端
掲載日:2025/12/12

 

 謁見の間に入った瞬間、私の目に最初に飛び込んできたのは、玉座の前に立つ男の背中だった。三年と二日ぶりに見る、その背中だ。イェルケ・アズラード・ウェラス――この国の第二王子にして、私の政略婚約者である彼の身の丈は優に二メートルを超え、肩幅は扉の半分ほどもあるように見えた。巨躯という言葉すら追いつかない。人の形をした城壁――そう呼ぶほかない男だった。


 ウェラス王国では、嘘をつくと雨が降る。些細な嘘なら霧雨程度、人を傷つける嘘なら土砂降り、命に関わる嘘をつけば雷雨となって王都全体を襲うのである。嘘の主の頭上から、まるで天罰のように降り注ぐ雨。だから人々は真実を語ることを学んだ――いや、学ばざるを得なかった。


 侍従の声が響く。「リディカ・グランフェルが参りました」


 私は深く一礼した。辺境伯家グランフェル――王都から馬で三週間の距離にある、帝国との国境地帯を治める一族だ。武勇と忠義で知られ、そして貧しさでも知られている我が家は、三年前、帝国との緊張が高まった時、和平の証として私を差し出した。グランフェル家の長女、リディカ。当時十六歳。帝国寄りの姿勢を見せていた我が家を王家に縛り付けるための、生贄として。


 その結果、彼が私の婚約者として選ばれたのである。イェルケ王子――巨漢ゆえに「蛮王子」と陰口を叩かれ、王位継承権も第二位でしかない男だ。華やかな第一王子の影に隠れた、不器用な石のような男。


 彼はゆっくりと振り向いた。三年と二日ぶりに、彼の顔を見る。いや、違う。彼が私を「見た」のである。


 婚約式以来、彼は一度も私を見なかった。同じ王宮に住みながら、廊下ですれ違っても、晩餐の席で隣に座っても、彼は決して私に視線を向けることがなかった。首を逸らし、目を伏せ、あるいは天井を見上げて、ひたすらに私を「見ない」ことに徹していた。


 最初は偶然かと思った。次は気まぐれかと。やがて意図的だと気づき、そして――諦めた。三年と二日。千九十七日間。私は数えていた。毎晩、寝台に入る前に、壁に刻んだ印を眺めながら。


 そして今日、彼の琥珀色の瞳が、初めて私を捉えたのだ。


 低く、轟くような声が謁見の間に響いた。岩が転がるような響きを持つその声で、彼は私に告げた。「リディカ・グランフェル。三年間、よく耐えてくれた」


 彼は一歩、私に近づく。謁見の間の床が、わずかに軋む音を立てた。


 彼の言葉が続く。「婚約は解消する。グランフェル家は自由だ。辺境伯の地位も領地も、すべて保証しよう。お前の人生は、お前のものだ」


 静寂が広がった。私は、彼の言葉の意味を理解するのに数秒を要した。婚約解消。自由。それは三年間、私が夢見てきたはずの言葉だった。この冷たい石造りの王宮から、故郷の丘陵地帯へ。父と兄たちの待つ、小さな城館へ帰ること。なのに――


 彼の声が、さらに一歩近づいてから聞こえた。「その前に、一つだけ、言わせてほしい」


 彼がさらに近づくと、巨体が私の視界を埋め尽くした。顔を上げると、彼の顎が見える。彼の手が、ゆっくりと上がっていく。私の頬に触れようとして――触れる直前で止まった。


 そして、彼は言ったのである。「あの時から愛していた」


 私は息を呑んだ。窓の外を見る。雲一つない青空が広がっていた。抜けるような、澄み渡った空。


 嘘をつくと、雨が降る。彼の頭上に、一滴の雨も降らなかった。



 あの日のことを、私は鮮明に覚えている。三年と二日前の婚約式の日。


 私は白い絹のドレスに身を包み、王宮の大広間に立っていた。辺境の娘にとって、王都の華やかさは目がくらむほどだった。シャンデリアの煌めき、壁を覆うタペストリー、大理石の床――すべてが私の住んでいた石造りの城館とはかけ離れていた。


 父は来なかった。兄たちも来なかった。グランフェル家から来たのは私一人で、供も最小限だった。私たちは、飾りだった。王家が辺境貴族を「取り込んだ」という証明。それ以上でも以下でもない。


 だから、婚約者が誰であっても驚かなかった。いや、驚くべきことは何もないはずだった。それなのに――イェルケ・アズラード・ウェラスが広間に入ってきた時、私は息を呑んだ。


 巨人だった。ただの大男ではない。通常の人間の尺度を超えた存在だ。彼が歩くたび、床が軋む音がした。深紅のマントが、まるで血の滝のように背中から流れ落ちている。


 貴族たちが小声でささやいた。

「蛮王子だ」

「第二王子殿下は、やはり野蛮に見える」

「あの体格では、繊細な外交など無理だろう」


 私は拳を握りしめた。なぜか、腹が立った。彼らは何も知らない。ただ見た目だけで判断している。


 そのとき、ふと気づいた。ささやきを浴びているのは、私だけではない。


 広間の入口に立つ彼の肩が、ごくわずかに強張っていた。厚い胸板が、目立たぬように、けれど小刻みに上下している。

 ――怖いのだ、この人も。


 そう思った瞬間、喉の奥から言葉がこぼれた。


「……大丈夫ですよ」


 届くかどうかもわからない、小さな声だった。

 けれど彼は、ほんの一瞬だけこちらを見た気がした。その琥珀色の瞳の奥に、驚きと、それから安堵のようなものが、かすかに揺れた。


 イェルケ王子は祭壇の前に立った。そして、初めて私を見た。琥珀色の瞳――その奥に、何かが燃えているように見えた。


 儀式が始まる。司祭が祝詞を述べ、王が証人として立つ。そして、誓いの言葉の時が来た。


 司祭の声が広間に響く。「イェルケ・アズラード・ウェラス、リディカ・グランフェルを婚約者として迎え入れることを誓いますか」


 彼の声は、広間全体に響き渡った。「誓う」


 次は私の番だ。「リディカ・グランフェル、イェルケ・アズラード・ウェラスを婚約者として受け入れることを誓いますか」


 私は彼を見上げた。彼も私を見下ろしている。「誓います」


 その瞬間、何かが変わった気がした。空気が、光が、世界が。


 儀式が終わり、貴族たちが祝福の言葉を口にする。イェルケ王子は私の手を取った。巨大な手だ。私の手が、子供の手のように小さく見えた。


 彼は私を見て、口を開きかけた。そして――目を逸らした。それきり、彼は二度と私を見なかった。



 婚約式の翌日から、奇妙な日々が始まった。私には王宮の東棟に部屋が与えられ、窓からは中庭が見える、悪くない部屋だった。イェルケ王子の部屋は西棟にあると聞いた。宮殿を挟んで、ちょうど反対側だ。


 侍女のエルミナが、荷物の整理を手伝いながら話しかけてきた。四十代の落ち着いた女性で、王宮に来て以来、私の世話を焼いてくれている。


「リディカ様、婚約式は素晴らしかったですね」


 私は窓の外を見ながら答えた。「ええ。とても」


「イェルケ殿下も、お喜びだったことでしょう」


 エルミナの声には、何か温かいものがあった。私は彼女を見た。


「エルミナは、殿下のことをよく知っているのですか」


 彼女は微笑んだ。「実は、私は殿下の乳母でして。殿下が生まれた時から、ずっとお側でお世話をさせていただいてきました。今は王宮付きの侍女として、こうしてリディカ様のお世話もさせていただいておりますが」


 乳母。それなら、イェルケ王子の幼い頃を知っているということだ。


「殿下は、どんな子供だったのですか」


 エルミナは遠い目をした。「優しい子でした。体が大きくて、力も強かったけれど、誰よりも繊細で、誰よりも人の痛みがわかる子だった」


 彼女の声が少し震えた。「でも周りは、その体格だけを見て、『蛮王子』と呼んだ。殿下がどれほど傷ついていたか……」


 私は何も言えなかった。エルミナは首を振って、明るい声に戻った。


「でも、今は良い方と婚約されて。きっと、お幸せになられますよ」


 その時、窓の外を通りかかった誰かが、小声で話しているのが聞こえた。


「……虹の王の伝説、ご存知?」

「ああ、あのお伽噺ね。真実を貫く王が現れたら、空に虹が架かるっていう」

「まあ、伝説ですから。本当にそんなことが起こるわけないでしょう」


 二人の声は遠ざかっていった。私は虹の王、という言葉を心の隅に留めた。



 朝食は大食堂で取る。王族と上級貴族が一堂に会する場だ。私の席はイェルケ王子の隣だったのだが、彼は必ず私より先に席についていた。そして、私が椅子に座る瞬間、彼は左を向く。窓の外を見つめて、食事が終わるまで決して右を向かない。


 最初は気のせいかと思った。たまたま窓の外に何か見るものがあったのだろうと。しかし二日目も、三日目も、同じことが繰り返された。廊下ですれ違う時、彼は壁画を凝視した。図書室で出会った時、彼は書架の向こうへ消えた。舞踏会で同じ空間にいた時、彼は常に私の背後に立ち、決して視界に入らないようにした。


 そして――彼の肩が、いつも少し湿っているように見えた。


 ある雨上がりの朝、私は食堂で彼を待っていた。窓の外は晴れ渡っている。風が木の葉を揺らし、鳥が歌っている。なのに、彼が入ってきた時、その肩に水滴がついていた。マントの縁が、わずかに濡れている。なぜなのだろう。外は晴れているのに。


 彼が席につく。私が視界に入る瞬間、彼は顔を逸らす。そして――彼の頭上に、薄い霧のようなものが見えた気がした。


 気のせいかと思った。だが、それは毎日繰り返された。彼が私の近くにいる時だけ、彼の周りの空気が、わずかに曇っているように見える。まるで、彼の周りだけ、小さな雨雲が漂っているかのように。


 一週間後、私は理解した。これは意図的だ。イェルケ王子は、私を見ないようにしている。そして、何か理由があって――彼の上にだけ、小さな雨が降っている。


 でも、なぜ?


 この国の法則は明確だ。嘘をつくと、雨が降る。では、彼は嘘をついているのか。誰に? 何について?


 私は観察を始めた。彼が私の近くにいる時、霧雨が降る。でも、他の人と話している時は、晴れている。では、私に関する何かについて、嘘をついている?


 ある日、図書室で、私は古い文献を手に取った。以前から名前だけは聞いたことのある、真実の魔術師ヴェラクスについて書かれた本だ。埃をかぶった分厚い本で、開くと古びた羊皮紙の匂いがした。


 そこには、こう記されていた。


『およそ二百年前、ウェラス王国全土に、真実を守るための術式が刻まれた。

 王と契約した魔術師ヴェラクスが、大地そのものを魔法陣とし、「嘘は雨として顕現する」理をこの国に縫いとめたのである。

 ゆえに人々はこれを神の恵みと呼ぶが、その実体はひとりの魔術師が残した人為の魔法に他ならない』


 さらに、難解な言い回しで、こうも書かれていた。


『人の言葉のみならず、己が心を偽る内声すら、雨は見逃さない』


 私は、その一文を何度も読み返した。


 つまり――他人への嘘だけじゃなく、自分に向けた嘘も、雨になる。


 けれど、そのときの私は、それ以上、考えることができなかった。


 望まぬ婚約と、慣れない王宮暮らしで、心に余裕などなかったのだろう。「自分自身への嘘」という言葉を、どこか遠い誰かの話のように受け止めて、本を閉じてしまった。


 あの霧雨と、彼の視線の逸らし方と、この一文とを結びつけるだけの勇気も想像力も、あの頃の私には、まだなかったのだ。


 それでも、彼が私を避けるたび、小さな雨は降り続けた。私から目を逸らすたび、霧がかかった。理由を考えようとしては、「嫌われているのだ」という一番簡単な答えに逃げ込んだ。


 ……それが、婚約式から三年間のすべてだった。



 そして今、婚約解消を告げられたその夜。


 自由を得たはずなのに、胸は少しも軽くならなかった。彼の言葉――「あの時から愛していた」。その響きが、どうしても頭から離れなかった。


 避け続けた三年間と、今日の告白。両方が真実なら、その間には必ず理由がある。


 ふと、あの図書室で読んだ一文がよみがえった。


『人の言葉のみならず、己が心を偽る内声すら、雨は見逃さない』


 あのときは、ただ不気味な言い回しだとしか思えなかった一文が、今は胸の奥に突き刺さる。


 自分自身への嘘。もし、イェルケ王子が、自分の心に嘘をついていたとしたら――私について。私に対する感情について。


「彼女を愛していない」――そう自分に言い聞かせていたのだとしたら。


「彼女はただの政略婚約の相手だ」――そう心をごまかしていたのだとしたら。


「私は何も感じていない」――そう、必死に否定していたのだとしたら。


 彼が私を避けるたびに降った霧雨も、視線を逸らした肩だけを濡らしていた雨粒も、すべてが一本の線でつながっていく気がした。


 知るべきではない、と心が囁く。知りたい、と胸が叫ぶ。


 私は気づいていた。もう目を逸らすことはできないのだと。


 ――答えが欲しい。


 そのためには、あの三年間の沈黙が何を意味していたのか、確かめなければならない。


 夜、エルミナが部屋に来た時、私は思い切って口を開いた。


「エルミナ。一つ聞いていいですか」


「はい、リディカ様」


「この国の魔法は……自分自身への嘘も、雨にしてしまうのでしょうか」


 エルミナの表情が変わった。驚きと、そして言葉を選ぶような迷いが混じる。


「……お気づきになられたのですね」


 私は頷いた。「殿下の肩が、いつも少し濡れていること。晴れた日なのに。あれは――」


 エルミナは、カップをそっと受け皿に戻した。その小さな音が、やけに大きく響いた気がした。


「否定……できれば、どれほどよかったか」


 深く息を吐き、ようやく顔を上げる。


「その通りです。イェルケ殿下は、ご自身の心に嘘をつき続けておられるのです」


 私の推測は、正しかった。でも、正しいことが、こんなにも辛いとは思わなかった。


「この三年間、殿下は……」


 エルミナの声が震える。


「リディカ様。殿下は、婚約式の時から、あなた様を愛しておられました。一目で、激しく、取り返しのつかないほどに」


 私の手が震えた。


「でも殿下は、それを隠さなければなりませんでした。リディカ様は、家のために犠牲になった。望まぬ婚約を強いられた。もし殿下が愛を告白すれば、それはさらなる重圧になる」


 エルミナは私の目を見た。


「だから殿下は、ご自身に嘘をつき続けた。『彼女を愛していない』『彼女はただの政略婚約の相手だ』『私は何も感じていない』――そう、自分自身に言い聞かせて」


 私は立ち上がり、部屋を歩き回った。風が窓を叩いている。重い、冷たい風だ。


「それで、私を見なかった?」


 エルミナは頷いた。


「殿下は、リディカ様を見るたびに、愛が溢れそうになった。でも、それを表に出してはいけない。だから――見ない方が、簡単だったのです」


 私は窓の外を見た。夜空には星が瞬いている。風が強くなり、雲が流れていく。


 三年と二日。彼は、そのすべての日を、私から目を逸らして過ごした。愛しているから。その愛が、私の重荷にならないように。



 翌朝、私は決意していた。イェルケ王子に会わなければならない。話さなければならない。三年間の沈黙を、もう終わらせなければ。


 しかし、彼を探すのは容易ではなかった。王宮は広大で、彼がどこにいるのか見当もつかない。訓練場にも、図書室にも、執務室にもいなかった。


 諦めかけた時、中庭の奥、古い礼拝堂の前で、彼を見つけた。イェルケ王子は礼拝堂の階段に座り、空を見上げていた。巨体が石段の上で、妙に小さく見える。


 空には雲が流れている。速く、不安定に。風が強い。嵐の前のような、重苦しい空気が漂っていた。


 私は近づいた。彼は気づいていたはずだが、振り向かなかった。呼びかけると、彼の肩がわずかに強ばる。


「リディカ。婚約解消の書類は、明日にも用意できる。グランフェル家への補償金も――」


 私は彼の隣に座った。風が強く吹き、髪を乱す。


「それは後でいいです。今は、話がしたいんです」


 沈黙が広がる。彼は相変わらず、私を見ない。顔を空に向けたまま、石像のように動かない。雲が彼の顔に影を落としている。


「わかったんです。殿下が、なぜ私を見なかったのか」


 彼の拳が、強く握られる。風が一層強くなった。


「あの霧雨。殿下の頭上だけに降っていた、小さな雨。あれは、殿下がご自身に嘘をついていた証拠なのでしょう」


 彼は何も言わなかった。ただ、風に吹かれて、じっとしている。


「すまない」


 ようやく彼が口を開いた。


「お前に、つらい思いをさせた」


 しかし、つらかったのは、殿下もでしょう――そう私が返すと、彼は首を振った。


「私のことはいい。私は自分で選んだ道だ。でもお前は――お前は何も選んでいない。ただ、家のために犠牲になっただけだ」


 私は言葉を選んだ。


「それは、確かに、最初はそうでした。でも――この三年間、私も考えていたんです」


 自分の手を見つめながら、私は続けた。


「なぜ殿下が私を見ないのか。私が醜いからか、身分が低いからか、それとも――私が何か失礼なことをしたのかと」


 彼は初めて、わずかに私の方を向いた。まだ目は合わせないが、少なくとも私の存在を認めている。風が、二人の間を吹き抜ける。


「お前は何も悪くない。悪いのは、すべて私だ」


 では、なぜ――そう私が思い切って言うと、長い、長い沈黙が流れた。風が吹いて、木の葉が舞う。礼拝堂の鐘が、遠くで時を告げる。雲が厚くなり、空気が重くなる。


 彼はようやく口を開いた。


「あの時、婚約式の時、お前を初めて見た時――お前は、怯えていなかった」


 私は眉をひそめた。怯えて? 彼は自嘲気味に笑った。


「私を見た者は、皆怯える。この体格だ。獣のようだと言われる。蛮族の血が混じっていると噂される。貴族令嬢たちは、私を見ると顔を背ける」


 彼は拳を開いた。巨大な手だ。


「でもお前は、違った。婚約式で初めて会った時、お前は私を真っ直ぐ見た。怯えもせず、嫌悪もせず、ただ――まっすぐに」


 彼は、わずかに目を細めた。


「それに、お前は言っただろう。広間に入った時、小さな声で」


 胸が跳ねた。まさか――


「『……大丈夫ですよ』と」


 その言葉を、彼はありありと口にした。


 私は息を呑んだ。自分でも忘れかけていたほどのかすかなつぶやきを、彼は覚えていたのだ。


「あれは、ただの慰めじゃなかった。少なくとも、私にはそう聞こえた」

「お前は俺を“巨体の怪物”じゃなく、ひとりの人間として見ていた。怯えていることにも、気づいていた。俺の痛みを……見ていたんだ」


 私は言葉を失った。


「そして、誓いの言葉の時。お前は私の目を見て、『誓います』と言った。その声に、迷いがなかった」


 私は、あの時のことを思い出した。確かに、私は彼を見た。巨大な体格に驚きはしたが、恐怖は感じなかった。


 私の胸が、熱くなる。風が、少し穏やかになった気がした。


「その瞬間、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。お前が、眩しかった。こんなにも真っ直ぐで、こんなにも強い女性が、この世にいるのかと」


 彼は天を仰いだ。雲が流れている。でも、少しずつ、その動きが遅くなっているように見えた。


「でも、同時に思った。お前は望んでいない。この婚約を。私を。すべては政略で、お前の意思ではない。そんなお前に、私の感情を押し付けることはできない」


 私は彼を見た。彼の横顔。強張った顎のライン。


「だから、見ないことにした。お前を見れば、愛が溢れてしまう。口に出してしまう。それはお前を縛ることになる。だから――」


 だから、三年間。そうなのか。彼は頷いた。


「三年と二日。毎日、地獄だった。お前がすぐそこにいるのに、見ることができない。声をかけることができない。触れることができない」


 彼の頭上に、薄い霧雨が降り始めた。細かな雨粒が、まるで涙のように彼の頬を伝っていく。冷たく、でもどこか優しい雨だった。彼は苦笑した。


「この雨が見えるか。今も嘘をついている。『もう大丈夫だ』『婚約解消すれば楽になる』『お前を忘れられる』――全部、嘘だ」


 霧雨が、少しずつ強くなる。風が冷たく吹く。


「本当は、まだ愛している。これからも愛し続けるだろう。でも、それをお前に言うわけにはいかない。お前は自由になるべきだ。私の感情で、お前を縛るわけにはいかない」


 私は立ち上がった。風が私の髪を激しく揺らす。


「イェルケ殿下」


 彼が驚いて顔を上げる。私を見る。三年と二日ぶりに、正面から私を見るのだ。琥珀色の瞳。その奥に、炎が燃えている。


「私も、嘘をついていました」


 彼の目が、大きく見開かれる。風が一瞬、止まった。


「この三年間、殿下を恨んでいるふりをしていました。無視されて傷ついているふりをしていました。でも本当は――」


 私の頭上に、霧雨が降り始めた。


「本当は、殿下のことを考えない日はありませんでした。なぜ見てくれないのか。何が間違っていたのか。どうすれば振り向いてもらえるのか」


 雨が強くなり、私の肩を濡らす。風が再び吹き始めた。でも、今度は温かい風だ。


「そして気づいたんです。これは、ただの執着ではないと。殿下を理解したいという気持ちは、もっと深いところから来ていると」


 私は彼に向き直った。深呼吸をする。


「私は、殿下を――」


 言葉が、喉に詰まった。でも、もう逃げない。


「私は、イェルケ殿下を愛しています」


 一瞬、世界が静止したように思えた。


 瞬間、私の頭上で雷鳴が轟いた。豪雨。土砂降り。冷たい雨粒が容赦なく肌を打ち、髪を濡らし、服に染み込んでいく。重い。痛い。まるで空そのものが、私の嘘を糾弾しているかのように。風が激しく吹き荒れ、雨が顔を叩く。


 私は混乱した。なぜ? 本当のことを言ったのに。心からそう思って言ったのに。


 ――そう、「思って」言ったのに。


 本当に? 本当に、これは「愛」なの?


 胸の奥で、誰かがそう問い返してくる。


 イェルケ王子が立ち上がる。巨体が私の前に立ち塞がる。


「リディカ。それは嘘だ」


 私は叫んだ。風と雨の中で。


「違います! 本当です! 私は――」


 彼は私の肩に手を置いた。


「お前は今、『愛している』と言った。でもそれは、本当の気持ちじゃない。お前は、感謝している。同情している。義務感を感じている。でもそれは、愛ではない」


 私は言葉を失った。雨が、激しく降り注ぐ。


「わかるんだ、この雨で。お前の気持ちは、まだ愛と呼べるものではない。いつか、そうなるかもしれない。でも今は――まだ、違う」


 私は涙が溢れそうになった。


「では、私は」


「お前は、自由になれ。私の気持ちに応えようとしなくていい。お前の人生を、お前のために生きろ」


 彼は私から手を離し、背を向けた。風が、彼のマントを激しく揺らす。


「婚約解消の書類は、明日には――」


 私は彼の背中に向かって叫んだ。風に負けないように、大きな声で。


「待ってください。確かに、今の私の気持ちは、完全な愛ではないかもしれません。でも――」


 雨が止んだ。重く冷たかった空気が、一瞬で軽くなる。風が、今度は温かく、穏やかに吹き始めた。まるで世界が息をつくように。


「でも、それが何だというのですか」


 彼が振り返る。雲が流れていく。その向こうに、青空が見え始めた。


「愛は、最初から完璧なものではないでしょう。少しずつ育てるものでしょう。だったら」


 私は彼に歩み寄った。風が、優しく二人を包む。


「だったら、一緒に育てませんか。私の気持ちを。殿下の気持ちを。この三年間、お互いに見ないふりをしていた感情を」


 イェルケ王子は、動かなかった。ただ、私を見つめている。


「リディカ。それは――お前の本心か?」


「はい。今度は、嘘じゃありません」


 空を見上げる。雲が完全に晴れ、風一つない青空が広がっていた。



 それから、すべてが変わった。いや、正確には――すべてが始まった。


 イェルケ王子は、ようやく私を見るようになった。朝食の席で、廊下で、図書室で。最初は戸惑いもあった。三年間の習慣は、簡単には消えない。彼は時折、反射的に目を逸らしそうになったが、その都度、自分を戒めて、もう一度私を見た。


 私たちは、言葉を交わし始めた。初めて、本当の意味で向き合ったのだ。彼は私に、幼い頃の話をした。巨大な体格ゆえに、いつも仲間外れにされた話。王族であるのに、「蛮王子」と呼ばれた話。それでも剣と学問を学び、この国のために役立ちたいと願った話。


 私は彼に、辺境での暮らしを語った。緑の丘陵。狩りと馬術。父や兄たちとの日々。そして、王都に来た時の戸惑いと孤独を語った。


 話せば話すほど、私たちは似ていることに気づいた。どちらも、居場所のなさを抱えていた。どちらも、他者の期待に応えようと必死だった。どちらも、本当の自分を隠して生きてきた。


 心が通い始めたはずなのに、胸の奥の不安だけは、頑なに居座り続けていた。

 温かいはずの日々の中に、ふと影が差す。その影の正体を、自分でも掴めないまま――


 そんな、秋の夜だった。私は悪夢で目を覚ました。


 誰もいない丘陵地帯を、冷たい雨だけが音もなく打ち続ける夢だった。目を覚ました今も、胸の奥には氷のような重さが残り、呼吸がうまくできない。窓の外を見ると、本当に雨が降っていた。秋の冷たい雨粒が、規則的に窓ガラスを叩いている。ひんやりとした空気が隙間から忍び込み、頬を撫でていく。


 大丈夫。ただの夢だ。私は一人じゃない――


 そう自分に言い聞かせた瞬間、何かがおかしいと気づいた。手を頬に当てると、指先が濡れている。涙ではない。部屋の中にいるのに、私の頬だけが、まるで外の雨に打たれたかのように冷たく濡れていた。


 扉を叩く音が、夜の静寂を破った。


「リディカ!」


 聞いたことのない、荒い声だった。焦りと、何か切迫したものが混じっている。扉を開けると、イェルケが立っていた。深紅のローブは雨に濡れて黒ずみ、髪からは雨粒が滴り落ちている。肩で息をしているのがわかった。西棟から東棟まで、雨の中を走ってきたのだ。


「やはり、お前か」


 彼は私の顔をひと目見ると、安堵と確信が入り混じった表情で窓の外を指差した。夜の闇の向こう、東棟の上空にだけ、黒々とした雨雲が渦を巻いている。


「この雨は、お前の雨だ。西棟の窓から東の空を見ていたら、この辺りだけ雲が濃くなっていくのが見えた」


 私は言葉を失った。彼の濡れたローブからは、秋の雨の匂いがする。土と、冷たい空気と、どこか寂しい夜の匂いだ。


「三年間、自分の嘘の雨を浴び続けたからな。誰の、どんな気持ちが降らせている雨かくらいは、もうわかる」


 彼の琥珀色の瞳が、暖炉の火を反射しながら私を真っ直ぐ見つめてくる。その視線には、怒りも責めもなく、ただ深い心配だけが宿っていた。


「お前が、一人で苦しんでいると思った。居ても立ってもいられなくて――」


 彼の言葉が胸に突き刺さり、喉の奥で固まっていた何かが、じわりと溶けていく。


「怖かった……」


 声が震えた。その瞬間、窓の外で雨の音が変わった。激しく叩きつけていた雨粒が、まるで息をついたかのように弱くなっていく。


「一人になるのが、怖かった。あなたが、いつかどこかへ行ってしまったら――」


 雨音が、さらに小さくなる。風が止み、重苦しかった空気が少しずつ軽くなっていくのを肌で感じた。


「あなたがいなくなったら、どうしようって」


 最後の言葉を口にすると、雨が完全に止んだ。窓を叩いていた音が消え、部屋には暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが残った。


 イェルケは何も言わず、私を抱きしめた。巨大な腕に包まれて、彼の胸に顔を埋める。濡れたローブの冷たさと、その下にある彼の体の温もりが同時に伝わってくる。心臓の音が聞こえた。力強く、規則正しく、生きている音だ。


「いなくならない。約束する」


 彼の声が、私の髪越しに響いてくる。低く、重く、でも優しい声だった。


「お前が嘘をつかなくていいように。お前が一人で泣かなくていいように。私は、ここにいる」


 窓の外では、厚く重なっていた雲が少しずつ切れ始めていた。その隙間から月の光が細く差し込み、中庭の石畳を銀色に照らしている。冷たく湿っていた空気が、今は雨上がりの清々しさに変わっていた。


 私は彼の濡れた手を、自分の両手で包んだ。冷たい。けれど、その冷たさの奥に、確かな温もりが脈打っている。


 この人を失いたくない。この腕を、離したくない。


 それは、愛と呼べるものに、少しずつ近づいている気がした。まだ完全ではないけれど、確実に、一歩ずつ。


 あの夜の出来事は、私たちの関係に静かな温もりを灯した。

 婚約解消という言葉だけが宙に残されたまま、けれど、互いの距離はわずかに、しかし確かに縮まっていく。


 誤解と沈黙に覆われていた三年間がほどけ始め、その下から、まだ名前を持たない柔らかな感情が顔をのぞかせていた。それが何なのか、まだ決められない。

 ただ——前へ進んでいるのだと、胸の奥で密やかに感じていた。


 そんなある日、イェルケ王子は私を王宮の外に連れ出した。郊外の森――木々が生い茂り、小川が流れる静かな場所だ。


「ここは、私が子供の頃、よく来た場所だ。王宮が窮屈な時、ここに逃げ込んだ」


 私たちは川辺に座った。水音が心地よい。そよ風が吹いて、木の葉を揺らす。


 彼は私の手を取った。


「リディカ。お前に、正直に言いたいことがある」


 なんでしょう――そう尋ねると、彼は言葉を選んだ。


「私は、完璧な夫にはなれない。不器用だし、鈍感だし、時に頑固だ。お前を傷つけることもあるだろう」


 私は微笑んだ。


「私も、完璧な妻にはなれません」


「それでも、お前を幸せにしたい。お前の笑顔を守りたい。お前が自由に、自分らしく生きられるように支えたい」


 私は彼の大きな手を、両手で包んだ。


「それは、私が望んでいることでもあります。私も、殿下を幸せにしたい。殿下が、もう『蛮王子』などと呼ばれず、殿下自身として生きられるように」


 イェルケ王子は、初めて本当に笑った。その笑顔は、まるで少年のようだった。空に雲はなく、ただ青だけが広がっていた。


 婚約解消の話は、自然消滅した。いや、正確には――私たちは、互いの意思で改めて婚約し、その先にある「夫婦」としての未来を選んだのである。


 それから幾ばくかの準備期間を経て、王宮で私たちの結婚式が執り行われた。今度は、父も兄たちも来てくれた。グランフェル家の者たちは、最初イェルケ王子の巨体に驚いたが、すぐに彼の誠実さを理解した。


 父は私に言った。

「良い男を見つけたな、リディカ」


 兄たちは、イェルケ王子と剣の稽古をして、その強さに感嘆した。式の日は、穏やかな晴天だった。空気が澄んでいて、風が心地よく吹いている。あの最初の婚約式とは違う空気があった。今度は、私たちは笑っていた。


 誓いの言葉を述べる時、イェルケ王子は私の手を強く握った。


「リディカ・グランフェル、お前を愛している。これからも、ずっと」


 私は涙が溢れそうになったが、笑顔で答えた。


「イェルケ・アズラード・ウェラス、私もあなたを愛しています。これからも、ずっと」


 その瞬間、王宮の上空に虹が架かった。


 人々が歓声を上げ、祝福の拍手が広間を満たす。イェルケ王子は私を抱き寄せた。巨大な腕に包まれて、私は初めて完全に安心した。


 ここが、私の居場所だ。この人の隣が。



 一年が経った。


 春の雨が石畳を叩く音を聞きながら、私は王宮の執務机の上に積まれた地図を眺めていた。辺境地域の開発計画――イェルケが担当する内政の仕事だが、私も手伝っている。グランフェル家で学んだ治水や農業の知識が、予想外に役立っていた。


 窓の外では、雨が静かに降っている。優しい雨だ。大地を潤す、恵みの雨。


 扉が開き、イェルケが部屋に入ってきた。手には分厚い報告書の束を持っている。


「リディカ。北部の水路整備計画、承認が下りた」


 私は立ち上がった。


「本当に? あの保守派の重臣たちが?」


「そうだな。お前が作った資料が、決め手になった。過去二十年の収穫記録と、水路改修後の予測収益。数字で示されると、反論しようがなかったらしい」


 私は地図を見た。北部の辺境――帝国との国境に近い、貧しい土地だ。


「これで、あの地域の人々も少しは楽になるでしょう」


 イェルケが私の隣に立つ。地図を見下ろしながら、彼は言った。


「お前がいなければ、ここまで進まなかった」


 私は反射的に「殿下……」と言いかけた。

 結婚して一年経つ今も、私は彼を昔と同じ呼び方で呼んでいた。


「殿下ではない。イェルケでいい。もう婚約者ではなく、妻なのだから」


 私は頬が熱くなるのを感じた。結婚して一年経つというのに、まだ慣れない。


 窓の外を見ると、雨が上がりかけていた。薄日が差し込み、中庭の石畳が輝く。空気が、雨に洗われて清々しい。


 彼は私の手を取った。


「それでも、嘘をつかないでいられるなら。お互いに真実を語り続けられるなら」


 窓の外に、虹が架かり始めていた。



 さらに二年が過ぎたある雨の日。


 王宮の書庫は、いつにも増して紙とインクの匂いでむせ返るようだった。高窓を叩く雨音と、くしゃみを噛み殺すイェルケの声が、半ば廃墟と化した古文書の棚にこだまする。


「……リディカ、本当に全部見るつもりか?」


 私は笑いながら答えた。


「当然です。辺境の治水計画を立てるなら、百年前の記録も必要でしょう?」


 彼は渋々といった様子で、巨大な指先で慎重に羊皮紙をめくる。埃が舞い上がり、私は思わず咳き込んだ。


 彼が言いかけたとき、私は彼の手元にある本の表紙に気づいた。


「それより、その本……その表紙の紋章、妙じゃありません?」


 イェルケの手が止まった。黒ずんだ革表紙には、半ば消えかけた魔法陣の意匠と、かろうじて読める金文字が刻まれている。


「……『ヴェラクス手記』」


 ――虹の王の伝説。婚約式のあと、侍女たちが「お伽噺」と笑っていたあれだ。


 その名に、私は息を呑んだ。真実の魔術師――伝説だと思っていたが、実在したらしい。しかも、この王宮で。


 イェルケがそっと本を開く。古いインクの匂いが強くなり、雨音が遠のいたように感じた。彼の低い声が文言をなぞる。


「『嘘は雨となって降り注ぐ。しかし、真実は虹を生む。互いに真実の愛を誓い合う者の上には、祝福の虹が現れるだろう』」


 彼の声が文言をなぞるたび、胸の奥が熱くなる。虹――私の視界に、あの日の光景がよみがえった。新しい婚約式のとき、王宮の空に架かった、あの鮮やかな弓。


 あのとき図書室で読んだ記述が、頭の片隅でよみがえる。

 嘘を雨に変える術式をこの国にもたらし、その代償として感情の嘘にまで雨が反応するようになってしまったのも、このヴェラクスだと、手記の前半には書かれていた。

 神の恵みだと信じていたものが、ひとりの魔術師の選択と、その副作用の上に成り立っている――その事実が、今さらながら胸に重く沈む。


「あれは、偶然じゃなかったのね」


 問いかける声が、ほんの少し震えた。


 イェルケがページをめくる指先に、わずかに震えが混じる。


「まだある。『そして、真実を貫く者、民を欺かぬ者、その者が王となる時――その頭上には、無数の虹が現れるだろう』」


 私は笑いながら、しかし涙が出そうになるのを堪えた。


「じゃあ、あの伝説は……本当だったのね」


「この国が、私たち二人を"認めた"ってことだ」


 窓の外では、雨が静かに降り続いていた。けれど、私には、薄曇りの向こうに、色のない虹の輪郭が見えた気がした。


 私はページを指差した。


「ヴェラクスは、他にも書いています。『嘘の雨は、真実を守るためにある。そして真実の虹は、愛を証明するためにある』」


 イェルケが私の肩を抱き寄せた。


「この国の未来は、真実を愛する者たちに委ねられている、か」


 彼は手記を閉じた。


「私たちの子供たちも、いつかこの虹を見るのだろうか」


 子供たち? 私は彼を見上げた。彼は照れたように顔を逸らした。


「そうだな。いつか、な」


 私は微笑んで、自分の手を彼の手に重ねた。


「きっと、見られますよ」



 そして、さらに一年後の夏の終わり。


 王宮の中庭に小さな産声が響いた。女の子だった。名はエリュシア。「真実の光」という意味だ。


 彼女は、父親譲りの大きな手足と、母親譲りの茶色の髪を持っていた。そして――誰よりも澄んだ、琥珀色の瞳を持っていた。


 産後三日目の朝、私は寝室のベッドで娘を抱いていた。窓の外は晴れ渡り、鳥のさえずりが聞こえる。そよ風が吹いて、カーテンを揺らす。


 イェルケが部屋に入ってきた。巨大な体を小さく縮めるようにして、静かに近づく様子が微笑ましい。


 彼は慎重に娘を抱き上げた。巨大な腕の中で、エリュシアはとても小さく、しかし安心しきっているように見える。


「こんなに小さくて。こんなに軽くて。本当に、生きているのか」


 私は笑った。


「生きていますよ。さっき、すごい声で泣いたんですから」


 エリュシアが小さく欠伸をし、イェルケの指を小さな手で掴む。


「……強い。こんなに小さいのに、こんなに強く握る」


 私は彼を見た。涙が、彼の頬を伝っている。彼は笑った。


「すまない。ただ――嬉しくて」


 窓の外を見ると、薄く虹が浮かんでいた。雨の気配もないのに、澄み切った空に、淡い七色が広がっている。


 私は静かに虹を見つめた。言葉はいらなかった。



 エリュシアが五歳になった、初夏の朝。


 王宮の厨房は、朝の光に照らされて温かな色を帯びていた。東向きの高窓から差し込む陽射しが、石造りの床に長い影を落とし、磨き上げられた銅鍋を琥珀色に染めている。


 蜂蜜と山羊乳を混ぜた甘い香りが漂い、エリュシアは小さな手で木製の泡立て器を握っている。白麦粉が溶けた生地は、まだ固まりが残っていたが、娘は真剣な表情で、ゆっくりと、丁寧に混ぜていた。


「おかあさま、混ぜ方はこれで合ってる?」


 娘の琥珀色の瞳が、不安そうに私を見上げる。その瞳は、父親譲りだ。でも、その中に宿る柔らかな光は、きっと私から受け継いだものだろう。


「ええ、とても上手よ。ほら、泡が細かくなってきたでしょう?」


 私は娘の手に自分の手を重ね、一緒に器を回す。生地の表面に、小さな泡が無数に浮かび上がる。陽の光を受けて、まるで真珠のようにきらめいていた。


 そのやり取りを、侍女長エルミナが穏やかに見守っていた。イェルケと私の結婚を機に正式に侍女長となった彼女は、白髪が増えたものの、その瞳には変わらぬ温かさがあった。彼女は二人の苦難の過去と今の幸福を知る、数少ない人物である。


「エリュシア様の生地は、本当にきめ細かいですね。きっと美しい層になりますよ」


 エルミナの声には、深い感慨が込められていた。彼女は厨房の隅に置かれた薄焼き用の平鍋を見つめている。その鍋で、何層もの生地を焼いていくのだ。


「きれいな層ができたら、おとうさま、喜んでくれるかな」


 エリュシアの声が、少しだけ震えた。今日は特別な日だ。イェルケの誕生日。娘が初めて、父のために菓子を作ると言い出したのである。


「もちろんですとも」とエルミナは微笑む。「ミル・クレーヌは、心を込めて作る者ほど、美しい層を重ねられると言いますから」


 ミル・クレーヌ――薄く焼いた生地を幾層にも重ねる祝い菓子だ。古文書には、「心を鎮めた者にしか美しい層は作れない」と記されている。だから、この菓子は家族の記念日に作られることが多い。


 私は生地を濾し器に通しながら、娘に語りかけた。


「ミル・クレーヌはね、ただ重ねるだけじゃだめなの。一枚一枚、丁寧に焼いて、冷まして、そっと重ねる。焦らず、急がず、ただ目の前の一枚に集中する」


「おかあさまみたいに?」


 私は娘を見た。エリュシアは、小さな手で泡立て器を握りしめている。


「そうね。お母様がお父様を愛するように――少しずつ、でも確かに」


 エルミナが、小さく息を呑む音が聞こえた。彼女は三年と二日の沈黙を知っている。見ないふりをし合った日々を知っている。そして、その後の、ゆっくりと積み重ねられた時間も知っているのだ。


 生地の準備が整った。次は、乳クリームを作る。山羊乳から作る濃乳に、山野蜂の蜂蜜を加え、冷やして艶が出るまで練る。ヴァルネ草――この国の山地に自生する香草を、ほんの少し加える。ヴァニラのような、甘く温かな香りが広がった。


「いい匂い……」


 エリュシアが目を細める。私は娘の頭を撫でた。


「この香りはね、幸せの香りって呼ばれているの」


「幸せの?」


「ええ。大切な人のために何かを作る時、この香りを嗅ぐと、心が穏やかになるって」


 エリュシアは、クリームを混ぜる私の手をじっと見つめていた。


 そして、焼きの時間が来た。


 平鍋を火にかけ、薄く油を引く。生地をお玉一杯分だけ流し込み、鍋を回して均等に広げる。ジュウ、という小さな音とともに、生地が固まり始める。


「おかあさま、私も焼きたい」


「いいわよ。でもね、火傷しないように気をつけて」


 私は娘の手を取り、一緒に鍋を持つ。生地が、薄く、透き通るように焼けていく。その様子は、まるで絹の布を広げるようだった。


 一枚、また一枚。


 焼けた生地を木の板に並べていく。熱が冷めるまで、少し待つ。その間、エリュシアは生地を見つめている。


「おかあさま、この生地、涙みたいに透けてる……」


 娘の声に、何か不思議な響きがあった。私は娘の隣に座り、一緒に生地を見つめた。


「そうね。きれいでしょう? これは、エリュシアの心が穏やかだからよ」


「わたしの心?」


「ええ。焦ったり、怒ったり、悲しんだりしていると、生地が焦げたり、破れたりするの」


 エリュシアは自分の手を見つめた。小さな手だ。でも、その手で、こんなに美しい生地を焼いた。


「じゃあ今日は、わたし……心が穏やかなんだ」


「ええ、きっと」


 私は娘を抱き寄せた。小さな体が、私の腕の中で温かい。


 エルミナが、そっと涙を拭っているのが見えた。


 そして、重ねの時間が来た。


 一枚目の生地を木の板に置く。その上に、乳クリームをスプーンで薄く塗る。クリームは、蜂蜜の甘さと山羊乳の濃厚さが混ざり合い、滑らかで艶やかだ。


 二枚目の生地を、そっと重ねる。エリュシアが、息を止めて見守っている。生地が破れないように、慎重に、でも確かに。


 クリームを塗る。また生地を重ねる。


 その繰り返しだ。


 しかし、ただの繰り返しではない。一枚一枚に、想いが込められていく。愛が、重ねられていく。時間が、積み重なっていく。


 十枚目を重ねた時、エリュシアが小さな声で言った。


「おかあさま、これ……おとうさま と おかあさまみたい」


 私は娘を見た。


「どうして?」


「だって……いっぱい重ねると、だんだん高くなって、きれいになるでしょ?

 なんか、ふたりみたいだなって……思ったの」


 娘は言葉を選んでいる。幼いながらも、何かを理解しているのだ。


「最初は、お互いを知らなかったけど、少しずつ一緒に過ごして、今はこんなに仲良しになったでしょう?」


 私は、声が出なかった。ただ、娘を強く抱きしめた。


 エルミナが、もう涙を隠そうともせずに、私たちを見ていた。


 二十枚、三十枚、四十枚。


 層は、どんどん高くなっていく。エリュシアの集中力も、まだ途切れない。小さな手が、丁寧に生地を重ねていく。


「あと少しよ」


「うん」


 五十枚目を重ねた時、厨房の扉が開いた。


 イェルケだった。


 執務の合間だろう。深紅のローブをまとったその巨体は、相変わらず圧倒的だった。でも、その表情は穏やかで、娘を見る目には深い愛情が宿っている。


「何を作っているんだ?」


 低く、でも優しい声。エリュシアが、満面の笑みで振り返った。


「おとうさま! 見ちゃだめ! これは、おとうさまのための秘密なの!」


 イェルケは、わざとらしく目を覆った。


「そうか。では、見ないでおこう」


 でも、指の隙間から、明らかに覗いている。エリュシアがくすくすと笑った。


「おとうさま、見てる」


「見ていない。何も見ていない」


 私は微笑んだ。エルミナも、涙を拭いながら笑っている。


 イェルケは、ゆっくりと厨房に入ってきた。そして、私たちが作っている菓子を――まだ完成していないミル・クレーヌを見た。


「これは……」


 彼の声が、わずかに震えた。


「ミル・クレーヌだ」


 私は頷いた。


「エリュシアが、あなたの誕生日のために作りたいって」


 イェルケは娘を見た。娘も父を見上げた。そして、小さな声で言った。


「おとうさま、大好きだから」


 イェルケは跪き、娘と目線を合わせた。巨大な手が、娘の小さな頭を撫でる。


「私も、エリュシアが大好きだ」


 娘は、父の腕に飛び込んだ。イェルケは、慎重に、しかし力強く、娘を抱きしめた。


 私は二人を見つめながら、最後の生地を重ねた。五十五枚目。そして、仕上げの蜂蜜を薄く塗っていく。琥珀色の蜂蜜が、生地の表面に艶を与え、甘い香りが一層強くなった。


「完成よ」


 私の声に、エリュシアが顔を上げた。


「本当?」


「本当」


 娘はイェルケの腕から降り、ミル・クレーヌを見つめた。五十五層の生地とクリームが、美しく重なっている。側面から見ると、薄い縞模様が見える。まるで、年輪のようだ。


 その瞬間、窓の外に細い光が差し込んだ。


「おかあさま、あれ……」


 エリュシアが窓の方を指差した。空に、ほんの一瞬、淡い色の輪郭が見えた気がした。虹だろうか。それともただの光の加減だろうか。すぐに消えてしまった。


 でも、エルミナは気づいていた。


 彼女は、胸に手を当ててそっと涙を拭った。


「本当に……お幸せなご家族ですね」


 彼女の声が震えている。私は彼女の手を取った。


「エルミナ。あなたがいてくれたから、私たちはここまで来られたのよ」


 エルミナは首を振った。


「いいえ、リディカ様。お二人が、ご自身で歩まれた道です。私は、ただ見守っていただけ」


 でも、その見守りが、どれほど大きな支えだったか。私たちは知っている。


 四人は並んで窓の外を見つめていた。


 嘘で雨が降る王国――けれどいま、この厨房を満たしているのは、ただの甘い祝福だった。蜂蜜と乳の香り。焼けた生地の香ばしさ。そして、家族の温もり。


 エリュシアが、小さな声で言った。


「おかあさま、このミル・クレーヌ、わたしたちみたいだね」


「どうして?」


「一枚一枚は薄いけど、重ねるとこんなに大きくなる。おとうさま と おかあさま と わたしも、一人一人は小さいけど、一緒にいるとこんなに強くなるの」


 私は娘を抱きしめた。イェルケが、私たち二人を包み込むように抱きしめる。エルミナが、そっと部屋を出ていこうとした時、私は彼女を呼び止めた。


「エルミナも、家族よ」


 彼女は立ち止まり、振り返った。涙が、彼女の頬を伝っている。


「ありがとうございます……」


 その日の夜、イェルケはミル・クレーヌを一切れ口にした。その表情が、ゆっくりと変わっていく。驚きから、喜びへ。そして、深い感動へ。


「これは……」


 彼は、もう一切れ食べた。そして、エリュシアを見た。


「お前が作ったのか?」


 娘は、誇らしげに頷いた。


「おかあさまとエルミナと、三人で」


「美味しい。世界で一番、美味しい」


 イェルケは、涙を流しながら笑った。娘も笑った。私も、エルミナも笑った。


 ミル・クレーヌは、家族の記憶として、私たちの心に刻まれた。


 三年と二日の沈黙。そして、そこから始まった積み重ねの日々。一枚一枚、薄い生地を重ねるように、私たちは愛を重ねてきた。


 その証が、このミル・クレーヌなのだ。



 エリュシアが七歳になった年の秋。


 長雨が続く夜、私とイェルケは寝室にいた。窓を叩く雨音が規則的に響き、暖炉の火が部屋を暖めている。外は冷たい雨だが、部屋の中は温かい。


 イェルケが口を開いた。


「兄上の容態は、かなり悪いらしい。医師たちも、匙を投げている」


 私は彼の手を握った。


「王位継承は……」


 彼は深くため息をついた。空気が、重くなった。


「私に、回ってくる」


 沈黙が部屋を満たした。暖炉の火がパチパチと音を立てる。雨は、まだ降り続いていた。


 彼は自分の手を見た。巨大な手。戦場で剣を振るうには向いているが、繊細な外交には不向きだと言われ続けてきた手だ。


「私は、王になる器ではない」


 その声は、いつになく弱々しかった。私は彼を見た。巨大な体が、暖炉の光で揺れている。


「なぜ、そう思うのですか」


 彼は窓の外を見た。雨粒が窓ガラスを叩いている。風が強くなり、雨が激しく降り始めた。


「見ろ、この体を。この手を。戦場なら役に立つ。力仕事なら得意だ。でも、王として民の前に立つには――」


 彼は言葉を切った。


「兄上のように、優雅に振る舞うことはできない。貴族たちを言葉で操ることもできない。私にあるのは、この腕力だけだ」


 私は彼の顔を両手で包んだ。


「イェルケ。あなたは、この国を誰よりも愛している。人々を、真実を、そして家族を。それで十分です」


 彼は首を振った。外の嵐が、一層激しくなる。


「それだけでは足りない。王には、もっと――」


「もっと何が必要なのですか」


 私は彼の手を握った。


「力ですか? あなたには十分な力がある。知恵ですか? あなたは誰よりも学問を修めた。では、民の信頼ですか? それは――」


 私は彼の目を見つめた。


「それは、あなたが嘘をつかないことで、すでに得ているのではないですか」


 イェルケは何も言わなかった。ただ、私を見つめている。


「だって、あなたは嘘をつかない。民を欺かない。戴冠式で、誓ってください。真実の王になると」


 窓の外を見る。雨が上がりかけていた。風が穏やかになり、雲の切れ間から、月の光が差し込んでいる。


「そうすれば――きっと、この国は、あなたを認めてくれます。あの伝説のように」


 私は彼の目を見つめた。


 イェルケは、長い間、何も言わなかった。ただ暖炉の火を見つめ、私の手を握りしめていた。


 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


「わかった。お前を、信じよう」



 三ヶ月後、春の訪れとともに、イェルケの戴冠式が執り行われた。


 王宮の大広間は、貴族や民の代表で埋め尽くされている。私は玉座の隣に立ち、エリュシアの手を握っていた。娘は緊張した面持ちで、じっと広間の入口を見つめている。


 重厚な扉が開いた。


 イェルケが入場する。深紅のローブをまとい、王冠を運ぶ司祭が後に続く。彼の一歩一歩が、広間の石床に重く響く。


 周囲がざわめいた。貴族たちが小声でささやき合う。空気が、重く緊張している。


「本当に第二王子が王になるのか」「あの巨躯で、玉座に座れるのだろうか」「蛮王子が、この国を治めるとは」


 私は拳を握りしめた。エリュシアが不安そうに私を見上げる。私は娘の頭を撫でて、微笑みかけた。大丈夫。あなたの父は、誰よりも強い。


 イェルケが玉座の前に進む。彼の表情は硬い。緊張と不安が、巨大な体を強ばらせているのがわかる。彼は私を一瞬見た。その目に、迷いが見えた。


 私は、そっと頷いた。あなたなら、大丈夫。


 イェルケは深呼吸をして、玉座の前で跪いた。


 司祭が王冠を掲げる。金と宝石で飾られた、この国の象徴。歴代の王が戴いてきた、重い冠。


「イェルケ・アズラード・ウェラス、この国の王となることを誓いますか」


 沈黙が広がった。


 長い、長い沈黙だ。


 広間全体が、息を呑んでいる。貴族たちは固唾を呑んで見守り、民の代表たちは祈るような目でイェルケを見つめている。空気が、ますます重くなる。


 イェルケは跪いたまま、動かない。


 私には、彼の心の声が聞こえる気がした。


 私で、いいのか。この巨体で。この不器用さで。王として、民を導くことができるのか。


 彼の肩が、わずかに震えている。


 エリュシアが小さな声で言った。


「お母さま、お父さま、大丈夫?」


 私は娘の手を握りしめた。


「大丈夫よ。お父様は、強い人だから」


 イェルケは、ゆっくりと顔を上げた。


 私を見た。エリュシアを見た。それから――広間を見渡した。貴族たち、民の代表たち、侍従たち。この国で生きるすべての人々の視線が、彼に注がれている。


 彼は立ち上がった。


 声を発した。


「誓う」


 その声は、広間全体に響き渡った。雷鳴のような、岩が砕けるような、しかし芯の通った、強い声だった。


「私は、真実の王となる。嘘をつかず、民を欺かず、この国を守る」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 直後――雨が降った。


 いや、降りかけた。


 広間の窓の外、晴れ渡っていた空が一瞬曇る。細かい霧雨が、ほんの数秒――空気が、一気に重くなった。


 ざわめきが広がった。


「雨だ」「嘘をついたのか」「やはり第二王子には無理だったのか」


 私は窓の外を見た。イェルケの頭上に、薄い霧がかかっている。


 胸の奥底で、まだ小さく揺れていた。本当に自分でいいのか。この巨体で、この不器用さで、王として。その迷いが、霧雨となって空に滲んだのだろう、と私は思った。


 イェルケは、じっと空を見上げている。


 その目に、苦悩が見えた。恐れが見えた。そして――決意が見えた。


 彼は、もう一度、私を見た。


 私は、そっと微笑んだ。あなたは、一人じゃない。私がいる。エリュシアがいる。


 イェルケの目が、変わった。


 迷いが消えた。


 私とエリュシアを見た瞬間、彼の中で何かが決まったのだ。守りたいものがある。愛したいものがある。それだけで、十分だ。


 霧雨が止んだ。


 雲が晴れた。


 風が、広間の中を吹き抜けた。そして――光が差し込んだ。


 窓という窓から、虹色の光が溢れ込む。


 人々が息を呑んだ。


「何だ、あれは」「光が」「虹色の」


 広間全体が、虹色に染まった。壁が、床が、天井が、すべてが七色に輝いている。


 誰かが叫んだ。


「窓の外を見ろ!」


 人々が一斉に窓の外を見る。


 王都全体に、虹が架かっていた。


 何本も、何本も。


 空を彩る、無数の虹だ。


 こんな光景は、誰も見たことがなかった。一本や二本の虹なら、雨上がりに見ることはある。でも、これは――数えるという行為そのものが、意味を失うほどの虹だった。


 その虹は、すべてイェルケの頭上に集まっているように見えた。


 広間が、静まり返った。


 誰もが、言葉を失っていた。


 一人の老人が、震える声で言った。


「伝説だ。真実の王の、伝説だ」


 老人は跪いた。


「ヴェラクスの手記に、書かれていた。『真実を貫く者、民を欺かぬ者、その者が王となる時――その頭上には、無数の虹が現れるだろう』と」


 次々に、人々が跪いた。貴族たちも、民の代表たちも、侍従たちも。


 広間全体が、イェルケに頭を下げる。


 歓声が上がった。


「イェルケ王、万歳!」


「真実の王だ!」


「虹の王だ!」


 拍手が、歓声が、祝福の声が、広間を満たす。


 イェルケは、じっとその光景を見つめていた。ゆっくりと、王冠を受け取った。


 司祭が震える手で、王冠を彼の頭に載せる。


 その瞬間、さらに多くの虹が現れた。王都の空が、完全に虹色に染まる。


 イェルケは玉座に座った。


 巨大な体が、玉座に収まる。その姿は、まるで玉座が彼のために作られたかのように、完璧に見えた。


 私は彼の隣に立った。


 エリュシアが小さな声で言った。


「お母さま、お父さま、すごいね」


 私は娘の頭を撫でた。


「ええ。お父様は、本当の王様になったのよ」


 イェルケが私を見た。その目には、涙が浮かんでいた。でも、それは悲しみの涙ではなかった。安堵と、喜びと、そして――感謝の涙だった。


 私は、そっと彼の手を握った。


 虹は、日が暮れるまで、王都の空に架かり続けた。



 それから十五年。


 秋風が落ち葉を舞い上げる中、私は王宮の中庭を歩いていた。金色に染まった木々が並び、冷たい空気が頬を撫でる。足元では落ち葉がカサカサと音を立てている。


 若い男性が礼儀正しく近づいてきた。セヴェリン・ヴァレント――エリュシアの婚約者だ。栗色の髪と穏やかな灰色の瞳を持つ、学者の家系の青年である。


「王妃様。イェルケ王が、書庫でお呼びです」


 丁寧な物腰だが、堅苦しくはない。


「ありがとう、セヴェリン。エリュシアは?」


「治水計画の図面を描いておられます。集中されているので、僕が代わりに」


 エリュシアのことを話す時、彼の表情が柔らかくなった。


 私は彼の肩に軽く手を置いた。


「もうすぐ家族になるのだから、そんなに畏まらなくていいのよ」


「……はい、ありがとうございます」


 セヴェリンは少し照れたように微笑んだ。きっと、良い夫になるだろう。


 私は微笑んで頷き、書庫に向かった。イェルケは古文書の前に座り、何かを読んでいる。


 彼は私を見て、微笑んだ。白髪が増えた髪。皺の刻まれた顔。でも、琥珀色の瞳は変わらない。


「ヴェラクスの手記を、また読んでいた」


 なぜ? そう尋ねると、彼は言った。


「もうすぐ、エリュシアも結婚する。セヴェリンは良い男だ。真面目で、誠実で、エリュシアを大切にしている」


 私は頷いた。


「セヴェリンの頭上は、いつも晴れ渡っています」


 イェルケは手記を撫でた。私は彼の隣に座った。


「でも、呪いでもあるのでしょう?」


「ああ。嘘をつけば、すぐにバレる。隠し事ができない。でも、その不自由さが、真実の価値を教えてくれる」


 私は微笑んだ。


「エリュシアと彼の上にも、きっと虹が出るでしょうね」


 イェルケは私の手を取った。


「私たちの時のように」


 窓の外を見ると、薄い虹が架かっていた。



 さらに二十年が過ぎた。


 春の日差しが森を照らす中、私とイェルケは二人で、あの川辺に座っていた。木々は成長し、川の流れも変わっていたが、それでも変わらない何かが、ここにはある。水音が、記憶を呼び覚ます。


「リディカ。覚えているか。三年と二日ぶりに、お前を見た日を」


 私は笑った。


「もちろん。忘れるわけないわ」


「あの時、私は言った。『あの時から愛していた』と。あれは、本当だった。そして、今も変わらない」


 私は彼を見上げた。皺が増えた顔。白髪が混じった髪。でも、あの琥珀色の瞳は変わらない。


「私も。あの時から、ずっと」


 空を見上げる。澄み渡った青空。そして、虹が薄く、でも確かに、空に架かっている。


 私は彼の肩に頭を預けた。


「ねえ、イェルケ。この先、どちらかが先に逝ったら」


「リディカ。そんなことを考えるな」


 でも、いつかは――そう私が言うと、彼は頷いた。


「ああ。いつかは、別れの時が来る」


「その時、雨が降るでしょうか」


 彼は考え込んだ。


「悲しみで嘘をつくなら、降るかもしれない。『もう大丈夫だ』『一人でも平気だ』『寂しくない』――そういう嘘を、自分自身につけば」


 彼は私の手を握った。


「でも、正直でいられるなら。『寂しい』『会いたい』『愛している』と、素直に言えるなら」


 彼は空を見上げた。私は微笑んだ。


 私たちは、しばらく黙って座っていた。川の音。鳥の声。そよ風。隣にいる人の温もり。そして、空に架かる虹。すべてが、この瞬間に集まっている。


「イェルケ。私たちの人生は、幸せだったわね」


「ああ。最高に幸せだった」


「三年と二日、あなたに見てもらえなかった日々も」


 彼は苦笑した。


「それも含めて、か」


「あの日々がなければ、今の私たちはなかった」


 イェルケは私を見た。


「その通りだな」


 彼は微笑んだ。空に、また虹が現れた。今度は、さっきよりはっきりと。七色が、鮮やかに分かれている。


「綺麗ね」


「ああ。でも、お前の方が綺麗だ」


 私は彼を見て、笑った。


「まだ、そんなことを」


 彼は真顔だった。


「本当のことだ」


 私たちは、また笑った。


 私は目を閉じた。イェルケの温もりを感じながら。虹の光を、瞼の裏に感じながら。


 嘘で雨が降る王国で生きた、二人の人生。三年と二日、見てもらえなかった日々も。その後の、すべての朝と夜も。


 それが、私たちのすべてだ。

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